マルク州のなかでもケイ諸島以南の地域を南東マルク Maluku Tenggara といった。この南東マルクのなかで、タニンバル諸島とティモール島のあいだにはさまれた海域は地元の人びとにテンガラ・ジャウーと呼ばれていた(Maluku Tenggara Jauh 遠南東マルク)。マルク州のなかでもっとも遠い僻地といった意味あいだ。その後、2000年に南東マルク県から独立して西部南東マルク県 Kab. Maluku Tenggara Baratとなった。県庁はタニンバル島のSaumlaki。さらに2008年には、ババル島以西ウェタル島までの島嶼は南西マルク県 Kab.Maluku Barat Daya として分離する。マルク州の中心アンボンから見れば、もともと「南東」はおかしな表現だったからこれで言葉通りの地域名になった。県庁は(あの)モア島のTiakur。
1986年の私の調査当時、テンガラ・ジャウーの島々には飛行機の便がなかった(いまはキサール島に行く便があるのか??)。そのかわり、島の公務員に配給する米やその他の物資を運搬するために、月に2度のペースで島々のあいだを鉄の船がまわっていた。この輸送船がついでに(本当に!)乗客もはこぶ。ところが、島を巡回する航路は毎回逆転するので、ある島からつぎの島へ移動しようとすると1ヶ月待つことになる。それで、比較的近くの島までなら帆船を利用することもある。この帆船も島の産物を運ぶのが目的であって乗客なぞ眼中にない。もっとも島民のほうもしたたかだから、情報が伝わると港で待ち構え、積み荷に便乗させてもらうわけだ。私はといえば、小ケイ島で輸送船に乗ってから丸4日間、お世辞にも快適とはいえない船旅を経てレティ島にたどりついた。
テンガラ・ジャウーの社会についてほとんど知られていないのも(調査報告は皆無にちかい)、こうしたアクセスの困難さに起因するのではないかとおもう。そのいっぽうで、小さな離島にありがちなことだが、外来文化の影響を受けやすく、文化の保持力はひくい。レティもまた例外でなく、家屋内でおこなわれていたはずの祖霊祭祀は、キリスト教の布教のために私の調査時点でもはやうしなわれていた。また、山間にあった本来の集落立地を海岸近くに移動させる政策のせいで、伝統的な建物の多くは姿を消していた。
ティモール島の東方に位置するレティは3つの島からなる諸島で、西から順に、丘陵地帯のひろがるレティ Leti 島、島の中央に低い山をもつ牧歌的な雰囲気のモア Moa 島、そして平板な珊瑚島のラコール Lakor 島とひとつながりにつづいている。3島あわせた面積はおよそ750㎢、レティ島自体は243.3㎢(隠岐島の島後と同程度)、人口約8900人、言語的にみると全諸島にわたってLuang語が話されている。 field note
ルアンはレティ諸島のさらに東にある島の名で、テンガラ・ジャウーの島々にはルアン島を起源地とする住人が多くいる。衛星写真 をみるとわかるが、ルアン島はセルマタ Sermata 島の西に浮かぶ小島で、海中に没した大きな島影を確認することができる。島が水没する記録はケイ諸島にもあるから、あるいは同じような歴史があったのかもしれない。
建築様式の点から言うと、レティ島とモア島には同一の家屋形式がひろまっていた。これにもっともちかいの家屋をあげるとすれば、西隣りのキサール島が類似する。ババル Babar 島より東の島々とは異質な、インドネシアの他のどの地域にもない独特の家屋形式と言えようか(ルアン、セルマタ、ウェタル Wetar、ロマ Roma、ダマル Damarの各島にかんする情報がない)。ただし、その建築のベースにある思想は、オーストロネシア語族のなかでもヘスペロネシア(西方語派)と呼ばれる東南アジア島嶼部の建築に通底するものである。じつは、レティ諸島やキサール島にみられる家屋の祖型ともいえる形式が観光地として名高いバリ島
の建築には脈々と受け継がれている。
レティ島の家屋は東西に棟を向けた切妻建築である。東 tipru がつねに前 üoone、西 varta が後ろ tukra とされる。隣のキサール島やティモール島のブナッ、さらに西のサヴ島、ロティ島の家屋には東へ向かう船のアナロジーがある。あるいはレティ島の家屋もおなじ系譜につらなるのかもしれない。
オーストロネシア語族の常で南北方向は海 liora と陸(山) rai の対比で示される。島の北岸にある Tutukey や Nuwewan では北を liora と呼ぶ。家屋の正面入口 puorsa は東の海側(北側?)にある。入口の横には高床のベランダとそれを覆う庇が取り付くために、東面は切妻というよりは入母屋風の外観のことも多い。
屋内にはいると海側の壁に沿って通路がとられ、西にもうけた裏口をむすんでいる。炉 liina などの家財道具は山側に置かれている。居住空間は土間のままだが、東西の壁際にはベッド状の床 Levu がつくられている。東側のやや大きなベッドは主人夫婦の寝所、屋外にベランダがあるときはこれを老人が使用し、西側のベッドはそれ以外の家族が使った。屋内の Levu には一段高くなった区画 Levu Tulu (字義通り「高いLevu」)があり、小さな子の寝床とした。
土間の中央には高床(屋根裏部屋)を支える柱 riri のセットが立ちならぶ。井桁状に梁を重ねる高床構造はきわめて様式化されたもので、この建築が高倉に由来することを物語っている。4本の主柱のほかに、古い家では2本の棟持柱 rii nyutu が地上から高床を通り抜けて棟木 punna までのびている。Darwuru家とRehiara家では、神聖な2本の小梁 ssier lavna が追加され、この小梁を支えるために土間にはさらに多くの柱が林立する。日常生活の邪魔でしかないこれらの柱は、儀礼的、様式的な意味がうしなわれるにつれて構造的に整備され、最後は4本の主柱だけが高床構造の痕跡をとどめるようになる。
壁沿いの通路をすすむと、西側の主柱手前に屋根裏部屋 Rumo にのぼる梯子 retna がかかっている。屋根裏は祖霊を祀る神聖な場所で特別な人間しかのぼることを許されなかった。かつては家長だけが屋根裏で寝たともいう。屋根裏には儀礼のための炉 raaru がつくられ、東(西)に張り出した棚 levu-levu aana には祖先像 iena を祀っていた。屋根裏を神聖視する習慣は、屋根裏に祖先神マラプを祀るスンバ島など東インドネシアの一般的な状況とかさなる。
レティ島の家屋構造の独特な点は、棟木 punna を支える2本の棟持柱 rii nyutu のほかに合掌材 slokre が7箇所で棟木を受けていることである。合掌材は高床構造をこえて外周柱にのる軒桁 tulu vota の上までのびて固定される。ところが、これらの合掌材を一木でつくると家屋が強くなりすぎ、住み手に病人が出るのだという。Darwuru家では、屋内に位置する3箇所の合掌はわざわざ2材を途中で継いでいた。このとき、かならず木の末口が上を向かねばならないとされる。
結果として、高床の構造体と屋根の小屋組は切り離されている。つまり、レティ島の家屋には、合掌材をもつ高床式の建築と棟持柱や外周柱で構成される土間式の覆屋のふたつの構造体が同居していることになる。これはなにを意味するのだろうか?
この地域の高床住居誕生のプロセスを暗示するおもしろい事例である。
pisku:古い形式を残すDarwuru家とRehiara家では、西側の柱のたもとに大きなシャコ貝 pisku が置かれている。建設時に金や皿などの家宝を埋め、その上にのせたとされる。ブタやイヌに餌をやる場所とも。赤子を連れて訪問した客は、帰る前にこの貝に向かって puhe(舌打ち、唾を吐く)をしないと赤子は夜泣きをするという。また、なにか願い事があるときは、貝に向かって puhe を3回、屋根の葺き材(ココヤシの葉)を折り取って帰宅途中に捨てると願いがかなったともいう。
raaru:piskuの真上あたりに儀礼用の炉 raaru がある。たとえば分娩が困難なとき、家の長老はこの炉に火をおこし、米、ニワトリを調理して、料理とシリー・ピナンをバナナの葉にのせて祖先に捧げ、ヤシ酒 arka を注いだ。
levu-levu aana:屋根裏の一段高くなった床を levu-levu aana(子どもの/小さなベンチ)という。祖先像 yene / iena は東側のこの棚に安置し、雨乞いなどの儀礼をおこなった。
riri huhu:家屋の建設は南東隅にある柱からはじめる。この柱を riri huhu(最初の柱)という。
ssier lavna:高床構造を中央でささえる2本の小梁を ssier lavna(「大きな梁」の意)という。全建物中でもっとも神聖な部材とされ、ココヤシのなかでも特別な nur mame (直訳すればサトウキビヤシ。果皮そのものが甘く食用できる)の幹を二つに割ってつくり、歌をうたいながら村まではこぶ。この部材は地面に置いてはならないとされ、ただちに柱の上に据える。このとき木の元口を東、末口を西に向ける。ssier lavna とその支柱が調査時に完全な形で残っていたのはDarwuru家のみ。Rehiara家では ssier lavna ではなく棟木 punna を地面に置いてはならないという話。上棟式では前日の夜から豚や水牛を屠り踊り続けたという。
tulu votaとkenyait vutu:外周壁の上にのる軒桁のこと。桁行方向の tulu vota は女、梁行方向にある kenyait vutu は男と考えられている。それゆえ、つねに桁行の上に梁行がのらねばならないとされる。
※図は東を上に描く。モア島のKlis以外は島の北岸にある
Watpipi (Tutukey) |
Darwuru (Tutukey) |
Waewawan (Tutukey) |
Letwatu (Tutukey) |
Tunmati (Tutukey) |
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1910年代 | もっとも古い形式 | 1940年代 | 1927年 | |
柱+棟束 | 棟持柱(通し柱) | 柱+棟束 | 棟持柱(通し柱) | 棟持柱(通し柱) |
2本の床梁は構造と一体化。 | 神聖な2本の床梁とそれを支える4本の支柱。 土間にpisku。 |
室内間仕切り。 南北に出入口。 西向き正面。 |
南北に出入口。 高床構造は天井へ。 |
Rehiara (Nuwewan) |
Hurliyali nameless (Nuwewan) |
Rumlawne (Nuwewan) |
Prilulu (Klis, Moa) |
Reiwutu (Poliwu, Moa) |
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???? | 1920年代 | ???? | 1947年 | ???? |
棟持柱(通し柱) | 棟束のみ | 棟束のみ | 棟持柱(通し柱) | 柱+扠首? |
神聖な2本の床梁をもつが、支柱がない。 土間にpisku。 |
北に出入口。 nameless家は家屋正面のベランダを欠く。 |
1920年代の2棟(左)、モア島の家屋(右)と基本構成は一緒。 建築構造は整備。 |
モア島南岸の村。北(内陸側)に出入口。 | 北に出入口。 家屋の基本構成はPrilulu家(左)とおなじ。 |
レティ島、モア島にのこる古い家屋の構造をくらべてみると、建築構造が合理的に整備されていく様子がわかって興味ぶかい。それは同時に、伝統的な慣習に則った手続きをうしなってゆく過程でもあるのだが。
Ⅰ 高床構造の基本は、横板を井桁に組んでできた壁体を前後2本の大梁で支えるもの。
もっとも原型をのこすと考えられるDarwuru家やRehiara家、モア島のPrilulu家などでは、この高床構造は床のレベルの異なる3層構成にさらに前後に張り出した床(棚)をもつ構成になっている。3層構成の高床構造はサダン・トラジャ族の家屋などでもお馴染みの形式だが、レティ島の家屋では前後の部屋(屋根裏)が退化して張り出しを残すだけになっている。この張り出し部分をもつことが、レティ島の家屋を船型屋根にむすびつける建築構造上の大きな特色といってよい。スマトラ島のアチェの家屋に見られる屋根の張り出しにも通ずる、妻転び屋根の変化形である。
Darwuru家では、床の中央部分をさらに2本の梁ssire ewteで支え、この梁を受けるために桁行き方向に2本の特別な梁ssire lavnaをわたして柱で支えている。また、棟木を支える柱は高床を貫いて地上まで達し棟持柱nyutuとなっている。棟木、大梁、梁などの水平材はそれぞれ個別の柱を地上に立てて支えていることになる。柱を複数の用途に使用しないような観念(技術者の常識)がおそらくあったのではないかとおもう。
Ⅱ 地上の柱を減らすことが建築の合理化にひとつのベクトルを与えていたようだ。
Rehiara家には、特別な梁ssire lavnaを支えるための柱がなく、そのせいで、その上の(本来は支えるべき)梁に結びつけて固定されている。これでは構造材としての意味をなさないから、本来あった柱を後から撤去してしまったのであろう。そうなってしまえば、象徴的意味しかない中間部の柱梁が省略されてゆくのは自然のながれだ。
かくて、3層構成の高床構造は、1層の高床に前後の張り出し床(棚)をもつ形式に変化する。Letwatu家やTunmati家などがこの段階にあたる。
Ⅲ さらにWatpipi家やWaewawan家、モア島のReiwutu家では、地上から立ちあがっていた棟持柱が地上部分と高床上(梁上)に乗る棟束のふたつに分離されている。一見何でもないようなこの変化は、建設過程の上ではまったく異なる別の構造原理に生まれ変わったことを意味している。
棟持柱のある建物では、高床構造よりも前に棟持柱を建て、屋根の一部を建設しておかねばならない。屋根構造と高床構造は本来分離していたのである。これはレティ島の家屋の成立事情を物語るものだろう。レティ島の家屋は、おそらく土間式の建物だったのに、後から高床構造を取り込むかたちで成立した。屋根の扠首slok'reを途中で継ぐ理由も、そう考えるとよくわかる。棟持柱がなくなることで、本来ふたつの出自をもっていたレティ島の建築は、純粋に高床構造の建物として統合されたことになる。
Ⅳ 地上の柱をなくすことは、残存していた棟持柱の一部にもおよぶ。こうしてRumlawne家では高床を支える4本柱のきれいなラーメン構造ができあがる。
Ⅴ 高床部分が儀礼上の意味をうしなうことで建築構造はさらに変化をとげる。Hurliyali家やnameless家では様式的な高床部分がなくなり、床板を全面にはることで高床空間を天井裏化してしまう。ふたたび土間式の建物へと脱皮を遂げたわけである。
Pulau Leti adalah sebuah kecamatan, yaitu Kecamatan Leti, yang terdiri dari 7 Desa dan 6 Dusun dengan jumlah Penduduk sebanyak 8.767 jiwa yang terdiri dari laki - laki sebanyak 3.861 dan perempuan 3.906 jiwa, dengan luas 243,30 km2.
Wikipedia
7,500 (1995 SIL). Marginal intelligibility with Luang. They have difficulty with written Luang. 89% lexical similarity with Luang. They share a historical and cultural heritage with Luang, but maintain their own identity and local pride. Matrilineal. Literacy rate in first language: Below 1%. Literacy rate in second language: 25% to 50%. Christian.
Ethnologue
The hillocks are cover generally partially with alang-alang (reed) and partially forest. The lower hillocks in the east have been overgrown with eucalyptus trees and sometimes with lontar palms. Most of the grazing lands lie on the south side of the island.
MauTeri
'Front' (uo:-ne) and 'back' (tukra) are linked to 'East' (Tipru) and 'West' (Varta), respectively. The front of the traditional Leti house (the main entrance) faces the East. Most islands in SW Maluku have a front-side facing the East. These landmarks are confined to islands belonging to the same Alliance (all islands except for Wetar, Damar and the islands East of Babar). Outside this region, the East-West axis = front-back axis is no longer used. In a noncoastal environment Letinese use the left-right axis, rather than seaward-land-ward
Deixis Workshop
'House founder'
Although they belonged to the 'later ancestors' on all the islands there were descendants of founding ancestors who acted at a lower level as 'founders' and for this reason after their death they were portrayed in a special manner. Examples of this are sculptures from Leti which represent the founders of families who once shared a house. The ancestor figures - often beautifully worked - were placed on pillars.
RMV
Pada awalnya di huni oleh 3 moyang tanah yaitu Palpaleti, Lirapau dan Pokamnenu. Mereka membagi Letti atas 3 bagian yaitu Nuwewang , Tomra ,dan Luhuleli. Dalam membaginya Lirapau menguasai negeri Nuwewang , moyang marna itu dari Malay yaitu sebutan dari tanah Malaka ( Malaya ) dengan mengendarai seekor ular naga besar, ketika itu juga seorang marna sudah datang yang bernama Tuwlahiera – Kolpitaman.
Nuwewang Tanah Airku