スラウェシ島中央高地には小規模な民族集団が散居している。東南アジア大陸山地やボルネオなど、民族集団をまとめあげる強大な権力構造が発達しなかった土地に共通する民族状況と言えるだろうか。あるいはこれが東南アジア本来の姿なのではないかともおもう。
1905年にオランダ政府が統治に乗り出すまで、この地域は外界との接触をほとんどもたずにきた。19世紀末から20世紀初頭にこの土地を訪れた学者や宣教師たち――スイスの言語学者 Paul Sarasin と Fritz Sarasin 従兄弟(1893-96/1902-03)を筆頭に、宣教師として滞在したオランダの Albertus Christiaan Kruyt(1892-)と Nicolaus Adriani(1895-)、ドイツの民族学者 Alfred Grubauer(1911)、スウェーデンの博物学者 Walter Kaudern(1917-1920)ら――は、オランダ統治による文化変化を受ける直前の貴重な記録をトラジャの文化として報告している。トラジャ to-raja は低地に住むブギス人の言葉で「山の人」を意味する。
こうした経緯から、比較的最近まで、スラウェシ島内陸の文化はトラジャの名で一括されることが多かった。Lebar の民族分類でも、東部(現在のポソ Poso 県)のポソ・トラジャ Poso Toradja、西部(現在のドンガラ Donggala 県とパル Palu 市)のコロ・トラジャ Koro Toradja とパル・トラジャ Paloe Toradja、そして南部(現在のタナトラジャ Tana Toraja県)のサダン・トラジャ Sa'dan Toradja の3つに分けて解説されている["Ethnic Groups of Insular Southeast Asia", 1972]。
このうち、いまもトラジャの名をとどめるのは南部のサダン・トラジャ Sa'dan Toraja だけで、中央高地では住民のあいだにトラジャの呼び名が定着することはなかった。言語的にも、東部のポソ Poso 地域の民族はバレ Bare'e 語を話すものの、西部のコロ Koroやパル Palu は多数の言語集団にわかれている。ただし、初期の民族誌は、民族アイデンティティや言語が異なっていても、中央高地一帯がきわめて均質な風俗習慣をもっていたことを報告している。
この地域の文化を特徴づけるのは lobo (地域によって duhunga、sooe など)と呼ばれる集会場である。祖霊祭祀に関係することから寺院と訳されることもある。lobo は共同体活動の中心になる建物で、オランダの統治によって首狩り慣行が中止され、キリスト教への改宗がすすむと急速に姿を消したが、かつてはどの集落にも最低1棟のこうした集会場があったという。
我等はヅスンガと呼ばれる建物に行った。此家は霊屋であるし、祈祷家屋であるし、集会所であるし、会議所と他郷人の宿泊所を兼ねるものである。。。。閉まりの良くない木の戸の隙間から覗いて見て内部の全景が分かった――然し私の眼の前に現れた謎の様な光景を一生涯忘れる事が出来ない。ヅスンガの中は人で充満して居た。村中の男も女も、其中には乳呑み児を背に負った女も全部此処に集まって居た。光の弱い赤い火が木の棒から燃えて居たが、其周囲を僅か計りより照らして居らぬ。この不確かな光の下に現れたり消えたり、老いた者、若い者、男も女も祭礼の踊足取りで神像の前を動いて居た。火の光が少時間ボーッと明るく照らす時に、赤い焔が燃え上がって、此光明の中に黒く彩った顔が悪魔の如く浮き上がって見える。これに加ふるに長い裾を引いた女の衣服があるし、又朗らかな色の飾り帯と、男の特異なる巻き頭巾の布は、暗い姿に対して、くっきりと浮き出す。踊り手が列を成して闇から光の中に現れ、再び森の闇に消え行く様は、全体を極めて神秘的なものとする。然し此集会の目的は極めて無害なものだ。マルンゴ踊の間は何時間も何時間も同じ調子で足踏みする、そして踊に合せて伝統的の挿音ある歌を交番に歌って楽しむ。(グルーバウエル『セレベス民俗誌』清野謙次訳, 1944:227,231)
lobo の前の広場には、供犠される水牛が太い柱につながれ、鳴りわたる太鼓の音が村人たちに祭祀の開始を告げた。lobo の内部にはこうした祭儀用の太鼓がいくつも安置され、首長の命令ではじめて叩かれるのだった。
建物のなかは間仕切りのない大空間になっていて、中央の広間(lobo というのはこの広間の名称である)をかこみ、壁際に沿って一段高い張り出し部分があった。さらにその外側を腰までの高さの外壁がめぐっていた。来客が寝泊まりしたり、人びとのふだんの居場所となるのは一段高くなったこの部分で、入口近くと奥の2カ所にはそのために炉がもうけてあった。ちょうど炉の手前、中央広間との境界にあわせて2本の棟持柱が立ちあがり、建物全体の構造を支えていた。奥の柱の下が上座であり、首長はここに席をしめた。そして、広間の中央に立つ柱の上方には、草を束ねた「生命の樹」(あるいは「米の樹」ともいわれる)がかざられ、さらにその上の梁からいくつも頭蓋骨がぶらさがっていた。
lobo でおこなわれる共同体祭祀のなかでもとりわけ重要なのは首狩りにまつわる儀式だった。犠牲になる人間はこの中央の柱に縛りつけられて首狩りの瞬間を待つ。祖先に対する人身御供は、集落で何事かの儀式を催すとき、たとえば、首長の葬式や豊穣祈願、雨乞い、地震や疫病の鎮静、集会場の新築といった儀式にはかならず必要とされた。敵(こうした儀礼慣習のために近隣の村とはたえず一定の緊張関係にあった)を捕らえてくることが勇者のあかしでもあったから、首狩りはむしろ機会をとらえて率先しておこなわれたのである。
此柱(ロボの中央の柱)の上半部から屋根に達するまで、生命の木が結びつけられて居る。そして其柱は同時に拷問柱(marterpfahl)であって、それに殺される予定のものが殺される時迄、縛られるのである。此柱には彫刻が施されてあって、上に向った水牛頭の形を為して居る。そして此柱は血を以て塗られ、且つ殺された人の頭蓋骨の一片が木釘で打ち込まれる。室の全体を中央部に於て貫ける床木の梁の真中には、平たい円形の皿状の部分があって、それに粗雑なる浮彫があるが、両側から水牛頭を突き合した意匠である。之は犠牲者から切った首或は首狩りで得た首を置くものである。此首の周りで踊が行はれ、且つ演説が催される。又此首に対して、恰も生きて居る時の様に、煙草と檳榔子とが供せられる。其後に頭蓋は打ち破られて脳髄が食べられる。頭蓋骨の破片の一部分は柱に結び付けられてロボの霊に捧げられるが、他の一部分は首狩りに参与せし人々の間に分与せられて、之は「幸福を齎らすもの」として、各人の家に保存せられる。脳髄を食ったものは、殺されたものの霊が其身体中に入るから、復讐を受けないと思っているのだ。(グルーバウエル『セレベス民俗誌』清野謙次訳, 1944:267)
このような集会場の描写は、たんにスラウェシ島中部の建築文化の特徴をつたえるものではなくて、オーストロネシア世界全体に通底する一種の建築理念、建築空間をつくりだすエートスにちかいものではなかったかとおもう。首狩り(かつてひろくおこなわれていた)や人肉食の風習は集会場の共同体的性格を補強する演目(それも近隣集団との緊張関係をうまく利用した)のひとつにすぎなかっただろう。そして共同体としての特別の演目がなくなったとき、この建物を維持する理由も、それをなしとげる集団もなくなっていたのである。いまもベトナム中央高地で建てられる男性集会場 ron やボルネオ島ビダユー Bidayuh 族のもとにのこる頭蓋の家 baruk、それに balai、baileo などの名で各民族が維持する公共建築/共同家屋の役割を lobo に重ね合わせてみることも可能だろう。
スラウェシ島中央高地の建築について、現在いくらかでもその技術的側面を知ることができるのは、1917年から丸3年間をこの土地の調査に費やした Walter Kaudern の浩瀚な報告のおかげである [Kaudern 1925] 。それによると、lobo の建築にはほぼ共通する特徴があるようだ。
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Bada では buho と呼ばれる。チガヤで屋根を葺くことが多いが、Bada 地方ではひしぎ竹のシングルをもちいる。
Kaudern, (in Sulawesi from 1917-1920)...classified the people of the highlands into four main groups: Paloe Toradja, Koro Toradja, Poso Toradja, and the Saadang (Sa'dan) Toradja. Scholarly arguments notwithstanding, the Sa'dan label never took hold. The Sa'dan peoples were administratively classed as Toraja. This is the label which has been accepted and has become an identity for the people of that district. Meanwhile the central highlands have been divided into fourteen other official ethnicities [Jaida n'ha Sandra 1998]
Explorations
Bada 10,000 (1991). Alternate names: Bada', Tobada'. Dialects: Bada, Ako. The Hanggira dialect is no longer distinguished from Bada. Lexical similarity 85% between Bada and Besoa, 91% between Besoa and Napu, 80% between Bada and Napu. The three are geographically, politically, culturally distinct.
Moma 5,500 (1985). Alternate names: Kulawi. Dialects: Historically a 'dialect' of Kaili, but strong influences from Uma. Lexically similar to Uma, but grammatically similar to Lindu.
Kaili 233,500. Alternate names: Ledo, Palu, Paloesch. Dialects: Ledo (Palu), Doi, Ado, Edo, Tado, Tara (Parigi), Rai (Sindue-Tawaili, Tawaili-Sindue), Raio (Kori), Ija (Sigi), Taa. Doi is intelligible with Ledo, Edo; Ado the next most intelligible; Tado a little less. Some intelligibility of Da'a, but there are major sociolinguistic differences. Ledo has 80% to 88% lexical similarity with Ado, Edo, Doi, and Lindu.
Ethnologue
「南州異物志曰。交廣之界,民曰烏滸,烏滸地名,東界在廣州之南交州之北。恒出道間,伺候二州行旅,有單逈軰者,輙出擊之。利得人食之,不貪其財貨也。。。烏滸人便以肉為殽俎,又取其髑髏,破之以飲酒也。其伺候行人小有失軰,出射之。若人無救者,便止以火燔燎食之。若人有伴相救,不容得食,力不能盡相檐去者,便断取手足以去。尤以人手足掌蹠為珍異,以飴長老。出得人歸家,合聚隣里,懸死人中當,四面向坐,擊銅鼓,歌舞飲酒,稍就割食之。春月方田,尤好出索人,貪得之以祭田神也。」(太平御覽 卷七百八十六)
「南州異物志」(呉の萬震撰)に曰く。交州と広州の界に住む民を烏滸と呼ぶ(烏滸は地名)。東界は広州の南、交州の北にあり。恒に道間に出て、二州を旅する者を伺い、一人旅の者がいれば、すなわち出てこれを撃つ。人を得てこれを食うのを利とし、その財貨は貪らぬ也。。。。烏滸の人はすなわち肉をもって肴とし、またその髑髏を取り、これを破って酒を飲む也。行人の少しはぐれた者を伺い、出てこれを射る。もし助ける者がなければ、すなわち止まり、火であぶってこれを食う。もし助ける仲間がいて、食べることができず、担いで運び去る力がなければ、すなわち手足を切り取って持ち去る。人の手足の掌や蹠を珍味として、長老にすすめる。出て人を得て家に帰ると、近隣が集まり、死人を中に吊して、これに向かって四面に座し、銅鼓を打ちならし、歌舞飲酒して、少しずつこれを割いて食う。春の農耕にあたり、好んで出て人を求め、なんとかこれを得て田の神を祭ろうとする。
タコルの大きな環に捕虜は結び付けられて引き立てられて来るか、或はロボに連れて来られた後に之に繋がれて、拷問柱に縛られる。大なる籐環に付いた小籐環の端から小なる竹筒が下り、之に幾つも籐紐が結び付けられたものがある。之は結んだ籐の数だけ奴隷或は捕虜を引き込んだことを意味する。同様ではあるが結び方が異って居るのは、其結び数に依りて得た首狩りの頭数を意味する。そしてそれは或一ヶ所に於て殺し得た場合の数なのである。また籐環には一個或は数個の櫂の形が木彫りで製作して結び付られて居るが、之は水上を襲撃して得た捕虜数を意味する。椰子殻を付けてあるのは、椰子酒を作らんとする時に襲撃したことを意味し、バナナの繊維を束としたのは、此実を取る時に襲ったことを意味する。太い環に小さな輪を幾つも鎖状に嵌めて、二重鎖としたのは首狩に要した日数を表すものである。(グルーバウエル『セレベス民俗誌』清野謙次訳, 1944:268)