二万をこす島じまからなる東南アジアの多島海、そこはユニークな木造建築の宝庫である。海に距てられ、あるいは内陸の熱帯雨林にはばまれ、地域ごと、民族ごとに独特の進化を遂げた建築群。その魅力を一言で述べると、類い希な造形力とでもいうことになるだろうか。住宅に対する常識をいともたやすく覆してしまう突拍子もない形態の数々。個性をとことん進化させた建築群は、まるで恐竜の時代に迷いこんでしまったような錯覚さえ覚えさせる。日本の大工たちが内向きに細部の洗練を極めてきたのとはまったく逆に、外に向かうエネルギーの奔出が成し遂げた木造建築のひとつの到達点。しかも、それは飛び抜けた創造力をもったひとりの建築家の作品ではなくて、みなが共有している社会のデザインなのである。
いっぽうで、多様な造形の背後に通奏低音のようにながれる共通項も存在する。理由のひとつは、この地域の民族の多くがオーストロネシア(マレーポリネシア)語族に属していることにある。
オーストロネシア語族はポリネシア、ミクロネシアなどの太平洋諸島から、東南アジア島嶼部の主要な民族であり、東はイースター島、北はハワイ、南はニュージーランド、西はアフリカのマダガスカル島にまでその拡散は及んでいる。19世紀初頭に滅亡したベトナムのチャンパ王国(日本に林邑楽を伝えたとされる)はこの民族のたてた国であり、大陸部にもその足跡はおよんでいる。日本はオーストロネシア語族ではないものの、歴史的にこの文化圏の一部と考えてよい時期がある。
考古学や言語学の成果によれば、オーストロネシア語族が大陸から移動を開始するのは今からおよそ5000年前、その出発点は台湾とされている。真偽のほどはともかく、この地域の建築について考えるには、つぎの3つのポイントを押さえる必要がある。
第一に、オーストロネシア語族の移動がはじまる5000年前に、彼等はどんな建物を持って移動したのか?
第二に、東南アジア島嶼部で現在見られる多様な建築様式はいったいどのようにして生まれたのか?
そして第三に、オーストロネシア語族がやってくる以前には元々どういう家があったのか?
ここでは簡単にその概要を紹介することにしよう。
まず、オーストロネシア語族が移動をはじめた段階でどんな建物を持っていたのかを見ておこう。
ポリネシアやミクロネシアの家屋は、一般に高床建築はないかわりに建物全体が石積みの基壇の上に建っている。出発地とされる台湾でも、原住民の多くは石積みを利用した土間式の家屋を利用している (*1)。(写真1)
一例として、ポリネシアの東の果てマルケサス島の家屋図を見ると、建物両端にある棟持柱が屋根の棟木をささえ、この棟木に地上から直接垂木を差し掛けて屋根だけの建築を形作っている。入口のある側だけは柱を立てて壁をもうけているものの、床構造らしきものはない。(図1)
ミクロネシアのヤップ島の家屋の建築構造は、もうすこし明快にこの地域の大工の知恵を伝えている。ここでも地上に立つ棟持柱が屋根の棟を支える点は一緒だが、それだけでなく建物の横架材はすべて地上から別個の柱を掘立てて受けている。それぞれの柱の役割はきわめて単純で、礎石の上にラーメン構造の軸組を立ち上げるような発想はまだない。高床構造もないかわりに、ここでも石積みの基壇の上に建物が建っている。一見巨大な船形屋根を形づくっているのは後世の影響だろう。(図2)
およそこうした構造理念が移動の初期にオーストロネシア語族がもっていた建築様式だったのではないかと想像する。
そうだとすると、この地域の特徴でさえある高床家屋はどうやって生まれたのだろう?
ルソン島の Bontoc族は、東南アジアのなかでも高床家屋をもたずに土間生活をする特異な民族として知られてきた。ところが、おもしろいことに家屋 "Farey" の屋内には4本柱の高床構造がある。家屋の建設過程を見ていると、途中でこの隠された高倉の立ちあがる瞬間がある。高倉といっても稲米を仕舞うわけではなく、収穫した米は村の一画にあつめられた穀倉群か、あるいは住居の土間におかれた米櫃に保管される。それでも、この高床空間は農耕儀礼にふかくかかわっている。稲米の収穫後、家の主人は高床の上にのぼり、炉に火をおこしてニワトリの供犠を行う (*6)。そのために高床の上には炉までもうけているのに、日常生活でこの空間を使うことはない。(写真2)
いっぽう、Bontoc族の隣の Ifugao族は、Bontoc の家屋では屋内にあった4本柱の高倉そのものを家屋 "Bale" として住んでいる。高床建築は、米倉としてこの地域に入ってきて、その米倉を住宅にも転用したのだろう。水稲耕作が伝わらなかった台湾原住民のもとにこの形式の高床家屋が存在しないことも、その仮定を裏付ける。Ifugao の米倉には穀霊をかたどった bulol と呼ばれる木彫がおかれている。米の収穫が終わると、村中の bulol は一ヶ所にあつめられ、酒をそそぎ、米でつくった菓子を顔に塗りつけて、ブタやニワトリを供犠した。米倉は富裕な者しか所有できなかったので、米倉のない家では bulol を屋内に安置した (*7)。Ifugao族のような水稲耕作民にとって、穀霊のやどる米倉が家屋より高い価値を獲得するのは当然とも言えようか。(写真3)
ところが、Bontoc族は伝統的な生活慣習が根強く、結局、高床空間を住居としては利用せずに、その床下に住んだのである。これは高床建築が伝わってゆく過程を物語るとても面白い例だ。似たような例はインドネシアにもある。
南東マルクのレティ島やキサール島の住人も土間で暮らしている。ところが、家屋 "Rumeh" の屋内にはいってみると、とても様式的な高床構造が作られていることがわかる。桁行、梁行方向に板を交互に組み合わせて校倉風に高床を作る点は Bontoc の高床と似ている。ここでも屋根裏は日常的な生活の場ではなく、結婚式などの儀礼に際して利用する。そして、家族が亡くなると、死者を象った小さな木彫 yene を作って屋根裏の妻壁にもうけた棚の上に飾ったという (*8)。(写真4)
もっと卑近な例はバリ島にもある。先住民である Bali Aga の村とされる Tenganan では、集落の中央をはしる通路の中に共同の米倉がある。では、個人の米はどうしているかと言えば、各自の屋敷地の中に "Bale Tengah" (中心建物) という人生儀礼にかかわる建物があり、その建物の屋根裏が米倉になっている。いわば彼らは米倉の下に住んでいるわけだ。(写真5)
ロンボック島の Sasak族もインドネシアでは例外的に高床居住をしない民族として知られてきた。彼らは斜面を利用した土壇の上に家屋 "Bale" を建てて土間生活をおくっている。ところが、ロンボック島の北東部の Bayan地方では、土間に住んではいても、屋内に "Inan Bale" (家屋の中心) という名の高床構造の物置がある。この空間には米のはいった壺や貴重な家財をしまうだけでなく、祖先を祀り、家庭内の儀式をおこなう場でもある。儀礼の際には、司祭がひとりでこの空間にこもり、祖霊に祈りを捧げたという。Bontoc族とおなじような事態がここでも起きていたことになる。(写真6)
高倉を利用するもっとも簡単な方法は、Ifugao族のように米倉そのものに住んでしまうことだろう。スンバワ島の Donggo族の家屋 "Uma" がまさにそれで、高床を支える柱の上には鼠返しがあって本来は米倉だったことがわかる。住民は米倉のなかに炉を設けて生活空間としているが、奥の一画がいまも米の保管庫として残されている。(写真7)
高倉から多様な高床建築がどのように発展したかをしめす事例をいくつか紹介しておこう。
アロール島の家屋 "Fala" は Donggo族と同様に四本柱にのった高倉を転用したものだ。家屋を示す Fala はまさに主柱についた鼠返しをさす言葉なのである。ただし、アロール島では高倉の下に高床のテラス "Likhomi" がもうけられていて、男たちは日常生活をもっぱら高倉下のこのテラスですごす。そのために、テラスには男専用の炉が据えられている。本来の調理用の炉は高倉内の広間 "Falahomi" にあって、女性と子供たちは真っ暗な高倉の空間で寝起きしている。(写真8)
高倉下にもうけた吹き放ちのテラスから発展した高床家屋もある。スンバ島の家屋 "Uma" がそれで、屋根の中央部が突き出したスンバ島独特の尖り屋根のなかには Marapu と呼ばれる祖先神が祀られている。屋内中央に立ちあがる4本の柱はこの屋根裏空間を支える。スンバ島西部地方では、これらの柱の柱頭にはかならず鼠返しがはめられているので、神聖な屋根裏空間は米倉に由来することがわかる。つまり、その下にある人間の居住空間は高倉下に設けたテラスを壁で囲ったものと考えられる。(写真9)
似たような例を、まったく異なる家屋様式でも指摘することができる。スマトラ島の Toba Batak族のような巨大な船型屋根の家屋 "Ruma" も、その建築構造を調べれば、米倉 "Sopo" のテラスが発展したものだ。(写真10)
最後に Jawa の家屋 "Omah" についても述べておこう。Jawa の家屋は高床ではない。その建築は象徴的にふたつの建物が合体した形式で、壁のない吹き放ちのホールである "Pendopo" とその背後にある母屋の "Dalem" で構成される。Pendopo は4本の神聖な柱 soko guru で支えられた尖り屋根の建築である。Dalem の屋内にはやはり4本柱で支えられた空間があり、その奥に位置する中央の部屋を "Sentong Tengah" あるいは "Krobongan" と呼んで、稲の女神 Dewi Sri が祀られている。一家の主婦は毎週 Krobongan の前で Dewi Sri に供物をささげる習わしだった。Dalem が私的・家族的で女性的な性格をもつのに対して、Pendopo は接客のための公的な空間で、祖先祭祀にかかわる男性的性格をもつと考えられている。(写真11)
これまでの議論をふまえるなら、Pendopo の原型が高倉であったと言っても暴論にはならないだろう。4本柱の軸組上にあった米倉部分が平行に移動して Dalem になった。このとき Jawa の家屋では象徴的に男女の分離がおきたのである。インドネシアの高床住居では垂直方向のシンボリズム(高床下/高床上/屋根裏)を指摘されることが多い。しかし、Jawa ではそれが水平方向に変化している。水平方向にシンボリズムを重ねる建築の代表は中国にあるから、あるいはなんらかの影響があったのかもしれない。
高倉はもちろん日本にも伝わっている。南西諸島では最近まで高倉が利用されていた。(写真12)
12世紀とされる中尊寺金字経見返絵には板校倉式の高倉が描かれている。おなじ構造の高倉が、4~5世紀のものとされる高句麗八清里古墳の壁画にもある。こうした建築様式の伝播を物語る例だが、当然ながらそれは水稲耕作の普及にともなうものだろう。日本では紀元前3世紀頃とされてきたので、この地域の高倉構造の出現も大きな時代差はないと考えたい。(図3)
インドネシアの木造家屋を特徴づける船のような形の屋根はおよそ次のような信仰を背景にしている。
祖先はとおく西方にある故地から船でやってきた。だから、死者の魂はふたたび船に乗せられて西方(川下)の故地にかえってゆく。
こうした観念のもとで、家屋は祖先の乗り物であった船のアナロジーであり、そして、棺桶はまさに死者を乗せるための船そのものとみなされた。
大陸で発見された紀元前数世紀に遡る青銅製の貯貝器や銅鼓に、船のような屋根をのせた建築が表現されている。ベトナムの Dongson で発掘された青銅器にちなんで、東南アジアの金属器文化をドンソン文化と呼ぶ。指標のひとつとなる銅鼓はインドネシアからメラネシアにかけて伝えられている。この考古学的発見が船形屋根の出自に解釈の糸口をあたえたことは間違いない。金属器文化を携えた祖先の一団が、船形屋根の建物と一緒に、ベトナムや南中国の故地から船に乗ってやってきたというのだ (*10)。(図4)
ドンソン文化の銅鼓に描かれた建物とそっくりな家屋がスラウェシ島のTorajaにある。Toraja族の集落は、祖先の家とも言われる家屋 "Tongkonan" と米倉 "Alang" が平行にならぶ。Torajaでは生の方向である川上と死の方向である川下の方位軸にしたがって集落は配置されている。祖先がやってきた時の乗り物である Tongkonan は川上に向かって建ち、反対に米倉の "Alang" は川下を向いて建てられる。そのために "Alang" は葬儀の過程で死と関連づけられている。(写真13)
Toraja とならんで船形屋根の代表とされるのがスマトラ島の Batak Toba族である。ここでも船のような形の家屋 "Ruma" と米倉 "Sopo" は向き合ってならぶ。屋根の形におなじような志向をもつ建物はほかにも Besemah、Manangkabau、Aceh などスマトラ各地にある。(写真14)
じつは船のシンボリズムの観念が広範囲にうけいれられているのは東インドネシアである。
サヴ島の家屋 "Ammu Ru Koko" (喉毛のある家) は船をひっくり返した形と言われる。家屋はつねに棟を東西に向け、家屋の船首 "Duru" に男の入口、船尾 "Wui" に女の入口がある。船尾側の女の領域の上には屋根裏部屋があって、サヴ島では一家の主婦だけがこの屋根裏に登る資格をもつ。モロコシの収穫後におこなわれる収穫祭では、収穫物の一部で粽をつくり、屋根裏にある柱のたもとに供えると同時に、船に乗せて西方に流すのである。農作物も、人間も、帰って行く故地は一緒と考えられている。(写真15)
ティモール島の山中に住む Bunak族の中心家屋 "Deu Hoto" (火の家) は壁面全体に乳房と迷路のみごとな彫刻をかざる。ここでも二本の棟持柱は男性的な "nulal lor" (海の柱) と女性的な "nulal hoto" (火の柱) と呼ばれている。フローレス島の Lio族の中心家屋 "Sao Ria" (大きな家) では高い棟を支える棟持柱を "mangu" (帆柱) と呼ぶ。(写真16)
家屋と船のアナロジーをいう伝承や祖先の来歴を船とむすびつける説話は東インドネシア中で多く聞かれるが、特徴的な船形をした屋根表現に結びつかないのも事実である。この点、様式的にドンソン文化と一括りにしてよいのか再考の余地があるかもしれない。
古墳時代の日本にも巨大な船形屋根の建築表現がみられる。古墳に並べ置かれた家形埴輪の多くは外に転んだ巨大な破風をもつ船形の屋根を載せている。同様の建築表現は銅鐸や有名な家屋文鏡にも彫り出され、その出現時期はおよそ紀元前2世紀から6世紀頃にあたる。数世紀におよぶこの熱狂時代を除けば、その後の日本建築にこうした船形屋根があらわれることはない。青銅器文化の波及状況からみて、インドネシアにおける船形屋根の出現も日本とあまりかわらない時代におこなわれたのであろう。(図5)
オーストロネシア語族がこの地域にやってくる以前、先住民たちはどういう家に住んでいたのかを最後に考えておこう。
ひとつの可能性は丸い家である。この地域全体を見わたすと、東のはずれニューギニアや西のはずれアンダマン、ニコバル諸島に丸い家 "Ma Pati Tuhet" があることは暗示的だ。スマトラ西方のエンガノ島に20世紀初頭まであった鳥の巣のような高床住居 "Yuba Kakadie" (丸い家) もそうした先オーストネシア的な建築様式を伝えている。(図6)
ティモール島の Atoni族のもとには円錐形の儀礼家屋 "Ume Leu" がある。土間式のこの建物は中央の一本柱 "ni ainaf" (母の柱) で支える原初的な構造をのこしている。中心柱は石積みの基壇に立ち、祖先の残したさまざまな聖具で飾られている。いっぽう、一般の家屋 "Ume" はおなじ外観でも内部に4本柱の軸組構造をもっている。これはおそらく穀倉 "Lopo" の構造を転用したものだ。穀倉は、かつて首長クラスだけが所持する巨大な蜂の巣状の建物で、石積みの高い基壇の上に建ち、穀倉の床下は村の集会場を兼ねていた。こうした高床穀倉を受け入れる以前の建築構造が儀礼家屋のかたちで残されたのであろう。(写真17)
同じティモール島の Bunak族の家屋 "Deu Hoto" も丸い家の痕跡をとどめている。ほかにもフローレス島の Manggarai族の家屋 "Mbaru Niang" (丸い家) やニアス島北部の家屋 "Omo"、ボルネオ島のBidayuh族にのこされた頭蓋舎 "Baruk" などもこのなかに含めてよいだろう。(写真18)
丸い家と並んで古い建築様式に高床のロングハウスがある。ロングハウスは現代のアパートのような住居の形式で、東南アジア大陸部の山地民やボルネオ島など、強大な王権が発達せずに多様な民族がモザイク状に住んでいる土地ではごく一般的な居住スタイルだった(*13)。(図7)
ベトナム高地のオーストロネシア系やモン・クメール系の民族は今もロングハウスを利用している。Jarai族やBahnar族のもとには、ロングハウスのほかに巨大な屋根建築の男性集会所 "Nha Rong" がある(*16)。(写真19)
ボルネオ島では熱帯雨林の交通路である川沿いに各民族ごとに長大なロングハウスを建設している。焼畑移動耕作をおこなうために、ロングハウス自体も数年から数十年単位で移動するのが常で、ロングハウス自体がひとつの村を形成していた。Bidayuh族のもとには、ロングハウスのほかに首狩した頭蓋骨を飾っておく円形の共同家屋 "Baruk" がある。(写真20) (写真18-4)
スマトラ西岸に位置するマンタウェイ諸島のシベルト島にもロングハウス "Uma" といわれる家がある。シベルト島人はいまも採集狩猟民で、Uma は同じ氏族の数家族が帰属して共同で祭祀をおこなういわば社会の結節点として機能している。(写真21)
ロングハウスではないが、ニアス島南部の家屋 "Omo" はロングハウス時代の痕跡を残しているかのようだ。各家のなかになぜか隣家と往来できる扉があり、家並みの端から端まで通路が通っている。集住という意味では、スマトラの Gayo族の家屋 "Umah" も Batak族の家屋 "Ruma" も複数の家族が同居する一種の共同家屋である。(写真22)
およその歴史を概観したところで、どこに着目すればこの地域の家屋、集落のおもしろさを理解できるか、その秘訣をいくつか紹介しておこう。
屋根は民族を象徴する建築デザインの焦点である。その自由な造形を可能にしているのが屋根を覆う材料。チガヤとヤシがその二大素材で、チガヤの自生する高原、山岳地帯ならたいていチガヤを利用する。日本民家の屋根にもチガヤは用いられるが、チガヤの根先を下に向けることで分厚い重厚な茅葺き屋根をつくりだしている。いっぽう、この地域ではチガヤの葉先を下に向けることで、どんな形にもなる自由で軽やかな屋根を獲得した。ただし、チガヤを利用してもそれを屋根に葺く方法は地域によってまちまちだ。日本のように、屋根の骨組みにチガヤの束を直接固定することもあれば、地上で屋根パネルをこしらえてから屋根に取り付けることもある《ロンボック島、フローレス島、スンバ島》。(写真23)
一口にヤシといっても種類は多く、植生も利用形態もじつに多様だ。ヤシの利用価値はきわめて高く、本来の用途からすれば屋根は副次的な産物といえる。ヤシは葉の形状から2つのタイプにわけられる。葉軸の左右に小葉のならぶ羽状葉 feather-palm をもつヤシと葉柄の先に扇状にひろがる掌状葉 fan-palm をもつヤシである。
屋根葺き材として多用されるのは羽状葉のサゴヤシで、小葉が大きく丈夫なうえ、サゴ澱粉をとるために集約的に栽培されているのがその理由だ。屋根に葺くには小葉を切り離し、軸木のまわりに折り重ねてあらかじめパネル化してしまう。羽状葉のヤシのもっとも一般的な利用法である。
こうした屋根パネルを作りためておくことで、屋根葺きに際してあまり人手がかからない。そのため、チガヤの屋根葺きが村をあげての盛大なイベントになるのに対して、一般にヤシの屋根は家族労働になりがちで社会の結節点にはなりにくい。商品経済の影響をうけてトタン化しやすいのもヤシ葺き屋根なのである《スマトラ島、ニアス島、モルッカ諸島》。(写真24)
サゴヤシの育たない海岸地帯ならマングローブに生えるニッパヤシが利用される《ボルネオ島》。ニッパヤシはヤシ酒や砂糖の原料にもなる多用途なヤシだが、屋根葺材としては虫がつきやすく耐久性に乏しい。海岸地帯では他に選択の余地がないのである。(写真25)
逆に、海岸地帯ではどこにでも見られるココヤシは、小葉が細いためあまり屋根には適さない。しかし、大量に葉を採取できる土地では屋根に使うこともある。葉軸のまわりに小葉を折り返すだけで、軸木を使わずとも簡単な屋根パネルができあがる。ただし、屋根に勾配をつけ、間隔を密に重ねないと雨がもる《レティ島》。(写真26)
熱帯雨林では一般にヤシや竹の類は育たない。移動を繰り返す狩猟採集民は食用にもなるチリメンウロコヤシや下生えのウチワヤシを屋根に利用している《ボルネオ島》。(写真27)
掌状葉のヤシのなかではロンタルヤシとグバンヤシの二種がよく利用される。羽状葉のヤシ同様に小葉を切り離してパネルをつくる例もあるが、掌状の葉をそのまま屋根に括り付けてしまうことが多い。これだと隅角部がつくれないから自然と丸まった屋根になる《サヴ島、ロティ島、ティモール島》。(写真28)
ヤシの葉ではなく、サトウヤシなどの幹を覆う黒い繊維(一般にイジュック ijuk という)を用いることもある。耐久性のきわめて高い最高級の屋根葺材とされる《スマトラ島、ジャワ島、バリ島》。(写真29)
屋根を覆うには一度に大量の材料が必要であり、また、数年ごとに葺き替えねばならないから、屋根は土地の生態環境に左右される。チガヤやヤシ以外にも、竹や木材など多様な自然素材がもちいられる。屋根を見ているだけで周囲の自然とそれに対処する人間の知恵を知ることができる。(写真30)
ところで、屋根がどれだけ巨大化しようとも、たいてい屋根裏には人間の生活空間がないのである。屋根裏は家宝や貴重品を安置し、儀礼をおこなう神聖な場所であり、ふだん住民たちが立ち入ることはできない。窓のない暗い屋内と相まって、一体全体、住まいの本当の主人は誰なのか、再考をせまられることだろう。(写真31)
高床は東南アジアの家屋の大きな特徴のひとつである。家屋のコスモロジーをめぐる議論の多くは高床構造にその根拠をもとめている。家屋は宇宙の縮図である―なぜなら、天上界を表象する屋根裏と地下界を表象する床下のあいだに人間の住む世界があるからだ。これはボルネオ島 Ngaju Dayak族の「聖なる家」にかんする SCHÄRER の議論を思い出させる。(図8)
「聖なる家」のイメージのなかでは、高床住居はナガ(水蛇)の上に建ち、屋根には犀鳥がとまっている。ナガは地下の女神ジャタの象徴であり、犀鳥は天上神マハタラをあらわすという。聖なる家は天上界と地下界の交点にあって、それらを結びつけている( “DIE GOTTESIDEE DER NGADJU DAJAK IN SÜD-BORNEO” 1946 )。(*9)
高床をその構造から見るとふたつの系統がある。第一は、屋根を支える柱の途中で高床を支える構造であり、第二は、柱の上に建物全体を載せる構造である。こうした2種類の高床形式はすでにボロブドゥールの時代には知られていた。ジャワ島の Baduy族やロンボック島 Sasak族には、現在もこの両タイプの穀倉がある。(写真31) (図9)
東南アジア大陸部の高床建築は第一の構造であることが多く、おそらく第二の構造より古い形式なのであろう。いっぽう、島嶼部の高床建築の多くは第二の構造形式をもつ穀倉から生まれている。これについてはすでに紹介した(前章「穀倉に住む」参照)。
FLOOR Level WALL Construction |
IFLOOR IS .... ON THE GRANARY |
IIBENEATH THE GRANARY |
IIION THE GROUND |
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---|---|---|---|---|
awithout wall |
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KEDANG granagy ATONI granary 'lopo' DONGGO 'uma' |
ALOR house TOBA BATAK granary 'sopo' |
KEDANG former house TOBA BATAK house 'ruma' SUMBA 'uma' SAVU house 'amu' |
KEDANG present house ATONI house 'ume' JAWA house 'pendopo' RAKAHANGA house |
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bwith wall |
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![]() |
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IFUGAO house 'bale' MAORI store house 'pataka' TORAJA house 'tongkonan' NIAS house 'omo' |
TORAJA granary 'alang' | BONTOC house 'farey' |
屋根をどう支えているかは建築構造の技術的変遷を知るためのヒントになる。難しい構造も単純化して考えると系譜関係が見えてくる。
棟木をもたずに中心に立つ神聖な1本柱 "ni ainaf" (母の柱) で屋根全体を支えるティモール島の Atoni族の儀礼家屋 "Ume Leu" や象徴的な2本の棟持柱―男性的な "nulal lor" (海の柱) と女性的な "nulal hoto" (火の柱) ―が屋根を支える Bunak族の家屋 "Deu Hoto" は、この地域に高床建築が登場する以前の構造形式を伝えている。(図10)
おなじ棟持柱でも、高床構造が導入されると、邪魔な地上部分をなくして高床の床上に柱を立てるようになる。ルソン島のBontoc、スラウェシ島のToraja、タニンバル・ケイ島やニアス島など、穀倉型建築の典型といってよいほど多くの事例がある。フローレス島Lio の家屋はさらなる変化をみせる。祖霊のやどる棟を支える2本の棟持柱 "mangu" (帆柱) を床ではなく壁の上から立ちあげることで長大な屋根建築を実現した。(図11)
地上の柱から高床上の柱に移る変遷過程をレティ島では追うことができる。(写真32)
さらにドラスティックな構造上の変化は掘立柱から礎石を利用した石場建が可能になった時におきている。掘立柱は1本でも自立するため構造の自由度は高い。半面、地中部分の腐朽を避けるために太い柱が必要になる。石場建はこの欠点を解消できるが、軸組を組んでしまわないと自立できない。建て方にも工夫がいるうえ、柱貫を前提とする高度な技術ということになる。8-9世紀とされるチャンディ・ボロブドゥールやプランバナンのレリーフには、すでに石場建の柱と貫や真束(棟束)を利用した建物が描かれているから、文化の中心地帯では早くからこうした建築構造が実現されていたのであろう。(図12) (図9-1)
ただし、現代建築では一般的な真束構造も、この地域の伝統家屋にとっては個性をそぐ結果にしかなっていないようだ。今はもっぱら製材された木を使う地域―ジャワ島、バリ島、スンバワ島とスマトラ島、スラウェシ島の一部―に多く見られる構造である。一例として、スマトラ島 Acehの家屋は真束を利用した現代風の建物だが、同じ島の Minangkabauでは、石場建にもかかわらず真束を使わずにわざわざ地上から棟持柱を立ち上げている。本来の構造理念とはこういうものなのだろう。(図13)
いっぽう日本の民家に多い扠首や合掌で棟木を支える構造は滅多に見られない。バリ島やロンボック島の穀倉、スンバワ島 Donggoの家屋など屋根倉形式の建物に、屋内にあっては邪魔な棟束を省略する目的で使われている。(図14)
柱の建て方に注目すると、腐朽しやすい掘立柱の欠点をいかに克服するか、しかも、石場建のような難しい架構なしでそれを実現するにはどうするかが課題となる。ルソン島 Ifugao族の根付き柱やフローレス島 Lio族の石柱はその筆頭だが、そこまで特殊でなくても、柱を地中に埋めずに自立すればよいわけである。それなら、倒れないほど太い柱を石の上に置くだけでも目的を達することができる。スマトラ島のパセマー、ランプン地域にはこの類の柱組が多い。いずれも穀倉由来の箱構造を持ち上げる束柱(床束)の変異形と言える。(写真34)
また、ボロブドゥールの時代から知られる構法に井桁組がある。(図9-2)
小規模な穀倉の柱を受ける例は各地に残るが、スマトラ島の Batak地方やスラウェシ島の Toraja地方では、家屋本体の下部構造として大がかりに利用されている。Karo Batak では、こうした井桁組を "sangka manuk" (鶏の囲い) と呼んで、より古い高床形式であるという。(写真35)
最後に柱の象徴性についても簡単に触れておこう。
ティモール島 Atoni族の儀礼家屋 "Ume Leu" を支える神聖な1本柱 "ni ainaf" (母の柱) には無数の器物がとりついている。これらはすべて祖先の残した遺品の類で、剣、槍、火打銃、ゴングなどから、シリー入れ、薬草などの携帯品、戦いの際に頭に巻く赤い布にまじって、収穫祭の名残りのトーモロコシの初穂まである。かつて村落同士の戦いが頻繁におこなわれていた時代には、出陣前の男たちはこの建物にあつまって戦勝を祈願したという。(写真36)
家屋建設は柱を立てるところからはじまるから、立柱が儀式化するのは自然な成りゆきであろう。その日取りや、どの柱から建てはじめるかはたいてい文化的な慣習で決まっている。スンバ島の村では、神聖な屋根裏を支える4本の主柱は、村人全員の協力で森から村へはこばれる。様式的に決められた彫刻を施され、それぞれ男の柱、女の柱として完成すると、立柱は夜明け前に済ませておかねばならない。祖先神 "Marapu" を象徴する右手前の "kambaniru uratu" (占いの柱) からはじめて、反時計まわりに4本の柱を立ててゆく。(写真37)
伊勢神宮の心御柱を持ち出すまでもなく、柱の象徴的な重要性は、じつは建築構造上の役割とはあまり関係がない。スラウェシ島の Torajaでは、始祖の家 "Tongkonan Layuk" の床下に "a'riri posi" (心・臍の柱) と呼ばれる柱がある。建物の完成後の儀式のなかで、この柱は建物の周囲を時計回りに3回まわってから中央梁の下に据えられる。世界の中心を象徴する柱、とは言うものの、構造的にはあまり役にたたない床束である。かつて、Torajaの北の Bada地方では、"ari'im pohi" (心柱) の下に首狩した人間の頭蓋が埋められたという。似たような人柱伝承はスラウェシ島以外にも各地にある。(写真38)
東南アジアの巨石文化について論じた Heine=Geldern によると、ドルメン(支石墓)やメンヒル(立石)などの巨石建造物とならんでY字型の記念柱が各地に見られるという。フローレス島の Nagekeo地方では、集落の記念柱 "Peo" には根の付いたままの柱を使う。その建設には盛大な祭宴をともない、村人の団結の証と考えられている。(写真39)
台湾蘭嶼の Yami族の母屋 "Vahai" には、家の魂と呼ばれる柱 "tomok" がある。大木の板根を利用してつくられる独特の形の柱で、Y字型をしたヤギの角が正面に彫刻されている。家を新築する際には、供犠するヤギを tomok にむすびつけ、その血をそそいで魂をふきこむ儀式がある。住み手がいなくなり、家屋が解体されても、tomok だけは朽ち果てるまでその場にとどめおかれるという。(写真40)
タニンバル諸島の家屋 "Rahan" には祖先を表象する板状の柱 "tavu" がある。Tavu はさしのべた両腕の先で屋根の構造を支えている。それはこの家とそこに集う氏族の守護を意味するだけでなく、男と女、太陽と月といった双分的に分かれた世界が tavu の元でひとつになると訴えかける。(図15)
柱は祖先の象徴となることで、家屋を保護し、家族や村人の統合を担い、世界を理解するための基点となる役目を果たすのである。
この地域には、日の出の方向(東)と日の入りの方向(西)はあっても、一般に南北という方位名称がない。南北の代わりに使われるのが川下/川上や海/山といった方位で、住民たちはしばしばそれを現代語の南北と言い換えるから混乱する。集落はいつもおなじ方位軸にしたがうと説明されても、それはかならずしも絶対方位を意味するわけではないのである。(図16) (写真37)
相対方位の例としてよく取りあげられるのはバリ島で、山の方向を示す kaja は神聖、海の方向を示す kelod は不浄な方位とされている。当然、島の南北で方位は逆転する。しかも、二項対立する方位名称は聖/俗、生/死といった象徴的な意味の連関作用をうけて集落や家屋の配置にも影響をおよぼすことになる。その結果、バリ島では聖山を中心に島の空間全体が、そして人間の行動様式さえもが、方位によって構造化されるようになる。(写真42)
バリ島よりもはるかに大きなスラウェシ島でも事情はかわらない。内陸に住むToraja族の集落は、川上、内陸を意味する daya と川下、海を意味する lau' の軸線にしたがって、家屋の列と米倉の列が平行にならんでいる。巨大な船形屋根の家屋 "Tongkonan" は祖先がこの地にやってくるときに利用した乗り物にたとえられる。そのため、家屋の向かう川上は「未来」や「生」に関係することになるし、反対に川下を向く米倉 "Alang" は「過去」や「死」とむすびつくのである。(写真43) (図17)
スマトラ島の Karo Batak族では、川下 jahe (kenjahe) と川上 julu (kenjulu) の軸線が家屋の構造や間取りを決める重要な対立概念になっている。川下は木の元口(根元側)、川上は木の末口(梢側)にたとえられ、建設にあたって梁や桁などの横架材はたえずこの方向をまもらねばならない。家屋には複数の家族(たいてい8家族)が共同で住んでいる。川下側にある正面の入口からはいると、暗い屋内を裏口までまっすぐ通路が通り、この通路を挟んで右と左に炉棚がもうけてある。家族の部屋 "jabu" はそれぞれ炉を境に向かい合ってならぶのである。部屋の配置も親族関係に応じて家屋内での居場所が決められている。たとえば、家長に当たる家屋の創設者の子孫が居るのは川下側の入口右手の "Jabu Bena Kayu" (木の元口の部屋) であり、その対角線にあたる "Jabu Ujung Kayu" (木の末口の部屋) には家長の補佐役とされる娘婿夫婦が暮らしている。(写真44) (図18)
つまり、家屋の方位は部材の配置ばかりか、人間の配置までも決定していることになる。
人間の身体に由来する前後左右の軸も間取りの決定に一役買っている。HERTZの古典的論文「右手の優越」が示すように、たいていの社会で、右手はいつも左手より優位に位置づけられている。方位と同様に、ここでも人間は意味の連関作用を発揮して、男女、公私、聖俗、熱冷などの対比を家屋の間取りにもたらしている。
地球上の大多数の民族のもとで右手が左手に優越するのは、身体の生物学的な構造に内在するのではなく、社会の構造が外在的に人間にはたらきかけるからだとHERTZはいう (“The pre-eminence of the right hand” 1909)。(*19)
スンバ島では、家屋 "Uma" の右側は男の領域、来客を迎え、儀礼をおこなう公的な場であり、いっぽう家屋の左側は女と子供の領域、水甕が置かれ、食事の支度をし、日常作業をおこなう家族的な空間である。
右と左にわかれた男女の領域は、入口から家屋の奥に向かう方向で決まっている。なぜなら、建物は祖先の墓(ドルメン)のある広場に面してあり、スンバ島では家屋の正面側が象徴的に重要だからである。正面入口脇の小部屋(E) は神聖な屋根裏に安置された祖先神 "Marapu" の依代を儀礼の際に運び降ろす場所でさえある。(写真45) (図19)
しかし、もっとも重要な場所はたいてい家屋の手前側ではなく奥にある。たとえば、フローレス島 Lio族の家屋 "Sa'o Ria" (大きな家) では、中央広間 "Maga Ria" の最奥部に司祭の座がもうけられている。そのため、屋内にある右左2箇所の炉は、奥からみて右側に家長の使う "Waja Nggana" (右炉) が、左側にふだんの調理用の "Waja Nggeu" (左炉) がある。(写真46) (図20)
また、Jawaの家屋 "Omah" でも、儀礼的にもっとも重要なのは稲の女神を祀る部屋 "Krobongan" (Sentong Tengah) で、"Dalem" にある広間の奥に位置している。この部屋を基点に、入口に向かって左右に "Gandok Kiwo" (左廊) と "Gandok Tengen" (右廊) がある。(写真47) (図21)
タニンバル・ケイ島の家屋 "Rahan" には出自を異にする2~4家族がともに暮らしている。建物は3列構成になっていて、入口をはいると、中央の広間 "Katrean" から、左の "Rin Mel"(右の部屋)と右の "Rin Balit"(左の部屋)というふたつの部屋に通じている。ここでも、左右の呼称は建物の奥を背にしてすわった際の方向で決まっている。右の部屋には儀礼に際して火をおこす特別な囲炉裏があり、家長家族はこの部屋で暮らす。(写真48) (図22)
タニンバル・ケイ島では、出産後の子どもの胎盤は生まれてきた子の兄弟とみなされ、産婆の手でココヤシの殻を半割にした棺におさめて家の床下に埋葬される。そのときにも男の子であれば家の右側に、女の子であれば左側に穴を掘って埋めることになる。(写真49)
また、結婚にあたっては婚資としてポルトガル、オランダ時代の大砲が必要とされる。大砲は島全体でも20門ほどしかなく、それでも結婚が途切れることなくおこなわれるのは、女性が移るのと反対に大砲も親族間を循環しているからである。とはいえ、結婚しても婚資が支払われないままでいることもよくおこる。そういう場合は、家の新築などの儀式に際して祝儀にかこつけていわばこの借金を返済するわけだ。さて、嫁をもらった側の族長が祝儀品を携えて訪問する。それを迎える施主側では、族長を中心にホスト家族が左側に陣取り、ゲストを右側で迎えることになる。(写真50)
このように、右と左は、出産や結婚、葬儀をはじめあらゆる機会に参照すべきカテゴリーとして顕在化するのである。
家屋はそこに出自する人びとの結節点としてある。だから大元の家屋がなくなれば、家屋が保証していた人間関係もなくなってしまう。そういう事態にならないように、絶えず祖先に確認し、実践する機会が儀礼である。慣習家屋では、建築構造や材料が新しくなっても、慣習に則った儀礼をふまえて建設され、さまざまな儀式や儀礼が可能な決められた空間の構成がもとめられる。儀礼というと、何か特別な呪い事でもしているようだが、暗くなったら電気のスイッチを入れる私たちの行為とさほど変わらない。私たちは電灯の電気がどこから来るかを知っている。けれども、生命はどこから来てどこへ行くかとか、作物が豊かにみのるのはどうしてかといった話題になると、現代住宅はあまり現実的な手だてを用意してくれない。慣習家屋にはそのためのスイッチがある。
タニンバル・ケイ島の家屋 "Rahan" は各家が屋号をもち、祭祀をおこなう際の役割が決められている。(図22)
神話上の祖先を祀る祭壇 "Wadar" をもつ家が村に9軒ある。広間 Katrean の奥の屋根に供犠した海亀の頭骨が吊り下げられている。海亀は祖先の成り代わりと信じられ、供犠した海亀の肉はかならず Wadar にささげる。祭壇には、海亀を調理する際の神聖なまな板 bahan も置かれている。四角いまな板は雌の海亀、丸いまな板は雄の海亀の調理用である。おなじ氏族に属する人間はこの祭壇で共同の祖先祭祀をおこなう。
神話上の祖先のほかに、"Mitu" という外から来た神(精霊)たちもいる。村にはそれぞれ異なる名前の Mitu を祀る家が5軒ある。入口をはいって扉の左上に鎌首がふたつ突き出た格好の木箱が置いてある。2~3月の粟の収穫時期になると、 Mitu Duwan (神の番人)の手で、この中に粟の穂をひとつ捧げる。木箱は神聖なもので、ふだん手を触れることはできない。村の慣習家屋はみなどこかの Mitu祭壇を共有して祭祀集団を形づくっている。家の新築のような特別なことがあると、豚を供犠して Mitu祭壇に捧げ、祈祷の後に、Mitu Duwan から食べはじめる。
こうした公的な祭祀ばかりでなく、家のなかで私的な祭祀が必要な場合もある。家族の病気をなおしたいとか、安全を祈願したいとかいう際には、もっと身近な祖先の霊に供物をささげる。そのための供物台を "Bingan" という。右の部屋 Rin Mel の中央を走る梁の上に載せられている。季節風の切り替わる2月と8月には、シリ・ピナンやタバコを捧げ、竹筒に酒を注いで供物台の柄に吊り下げる。