ジャワ島の西部には Sunda語を話す Sunda人が住んでいる。Sunda語はさらに4つの方言域に分かれているが、もともと地方差をもっていた土着の文化のうえに、ヒンドゥー、イスラム、中国、西欧や独立後のインドネシアが異なるレベルの影響を及ぼしているために、家屋の形式も地域により、また、社会階層により異なる多様性に富んだものだ。しかし、Sunda人は自らの文化的なアイデンティティーの源泉を、閉鎖的な一社会集団のなかに見いだしている。バンテン地方の山地に住む Baduy族がそれで、住民たちはいまだに古Sunda語を話し、400年以上のあいだイスラム化も近代化も拒みながら、孤立の文化をまもってきたといわれる。一説によると、1579年に、バンテンのイスラム勢力によって、ヒンドゥー王国のパジャジャラン Pajajaran が滅亡した後、山中に逃れ去った一族の子孫ということである [Tricht 1929]。ともかく、現代人にはエキセントリックにも聞こえる彼らの慣習にしたがって、学校や病院はおろか、電気や機械とも縁のない生活環境をいまもまもり続けている。
バドゥイ Baduy、自称 Kanekes はジャワ島西端のバンテン州 (2000年に西ジャワ州から分離) Kenekes 村に居住する集団で、Sunda人のなかでも独特の世界観と慣習を守り続けることから Baduy と呼ばれてきた。きわめて閉鎖的な Baduy Dalam (内バドゥイ Cibeo, Cikertawana, Cikeusik の3村) と 比較的ゆるやかな緩衝地帯である Baduy Luar (外バドゥイ) にわかれる。
儀礼などの機会に Sunda語で家屋をさすときの言葉は "Bumi"、それは大地や世界を含意し、家屋が世界の縮図であることをしめしている。家屋、すなわち人間の世界は地下界と天上界の中間にあって、そのどちらにも属していない。だから、家屋は地上から離れた高床住居であらねばならないとされる。
宇宙の中心にあたる内Baduy の村では、神聖な地面を掘りかえすことさえ禁忌とされているから、どんなに起伏のある敷地でも建設できるように、高床は必須の建築構造ということになる。「家の足」にあたる柱も地面に直接触れないように礎石の上に立てるし、土でできた瓦で屋根を葺くことは、家屋を地下に埋めるものとして禁じられている。しばしば大火で村が焼失する事態になっても、頑なに屋根は草葺き、サトウヤシの繊維 ijuk やサゴヤシの葉で覆われている。
Baduy の家屋 Imah は、棟をおよそ南北に向けた切妻屋根の一方だけに庇をのばした形式で Sulah Nyanda と呼ばれる。一般に Julang Ngapak という両庇のついた屋根形式の片庇版。日本の神社でいえば流れ造り、チャンディ・プランバナンのレリーフにも描かれたおなじみの屋根形態である。
Baduy にかんして、はじめて民族学的な記録をのこしたのは植民地官僚の医師として赴任した Julius JACOBS である。1891年に公表された報告には家屋の図が描かれている。
現在の Baduy の家屋の原形ともいえるその図から、母屋と庇がまったく別の構造体であったことがわかる。いまは外Baduy の家ならたいていある屋外のベランダはなく、庇の側面に出入口が開いている。
本来の家屋に庇空間を付設させる例は、フローレス島の Ngada族やロンボック島の Sasak族などでもみられる。家屋本体が小さく暗く(おそらく穀倉に由来するものだ!)女性たちの空間であるため、男の居場所がないという現実的な理由の解決策になっている。
建物を母屋と庇にわけると、母屋には家の中央を意味する Tengah Imah (家の本体である) と調理場 Parako があり、Tepas (テラスの意) と屋外のベランダ Sosoro は庇にふくまれる。母屋と庇の境界、つまり、Tengah Imah と Tepas の間には、JACOBS の図に見られるように段差があったようだが、2012年の調査時には、外Baduy では段差のない家が多かった。頻発する火事のせいもあるし、もともと耐久性の高い建築でもなかったから、構造的にもそれなりに整備されてきたようだ。
Sosoro は竹を編んだ壁で囲われる場合もあるが、多くは開放されている。来客、とくに男の客や外部の人間は、Tengah Imah にはいることができず、庇空間である Sosoro や Tepas で応対する。外来者は災いをもたらす存在とみなされているからである。かつては外来者の宿泊のため、首長 (慣習を司る jaro) の家には Sosoro に対面して外側に Sosompang という竹床のベンチがつけ加えられていた。
Sosoro に面して屋内への扉 lawan がある。Tepas は食事の場であり、未婚男子の寝所にあてられている。Sosoro がない場合には来客を Tepas でむかえた。Baduy の慣習では南北に家屋の入口をとらねばならないとされている。家屋は棟を南北に向けているから、Sosoro は東西いずれかになってしまう。Tepas の側面にも戸口を残しているのはこの慣習をまもるため、Sosoro がなかった時代には Tepas から出入りしていた名残りだろう。
死者の遺体は Tepas に移し(頭を南に、足を北に、顔を西に向ける)水で清め、布でくるんで葬儀をむかえる。また、出産後40~60日間、母子は Imah でなく Tepas ですごさねばならないという。(この聞き取り内容は要確認)
Tepas は家屋 Imah に付随した外部のテラスだったと考えられるが、屋内にとりこまれるのにあわせて Sosoro が追加されるようになったのだろう。本来の家屋空間は Tengah Imah としてのこされた。女性たちの日常的な生活空間であり、大きな家ではここに Pendeng という寝室が設けられている。
炉 hawu の置かれた台所の Parako と Tengah Imah はもともと一体の空間で、調理場と寝所を兼ねていた。Baduy の村むらは標高300~600メートルの山地にあり、炉の火は暖をとる意味もある。機能におうじてわざわざ部屋をわけるのはすでに現代人の発想だろう。Parako の一画に Goah がある。
Goah は Sunda の家屋を特徴付けるもっとも象徴的な空間である。米の貯蔵場所から転じて、穀霊である女神 Dewi Sri を祀り、祖先伝来の器物や古文書などを保管した。Dewi Sri に供物を捧げるのは主婦の役目とされ、男たちがこの空間に立ち入ることは禁じられている。Jawa 家屋の Sentong Tengah / Krobongan にちかい役割をもったいわば家屋の核である。そして、この核が女性の領域である点に Sunda 家屋の本質が垣間見える。家屋を新築すればそれは妻の財産とされ、相続も末娘になされる。娘がいなければ息子の嫁がこれにかわり、いずれにせよ家屋は女性の手に委ねられるのである。
穀倉 Leuit には Leuit Lenggang と Leuit Karumbung の二形式がある。
Leuit Lenggang は鼠返し gelebeg をもつ束柱式の穀倉。米の保管には安全だが建設費がかかる。ふつうはアダット長 jaro が所有した。
その建築は高床の下部構造と米を収納する上部構造からなる。下部構造の基本は、礎石 umapak の上に土台 galang を井桁に組み、4本の柱 tihan を立てたもの。柱の頭に鼠返しをはめこみ、梁 sunduk を桁梁方向にわたして軸組としている。台形に開いた米の収納部分は地上で組み立て、この軸組の上にかかえ上げて固定する。この収納部の床組の外枠を parako (炉とおなじ) という。外枠を組み、ひしぎ竹 palupuh を床に敷きならべ、ひしぎ竹や竹網代 bilik をはって外壁とする。
穀倉は家屋同様に南北方向に切妻屋根の棟が向くように建てられる。稻米の取り出し口 lawang が東側の妻壁に開いている。
Leuit Karumbung は屋根を支える通し柱の途中に貫を通して穀倉部分をはめ込んだもの。高床は低く、家屋とおなじ程度の高さしかないが、Leuit Lenggang の倍ちかい収容量がある。
一般に穀倉の耐用年数はおよそ30年、サゴヤシ kirai の屋根は3年~4年ごとに葺き替える。
Sunda には『パリリンボン paririmbon』という伝統的な占書がある。これは、暦(5曜と7曜、古くは6曜の組み合わせ)にもとづいて日時や方角の吉凶を計算するもので、家屋の建設や儀礼をおこなう日時は、パリリンボンによったり、しかるべき人物(家屋の所有者など)の誕生日に一致させる。また、家屋に入居する日時に、移動する方向が凶兆であれば、方違えのため、いったん別の方向に向かって進み迂回せねばならない。暦の目的は、時間を直線的に配列するためではなくて、時間に性格を与え、理解可能ないくつかの群に分類することにある。
Sunda 家屋をめぐる時間は、建設中の儀礼を通して、いくつかのステージに分割することで経験されている。
まず、家屋の建設前に、敷地の木を伐採し、土地をならすために地霊をなだめる地鎮祭 Ngalelemah を敷地の一画でおこなう。それから約一ヶ月後に、大工の道具に供物を捧げ、聖水をふりかける Ngadek Kai という儀礼を行ない、いよいよ建設にとりかかる。
家屋の棟木 suhunan が上がると上棟祭 Ngadegkeun Suhunan をおこなう。近隣に住む男女や子供たちを招き、儀礼ののち全員で共食する。集まった子供たちが我勝ちに菓子を奪い合うので、儀式は非常に賑やかであり、残った食物は、隣人たちや大工がすべて持ち帰る。この儀礼のために、4種類の植物 ― 実のたわわになったバナナの幹(繁栄の象徴)、敷地の境界に植える jawer kotok (禁欲)、薬用になる jaringao (厄除)、サトウヤシの幹を覆う ijuk のうちでも真っすぐな harupat (誠実) ― を新築中の家屋の正面側に植え、Goah の片隅に水を満たした水甕を置き、供物とともに櫛と鏡を捧げ、香を焚く。
家屋が完成すると、夜を徹した影絵芝居の上演を伴う盛大な竣工祝い Ngaruat Bumi をおこなう場合もあるが、これは一部の特権階級だけで、一般には、入居式 Ngalebetan Bumi だけで済ます。この儀式には、隣人や友人はもちろん、遠くの親類も招待し、参会者は儀式の場で輪をなして座り、中央には円錐形に盛り上げた御飯 nasi tumpeng と供物を置いて、儀礼後に全員で食べる。
こうした建築形式がいつ頃完成したのか、残された史料から確認しておこう。
マラッカのポルトガル商館で官吏を務めていたトメ・ピレスは、香料貿易の商船に同行して1513年にジャワ島を訪れている。当時、スンダ地方にはまだイスラム勢力が及ばず、ヒンドゥー教国のパジャジャラン王国が栄えていた。ピレスはパジャジャランの王都に建つ宮殿の様子を次のように伝えている。
王都にはヤシの葉と木材で建てられた立派な家々がならんでいる。国王の宮殿は、酒樽ほども太さのある柱が330本もあり、その高さは5尋、柱頭はみごとな軸組構造をなして、立派な家屋を載せているという話である。この王都は主要な港カラパから二日の距離にある。("The Suma oriental of Tomé Pires" 邦訳『東方諸国記』岩波書店, 1966)
以上によってみると、16世紀初頭の家屋は現在のジャワで見られるような地床形式ではなく、スンダ本来の高床式であったようだ。王宮は330本の巨木を列ねたと聞き書きしてあり、99本の柱があったと人口に膾炙されるスンバワ島の王宮を思い起こさせる。
ところで、西ジャワ地方をさすスンダという名称がいったいいつ頃から歴史上に現われるかというと、宋代の『諸蕃志』(1225)に、
新施国に港あり、水深六丈、舟車が出入りする。両岸にはみな民が居み、務めて耕種する。屋宇を架造するに悉く木植を用い、棕櫚の皮を以て覆い、木板を以て藉き、藤蔓を以て障てる。男女は体を裹むに、布を以て腰に纏い、髪を剪って僅か半寸に留める。(中略)但し、地に正官無く、好んで剽掠を行なうため、蕃商はまれに至りて興販した。(『諸蕃志』卷上「志國」新拖國)
という記載があって、この「新拖」がスンダをさすものと考えられている。棕櫚の皮で屋根を覆うというのは、おそらくサトウヤシの幹を包む黒い剛毛 ijuk を屋根葺に用いていたからであろう。
おなじ頃、スンダの東には闍婆の属国、蘇吉丹(スキタン)があり (『諸蕃志』卷上「志國」蘇吉丹)、その建築は新拖と同じだが、稲の収穫が多く、富裕の者は多数の倉を構えていた。無政府状態の新拖に対して、闍婆の領国はみな交易の拠点になっていた。さらに本国闍婆の屋宇は壮麗、金碧によって飾られていたとある (『諸蕃志』卷上「志國」闍婆國)。
9世紀頃に完成されたと考えられている中部ジャワの石造寺院チャンディ・プランバナンの壁面を飾るレリーフには当時の家屋の様子を伝えるものがある。そのひとつ、ヴィシュヌ寺院に描かれたレリーフの建築的な特徴をまとめるとつぎのようになるだろうか。
①屋根は切妻で、一方だけに庇をのばしている。
②高床で、庇部分の床はやや低い。
③柱は礎石にのる。
④貫を使用している。
⑤柱と床桁の間に方杖がわたされている。
⑥側柱の上に桁梁を組んだ構造で、梁上の棟束によって棟木を支えている。
⑦屋根の妻部分が外側に転んでいる。
以上の7点であるが、⑤を除いてすべて伝統的なスンダ家屋に見られるものである。
イスラム化の及ばなかった東インドネシアでは、家屋の建設に礎石立ての柱や貫が用いられることはきわめて稀で、たいていはいまだに掘立柱が利用されている。Baduy族はイスラム化以前のスンダの伝統的な文化を残すといわれる。『諸蕃志』によれば、スンダ地方はジャワ島中部より文明化が遅れていたようだ。それにもかかわらず、Baduy族のような閉鎖社会でも、礎石立ての柱や貫といった高度な建築技術をもちいている。与えられた史料の示すところでは、こうした建築様式が、9世紀の中部ジャワにあったヒンドゥー国家においてすでに完成していたということ。そして、15~16世紀に西ジャワで栄えたパジャジャラン王国を経て現在の Baduy族にも伝えられているということである。
Urang Kanekes, Orang Kanekes atau Orang Baduy/Baduy adalah suatu kelompok masyarakat adat sub-etnis Sunda di wilayah Kabupaten Lebak, Banten. Populasi mereka sekitar 5.000 hingga 8.000 orang, dan mereka merupakan salah satu suku yang menerapkan isolasi dari dunia luar.
Wikipedia Id.
The religion of the Baduy is known as Agama Sunda Wiwitan, a combination of traditional beliefs and Hinduism. However, due to lack of interaction with the outside world, their religion is more related to Kejawen Animism, though they still retain many elements of Hindu-Buddhist religion influences, like the terms they use to define things and objects, and the rituals in their religious activities.
Wikipedia En.
Local non-Baduy people sometimes call them Kanekes, taken from the name of the local government-administered village in which they reside. They are also called the Rawayan, a name referring to the numerous bamboo bridges over a local river. Another name used by local mainstream people is Kompol; this term is especially given to members of the outer Baduy community.