バリ島の東に位置するロンボック島とスンバワ島をあわせて西ヌサトゥンガラ州という。東ヌサトゥンガラ州の島々とは基層文化を共有するものの、イスラム化はスンバワ島をこえてスンダ列島を東進することはなかった。
スンバワ島の建築文化には他に例のないユニークな特徴がみられる。ジャワ島やバリ島の建築からはうしなわれたヒンドゥー時代の、それもマジャパヒト王国以前に遡る時代の残滓がスンバワ島には生きつづけているのである。それはジャワやマカッサルの影響下にあゆんできたこの島の歴史に起因する。
現在のスンバワ島は、スンバワ Sumbawa 人(自称はサマワ Samawa / Semawa )の住む西部と、ビマ Bima 人(自称はンボジョ Mbojo)の住む東のドンプ Dompu 、ビマ Bima 地方に二分される。スンバワ語はロンボック Lombok 島のササック Sasak 語にちかいとされ、いっぽうのビマ語は東のスンバ Sumba 島の言語との関係が指摘されている。言語的にみても、スンバワ島はちょうど文化の遷移地帯に位置していることになる。
マジャパヒト王国時代の年代記『ナーガラ・クルターガマ』によると、1357年にマジャパヒトの将軍ナーラ Nāla がドンプに遠征し、以降、スンバワ島の5国 ― 西スンバワの Taliwang、中部の Dompo、中東部の Bhima、東の Sapi とサンゲアン島 Sanghyang Api ― はマジャパヒト王国の属領となっていた。すくなくともこの時期にはスンバワ島にもヒンドゥー文化がおよんでいたと考えられる。16世紀にマジャパヒト王国が滅亡すると、バリに逃れた王朝(ゲルゲル王国)の支配を受けていたようだ。
イスラム化の波はヒンドゥーの牙城バリ島を迂回して北からやってきた。1616年、スラウェシ島南部のゴワ Gowa 王国によってスンバワ島は征服され、以降、スンバワ島はその属国になる。やがて、ビマの王朝で内部抗争がおこり、ゴワの後押しをうけた王がたつと、ビマ王国はゴワの王家と姻戚関係をむすんで、1640年にイスラム教に改宗した。1669年にオランダの攻撃をうけてゴワの王都が破壊された際には、交易の自由をもとめて多くのマカッサル、ブギス難民がビマにも逃れてきたという。ブギス風の建築様式はこの時期に伝えられたと考えられている。
もっともスンバワ島の建築様式を子細にみてゆくと、それほど簡単な話ではないことがわかる。
「山の人」を意味する Dou Donggo という集団の存在をはじめて外部に伝えたのは、スイスの博物学者 Heinrich Zollinger だった。この調査の目的は、1815年におきたタンボラ Tambora 山の大噴火の影響をしらべることにあった。この噴火は人類史上最大の噴火といわれており、数万人の死者と地球規模の天候不順をもたらしていた。調査隊は1847年にスンバワ島を訪れている。ビマ湾西岸の山中に独自の風俗習慣をまもる民族集団がいる。Zollinger は Dou Donggo がスンバワ島の先住民の末裔であると考えたらしい。
ドンゴの人々は、20世紀中葉にいたるまで、イスラム教の受容をこばみ、伝統宗教をまもって暮らしていた。自然界の精霊 "marapo" や祖霊 "parafu" が作物の豊作や人間の繁栄をもたらすと考え、それらに対する祭祀をもっとも大きな社会的イベントにおいてきた。こうした儀礼を執行する司祭 "ncuhi" は同時に社会単位(クラン)をまとめるリーダーでもあった。スンバ島の "marapu" 信仰やタニンバル=ケイ
島の "mitu" 、 "wadar" 信仰など、こうした考えは東インドネシアにひろくみられるものである。それだけにスルタンを政治、宗教の中心にするビマの社会とは相容れなかったのだろう。17世紀にイスラム教への改宗をきらって山へ逃れた集団ともいわれている。
ドンゴの言語はビマ語の方言とされる。人口はおよそ2万人。ドンゴを独自の民族とみるかどうかはむずかしい問題だが、その建築様式については、ビマとの共通性があるいっぽう、東南アジア全体を見わたしてもドンゴにしかない特徴もある。バリ島のバリ・アガ Bali Aga などと同様の先住文化という言い方はゆるされるだろうか。
ドイツの地理学者 Johannes Elbert は、20世紀初頭にスラウェシ島南部からロンボック島、スンバワ島、フローレス島、ウェタル島で調査をおこなった。スンバワ島のビマには1909年11月に達し、ドンゴの文化について最初のまとまった報告をのこしている。そのなかに描かれた家屋図は、ドンゴの慣習家屋として現在知ることのできる建築様式の完成された姿をつたえる。
ドンゴの家屋の建築的な特徴についてはじめに概観しておこう。
すぐに気がつくのは、4本の主柱の上に円盤形の鼠返しがあり、この家屋が高倉を利用した住まいだということである。
東南アジアの、とくに島嶼部の高床住居のなかには、高床穀倉から発展したと考えられる一連の建築系統がある(To dwell in the granary
)。なかでもドンゴの家屋は、高倉そのものに住んでしまうという、そのもっとも原初的な動機を居住スタイルにのこしている。低地に住むビマ人のあいだには、もはやこうした家屋形態はみられない。
しかも、ドンゴの家屋は壁のない屋根だけの屋根倉建築なのである。ドンソン文化の銅鼓に描かれる家屋図(ホアンハ鼓)などをみても、初期の高床建築では板壁の利用はかぎられていたのではないかと想像する(近代工具のない社会で板の採取がいかに大変な作業であるかはこちら
を参照されたい)。
時代がくだって、チャンディ・ボロブドゥールのレリーフに描かれる高倉はみな壁構造(木の枠組に網代や板をはめた構造)をもつから、8世紀には板壁をともなう穀倉建築も一般化していたのだろう。実際に、穀倉型の高床住居はひろい範囲でみられるが、屋根倉の例はきわめてすくない。
典型的な屋根倉は、切妻屋根の妻壁部分も屋根と同一の仕上げをしてしまうことで寄棟屋根のような外観になる。雨仕舞のために出入口を床下にとることが多いが、ドンゴでは屋根の妻面に戸口をもうけている。降雨のすくない気候がそれを実現可能にしたのだろうし、同時に、屋根倉の床下に作業用の高床テラスをもたない生活パターンをうみだしたと言える。ビマ湾をはさんでドンゴとは反対、東のワウォ Wawo 山中にも同様の屋根倉式家屋があるが、ここでは高床テラスを介して屋根裏から屋内にアクセスするようになっている。屋根倉の一般的なスタイルである。
柱が地面に掘立にされるのではなく、礎石の上にのっていることも注目すべき特徴にあげられる。
スンバワ島より東の島々では、はるかに複雑な建築構造をもつ建物でも掘立柱であることが多い。礎石の上に柱を建てるためには、柱と梁だけで安定した構造体を組まねばならない。しかも、1本ずつ柱を立ててゆくことができない。これは高度な建築技術に属するが、ブギス風の建築がもたらされる以前から、スンバワ島では礎石が利用されていたようである。
そもそもこうした石場建ての技術は、ビマ北東にあるサンゲアン Sangeang 島で発見されたマカラマウ Makalamau 鼓の家屋図が最初期の例である。紀元3世紀とされる年代比定が正しければ、という条件付きだが。もうすこし明確な例では、ボロブドゥールの建設された8世紀にはまちがいなく存在していた。同様の柱構造はレリーフのなかに散見される。有名な高倉の図では、柱は柱頭に鼠返しをもち、柱脚は礎石にのるように描かれている。
しかし、どちらの柱構造もこのままでは不安定にみえる。重い建物全体を柱構造の上にもちあげるためには、よほど頑丈に柱と梁の接点を固定しなければならない。ところが木造でそれをするのは意外とむずかしいからである(柱間に壁がなければよじれて倒れる)。この欠点をおぎなうには、柱を地面に直接掘立ててしまうか(たとえばスンバ島)、柱の途中に足固めの貫をとおすか(バリ島やロンボック島)、あるいはドンゴでするように方杖(斜材)で柱のあいだを固めるしかないことがわかる。高倉の下に高床のテラスをもうける例が多いのは建築構造的にも合理的な考えなのである。
方杖(斜材)をもちいた風変わりなドンゴの建築技術であるが、チャンディ・ボロブドゥールやチャンディ・プランバナンのレリーフには、おなじような方杖を床下に補強した建物が数多く描かれている。とくに、プランバナンのレリーフにはスランビ(前面ベランダ)をもつ高床構造の建物があり、これは現在ビマやドンプに建つ家屋構造そのものと言ってよい。
こうした様式的な方杖の使用は、東ジャワ期のチャンディのレリーフからは消えてしまう。その相違が中部ジャワと東ジャワの地域的な差に由来するのか、時代の変化なのかはわからない。いずれにせよ、現在のジャワ島からはうしなわれてしまった建築技術がスンバワ島のドンプ、ビマ地域だけにのこされている。
これらの点から、スンバワ島の建築についてつぎのような指摘が可能かもしれない。
この地域はヒンドゥー文化に先行して、稲作文化を受容している。そのなかには、高倉の技術もあり、より高度な建物であった高倉を住まいとして利用することもおこなわれただろう。その後につづくヒンドゥー化の時代、中部ジャワの方杖を利用した建築様式はスンバワ島までおよんでいたようである。しかし、東ジャワのマジャパヒト王国やバリ島の影響を強くうけたスンバワ島の西部では方杖の利用は姿を消してしまった。かわりにブギス風の建築技術を受け入れている。いっぽうスンバワ島東部のドンプやビマにのこる高床建築は、8~9世紀中部ジャワの建築の伝統をいまにつたえるものである。
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The Donggo live in the cloudy highlands west of Teluk Bima and on the southern sloped of Gunung Soromandi, scattered over 11 villages: Bajo, O'o, Rora, Punti, Sowa, Mbawa, Kala, Doridungga, Palama, Sai and Sampungu. In the neighborhood of Wavo, besides the main road between Bima and Sape, there are less traditional Donggo. This population fleed into the hills in the 17th centiry to escape the islamisation by the sultans of Bima, and it has maintained it's traditional religion until today.
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The Dou Donggo still follow the leadership of their clan leader (the ncuhi) and maintain traditional rites which are related to the spirits of ancestors with agrarian- and live-cycles. Their 'holy three' consists of heaven, the water and the wind. Their religion is named Marafu, and looks like the Marapu religion on Sumba.
Tropic Islands
Orang Donggo dikenal sebagai penduduk asli yang telah menghuni tanah Bima sejak lama. Mereka sebagian besar menempati wilayah pegunungan. Karena letaknya yang secara geografis di atas ketinggian rata-rata tanah Bima, Dou Donggo (sebutan bagi Orang Donggo dalam bahasa Bima), kehidupan mereka sangat jauh berbeda dengan kehidupan yang dijalani masyarakat Bima saat ini. Masyarakat Donggo mendiami sebagian besar wilayah Kecamatan Donggo sekarang, yang dikenal dengan nama Dou Donggo Di, sebagian lagi mendiami Kecamatan Wawo Tengah (Wawo pegunungan) seperti Teta, Tarlawi, Kuta, Sambori dan Kalodu Dou Donggo Ele.
Melayu Online : Asal Usul Masyarakat Dou Mbojo, Bima
Sistem Kepercayaan Orang Donggo
高床建築のなかでは、平伏する客人を複数の人間がむかえているらしく、建物の外には米を搗く人物がいる。船型に反った屋根裏には籠(米?)がならべられ、供物台のような棚が左右に下がっている。外に転んだ壁面を爬虫類が這い、床下には豚、鶏、犬らしき動物がたむろしている。銅鼓の画像を分析した Heine-Geldern は、呉の使節(朱応と康泰)が扶南を訪れた史実にあたるとして、この銅鼓は紀元3世紀に扶南で制作されたと推定している。[Robert Heine=Geldern "The Drum named Makalamau," India Antigua, pp. 167-179, 1947]
この説について肯定も否定もできないが、束柱を利用した高床構造は現在、島嶼部だけにみられるものである。柱頭と柱脚の表現にも注目。