これはダミーです。これはダミーです。これはダミーです。これはダミーです。これはダミーです。これはダミーです。
ヒンドゥー・ジャワ文化はマジャパヒト時代にバリ島にも伝えられている。その受容の程度によって、バリ島にはバリ・アガ人とバリ・マジャパヒト人のふたつの社会がうまれたとされている。バリ・アガ人はヒンドゥー・ジャワ文化の影響をほとんど受けなかった人びとで、ときにはバリ・マジャパヒト人に先行するバリ島の先住民族とみなされることもある。多くは近年まで交通の便の悪い山間の僻地に居住していた。
それに対して、バリ・マジャパヒト人は平地に居住するふつうのバリ人のことで、その住まいはバリの家屋としてよく知られる観念にもとづいて建設されている。つまり、ロンタル文書にさだめられた規則にしたがいながら、塀で囲われた屋敷地のなかに、機能のことなる数棟の独立した建物を建てるのである。
こうして建てられるバリ・ヒンドゥー人の住まいとバリ・アガ人の住居のあいだの距離を推しはかることができれば、ヒンドゥー・ジャワ以前の建築文化の実態はおのずからあきらかになるだろう。
バリ島の北東部、バトゥール山の火口にできた湖であるバトゥール湖の湖畔に、バリ・アガ人の住むトルニャン村がある。トルニャンの家屋ウマーは、屋敷を構える平地バリの住宅様式とはことなり、ロンボック島ササック族のバレに似た単棟の建物である。石積みの壁が周囲を覆っているために、石造建築のようにみえるが、木造の軸組をもった純粋な木造建築なのである。
屋内のひろさはわずか一〇畳程度しかないけれども、そのコンパクトななかにかれらの宇宙が詰めこまれている。
屋内には、土間のままにのこされたナターと、後ろ半分の床をはったダンベンがある。扉の前に残された小さな土間空間をはさんで、(奥からみて)左側に調理場のパワンがある。パウォンは別棟の炊事屋をあらわす言葉としてバリ島じゅうで使われている。トルニャンの住居でも、パワンにはカマドがあり水甕が置かれている。パワンに対面する右側には棚がつくられ、食器や食物の置き場になっている。床をはったダンベンもやはり中央の間をはさんで三分され、(奥からみて)右側を「東のダンベン」、左側を「西のダンベン」という。現実にはむしろ北にちかい「東のダンベン」を「東」と呼ばねばならないのは、つぎのようなトルニャンの方位観のせいである。
バリ島にもロンボク島とおなじように、海と陸(山)の方向にもとづく方位観が発達している。そのためバリ島南岸で南(海)をさす「クロッド」と北(陸/山)をさす「カジャ」は、北岸では逆転する。もっとも、これは実際には土地の高低(川の流れ)にもとづく観念のため、トルニャンでは海のかわりに湖が「クロッド」の方位を規定する。ところがこうして得られた方位軸は、かならずしも東西軸と直行するとはかぎらない。それでも、トルニャンの家屋はいつも正面をクロッドに向けねばならないため、これと直行する右左の軸は必然的に東西にならざるをえないのである。
ササック族の住居では右側にもっとも重要な空間がつくられていた。トルニャンでも右側にある「東のダンベン」には、スサロンという一段高い神聖な寝床がしつらえてある。この寝床はふだん使用されず、婚儀をすませた夫婦だけがここで寝ることができた。「中央のダンベン」の背後の壁には天井ちかくに祖先の供物台ランガタンがあり、「中央のダンベン」はそのための礼拝や接客用にあけておかねばならなかったので、ふつう家族は「西のダンベン」のせまい空間をいっぱいに利用して眠った。
家屋の空間はこれがすべてではない。もっとも重要であるべき空間は、じつは屋根裏にあった。この空間はトルニャンではトゥクッブとよばれ、トーモロコシやタマネギなどが置いてあるだけの物置きになりさがってしまったが、本来は祖先伝来の家宝や貴重な財産をしまう神聖な空間であり、家長(男)だけがこの空間にのぼる資格を有していた。トルニャン村にはいまも集落内に穀倉がなく、むかしは各家のトゥクッブにコメを収納したのだという。
住居の屋根裏にコメをしまうということは、穀倉の下に住んでいたということである。トルニャンの家屋では、建築構造的にもすでに不明瞭になっているけれども、穀倉の下に住まうのはそれほど奇異なことではなかった。高床穀倉の下にテラスを設け、そこをブルガのような集会場や作業場として使うのは、ひろくみられる穀倉の用途だった。さらにこのテラスを壁で囲ってしまえば、住居になるのはあと一歩である。
おなじバリ・アガ人といわれるテンガナン村には、そうした穀倉の例をみることができる。バリ島東部のテンガナンの集落は、中央をとおる広場の両側に各家の屋敷がならび、広場には高床の集会場と村共同の穀倉が建てられている。この穀倉の屋根はササック族のゲレンに似た切妻(入母屋)形で、バリ・マジャパヒト人の建てる典型的な砲弾形の穀倉とはことなっている。
広場に沿ってならんだ住居は、トルニャンのような単棟ではなく、短冊形に地割りされた敷地を塀で囲い、そのなかに複数の建物を建てている。これはテンガナンもまた、バリ・マジャパヒト人の住宅建築の影響をまぬがれなかったことをしめしている。しかしながら、そのなかで母屋にあたるバレ・テンガーは、屋根裏を各家用のコメの収納場所にあてているのである。母屋はこうした穀倉の下に、高さ八〇センチメートルほどの床をはって、生活空間にしている。屋根裏のコメの出し入れは、通常の穀倉のように、屋根の破風に開いた扉をとおしておこなっている。