マンガライ(フローレス島) | Manggarai ( Flores )

 東インドネシアのフローレス島には、西からマンガライ、ンガダ、リオ、シカなどの民族がそれぞれ独自の住文化を築いている。なかでもマンガライは他にあまり例のない円錐形の高床建築をもつことで知られてきた。しかも、その巨大な住居空間のなかで複数の家族が共同生活を送るのである。ところが、その特異な生活様式のせいで、伝統的な円錐家屋は改変すべき過去の遺物と考えられ、つぎつぎと取り壊されてきた。私が調査にはいった1986年の段階で、円錐形の家屋を残すのは唯一南岸よりの僻村 Waerebo村だけになっていた。

Manggarai
20世紀初頭の Tjoembi 集落(現在のRuteng市Cumbi村) Tropenmuseum

 マンガライの土地は17世紀にはスラウェシ島の Goa王国のスルタンの支配下にあった。その後、スンバワ島の Bima王国とのあいだに政争があり、マンガライは Bima の属国として統治をうけるようになる。Bima は交易品であったシナモンと奴隷をマンガライから入手した。
 当時のマンガライ社会は慣習を共有する地域集団 dalu にわかれていた。なかでも北部のCibal、南部のTodo、西部のBajo の3つの dalu (*) が大きく、その下に13の dalu が属していた。やがて Todo は Bima の協力を得てマンガライの覇権を確立する。ビマの属国を逃れて自治権を獲得したのはようやく1928年のこと、マンガライはオランダの支配下で王国領に分割統治されることになる。Waerebo は Todo王国の領内にあり、交通の便がよくなった21世紀の現在でさえ車でのアクセスが困難な山あいにある。

(*) dalu : 特定のクラン wau によって支配された慣習的領域で貴族階層の kraeng が統括する。 dalu はいくつかの glarang にわかれ、glarang には複数の村 beo が属する。

 1997年、当時のマンガライ県知事の訪問を機に Waerebo村は観光開発につきすすむことになる。知事の肝いりで1999年には集落の中心家屋 Mbaru Tembong (太鼓の家) が再建される。引き続いて伝統家屋の修復・再建プロジェクトがおこり、1986年の調査時に4棟しかなかった円錐家屋は2017年現在7棟を数える。そして、Waerebo におけるプロジェクトが呼び水となって、Todo や Ruteng でも観光資源を目的に円錐家屋が建設されるようになった。もっとも、Waerebo村自体は多くの観光客を呼び込むほどアクセスの容易な土地ではないから、プロジェクトの本質はマンガライ・アイデンティティの確立にあったとみたほうがよい。Waerebo はいわばその最後の砦だったわけだ。伝統家屋の authentisity が議論になるのはそのためである。


Waerebo村 1986年 : 4棟の Mbaru Niang が残る

Wae Rebo村 2011年 : 1998年以降の(観光)開発により7棟になる
~ Preservation of the Mbaru Niang Aga Khan Award for Architecture

家屋 mbaru

 家屋のことを mbaru という。伝統的な mbaru niang (丸い家) は円錐形ないし蜂窩形をした巨大な建造物である。屋根が地上近くまで葺きおろされているためわからないが、じつは内部が5層にわかれた高床建築で複数の家族が同居している。平面が矩形の高床家屋 mbaru pesek もあり、これには寄棟屋根の mbaru lopa と切妻屋根の mbaru beruga がある。これに対して、現代住宅は高床を地床にあらためた各家族の住まいになることが多く、こうした家屋を mbaru watana という。

 儀礼の太鼓をおさめた mbaru tembong はアダット長 tua teno の住まいであり、村の儀式や集会の中心となる建物。新年祭 penti (稲の種まきの時期 10-12月に実施) はこの建物でおこなう。

氏族 panga

 外婚の単位となる氏族集団を panga という。
 Waerebo の成員はみな Uku' modo氏族の出自だが、便宜的に村内をふたつの panga にわけて婚姻関係をむすんでいる。そのためか、おなじ家屋内に異なるふたつの panga が部屋をもち、同一家屋内でも結婚する例がある。
Niang Genajekong家には調査時に8家族51人が所属していた。①室では、長男Yが②、次男Jが③、三男Wが①の部屋を継いだ。長男Yは息子B夫婦に②をゆずり、他の息子たちを連れて Pendopo に移った。④室では、四男Bが④を継ぎ、室を④⑤に分割して、Bの娘夫婦が⑤に仮住まいする。⑥室は他と異なる panga の成員。次男Aが⑥、四男Yが⑧を継ぎ、三女Rは③に婚入。⑦室は隣家から移転、次男Lが継ぐ。⑨⑩は成人した未婚女子のための部屋にあてられていた。



Mbaru Niang Genajekong の平面, 1986.12.4

Redang : 梯子
Para : 入口
Siko : 物置。竹の水入れ dongge を吊す
Pendopo (要確認) : 男性客の寝所。女性客は Loang で迎える
Roang : 各家族ごとに所有する居室
Sapo : 炉。各家族ごとに炉石 Likang をわける
Lutur : 広間。会合、食事の場。遺体の安置場
siri leba : siri は柱、leba は大梁のことで9本の主柱
siri bongkok : 主柱のなかでも中心の柱
rede : 梯子


建築儀礼

1. Racang Cola (砥石・斧) : 木材の伐採に出発するまえに祖先に安全を祈願する。
2. Robang : 伐採の前に泊まり小屋でニワトリを供犠。伐採は3~4人が2週間ほど泊まり小屋に滞在しておこなう。
3. Elong Haju (運ぶ・木) : 伐採後、森の材木を運ぶ前にニワトリを供犠する。
4. Hambor : 木が長持ちするように村でおこなう儀礼。ニワトリを供犠する。
5. Cake Siri Bongkok (掘る・柱・中心) : 村の長老をあつめて建設の第一柱を立てる儀式。中心柱 siri bongkok の柱穴を掘り、生卵を割り入れる。柱は元口側を下に wunut で包んで柱穴に立て、供犠したブタの血を注ぎかける。儀式が済んだら他の柱穴を掘る。
6. Raum Buku (ひとつにする・タルキ) : タルキを屋根の頂部にあつめ、小屋組が完成したらブタやニワトリを供犠する。
7. Teong (吊す) : 小屋組が完成してから数日後に屋根葺きをおこなう。屋根が葺き終わるまで全員で歌う。ブタを供犠する。
8. Wee' Mbaru (戻る・家) : 入居式。入居後数日して屋内でブタを屠殺し、部屋をもつすべての panga がニワトリを供犠する。


Construction of Manggarai House

屋根葺き

 近年の再建プロジェクトでは、屋根材として耐久性の高い wunut (サトウヤシの樹皮を覆う黒い繊維で一般に ijuk と呼ばれる) が利用される。しかし、Waerebo では wunut の入手が困難なこともあって、チガヤ rii で屋根を葺いてきた。
 その方法は他の地方にはない独特なもので、靱性のあるトウ nanga を二つ割りにして心材をつくり、この心材のまわりにチガヤの束を折り返しながらトウ wua (細いもの) の紐で縫いとめて、長さ9mちかいロール状の屋根パネルをこしらえておくのである。このパネルの葉先側を外に向け、入口横から反時計回りに屋根の骨組みに巻き付けてゆく。葺き重ねる間隔は指4本分 pat moso (約8cm)、一棟を葺くのに約130巻のこうした屋根パネルが必要だった。作業は村人全員の協力 dodo でおこない、およそ25年に一度葺き替えたという。

 円錐屋根の頂部には木製の棟飾り ngando を置き、タルキ buku 5本を ngando に枘差しにして固定する。屋根頂までチガヤを葺いたら、その上に長さ40cm程度の割竹を奇数本ならべ、ngando の上から下にむけ wunut の縄を巻きつけて屋根頂からの雨漏りをふせぐ。
 ngando を支えるタルキの数、5という数字は象徴的に重要な数で、mbaru の屋内も5層 (Lete - Lobo - Lentar - Lemparae - Sekang Kode) にわかれている。また、新年の儀礼歌には5つのテーマがあり、lor (前進する) - rutung (どこに行こうと戻ってくる動物の名) - kempo (多くの動物があつまる木の名) - lasi (昼は無理でも夜には咲く花の名) - sanda (5つのテーマはわけられない) となっている。

WAEREBO 1986
Waerebo は Todo の王権下にあった。1967年、政令により山間から海岸近くの新村Kombo へ移転、村人の多くは新村に住むが、農地の関係で Waerebo にも家屋をもつ

村には4棟の伝統的家屋 Mbaru Niang がのこる。うち1棟が他の3棟に先行し、のこりの3棟は1938年の建設

集落中央に位置する聖木の菩提樹と石積みの祭壇 Sompang





屋根














棟飾り ngando

cake-siri-bongkok : 床下 Ngaun の中央付近に卵、ブタ、ニワトリの肉を埋め、血を注ぎ、石をのせてシリー・ピナンを置く

Manggarai
1937-38年 Tropenmuseum
Manggarai
1915年頃 Waerebo と同様の蜂窩状屋根の家 Tropenmuseum
Manggarai
1915年頃。この地方の家屋はこうした円錐形状が多く、Warebo とは異なるようだ Tropenmuseum
TODO 2004, 2013
Manggarai
集落の中心家屋 Mbaru Tembong は1995年に再建された
Manggarai
Manggarai
Manggarai
Manggarai
Manggarai
Manggarai
Manggarai
2017年の状況。伝統の再生?中央の Mbaru の住民は移転させられて無人になっていた

RUTENG 1986
Ruteng市郊外にある Ruteng Puu は


伝統風家屋の建設中。なぜか八角錐屋根

2013年には2棟になっていた

2017年3棟目に着手!




500,000 (1989). Dialects: Western Manggarai, Central Manggarai (Ruteng), West-Central Manggarai, Eastern Manggarai. Around 43 subdialects. Close to Riung.
Ethnologue

Manggarai territory is divided into a number of dalu, small principalities that are further subdivided into glarang. The glarang are the basic landowning units and are essentially large patrilineages......Traditional beliefs center on ancestor spirits and a supreme being called Mori Karaeng. Ata mbeko are the religious specialists.
World Culture Encyclopedia

The Manggarai were historically ruled alternately by the Bimanese of Sumbawa and the Makassarese of Celebes. Their own political system is based on clans, led by the chief of the Todo clan. Manggarai descent is patrilineal, and the fundamental settlement pattern is the village, which is composed of at least two clans. Each clan traditionally existed in relationship with two others; a group of three clans had complementary roles in providing and receiving marriage partners, but today marriage rules are more flexible.
Britannica online



Wae Rebo Series : The Rebirth of Wae Rebo | Official Trailer


Adat Budaya Kempo - Manggarai Barat

Pada tahun 1700-an atau mungkin sebelumnya, di Manggarai telah ada suatu sistem pemerintahan dari tiga kelompok masyarakat yang cukup besar, yaitu Todo, Cibal dan Bajo .... Di Manggarai, Kesultanan Bima mempelopori suatu sistem pemerintahan yang disebut kedaluan dan gelarang. Gelarang memiliki status dibawah Kedaluan .... Pada awal 1900, kekuasaan Bima di Manggarai mulai memudar. Pada tahun 1908, Belanda secara resmi melakukan kegiatan administratif di Manggarai .... pemimpin Kedaluan Todo yang bernama Baroek dinominasikan untuk menjadi Raja Manggarai (Radja van Manggarai) .... Kekuasaan Bima di Manggarai berakhir secara resmi pada tanggal 21 April 1929. Sementara itu, Baroek di inagurasi menjadi Raja yang baru pada tanggal 13 November 1930. Potret Sejarah Manggarai dalam Sejarah Nusantara

Lingko
環状の水田構成 Lingko, Cara

円形平面の家屋

Bidayuh
ボルネオ島 Bidayuh族の Bori Baruk(首狩りした頭蓋骨を納める祀堂)



焼畑で米とトウモロコシを栽培する






©minpaku digital archives : 3D drawing of MAYA by Takayuki Sui @ espa
MANGGARAI HOUSE "Mbaru Niang"
Waerebo, Kec. Satar Mese, Kab. Manggarai, Nusa Tenggara Timur, Indonesia

[文献]