東南アジアのなかでも比較的ふるい文化要素をのこすと考えられてきたいわゆるオーストロアジア語族(大陸部のタイ、ベトナムなどの民族移動より以前からいたと考えられる民族)やオーストロネシア語族(島嶼部からオセアニア全域にかけて)とその外縁に位置するパプア系の民族のもとには、きわめて個性的で、独特の雰囲気をもった木造建築が発達していた。社会経済的な中心ちかくでは、職人仕事をうけいれることで早くから建築構造的に洗練されてしまったが、その建築は日本の先史時代を考えるうえでも興味深い話題にみちている。民族誌に記録をとどめるだけで、現在ではもはや実物を確認することのできないものも多い。この小稿では、柱に注目しながら、この地域の建築が醸しだすある種の雰囲気について描写することを試みたい。
個々の民族例について時間的深度を吟味するのはむずかしいが、歴史的な展望のひとつの橋頭堡として、古代に巨大な石造建築群をうみだした文化的先進地域、中部ジャワの木造建築技術について触れることからはじめよう。
8~9世紀にかけて建設されたと考えられている中部ジャワのチャンディ・ボロブドゥールやチャンディ・プランバナン(ロロ・ジョングラン)には、各回廊の壁面にレリーフが飾られている。仏教ないしヒンドゥー教の説話を紙芝居のように描き継ぐもので、絵柄の多くは抽象的な宗教世界の話である。しかし、レリーフのなかに散見される木造建築は細部までリアルに表現され、当時ジャワに実在した建築様式を忠実に写しとったと考えられている。
たとえば、プランバナンのチャンディ・ヴィシュヌにあるレリーフ (図①) では、平側に一段さがった下屋をもつ高床建築が描かれている。住居のこうした下屋部分は、一般にマレー語でスランビ(前室、前庭)と呼ばれる庇空間で、イスラム教の影響がつよくおよんだマレーシアやインドネシアの一部では現在も普遍的にみられる家屋形式である (図②③) 。また、屋根の妻部が外に転んでいるのは、この地域の基層文化ともいえる舟形屋根の証拠として、これも記憶すべき重要な点である。
レリーフを子細にみると、建物の柱は通し柱となって屋根までのび、高床の床桁がこの通し柱を貫通して固定されていることがわかる。柱頭をつないで、桁梁がぐるりと建物の四周をまわり、梁のうえから棟木をささえる真束がたちあがっている。これも、この地域ではよくみられる木造仕口で、おそらく円柱の柱頭に丸ほぞを造りだし、五平の桁を被せて納めているのだろう (図④) 。こうして軸組がかためられた結果、柱を礎石建ちにすることも実現されている。
さらに、この軸組構造を安定させているのは、床と柱のあいだに斜めにわたされた方杖である。ボロブドゥールやプランバナンでは、レリーフ上の木造建築のほとんどにこうした方杖が描かれており、当時の建築構造の特徴を知ることができる。現在、こうした方杖をジャワ島でみることはできないが、スンバワ島東部ではいまもこの特異な技術を利用している(図⑤) 。
いまだに掘立柱の地域が多いことを考えると、こうした合理的な建築構造は文化の先進地帯だけに特有のものと理解したほうがよいかもしれない。かくて、いっぽうには古代にすでに完成の域に達していた木造技術があり、いっぽうには民族誌にみられる、ときに非合理なまでに誇張された土着の建築様式がある。それは建物を建てるという行為のもつ文化的意味の相違に起因するといってよいが、両者の間合いをはかることで、この地域の木造建築のあゆんできた歴史をある程度は想像できるようにおもう。
東南アジアにみられる巨石文化について論じたハイネ=ゲルデルンによると、その文化複合の特徴として、ドルメン(支石墓)やメンヒル(立石)、巨石広場などの巨石建造物 (図⑥) とならんで、棚田耕作やY字型の記念柱など巨石と無関係の要素まであげている。こうした記念柱はアッサムやベトナムの山地民をはじめとして東南アジアではひろくみられるが、その建設には盛大な勲功祭宴をともない、勇者として建設者の名を記憶にとどめたのだという。(図⑦) 。
フローレス島ンガダ族の集落では、巨石記念物のあいだに家を模したバガや傘のような構造物ンガドゥがならんでいる (図⑧) 。集落を構成する女の氏族と男の氏族にそれぞれかかわるとされる。祖先祭祀の対象である。なかでも、男を象徴する一本柱のンガドゥは、根付きのままの柱を植えたもので、柱いっぱいに村の社会構造をあらわす様式的な装飾がほどこされている。屋根で隠されているが、頂部が二股状にわかれているのは、巨石文化の面影をのこすものだろう (図⑨) 。儀礼の際に供犠する水牛をこの柱にむすびつけるところから、供犠柱と呼ばれることもある。
一本柱のンガドゥが祖霊とむすびつき、男性を象徴しているのに対して、妻方居住が一般的なンガダでは、家屋そのものを模したバガは女性に関係づけられている。実際の家屋のなかで両者の解決がはかられているとみごとなのだが、ンガダの家屋サオは、竪板壁でかこまれた箱状の空間を柱の上に載せた格好で、家のなかには柱というものがない。そのかわり、入口の階段をささえる2本の柱が家の創始者、つまり家の入口をまもる家神をあらわすものとされている (図⑩) 。
ともあれ、記念柱の聖性の問題に興味をひかれるのは、家屋の主柱がになう聖性との類似にある。すなわち家屋そのものの意味がそこに暗示されているからなのである。
家屋の建築構造が複雑に発展してゆく以前には、1本柱しかもたない時代があったのではないかと想像する。そうした建物の例がティモール島にはのこされている。
ティモール島アトニ族のもとには、典型的な4本柱の軸組構造をもつ地床式の円錐家屋ウメと、おなじ構造をした高床式の穀倉ロポがある (図⑪) 。かつて穀倉ロポは王族だけが所有する巨大な公共建築だった (図⑫) 。その建設も配下の首長が共同であたった。穀倉の建つ石積みの基壇は集会場の役目を果たし、その場で見上げる穀倉の柱や鼠返しには、トカゲやワニ、トリなどの図像が所狭しと描かれていた。穀倉は国の富を表現する建物だったのである。それにくらべると、核家族の住む家屋のほうは、おなじ構造といっても、穀倉建築の4本柱をあとから借用しただけにみえる。そう考える理由は、中心柱をもつ円錐形の家屋ウメ・レウ(聖なる家)の存在である。
このウメ・レウの中心には円形に築いた石積みの祭壇がある。祖霊を象徴するといわれる神聖な中心柱ニ・アイナフ(母柱)がその上に建ち、たいていガラクタのような無数の器物がそこにとりついている (図⑬) 。これらはすべて祖先ののこした神聖な遺品の類で、剣、槍、火打銃、ゴングなどから、シリー入れ、薬草などの携帯品、戦いの際に頭に巻く赤い布などにまじって、収穫祭の名残りのトーモロコシの初穂まである。かつて村落同士の戦いが頻繁におこなわれていたときには、出陣前に男たちはこの建物であつまり、戦勝を祈願したという。ウメ・レウが戦闘の家ともよばれるゆえんである。もっとも、アトニでは氏族単位にこうした儀礼用の家屋を所有しており、収穫祭など祖先にかかわる儀式はみなここでおこなった。
もはや使われなくなったいにしえの家屋形式が、祖先のやすらう儀礼家屋としてのこされている。家屋の形態が円錐形であることもそうした推測を支持するのである。
こうした柱の象徴性をよくしめす事例は台湾にもある。
蘭嶼(紅頭嶼)ヤミ族の母屋には、家の魂と呼ばれる板柱トモックがある (図⑭) 。住み手がいなくなり、部材を再利用するために家屋が解体されても、トモックだけは朽ち果てるまでその場にとどめおかれるという。それがこうした呼び名のゆえんでもある。トモックは大木の板根を利用してつくられる独特の形状の柱で、ヤギの彫刻がわずかに正面をかざっている。家を新築するさいには、あらたに建てるトモックに供犠するヤギをむすびつけ、その血をそそいで魂をふきこむのである。トモックは家屋の中央で棟木を支える棟持柱であるが、それよりも、むしろヤミ家屋の心の拠り所という意味合いのほうが大きい。本来の棟持柱は壁際に別途もうけられており、そもそも規模の小さな家ではトモックを建てる余地もないからだ。
トモックの例を待つまでもなく、柱のになう象徴性がもっともよく発揮されるのは、柱が柱としての機能を果たさなくなったときである。
タニンバル諸島の家屋(氏族の中心家屋)には中心に祖先を表象する板状の柱タヴがある (図⑮) 。タヴはさしのべた両腕の先で屋根の構造をささえている。それはこの家を担うことの表明であるだけではなく、男と女、太陽と月といった双分的に分かれた世界をタヴのもとで統合する意味があるのだという。そして同時に、おなじ祖先を共有する人びとを統一するシンボルになっている。
構造材としての機能をもたない柱といえば、日本ではすぐに伊勢神宮の心の御柱をおもいつくが、似たような柱はスラウェシ島サダン・トラジャ族のもとにもある。アリリ・ポシ(臍の柱)と呼ばれて、特別な資格をもつ家屋の床下中央付近に据えられている。トラジャでは、文化的な焦点は船を模した家屋正面にそびえる棟持柱にあるようにみえる。供犠した水牛の角をずらりと連ねた姿は壮観なものだが (図⑯) 、地方によっては棟持柱をもたない家屋形式もある。船とのアナロジーが強調され、棟の出が大きくなるのにあわせて、棟持柱は後から追加されたというのが実情のようだ。それに対して、アリリ・ポシは世界軸にたとえられる。あらたに家屋が完成すると、その盛大な竣工祝いの最中に、アリリ・ポシを据える儀式がおこなわれる。その間、アリリ・ポシは植物の葉で編まれた神聖な服をまとい、大地に環流する生命の流れを家のなかに呼び込む役割を果たしている。
記念柱の例をもちだすまでもなく、柱を地面に建てることはもっとも原初的な建築行為といえるだろう。そして、その柱のあつかいを規定しているのは、構造力学ではなく、柱に対する文化的観念(力学計算もここにふくまれる)である。
パプアニューギニアにはドゥブと呼ばれる祭礼用の構造物がある (図⑰) 。その形式は地方によっても異なり、屋根で覆われた建物をもつ場合には、首刈りで得た頭蓋骨がそこに保管された。しかし屋根があっても、ドゥブの本質が巨大な4本柱の構造体にあることには変わりなかった。一般に、ドゥブは4本柱でつくる高床の架台であり、大規模なものでは、架台の下にさらに低い床構造を追加していた。建築技術的に注目すべき要素はすくないが、このドゥブを糸口に、柱の文化的意味について考察をすすめよう。
この地域では、社会活動のいわば頂点として、食物の再分配をともなう祭宴がおこなわれていた。その最大のものが精霊に対する祭宴である。この祭宴にあわせて、あらたなドゥブの建設がはじまる。ドゥブは氏族やそれをたばねる社会が単位となって建てられる。その部材はひとつひとつ世襲的に持ち主がきまっていて、ドゥブの建設自体がそうした社会成員の統合を象徴していた。なかでも重要な4本の柱には個別に名前がつけられ、人の頭部をあらわす彫刻が柱頭をかざることもあった。柱それ自身が精霊としての地位を獲得しているのである。4本の柱のなかでは右手前にある柱がもっとも価値がたかく、これを所有する人物がすなわちこのグループの長であるならわしだった。架台の上にはヤムイモなどの収穫物や獲物をうずたかくつみあげ、祭礼のあいだは、その傍らに氏族の男性メンバーが腰をおろして来客たちをむかえた。架台の上に頭蓋骨が吊り下げられることもあった。ドゥブには祖霊がやどると考えられていたから、祭礼の終了後も女性はドゥブに近づくことを禁じられていた。
こうしたドゥブの意味をもうすこし明確にするために、おなじ4本柱をもつ家屋の例をとりあげてみたい。
インドネシアのスンバ島には、ウマ・マラプ(祖霊の家)と呼ばれる氏族の中心家屋がある (図⑱⑲) 。巨大なとんがり屋根の構造を4本の柱で支えた高床建築である。この建物の主柱になる特別な木は、村を遠く離れた森で伐採され、村人総出で幾日もかけて村まで運ばれる。家の建設は、こうして村へ迎えいれた木を掘立柱としてふたたび地面に「植える」ところからはじまるのである。
柱はスンバの人びとにとってそれほどまでに神聖な存在で、なかでも最初に建てられる右手前の柱は「占いの柱」と呼ばれて格別の地位をしめていた。スンバ島の家屋は、女性の活動領域と男性の活動領域を家の左右で厳密にわけている。占いの柱のある右手前は男が公的な活動をするための空間とされ、家屋内の儀礼はすべてこの柱に対面しておこなわれる。占いの柱はそれを祖霊マラプに伝える役目をになうわけである。
4本の主柱の上には巨大な円盤形の鼠返しがある。建物全体が穀倉建築に由来する証拠にみえるが、スンバでは屋根裏に米を収納することをしない。なぜなら、屋根裏にはマラプのやどる家宝が安置されているからである。スンバ島の家屋の本質は、階下の人間生活のためにあるのではなく、マラプの訪れる屋根裏空間にある。この空間に人間が立ち入ることをゆるされるのは、毎年2回ある収穫祭にかぎられている。このとき、マラプの家宝は屋根裏から階下におろされ浄めをうける。儀礼を執行する男性だけが屋根裏にはいる危険な仕事を無事にやりおおせると信じられている。
ニューギニアとスンバ島、祭礼用の架台と家屋という規模も用途もことなる構造物でありながら、これらの建築の意味するところはじつによく似ている。収穫祭や祖霊にかかわる構造物であり、そこに社会の構造や規範が表現されている。建物を建てることを通じて、そうしたみえない文化のテクストを読み、成員同士の紐帯を再確認する。いってみれば、そうした建築の原点に柱はあった。
穀倉の建築を住まいに転用する一番簡単な方法は、穀倉にそのまま住んでしまうことである。ルソン島の北部山地民のあいだでは、実際にそういう現象がおきていて、イフガオ族の家屋と穀倉はおなじ構造で建てられている。その構造は高床建築のプロトタイプのひとつと言いうるもので、竪板をはぎ合わせてつくった箱を4本の柱で支えていると考えればわかりやすい。屋根を度外視すれば、屋内に柱がなくてもこれで自立する。組み立て解体も自由にできる。こうして安定した壁面構造があるおかげで、それを支える下部構造の自由度も高いのである。実際に、イフガオではしばしば掘立柱のかわりに根付きの木の幹を柱に利用している (図⑳) 。
イフガオ族よりはるかに規模の大きなフローレス島リオ族の家屋も基本構造は一緒である。リオでは木の柱のかわりに石柱が利用されていることもある (図㉑) 。サダン・トラジャ族の家屋にある心の御柱、アリリ・ポシ(臍の柱)もかつては石柱の例があったという。男性のシンボルということだ。トラジャもリオも、先述したばかりのスンバ島も、巨石文化の名残りが芬々とただよう土地柄である。
巨石文化というと、かならず名前がでてくるのはニアス島で、巨石記念物はもとより、集落全体が石敷きで覆いつくされたまさに巨石の島。この島の家屋の様式的な進化はすさまじいばかりだが、基本はイフガオ族の家屋と変わらない。肥大化した上部構造を支えるために、筋交いの柱を利用している (図㉒) 。
柱のかわりに石柱が利用できるなら、この石柱を小さくして礎石にかえてしまっても高床構造と呼べるだろうか。ミクロネシア、パラオ島の集会所アバイは、現にそうやって石列のうえに大引き(台輪?)をならべて建てられている。そこまで極端でなくても、柱を建てずに、丸太を井桁に組んだ校倉式の高床もある。スマトラ島のシマルングン・バタック族やスラウェシ島のポソ・トラジャ族など、柱を利用したふつうの高床と校倉をうまく使いわけている (図㉓㉔) 。
高床のないミクロネシアやポリネシアの建築をみていると、高床建築がこの地域にひろまる以前には、棟持柱で屋根をささえる構造がひろく家屋に利用されていたのではないかとおもえる。
石積みの基壇に建つミクロネシア、ヤップ島の集会所フェバイでは、棟木だけでなく屋根のモヤまで独立の柱で支えている (図㉕) 。柱に複数の機能を受けもたせることをせず、支持が必要な部材はともかく地上から柱を建てて支えてしまう。こうした建築観をもった人たちが、高床構造を受け入れると、ニューギニアのセピック河流域でみられる精霊の家ハウス・タンバランのように、屋根と床の構造をきりわけた建物が生まれるのではないだろうか (図㉖) 。精霊の家では、そうして必要になった無数の柱にことごとくセピック特有の精霊像が刻まれている。こうなると、現実に家の建設は棟持柱を建て、屋根構造を組み上げることからはじめるより仕方なくなってしまう。これについては、ティモール島におもしろい事例がある。
ティモール島中部、ブナッ族の家屋デウ・ホト(火の家)は2本の象徴的な棟持柱が屋根を支える高床建築である (図㉗) 。ところが、その建設で最初に建てられるのは棟持柱ではなく、高床構造を支える4隅の柱(束)ギリなのである。その後に安静日をおき、2本の棟持柱ヌラルを建設する。この両日は、それぞれ柱を地面に埋めたあとで儀礼をおこない、水牛と豚を屠ってその血を柱に注がねばならない。以上の手続きを踏んでから、はじめて棟持柱の左右にある四本の側柱リルスを建て、家の建設が開始される。
この不可思議な建設過程は屋根と床とが別々の由来をもつことを示しているのではないだろうか?
さらに興味ぶかいことに、ヌラルとリルスをのぞいて、すべての柱や床束には彫刻がほどこされているのである (図㉘) 。なぜ、屋根を支える主要な柱だけが彫刻されないままなのだろう?
これらの事実が暗示するのは、柱の彫刻と高床建築との相関関係である。ニューギニアでみたように、柱の彫刻が精霊を象徴するものであるなら、それは建物の床下を悪霊や、あるいはもっと直接的な外敵からまもるためにあったのかもしれない。このような想像をさらにかきたてる理由は、ブナッの家屋の壁面全体が乳房と迷路の彫刻で覆われているからである (図㉙) 。乳房は豊穣の、迷路はそれが永遠につづくことの象徴と考えられるが、竪板で箱のように堅牢な構造をつくりだしたうえに、さらにこうした彫刻で覆いつくす。それは、この高床構造が穀倉に由来すると考えるなら合点がいく。そのとき、ブナッの建築が本来もっていた棟持柱は解決できない要素としてのこされてしまった。
ブナッ族のもとで、高床が導入されても棟持柱をなくせなかったのは、たんに建築構造上の理由ばかりではない。フローレス島のリオ族のもとでも、おなじように竪板の箱を柱の上にもちあげて高床式の家屋にしている。ところが、リオでは2本の棟持柱までそっくり箱の上に載せてしまっているのである (図㉚) 。ブナッ族がそれをしなかったのは、ブナッの文化とふかいかかわりがある。
ブナッの人びとは彼らの家屋を祖先の乗ってきた船になぞらえている。舳先側にある「海の柱」と艫側の炉端に立つ「火の柱」は彼らの文化的イディオムの実現にとっては欠かせない存在なのである。ことに「海の柱」は、アトニ族の「母柱」やスンバ島の「占いの柱」と同様に、ブナッの精神世界において中心的な意味をになっている。柱には、収穫後のトーモロコシの初穂を結わえつけ、供犠した水牛の角や祖先伝来の器物がかけられる。柱の足元には平石の祭壇をもうけ、祖霊への供物をここに捧げる。そして、柱の上にはお馴染みの神聖な屋根裏空間がある。
この地域の木造建築の特徴を一言でいうなら、その類い希な創造性ということになるだろうか。家屋はこうであらねばならないという固定観念(私たちに根強くある)がないことを言いたいのではない。家屋に対する観念も、それをささえる木造技術も、おどろくほど似かよっている。にもかかわらず、そこから生み出される造形の奇想天外ぶりは創造性としか表現しようがない。多様性と統一性、この地域の文化についていつも言われることだが、建築の場合も例外ではない。この小文の目的は、建物を支える柱を対象に、それを使う人間の背後をながれる観念にせまろうとすることにあった。
(オソマツ)