すこし大きな話から。現在のインドネシアの西半分、スマトラ島、ジャワ島、バリ島などは大陸からのびるスンダ大陸棚にのっている。氷河期にはユーラシア大陸と地続きだったといわれる土地である。ところが、バリ島より東、ロンボック海峡をこすと、そこはオーストラリアにつらなるサフル大陸棚の領域にはいる。動物相にも変化がみられることから、ロンボック海峡にはウォーレス線が通ることでも知られる。もっとも、人間たちはウォーレス線などおかまいなしに移動してきた。
ロンボック島の面積は約4700㎢、お隣のバリ島よりもやや小さく、中北部には聖山と崇められるリンジャニ Rinjani 山(標高3726m)がそびえる。島の地形はこの山のある北部山岳地帯と南部の丘陵地帯、そして中央の平野部に三分され、島民のおおくは、この平野部に集中している。
ロンボック島の住民の大半をしめるのは、約260万人におよぶササック Sasak 人で、その多くがイスラム教の信者とされている。しかしこのなかには、イスラムの戒律に忠実な Waktu Lima (文字どおりには五つの時の意味で、イスラムの五行、一日五回の礼拝を守ることからこの名がある)に対して、アニミズム的な信仰を強くのこした Wetu Teru (三つの時)も少なからずふくまれている。イスラム教が伝わる以前の土着の宗教は Boda と呼ばれ、精霊信仰と祖先祭祀をともなうその信仰は、Sasak 文化の基層にあって、伝統家屋を生みだし、それを維持させてきた原動力でもあった。
ロンボック島にイスラム教が伝えられたのは16世紀初頭とされる。『ロンボック年代記』 Babad Lombok によると、東ジャワのグレシクの王スナン・ギリ Sunan Giri (1442- ジャワ島におけるイスラムの布教に貢献した聖者として有名)がジャワ以外の島じまに伝導者を派遣したとき、ギリの王子のスナン・プラペン Sunan Prapen がスンバワ島、バリ島とともにロンボック島にイスラム教を伝えたという。
ロンボック島には、イスラム教の伝来からそう遠くない16世紀から17世紀ころに創建されたとみられるモスクが存在している。このようなモスクがあるのは、北部ロンボックのバヤン Bayan 、中部ロンボックのプジュット Pujut とランビタン Rembitan の三ヶ所で、いずれも二段になった宝形屋根をのせ、堂内に立てた4本の主柱 sangka guri でこの屋根をささえている。屋根は Bayan の竹葺き、Pujut と Rembitan のチガヤ葺きといった相違はあるが、家屋と同じ材料がつかわれている。これらの土着のモスクが現代のモスクとあきらかにちがうのは、礼拝のために堂内に設けられる壁龕のミフラブが正確にメッカの方角をさしていないことである。
インドネシアにイスラム教が伝えられた当初、伝導者のなかにはイスラム建築の技術者が含まれていなかったために、土着の建築様式と融合したモスクが各地に建設されることになった。しかし、ロンボック島ではササックの様式をもちいることはなく、すでにジャワ化されたモスクを受け入れたのだろう。屋根の頂が一点にあつまる宝形屋根のことをジャワではタジュグ tajug と呼び、モスクや墓廟 Makam などの宗教施設に利用されている。ジャワ島のデマックやクドゥスに残る16世紀の大モスクをみれば、その屋根が三段になった宝形屋根を載せていることがわかる。そればかりか、中央に霊的な4本の柱を立てるのも、ジャワ建築の伝統にしたがう手法であった。
ロンボック島に残るこうした様式のモスクは、Sasak人のなかでも Wetu Teru の人びとが利用していた。偶像を禁ずるイスラム教の戒律にもかかわらず、モスクの梁に鳥の彫刻を飾ったり、Bayan のモスクではナーガ(竜)の像が安置されている。またそのために Waktu Lima がひろまるにつれて取り壊されてしまったモスクもある。
ジャワ島との関係は、イスラム教の招来をさかのぼる14、15世紀、ジャワで栄えたマジャパヒト Majapahit 王国の時代からつづいていたらしく、マジャパヒト時代の著名な叙事詩である『ナーガラ・クルターガマ』 Nagara Krtagama のなかには、ロンボック島がその支配下にあったことが記録されている。『ナーガラ・クルターガマ』はマジャパヒト王国の宮廷詩人プラパンチャ Prapanca の作とされ、王国内のさまざまな事象を記録した叙事詩として、のちにジャワを支配した諸王国の年代記の先駆けをなすものである。これらの叙事詩はロンタルヤシの葉に線刻され、『ナーガラ・クルターガマ』を記したロンタル文書も、1894年にロンボック島の寺院から発見されたものである。
ロンボック島の平野部には、Sasak人以外にもバリ島をはじめ、東のスンバワ島や北のスラウェシ島マカッサルからの植民がおこなわれていた。なかでもバリ島との関係は、バリ東部のカランガセム Karangasem王国の支配下にはいった18世紀中葉から、ことにロンボック島の西部を中心として Sasak人と Bali人のあいだには、水利や土地の問題についての協力関係がみられるようになっていた。ロンボック島西部の古都チャクラヌガラ Cakranegara には、ヒンドゥー的観念にもとづくグリッド状の都市が計画され、そこで Bali人はバリ本土とまったく同一の住宅や寺院を構えて生活していた。
このように、ロンボック島の文化をかんがえるうえで、バリとジャワ、ヒンドゥーとイスラムとは無視することのできない二大源泉であった。Sasak はこのふたつの文化の影響を全身でうけとめながら、固有の建築的伝統を培ってきたのである。
リンジャニ山の山麓、標高1200メートルの土地に Sembalun は開けている。冷涼な気候と、ゆたかな水、緑をたたえる Sembalun の景観は、東部ロンボック特有の埃っぽいサバンナを延々と通過してきたあとでは、まるで桃源郷に達したかの錯覚をおぼえる。しかし、外界から隔絶していたこの土地にも、トラックが出入りするようになり、調査の数年前(1980年代初頭)には電気もひかれた。土地の買い占めが起こっているという噂もささやかれるようになった。観光化の波はバリ島をこえて、この島のあちこちにも確実に押しよせている。
Sembalun の起源について、ある伝承は、かつてこの土地がパマタン Pamatan という名の王国であったことを伝えている。この王国はリンジャニ山の噴火によって壊滅し、難を逃れた住民はロンボック島各地に散って、それぞれの土地で王国を建設した。その後、7家族の住民が Sembalun に舞い戻り、ジャワのマジャパヒト王国の王族の手をかりて、そこにふたたび村を建設した。これが現在のスンバルン・ラワン Sembalun Lawan 村であり、このマジャパヒトの王族は村はずれに埋葬された。15世紀のことだったという。
Sasak の集落にはつぎの三種類の建築がある。
ひとつは Bale という東南アジアではめずらしい地床式の家屋である。おなじ Bale でも北部の Bayan地方だけは異なる内部構造をしている。第二は高床式の穀倉。これには3つの形式があり、平野部に多いのはロンボック島のシンボルともなっている釣り鐘型の Alang、山岳部では通常の寄棟型をした Geleng (平野部では Ayung とも呼ばれる) があり、Bayan地方には通し柱を利用した小型の穀倉 Sambi もある。第三は高床開放空間の多目的な建物 Berugak で、Bayan地方だけは各家に付属するが、一般には集落内の共同建築としてせいぜい数棟が建てられている。
それらの建築物の配置も、Bayan地方をのぞいて、全島でほぼ一定している。
一般に Sasak の集落は、家屋と穀倉が向かい合って整然とならんでいる。土間で生活する Sasak人の家屋は傾斜地を利用して建てられることが多く、敷地に余裕がなければ穀倉は別の場所に建て、斜面に沿って家屋の列だけが平行にならぶ。家屋は斜面の低い側が正面で、入口前には吹き放ちのベランダ空間がもうけられている。斜面を利用して1メートルくらい段差のある屋内へは階段をのぼってあがりこむことになる。比較的平坦な土地に建てる場合でも、わざわざ土壇を築いて入口の段差をつくりだしているので、家屋はそのようなものと理解されていることがわかる。では、平坦地の家屋はいったいどの方向を向いて建てられるのだろう?
それを知るためには、Sasak の方位観について理解せねばならない。
オーストロネシア語族のつねで、Sasak にも南北の呼称がない。そのかわりに、海 LauK と内陸 Daya の方向にもとづいた相対方位を利用している。だから、ロンボック島南部の平原、丘陵地帯では、おおよそ Daya は北、LauK は南を意味するのに対して、北岸にちかい Bayan 地方や Sembalun ではこれが反転する。こうした考え方は、Ke-aja(内陸へ)、Ke-lod(海へ)が方位名称になっているバリ島でもおなじみである。
つまり、土地の制約さえなければ、Sasak の家屋はより傾斜の低い側、LauK に正面が向くように建てられる(はずだ)。実際に、ロンボック島東部の Sembalun では、家屋は棟を東西に、入口を LauK 即ち、北に向けている。
ところが、この規則は全島でまもられているわけではない。なぜなら、ひとつには、山や丘陵の斜面はかならずしも南北の軸線にのっていないという現実がある。さらに話をややこしくしているのは、イスラム教の観念にしたがって Sasak人のあいだに南北の絶対的な方位軸が生まれていることである。
たとえば、人が死ぬと遺骸の頭を「北」に向けて寝かせ、顔が西を向くようにするといった習慣を実施するときの「北」は、地形にしたがう相対方位ではなく絶対方位としての北である。そのため、ロンボック島中部では海/陸の方向によらずに Daya を北、LauK を南と読み替える事態が進行している。
家屋が伝統的な方位軸に沿って建てられていたとしても、現代Sasak人の観念にしたがうと、すでに軸線をまもらない建物と認識されるわけだ。
家屋のことを Bale 、あるいは Bale Tani (農民の家) 、Bale Jama (ふつうの家) などという。Bale の形式は、北部山地の Bayan 地方をのぞいてだいたい一定している。山の斜面か、平地の場合には土壇をたかく盛りあげて、そのうえに建設する。屋根に小屋組がなく、棟木がさほど高くあげられていないので、こうでもしなければ、建物の前面で屋根の軒先が地面に届いてしまう。
家屋前面にはベランダ空間スサンコ Sesangkok、あるいは単に Sangkok (Sembalun では Sesando) がある。屋内 Dalam Bale (文字通りBaleの内部) が私的な領域であるのに対して、Sesangkok には壁がなく外部に開かれている。Dalam Bale が女の空間であるのに対して、Sesangkok は男の空間といわれるときもある。未婚の男は屋内にいることを避けて大抵 Sesangkok で寝起きするからである。反対に、未婚の娘は Sesangkok に寝てはならない。マレー風の高床家屋にあるスランビ Serambi とよく似た位置づけにある。
Sesangkok には Dalam Bale にのぼるための土の階段 undak-undak (奇数段がよいとされている)があり、それを境に「右のスサンコ」 Sesangkok Kanan と「左のスサンコ」 Sesangkok Kiri にわかれている。階段の位置は中央より左寄りに設けるのがよいとされていて、「右のスサンコ」「左のスサンコ」を「大きなスサンコ」「小さなスサンコ」ということもある。男であれ女であれ、日常的な作業は暗い屋内を避けて Sesangkok でおこなうことがおおく、一般に「右のスサンコ」は男たちがつどい、就寝をする部分であり、機織りなどの作業に女たちは「左のスサンコ」をもちいている。また「右のスサンコ」は接客空間とされるのに対して、「左のスサンコ」で接待をうけることは、歓迎されざる客のしるしとみなされていた。
ところで、「右」「左」が実際に家屋のどちら側をさすかということは、Sasak の人びとにとっては決まりきったことで、いつも建物の奥を背に、正面を向いたときの位置をもとにしている。
南部の Rembitan 地方では、Sesangkok を「右」「左」で区別するかわりに、「海のスサンコ」 Sesangkok Lauk 「陸のスサンコ」 Sesangkok Daye という表現をつかう。家屋が東を向いているせいもあるだろうが、象徴論風に言えば、右・男・海/左・女・陸のような対応関係が成立しているようだ。
Dalam Bale への入口 lawang は引き戸になっている。この引き戸は、戸口の上下に竹などでレールをつくり、その間に扉を釣り込んで滑らせるようにしたもので、ロンボック島以外では例がない。Dalam Bale には窓がなく、この戸口を閉ざしてしまうと昼間でもまっ暗な空間である。土間のうえにパンダヌスの葉を編んだマット tepah を敷いて、夫婦、老人、子どもと未婚の女がそこで生活する。
調理のためのカマド jangkih が入口をはいって右側の壁ぎわにならび、その傍らには水甕 selo が置かれている。屋根と外壁の境の高さに、壁面にそって棚がしつらえられ、無数の甕や丸めたマット、食器入れの篭、サロン(腰巻き)のはいったロンタルヤシ製の化粧箱 saok lelean などがこの上に保管されている。Sembalun では、カマドの横にベッド baton のあるきわめて様式的な構えが出来あがっている。
ところで、カマドのある側は Sesangkok Kiri (左のスサンコ) の延長上にあって、Dalam Bale の右側ではなくて左側、つねに女の領域に位置していることがわかる。
Dalam Bale の右手には壁で仕切られた小部屋がある。Bale Dalam (内部の家) と呼ばれ、屋内のそれ以外の部分 Bale Luar (外部の家) に対して、いわば家屋のもっとも内奥の領域にあたる。普段はコメを入れた甕が置かれ、儀礼につかう道具などの貴重品をここにしまう。
むかし Sembalun には midan という一種の夜這いの風習があった。結婚前の男が夜ごとに女の家をおとずれて、語りあかすのである。このときに、未婚女子の寝床 baton が設けられているのが Bale Dalam のなかだった。外壁の一角にはちょうど話ができるくらいの小さな穴が開いていて、男は家の外に立ったまま女の話し相手をつとめねばならなかった。女は室内にいるからよいが、いくら熱帯とはいえ標高1200メートルの土地では夜の寒さが身にしみる。それでも、男たちは意にかなう女の心を射止めることができるまで、適齢期の女のいる家をもとめて、毎晩のように midan を繰り返したという。こうして意中の相手とむすばれると、男は女を家族のもとから盗み、彼の兄弟や友人宅に隠す。3~7日ほど、女の両親はいなくなった娘を捜しまわるが、相思相愛の若者たちの意志がつたわると、Tobat(婚礼)となり、女は男の家で住むようになる。ロンボック島の略奪婚 paling として知られる風習だ。もっとも、いまでは midan の風習も玄関からおとずれる紳士的なものに変わり、Bale Dalam に寝床をもつ家はなくなった。
Tobat では新郎新婦が椅子に腰掛けたまま、4人ずつの男によって担がれ、新婦を先にして道を練り歩く。その後、左に新婦、右に新郎が座り、水をかけられる。この時は、ニワトリ、ヤギなどを供犠する。Tobat から数ヶ月~1年ほどして、祝祭が盛大に執り行われる。ウシを殺し、Tobat の時と同様に担がれ、約2時間ほども道を練り歩く。
Bale Dalam はもともとコメや貴重品を収納する空間であったが、こうした風習や Bale Dalam で出産をする地方があったりするのをみると、家の豊穣や繁栄にかかわる活動がこの小空間を介しておこなわれていたようである。
屋内に Bale Dalam のない Bayan 地方では、そのかわりに屋内の中央に高さ1メートル程度の高床を築いて、Inan Bale という名の神聖な空間を設けている。inan は母や中心を意味し、Inan Bale は文字どおり家の核に相当する。この空間には米のはいった壺や貴重な家財をしまうだけでなく、祖先を祀り、家庭内の儀式をおこなう場でもあった。儀礼の際には、司祭 pembekel adat がひとりでこの空間にこもり、シリー・ピナンと葉タバコを供えて祖霊に祈りを捧げたという。
略奪婚に際して娘を隠すのもこの高床空間で、恋人とともに3日間 Inan Bale で夜をすごす決まりだった。3日の後、結婚の意志が娘の家族に伝えられると、aji kerama gubuk に従い男には娘を盗んだ(儀礼的な)罰金が科せられる。
これには4000枚の古銭 kepeng bolong(もしくは現金400RPx4000。価格は要確認)、244枚の古銭 pemugat kerante、100kgの米、ウシ1頭、ニワトリ1羽が代償として支払われる(いずれも2017年Segenterにて)。
そうして家族となった女性がここに米菓の供物をそなえる役割を担うとされてきた。こうした慣習は、稲の女神 Dewi Sri を祀るジャワ家屋の Krobongan / Sentong Tengah を髣髴とさせる。
Inan Bale の構造は4本ないし6本の柱で支えられた高床の穀倉そのものと言ってよい。Inan Bale のある家屋は、ロンボック島でも Bayan 地方にしか残されていないが、ロンボック島以外の地域にも注意すると、東部インドネシアの家屋全般に通底する構造形式であることがわかる。たとえば、小スンダ列島をはるか東にたどったキサール島やレティ島の家屋は、土間の生活空間のうえに類似する高床構造を築いている。キサール島では、母屋のほかにかならず男のための建物として、壁のない高床建築の Lakhoun が付属しているから、Bale と Berugak を対にする Bayan の建築構成とも合致している。
家屋の南東隅の柱を tekan padu (tekan pepadu) といい、建設はこの柱建からはじめる。その際には Nokolan という儀礼をおこなう。司祭 Mangku がクミリの木 (ククイ [Aleurites moluccana]) でつくった皿 taktakan にお金、シリー・ピナン、タバコ、コメをのせ、第一柱の足元に置く。以降、時計回りに柱を建てる。
ササックの古典的な文化要素を豊富に残す Bayan 地方では、各家屋に Berugak が付設し、接客空間や作業空間として利用されている。Berugak は地床式の Bale に対して、4本ないし6本の柱でささえられた壁のない高床の建物である。Sesangkok が象徴的に男の空間とみなされているように、Berugak も Bale に対するときは男の建物と位置づけられている。結婚前の男たちは Berugak で寝起きするのである。Bayan の文化圏をはなれた東部の Sembalun や中部の Rembitan では、Berugak は集落全体で数棟しかないのがふつうで、その役割は集落内の集会や儀礼の場であった。とくに葬式の際には、遺骸はいったん Berugak に寝かされ、水浴と儀礼をすませてから埋葬された。
Bayan では、建物の屋根はすべて棟をリンジャニ山の方向、つまり、Daya (陸) / Lau側 (北) の軸線にのせている。Berugak もこれにあわせて南北に長辺を向けることになる。そこで Bayan の葬式では、儀礼をおこなう者が Berugak の Daya側に位置をしめ、遺骸は Lau側に寝かせて儀式にのぞむ。葬儀が済むと、遺体の頭を Lau の方向に向け直してから墓地に運ばれた。
土間で生活する Sasak のもとで、なぜ Berugak のような高床建築が維持されてきたのかということは、なかなかおもしろい話題である。
ジャワ島に目を転じてみると、Berugak に類似する高床建築は、13世紀から14世紀にかけて東ジャワで建造されたチャンディ寺院の浮彫りにもさかんに描かれている。お隣りバリ島の集会場 Bale Banjar もやはり壁のない高床の建物で、Berugak と似たような出自をもつとかんがえられる。
さらに視野をひろげるなら、Balai、Baileo などの名でよばれる集落の共同家屋がその原型にあるのかもしれない。中央スラウェシの霊屋 Lobo ( Bada)、ボルネオの頭蓋の家 Baruk ( Bidayuh)やニアス島の集会場 Bale ( Nias)、ベトナム中央高地の男性集会場 ron ( Bana)などは、呼称がちがってもほぼおなじような役割を果たす建物である。この地域の集落には、閉じた性格の家屋に対して、外部に開かれた一種の公共建築がある。それは、儀式や集会の場であり、同時に、未婚男子のたまり場になり、来客の宿泊所も兼ねていた。集落内にこうした公共建築がないばあいには、穀倉の床下がそれにかわることも多い( Toba Batak、 Sa'dan Toraja)。もともと穀倉自体が共同建築だった可能性を示唆する( Atoni)。また、先述したように、各家が Berugak のような建物をもつ例( Kisar)もある。
もっとも、Bayan地方をのぞいて、一般的な家庭生活のなかで Berugak の価値はさほど大きなものではなかった。なぜなら、家屋にはすでに Sesangkok という類似の空間が発達していたからである。逆に、各戸に Berugak のあるBayan の家屋では Sesangkok の領域自体が狭くあまり機能的ではないのである。
ロンボック島北部の Bayan地方では 家屋 Bale と高床の Berugak が対になってならぶのに対して、他の地方では一般に高床の穀倉が家屋と向き合うように建てられる。Sembalun では、家屋と穀倉の列が棟をリンジャニ山に向けて平行にならぶ整然とした集落配置をみることができる。対面する家屋と穀倉は本来おなじ所有者が建設してきたとおもわれるが、相続を繰り返した結果だろうか、Sembalun では向かいあう建物同士の所有関係は錯綜している。これについて、万一火災がおきた場合に、財産の一部を守るための手段だと住民たちは説明する。実際に、Sembalun Lawang では1961年に大火があり多くの建物が焼失した。穀倉自体は売買の対象でもあり、裕福な者のなかには、穀倉を複数棟所有する者もいた。
一般に東南アジアでは、穀倉はただコメを収納する空間であるばかりでなく、その床下をさまざまな用途に利用する。Sembalun の場合には、長男が結婚して新居を構えるまでのあいだ、両親や他の兄弟たちは穀倉の床下に仮住まいする習わしがあった。
ところで、先述したようにロンボック島の穀倉には3種類の形式がある。Sembalun にあるのは寄棟の屋根を載せた Geleng という穀倉形式である。ロンボック島の東部や北部の山岳地帯ではしごく一般に見られる穀倉建築であるが、屋根の形だけをみると家屋と穀倉の区別はつかない。Geleng の構造はたいてい4本の主柱で軸組をつくり、その上に大きな葛籠を載せたと考えればよい。柱頭の鼠返しが建物の由来を物語っている。
Bayan地方には Geleng より小型の Sambi という穀倉形式も存在する。丸太の束柱を利用する Geleng に対して、Sambi は角材の通し柱が屋根までのびる。稻米を納める高倉部分はこの通し柱の途中にはめ込まれているのである。Geleng のほうが格上、しかし、Bayan 本来の穀倉形式は Sambi だという。
Bayan 同様に、束柱と通し柱双方の穀倉をもつ民族に西ジャワの Baduy ( Baduy)がいる。束柱と鼠返しをもつ穀倉を Leuit Lenggang、より簡便な通し柱の穀倉を Leuit Karumbung と呼んで使い分けている。
もっとも、Sasak の穀倉といえば釣鐘形の屋根を載せた Alang のほうがよく知られている。釣鐘形はロンボック島の象徴として役所の建築にまで援用されている。平野部の穀倉の典型とされる Alang だが、その独特の屋根形態は曲面にまげた垂木を鳥篭のように編んでいるだけの単純きわまりないものだ。お隣バリ島の穀倉 ( Bali)を形だけ模倣してつくったようにもみえる。alang はスラウェシ島南部やスンバワ島西部でも穀倉をさす言葉であり、言語のうえからは、マカッサルやスンバワの影響があるのかもしれない。
村はいくつかの地縁組織 Gubuk にわかれている。Gubuk は100戸程度の集合体で、相互扶助の基本的組織となる。葬式を執り仕切るのは同一 Gubuk のメンバーである。死人がでると、Gubuk の成員による会議がもたれ、香典や儀式の援助いっさいを Gubuk がおこなう。死んだ者の家族は何もしなくてよい。また、屋根葺替の扶助をするのも Gubuk であって、肉親縁者といえども、他の Gubuk に属す場合は扶助に参加する義務はない。これに対し、同じ Gubuk の構成員はたとえ自分の家がすでに鉄板葺きに変えられ、他の人びとの扶助が不要な場合でも、かならず参加せねばならない。屋根替の前夜、目的の家へあつまり、ここで竹 penggapit でチガヤを縛る作業をおこなう。これにはコーヒー、タバコなどを供するだけでよい。屋根葺替の当日は食事がふるまわれる。他の Gubuk に属する穀倉を所有している場合には、この穀倉の屋根を替えるのは当主の所属する Gubuk の人員で、彼らを引き連れて他の Gubuk の土地で屋根替作業をおこなうわけである。
これに対して、血縁的な組織 Waris には族長がいる。これは婚姻にかかわる。女は結婚によって元の Waris を離れ、男の Waris に移る。離縁した場合をのぞいて、女は一生このあたらしい Waris のメンバーとなる。子供も当然、男の Waris に属する。また同一 Waris 内での結婚はより望ましいとされるが、多くは相異なる Waris で結婚するという。
The Sasak live mainly on the island of Lombok, Indonesia, numbering around 2.6 million (85% of Lombok's population). They are related to the Balinese in language and race, although the Sasak are predominantly Muslim while the Balinese are Hindu.
Wikipedia
Sasak 2,100,000 (1989). Lombok Island. Dialects: Kuto-Kute (North Sasak), Ngeto-Ngete (Northeast Sasak), Meno-Mene (Central Sasak), Ngeno-Ngene (Central East Sasak, Central West Sasak), Mriak-Mriku (Central South Sasak). Complex dialect network. Some 'dialects' have difficult intelligibility with each other. Related to Sumbawa and Balinese. Ethnologue
Melayu Online : Lombok Kingdom
Melayu Online : Arsitektur dan Tata Ruang
Melayu Online : Rumah Adat Sasak
Tinjauan Filosofi : Rumah Adat Sasak
Local Name: suren, surian, surian amba (Sumatera).