5月20日(火) Bandung(ジャワ島)
Fansidar(マラリアの予防薬)一錠。あす出発をひかえて、家のすべての片づけ。手紙、本の整理。いよいよ調査。大きい不安と小さな期待。名残り惜しい家を捨てて。体重67kg。
5月21日(水) 車中
5月22日(木) バス車中
5月23日(金) Denpasar(バリ島)
5月27日(火) Ambon(アンボン島)
5月31日(土) 晴のち豪雨 Ambon(アンボン島)
6月 1日(日) 晴のち雨 Tual(小ケイ島)
出発時に一悶着。昨日約束のタクシーは5時40分になってもあらわれない。仕方なく、タクシーとの交渉に出かける。1万RP、7500RPの攻防がつづいた後、時間がないのにこういう交渉をするのはインドネシア化を遂げた証拠か、結局8000RPで同意。出発の7時まであと1時間10分。飛行場までふつうの速度なら1時間だ。このギリギリの緊張感はなかなかよい。道に寝そべっている犬は車を見つけるとノロノロと動き出す。その速度があまりに緩慢であるため、あわや轢き殺されるというところで身をかわす。こういう犬たちが何十匹といる。空港着6時40分。と、ここでまたいちゃもんがついた。運転手とその助手と称する男は9000RPを要求。こちらは先刻約束したはずだ、と譲らない。運転手側は、あの男は自分とは何の関係もない、ふつうなら1万2500RPなのだから9000RP寄こせと言う。こちらも受け付けず。払わないものは払わないのだから仕方ない。相手は帰って行った。
ところが、空港係員は出発の7時になってもあらわれないのだ。7時すぎ、ようやくあらわれた太った係は、あの犬たちのようにのっそりと受付をはじめる。やがて僕の番。
飛行機は何時に出るんですか?
8時だ。
でも、この切符には7:00と書いてありますけれど。
7:00に出るのは木曜日で(と時刻表をしめし)、日曜日は8時だ。
(こちらはやや声高に)しかし、切符を買うときに私もそれをチェックしましたが、そのときの話では、きょうは特別なスケジュールで7時にテイクオフだということでしたが。
(相手はやっぱり冷静というか、例のモッソリで)2時間前にチェックインするのが決まりだから、別に問題はないだろう。
(ややヒステリックに)それならなにもタクシーをチャーターしなくたって、乗り合いオトで十分間に合うじゃないですか。この1時間という時間は貴重なんだ。このハゲオヤジ(と心のなかで叫んだが、インドネシア語にならなかった)
飛行機からの眺めはさながら無何有郷であった。朝日をあび、様々に色をかえる雲海のかなたに、黒々と峻険な山肌を浮き上がらせるセラム島は、未知の世界に人を誘うかのようであった。この巨大な島の山岳地帯になら、未だ文明社会と接することなく人知れず棲息する民族がいても不思議ではないと思われた。この雲と、海と、島々と、陽光が様々に姿をかえ、おりなす光景は、僕のノスタルジーをかきたてた。まさに僕の少年時代への憧憬をかたちづくるもの。類い希な美しさと同時に、恐怖と戦慄の数々をもって待ち受けるエルドラドなのであった。
セラム島を左に見ながら南東へ針路をとる。このまま小さな島づたいにケイ島へ至るのだ。と、たちこめる黒い雨雲から海にふりそそぐ滝のような雨を遠望する。絶景。やがて、ニューギニアの大地をはるか左に見ながら、飛行機はそのまま南下を続ける。小ケイ島はコーラルリーフの間に浮かぶ起伏の乏しいまな板のような島に見える。
飛行場で警備の軍人とまた一騒動だ。飛行機を撮影しようとしたことからはじまり、書類を見せろ、そっちこそ何者だ、身分証明書を見せろ……ケンケンガクガク。ガイドブックにあった「飛行場でなんだか理由の不明な金を警察に取られる。これを逃れる術はない」というのはこの連中のことだな、とおもう。LIPIの書類のせいか、僕は何も取られなかったが。
飛行場を出、荷物を担いで歩いているところを親切な住人に呼び止められ、オートバイで目的のホテルまで案内された。彼の名はブン。Tualでかなり大きな建材店を営む。左目が白く濁って死んだ魚のようだ。インドネシア語を日本語のようなアクセントで話す。語尾に……ネ、とつけるのがおかしい。
アリィの兄はこのホテルの隣りの住人。学校の先生。彼の案内で、島の牧師に会う。ケイの民家、交通手段など詳しくおしえてくれた。そのままTualに住むKampung Kei Tanimbar(この島自体は小ケイ島の南にある小島)の住人クォーターへ行き、船便の確認。明日、島のOrang Kayaがジョンソン(という名のスピードボートでこの小島の住人が所有している)でやってくる。帰島日時確認のため、小ケイ島にもう一泊せねばならない。このホテルの食事は格別おいしく、昼食には小アジの唐揚げが出た。が、研究者の分にあまる値段で長逗留はできない。
カンポン住人はみな素足にボロをまとう。顔はつやのよい黒。僕をかこんで、家の扉から窓からいくつもの顔が好奇の目でのぞく。しようもない日本語を話す老人がしきりにブロークン・ジャパニーズで話しかけてくる。戦争時代に日本人の通訳をしていたという。「もしもし、もしもし、飛行機おくる。もしもし…」オーストラリアのヒコーキ爆弾ボムボム。Tualの町は1棟を残して全部焼けた。島(Kei Tanimbar)の村へはいる階段もこの時壊れた。これには見事な彫刻が彫ってあったという。それだから日本は負けた。
Tualの町は瀬戸内の漁村をおもわせる。入り江までせり出した傾斜面に家が建ち並ぶ。海岸沿いの通りを歩くと、見わたすかぎりのコーラルリーフのなか、エメラルド色をした海水にプラフは漂い、熱帯魚が群れをなす。気温はさほど高くない。雨のせいか。快適。
6月 2日(月) 雨のち曇 Tual(小ケイ島)
昨夜から豪雨が続いた。ホテルの部屋は雨漏りで水浸しになった。午前中も豪雨(降ればスコールのような雨)が降ったりやんだりを繰り返した。一日中雨雲はたちこめた。そのため涼しいのはよいが、海のエメラルドグリーンは太陽が出ないとすこし冴えない。写真撮影もダメ。昨日、飛行機で見た激変する空模様と東から押し寄せる雲団は雨期 mesim hujan timur (貿易風の雨期)の最前線だったようだ。ここの住人はみな雨期にはいったと言っている。海も mesim angin (風の季節)の到来で ombak(波高し)だということで、船の航行は要注意。要するに、もっとも悪い時期に調査にはいってしまったわけだ。
午前中、PU(Pekerjaan Umun 公共事業省)の支部へ行く。ここの支部長は、ヤンとアリィのウジュンパンダン工業アカデミーの同期生で、マヌサマ(通称Pak Co=チョーさん)という。いつも遠くを見ているような目付きの人だ。手紙をわたし、色々と計画の相談にのってくれたけれど、県役場で市長に引き合わせるとそのまま帰ってしまった。お手伝いはそこまで、ということらしい。そういえば、アリィの兄も最初の日だけで今日は姿を見せなかった。
市役所のつぎはKodim(Komando Distrik Militer 陸軍地区軍管区)にいちおうご報告。ためしに情報を得ようと話してみても無駄なことだった。この司令官の前で、スタッフは、そういう情報ならばその地区のラジャ(王)に会って話をきくのが一番よい、と公式見解を述べるばかりだし、司令官のほうはこれに輪をかけて、マルク地域は自分の見る限りすべからく国民住宅である、伝統家屋を見たければ、テルナテの王宮へ行くがよい、と告げてくれた。南東マルクへ行きたければチョバチョバ(try)するしかないだろう、とも。
オト(乗り合いバス)に乗ろうと待っていたけれども通過するのはどれも満員の車ばかり。仕方ないので歩いて帰る。途中、橋をわたったところで後ろからきたジープにひろってもらう。乗っていたのはKodimにいた司令官の連絡役だ。カシオの一番安い時計をしめし、diatur(調整)してくれという。さては日本からのお土産を要求しているかと身構えたら、そうではなく、日本人にもらった腕時計を子供がいじって狂わせてしまったので、それを直してくれということだった。夜にお喋りに来ると言い残して去っていったが、そのままあらわれない。
帰宿。昼食後、Debut、Watranにオランダ時代の教会を見に行く。いずれも今年中に破壊されるということだが、そのまえにすでに損壊は著しい。見る影もない建物を、それでも記念に写真におさめる。
Watranでは村の子供全員と思われるくらい引き連れて歩く。日本語で話しかけてくる老人も多い。少年期の追憶が日本時代と重なるのだ。懐かしそうに昔話をする。漁村はみな海岸沿いにきれいに土地割りされている。サゴヤシで葺いた家も多くのこる。ジャワやスンダの近代化した村もそうだけれど、概してインドネシアの近代化村落の景観は美しい。Watranの村は、戦争中、教会を残して全部焼けたという。すでにオランダ時代に土地計画されているようだ。
夜、トゥアルに住むタニンバル・ケイの住人のうち、スナンと名乗る男の訪問を受ける。
「あす我々は出発できる」と言う。しばらく話を聞く。
値段は? 「普通だ。そんなに高くない。」
何時間かかる? 「5時間くらいだ。」
ジョンソン(モーター付きのボート)か? 「プラフだ。」
モーター付きか? 「Prahu Layar(帆船)だ。」
どうも話がおかしいので、PUの職員のタニンバル・ケイ出身者See Yaman(Seeの父の意味)に相談にゆく。その道すがら、スナンは語り出した。
「ボス、俺には妻と子供が村にあって、ずいぶん長く会っていない。あす彼らと会いに帰るとき、持っていってやりたいから15,000RPめぐんでくれ。」
困った。バカヤロー、そんな金はない、と言えれば簡単だ。僕にも日本に妻と子供があって、1年間も会えないでいるんだよ・・・。でも相手の言うことが本当なら、すこし可哀想だなどと考えてしまう。結局、一銭もわたさなかった。だいたいはじめからこの金を目当てにもってきた話に違いなかった。See Yamanによると、プラフは転覆のおそれはないけれど、揺れがはげしく、慣れないとすぐ船酔いする。また、普通は料金がなく、タバコをやるとか、それも嫌なら横になってころがっていればよい、ということだ。いちおう、あすもう一度確認するということで話をつけた。See Yamanはいかにも善良で知的だ。それに較べ、スナンは口が達者。頭もいいようなのはわかるが、いかにも裏のある人間。こういう男に15,000RPをめぐんで手なずけるのは僕の趣味でない。けっして損な取引とは思わないけれど。
6月 3日(火) 曇のち雨 Elat(大ケイ島)
PUのタニンバル・ケイ人ヤムコ(See Yaman)と伴に、タニンバル・ケイ行きの船の交渉。特別に船を出すと15万RPかかる。普通に出る便(12日)を待つなら、これはタダだ。まだ燃料を買う資金がないということで交渉は決裂した。船方は悪い人とも見えないから1万5千の間違いではなかろうかと後で考えたが遅かった。大ケイ島へとりあえず出発することになる。
市役所は県役場に報告してからだ、と官僚主義的体質をむき出しだ。アンボンの州役場では県役場に報告しなくてもよいと言われてきた、といくら説明してもダメだ。アンボンで受け取った書類にも、市役所および地区の長への報告とあるだけなのに。あらためて指令書でもないかぎり、この慣習的なヒエラルキー遵守の姿勢は解消されない。
片目のブン氏の店に荷物の一部を預ける。彼は親切に港まで送り、船の船長を紹介してくれ、僕のために特上の席をつくってくれた。ブン氏は、この地域でオトを所有し、建設業を営み、以前には200トンの船を持っていたこともある。
乗合船には4種類ある。大きい順に、
Kapal……大・中型金属船で、月に2度アンボン、ケイ、タニンバルをまわるのと、月に2度、それ以遠の南東マルクへ行くKapal Perintisがある。
Motor……小型金属船。Elat-Tual間に3隻のモートル船があり、乗員100名程度。
Johnson……小型の木造船にモーターをつけたもの。近海の島々へはこれでも行ける。Tual-Tanimbar Kei間など、各村で所有している。
Perahu Layar……木造帆船。一人乗りから数十名程度まで。Johnsonがなければ、これに頼るしかない。
それで、Elat行きのモートル船はASNOMERU(日本の○○丸に似ている)といって、1時に出発するというのに、30分前には乗員室といわず、デッキといわず、黒山の乗客だった。出発時間、突然無線機がなり、警察の要人一行が乗船するので出発を待てという。これは個人所有の船であるから、この注文はかなり勝手なものだ。40分ほどしてあらわれた一行を迎え入れるために、定員超過分の乗客50名ほどは強制的に下船。
Tual発13時50分、Elat着は16時20分。途中、Elatの近くで豪雨におそわれる。操舵室の外にいた僕は必然的に雨にさらされる。
大ケイ島の市長さんは何を考えてるのかわからない。たえず顰め面であらぬ方向を見ている。こちらの話を聞いているのか、別のことを考えているのかもわからない。質問を発すると、その答えは10分ほど沈黙の続いたのちに返ってくることもあるし、何の返事もなく、忘れられることもある。村への手紙も、今日の寝場所の確保も、あすのMun行の船の手配も、何もしてくれなかった。何のためにわざわざ県役場まで出向き、書類を運んでこなければならないのか。
たまたま港で会ったウジュンパンダン出の中国系医者の家へ泊めてもらうことになる。ベッドがないので、患者用の診察台だ。大学を卒業し、今年の3月から奉仕義務のため2年間、この大ケイ島の診療所で働く。独身。頭がもう薄いけれど、医者の年齢はわからない。外見は妙におちついている。
夜、彼に連れられ友人というオカマチックな中国人の家へ行く。彼は持ち船がババル島のちかくで座礁し、3億RPの損害だ。けれども心配してもしようがない、と話している。中国古陶磁や黒真珠を売ってもうけたこともある。今はElatで何でも屋を開く。大ケイ島の警察長官やらTualにいる裁判官などが客にくる。警察長官とはどうみてもホモの間柄だ。やたら男性性器ばかりうつるブルービデオをこのオカマ声の中国実業家と医者と警察長官の4人で見る。結局、医者の家へは戻らず、おかげで綺麗なベッドの上で眠ることができた。
6月 4日(水) 晴-雨-曇 Elat(大ケイ島)
船を待てども船は来ず。出発は明日になった。一日出発の態勢でボンヤリすごす。ホテルにいるわけでもなく、なんとなく自由にはしていられない。部屋の窓から海を眺めてすごす。夕刻、例によって雨。
Kという日本人と会う。Tual在住。日本海軍の生き残りで、戦後も日本へ帰らずにモーター修理などの職人をしているらしい。いまはたどたどしい日本語。こちらに3人の妻がいると同席の中国系人。日本にもまだ奥さんがいて時々手紙を出す。
6月 5日(木) 曇 Mun(大ケイ島)
警察に型通りの報告。8時半ジョンソンに乗る。5人ほど子供を含めて乗客21人。長さ15m、巾1mほどの丸木船にモーターをつけたものだ。海岸沿いに約3時間。波はなく、快適に走る。海は青や緑に色を変える。
Mun着。Orang Kaya一族に挨拶。しかし、村中歩いても高床の建物はない。山の中腹に粋人が最近こしらえた伝統風の家というのがあったが、個人の力と技術でつくったということと、伝統的な観念でつくったというのはすこしちがう。仕方なく大工道具の撮影やら、Orang Kayaの家の平面図をとったりしてすごす。4時頃、おそい昼食。と思ったら、これ以降、夕食らしきものはなかった。ご飯、インドミーと野菜少々。
村の入口にSelamat Datangと書いた門がコンクリートでこしらえてある。その脇には、1~10までからなる村落生活改善の目標が掲げてある。この種の看板は、この大ケイ島のどこの村でも目にする。どこの村もきれいに区画整理されて、道はきれいに石が敷かれ、家の周囲にも切石を敷きならべて、一見すると巨石文化の集落を思わせる。が、これはごく最近の成果ときく。夜、発電機が止められ、ベッドに横たわるや、無数の蚊の羽ばたきがする。零戦が飛び交う空中シーンのようだ。この村の人はほとんどマラリア持ちと言っていたことを思い出しながら寝た。
6月 6日(金) 雨 Uwat(大ケイ島)
Mun。朝から雨が続き、村の見学も、家の調査もできず。集会場で数字のカードを続ける遊びをする。0から6までを書いたや
のようなカードを4人でわけ、早く全部使い切った者の勝ち(※ドミノのこと)。村の人たちはトランプの7並べに熱中している。
朝、パンケーキ少々。昼、白ご飯、インドミー、焼きそば、シンコンの葉のゴレン。船は、夕刻、雨の小やみになった頃出発。途中、Mun Ohoiirで降りて村の見物。海沿いに高床住居が並ぶが、すべて旧プランを残していない。海に向かう壁側を調理場として、村側の道に向き合って入口をとる形式。これは、1974年頃、オランダのカトリックの援助で、土着の高床住居をすべて現在見る地床家屋に変えてしまった。カトリックのこの政策のポイントは、高床を地床に改めさせることと、トイレ、水場を屋内にとりこむことにあったように思われる。海岸沿いの湿気の多い土地で、地床住居の床はたえずザラザラ、ジメジメとして、あまり心地よいものではない。
そのMun Ohoiirから出発する時、沖合のジョンソンまで一人乗りのカヌーに乗せられた。しかし、これは非常に不安定な乗り物で、重いカメラバッグもろとも海にひっくりかえってしまった。海の深さは膝頭ほどもないので、そのまま歩いた。村の子供たちがいっせいに囃し立てた。Munの先生氏は、Orang Kayaがいればあんな不謹慎な連中はいないだろうに、と息巻いている。この海におちた時の塩水で、バンドンで直してきた時計はとうとう壊れてしまった。
夕日をうけて、波ひとつないケイの海をボートで疾走するのは快適だ。こんな時間を味わってしまうと、日本での生活にはリアリティがない。時々、飛び魚が水面ギリギリを滑走してきてそのまま水中に没してしまう。
Uwat到着、すでに6時ちかい。Orang Kayaのマティアス・ウェレルブンと会う。警察からすでに連絡がはいっていたそうで、僕の名前を知っている。彼は口数少ないが、善良な性格があふれている。みずから先にたって村内を案内してくれる。プンドポ(海にむかう露台)をもった高床は2棟のこる。
夕食は、この村の状態からいうと、相当なご馳走だ。焼き魚、揚げ魚、土地の野菜、シンコン芋(キャッサバ)、シンコンをおろして炒めたパラパラのまがいご飯、白米。土地の食べ物を味わい、駄目なら白米、揚げ魚という配慮だ。
食後、大ケイ島のPatasiwaとPatalimaの話。6つの王国がそれぞれ2つに分かれ、海軍、空軍、陸軍にたとえて競う。83年の競船の話。船に取り付けた旗のイコノロジー。本来の船は浮き木付きカヌー。インドネシア語の不足を感じる。面白い話の細部がわからない。
6月 7日(土) 雨、夕刻 晴 Uwat(大ケイ島)
朝食もMunにくらべると凄いぞ。魚のスープまである。一日中家の図面取り。と、記念撮影。疲れ果てて仕事を終える。すでに5時すぎで、約束の3時に迎えに来てくれるはずの船は、付き人のMunの先生によってパスされてしまった。もっとも僕としては望むところだけれど。そして、この快適な村でもう一泊。社会組織の研究ならたいへんおもしろそうな大ケイ島も、キリスト教によって住居が改変されているので、これ以上いる意味がない。
ここらへんの村は船がほとんど唯一の交易手段だ。船に乗って沿岸を走ると、点々と海辺に集落が見える。この集落それぞれが、カトリックの村、プロテスタントの村、イスラムの村、とほとんど性格をまったく異にするようにわかれてしまっているのはおもしろい。
Mun Ohoiirにはmel(貴族)がいなかった。以前にいたmelの一族は、村がカトリックになると、それを嫌ってイスラムの村へ移住してしまった。こうして、この村は100%カトリックの村になってしまったし、100%イスラムの村も出来上がる。
家の周囲の石垣の上を歩いているとき、先生氏は足を踏み外して石垣からおちた。居合わせた子供たちがそれを笑うと、人の不幸をなぜ喜ぶ、と彼は真剣になって怒った。
6月 8日(日) 曇、雨 Elat(大ケイ島)
親切にもてなしてくれたウェレルブンに別れを告げ、6時40分やや大型のジョンソンに乗る。これで2時間後にはElatに着ける。快調。と思ったのもつかの間、わずか20分でFaaというイスラムの村で船を降ろされてしまった。FaaでElat行きの乗客があるはずだったのが、それがなくなり、船はFaaまでしか運航しなくなった。同行の先生氏は、こんなことなら別の船に乗るのだった、この村で船を捕まえるのは難しい、Orang Kayaがこのことを知ったら船頭は死ぬしかないだろう、と息巻いている。しかし、義侠心のないくだんの船頭氏が死ぬのは、われわれがめでたくElatに着けたばあいの話であって、当面われわれは手足もなく、身動きならぬ状態だ。1時間ほどFaaのOrang Kaya宅でわけのわからぬ世間話を聞いているうち、この村から小船を出してくれる手はずになった。プアサ(断食月)にもかかわらず、このOrang Kayaはお茶とバナナ、芋のゴレンを出してくれ、残ったバナナと芋をわざわざ紙に包んで、船中での口遊びにと言ってわたしてくれた。
しかし、船のほうはお菓子を頬張りながらの気まま旅というわけにはいかなかった。船は小型で、舵取りと見張り、われわれ2名を含めてわずか4名が乗っていっぱいというくらいの大きさしかなかった。おまけにモーターの調子は思わしくなく、何度もとまった。はじめのうちこそ、珊瑚礁のなかを泳ぐ熱帯魚をながめながら、船は沿岸近くにそってプッタラプッタラと走り、こういう体験に憧れてこの研究をはじめたことを思い出した。しかし、雲行きはしだいにあやしくなり、とうとう雨のなかに突入してしまった。船は小型で天井などない。荷物にかけたビニールの端を押さえながら、お尻の痛さをこらえていねばならなかった。荷物もわずらわしい仕事もなく、海水パンツでもはいていれば、船が転覆しようが、雨が降ろうが、面白可笑しいだけの話だ。雨のなかを立ち往生して横波をうける。先生氏は船頭に向かって、どうして小さな電極(ブラシ)しか入れなかったのだ、bodoh sekali(ばか者)と言っている。
こうして、Elatに入港したのは10時ちかくになっていた。
Kさんに誘われ、Toko Ganefoのアサイという中国人の店に同宿させてもらう。Tualを往復する船はこのアサイ氏の所有だ。本名を蔡さんと言う。お父さんは、日本時代にこの地区のカピタンで、日本軍によく協力して国の発展につくしてくれた、という表彰状を地区の日本軍司令官サカモト某からもらっている。当主も、台湾からの密漁船(鮫取り)が拿捕されるたびに船員の面倒をみてやるという義人だ。
Kさんは背筋をピンと伸ばして歩き、見ただけでこの国の人間ではない。いまは言葉も日本語よりインドネシア語のほうが流暢だし、インドネシア国籍もとっているのに、周囲の人は彼のことをやはり日本人という。そのKさんに連れられて、Kampung Waulへ行く。村の中央に大石を積み上げたドルメンがある。その脇に1700年代の銘がはいったVOCの大砲が2門おいてある。この近くに、ここの先祖が天から降った時からあると伝える純金の剣と首飾りを所有する家があるというので見物に行く。
剣はクリスでジャワの古文字のような文字が彫ってある。首飾りのほうは、裏に七昌と刻印してある。金色だけれど、とても金製には思えない。ドルメンに対面して、100mくらいの位置に、今世紀初頭と思われる教会がある。
帰って昼寝。とりとめもなく夜を迎え、眠る。あすはハリラヤで船の便はない。船を待つことしかすることがない、とガイドブックに書いてあるのは本当だ。
6月 9日(月) 晴 Elat(大ケイ島)
ハリラヤ。することなく一日ぶらぶらしているだけ。Kさんも仕事なく所在なし。
6月10日(火) 晴 Tual(小ケイ島)
アサイさん、Kさんに見送られ船出発。1メートル程度の波。11時半Tual着。K氏甥の案内で下船。コルトを待つうち、この甥氏はコワモテの婦人につかまってペコペコしている。この威勢のいいオバサンがKさんの奥さんだった。
彼の家には老夫婦のほか、孫4人と父親一人がくらす。家のおもむきは決して豊かとはいえない。3.5m角の部屋4室と水場、トイレ、台所に屋根を差し掛けた部分からなる。食事は質素でくらい。
昼食後、甥のバスコを引き連れてPUのヤムコを訪ねる。タニンバル・ケイ行きの船は10日に出航したという。あす、Orang KayaがTualに来るので、会ってから予定をたてよう。午前中、Rumaatにつきあってやるから。きょうの午後Rumaatに行くのは(そのつもりで準備してきた)やめろと言われて、その気になってしまった。家に帰って昼寝し、所在なくまた日を送った。
タニンバル・ケイで聞いたK氏にかんする噂。K氏はキリスト名をパオロといって、ここではオム・パオ(パオおじさん)と言われている。娘の結婚相手のモナド人は博打(カード)に手を出して、K氏の家から彼の所持品をつぎつぎと持ち出した。それで、以前にはたくさんあった彼の財産もあらかた無くなってしまった。だから、オム・パオはいまは日本に帰りたがっている。(6/21記)
6月11日(水) 晴 船中
朝、ブパティ(県役場)に行くが係員まだ出勤せず。もうすぐ来るからちょっと待ったらと言われるのを型通り受け流してPUへ。ちょっと待つというのは昼までのことか夕方までのことかわかりやしない。正確に表現すれば、自身の気のすむまで(諦めのつくまで)待ってみてごらん、私は知らないから、ということになる。
8時、PUに行くと、あす屋根葺きの儀礼があるのできょう船が出る。10時まで待つように手をうっておいたから、早く荷物の支度をして来い。Rumaat行きはタニンバル・ケイから帰ってからにしよう。と急変だ。ともかく、市役所に行ってタニンバル・ケイ宛の手紙を受け取ってこねばならない。わけのわからぬまま市役所に行く。ハリラヤ(祭日)あけで市長も副市長も来てない。ここでも少し待てと言われて、仕方なく待つ。かれこれ30分ほど待って、あらわれた副市長は部屋の鍵を忘れてきたので部屋にはいることができない。書類はすでに揃って、部屋の机の上にある。大根役者!
村人5人も従えて、バスでDebutへ。要するに、僕は彼らの財務係で、あすの儀礼に使うAnggurという養命酒まがいのあまい酒やらタバコやら、交通費、食費を払わされることになる。10時まで待ってくれるどころか、Debut着は12時になろうとする時刻だったし、船が出帆したのはその2時間もあとで、えんえんと待った。
Perahu Layar、ありていにいうと、巾約3m、長さ約7mのヨットは主帆に風をはらみ、錨をあげて快調にすべり出した。乗員27名、老人は船倉でころがり、若者たちは屋根上に寝そべった。曇りがちだった空もしばらく行くと快晴に変わる。波なくおだやか。大海原にヨット、これを見てくれる人がいないのが残念。やがて太陽は海のかなたに沈み、全天の星空となる。まるで映画のように。
冒険は記録によって作られる。Kさんの波乱の人生のように、数ある冒険のなかから、伝えるすべを与えられたものだけが浮き上がる。無限に冒険を繰り返すなかから、一粒の"純冒険"が結晶するわけではない。
見晴るかす海のまっただ中で、ヨットの揺れに身をまかせながら、降るような星空をながめる感動は、それを日々繰り返す彼らには単なる日常事でしかない。
風は時にないでしまい、波間にただようだけのこともある。到着は10~11時頃だろうという予測で、7時頃船倉にもぐりこんだ。狭く、暗く、人いきれと油の臭いのする空間で、天井が低いため、割竹床の上に空いている空間をみつけ、横たわっていなければならない。波しだいに強く、波しぶきの砕ける音とともに、船は落下を繰り返す。しばらく横になると身体のあちこちが痛くなる。けれども、何とか我慢して10時まで仮眠をとった。嘔吐感。傾いた屋根の上で、毛布をかぶり横になっている女学生たちはしきりに歌をうたっていた。
10時、タニンバル・ケイを側にながめながら投錨。このまま夜明けを迎える。5時間という話は、結局のところ正味17時間になった。
昨年、同形式の帆船がTualからタニンバル・ケイに向かう途中、この島の近くまで達しながら転覆した。波はさして強くなかった。乗員64人のうち、生存は牧師をふくめわずか14人。泳ぎのできない女性たちは、みな男性にすがり、男が力尽きて沈むと、女も死んだ。ある村人の話によると、キリスト教の伝導を嫌った島の神が船を寄せ付けなかったためだという。船は向かい風にむかってジグザグ走行を繰り返し、おそらく過剰な乗員のため舵を取り違えて転覆した。村人は、この近くを船で通るたびに花を投げて霊をとむらった。
6月12日(木) 快晴 Tanimbar Kei(タニンバル・ケイ島)
朝6時すこし前、空が白みはじめると、船は再び錨をあげた。波なし。心地よい向かい風のなかを水深を竿で測りながら、船はジグザグに少しずつ村の港に近づいた。
100メートルほどに近づいたところで投錨。ボートを降ろし、村に連絡にはしる。二艘のボートが2往復して乗客を運んだ。
朝日をうけて海辺のマングローブが緑に輝いている。白い泥状の浅瀬がえんえんと続き、これが海水をたたえ、緑青色に島を縁取っている。このマングローブのなかにボートは乗り上げた。ここから歩いて村はすぐのところだ。
タニンバル・ケイの村は、15mくらいの高台の上にある伝統村と、その下の海岸沿いに開けた新村からなる。伝統村へは、木の梯子か、かなり脇にそれたところにある抜け道を通って至る。
Pemerintah Negeri(字義通りには「国の政府」。慣習法のさだめる村長に対して政府の定めた村長のこと)はヨセフ・サルマアフ、無精髭だらけの頬を左右交互に押しつけて迎えてくれた。彼はCecile Barraudの調査でインフォーマントになった。彼自身、人類学に目覚め、理論がわからないとこぼしながらも、熱心に調べている。Cecile夫妻に心酔している。親族関係のことはすでに一通り調べてあるので何を聞いてもくわしい。学問が好きで熱血漢だ。はじめ遣り手婆的なところがあったけれど、ある事件があった以降、彼との心的交流は深まったと思う。彼は僕のために色々と骨をおってくれた。
その彼の案内で、屋根葺き儀礼adat penutup atapを見物。要は、相互扶助による新築家屋仕上げの屋根葺きと、ご祝儀をもって次々と訪れる親戚マルガと当主マルガとの慣習的な物の授受だ。
親縁関係のあるマルガは、それぞれYammar a'arという族長に従えられて、kosbel(大砲)、bu-man(シリ・ピナンの皿:シリの葉、檳榔子、石灰、タバコ、金)、anggurという酒、衣服、布、食物などを持ち、祝儀に来る。まず、訪問した側のYammar a'arが口をひらき、両家の由緒、歴史、関係をかたる。これを受けて、当主側のYammar a'arが同じことを繰り返す。しばらくこの儀礼的会話を続けたあと、訪れた家族は食事の饗応を受けて帰ってゆく。当主側はこの日のためにfen(海亀)、vav(豚)、??(山羊)、vu'ut(魚)、kokat(米)、hoton(粟)、embal(タピオカ)などを用意する。祝儀にもたらされた物は金と大砲を除いて分け与える。大工には木の大きな器に盛った食物や金銭(bahanという)を報酬にわたす。
屋根葺きのあいだ中、建物内では数人の老人、女どもが歌をうたい、屋根葺き役はこれに拍子をいれる。屋根葺きが終わると、右の部屋rin melに仮の壁をこしらえる。今晩、ここで夢占いをする男tub'ntan rahan(家族のうちでこういう経験に長けた者がなる)が一晩あかす。
血縁関係のある別の家では、儀礼の踊りの前触れでしきりに太鼓の音が聞こえる。やがて、赤い衣装をまとった男が二人、踊りながらあらわれ、これが村中を踊り歩きながら、新築の家まで至る。
しかし、この段階で僕には難題が吹きかけられていた。tari adat 30000RP(伝統的な踊り 3万ルピア)なる紙片がヨセフの元に届けられたのだ。張本人は日本語をよく話し、Tualを出るときから「トモダチ」と言ってくっついてきた男だ。彼の弁によると、日本軍時代、隊長をしていたので日本軍とよくつきあったという。この男はショアル・ヤマンといって、船の中でも「タバコあるか?」と、船頭に渡すはずだったタバコを2箱とも横取りしてしまったのだ。
ヨセフは3万が無理なら1万でもいいという。この時には、僕はもう彼への信頼を失っており、早くこの場から逃げ出したい気分だった。ヨセフは僕の顔色をうかがい、1万が無理なら、私はここに500RPもっているから、コージが1000RP出せば、1500RPをシリ・ピナンの代わりに出せばよいだろうと言った。それですべてが済むと。
僕は完全なブロークン・インドネシアンでこの時の気持ちを説明した。
今まであちこちの儀礼を見たけれど、金銭を要求されたためしはないこと。1000RPでも3万RPでも僕にとっては同じであり、文化を買うつもりはないこと。ここで今、彼の要求に応じて金を渡せば、今後来る外国人はすべて儀礼を見るために料金を請求されるであろうこと。日本からの交通費や、ジャカルタからここまでの交通費、これまでに要した日数を考えれば、3万RPはゴミのようなものだけれども、私は西洋人でなく東洋人であり、商売をするような関係にはなりたくないこと。そして、本当はここからまっすぐ逃げ出したいところだけれど、それでは僕を案内してくれているPemerintah Negeriであるヨセフに申し訳ない。どうしても必要と言うなら、3万RPはくれてやろう。だけど、我々はそれをおいて、このまま下へ戻ろう。
話し終わると、ヨセフは涙を浮かべて、きっと暑くて頭がどうかしていたに違いない。下へ戻ってマンディをして出直そう、と言った。
マンディ後、我々はそのまま下にとどまった。夜遅くまで、上の村では太鼓の音が続いていた。
6月13日(金) 快晴
Rahan Teli(Teli家)にウェラヴを訪ねる。ヨセフとヤムコ父が同行。ウェラヴはSinger'ubunの当主であり、大マルガVovanratanのYanmar a'arの一人である。
建物の図面取りは夜アダット会議で認められるまで待てということになる。Rahan Teliは村共同の穀倉としても使われている。粟は袋につめて中央の部屋の壁際にならべられている。話をまとめると、1905年頃、当主の祖父の頃、村人の相互扶助で建てられた。
村の見学。夜まで時間をつぶす。
慣習会議は僕を村に受け入れなかった。強硬に反対した人間が二人いた。Soal Yaman(ヤハ)とその子のファルネーだ。ファルネーはいわば伝統愛の急進派で、村に教会が建ったときに、当時のPemerintah Negeriとともに教会を焼いたグループに連座して警察につかまったことがある。激昂した口調だ。Pemerentah Negeriのヨセフは啖呵をきるのはうまいけれど諦めがいい。逆に言うと、こちらの調査意図をよく認識していない。家屋のことなら自分が何でも知っているから教えてやる。だから、あまり落胆するなという。僕も、彼に輪をかけて表向きの諦めがいい。受け入れてくれないなら調査はしない、と言った。彼らは僕の持参した酒3本、タバコ、お菓子、シリ・ピナン、各マルガ2000RPずつ3マルガ分、しめて6000RPはしっかり持ち去った。今まで調査に来た幾人もの研究者のうちで、これは前代未聞のことだ。これまで、村が受け入れなかった研究者はいない。
その後、休みで帰省中の高校、中学生たちのジョゲッド(男が女をエスコートして、半ば伝統的、半ばディスコとかわらぬ踊り)を見物させられた。これは彼らの招待で、もちろん無料。好意はありがたかったが、やや辟易させられた。12時ちかく帰宅。
6月14日(土) 快晴
朝から何もしないで家にいる。
昼過ぎ、マラリア熱で今まで寝ていた、という男(フェリ)があらわれ、きのうの会議の話は聞いた。俺はさっきまで熱で動けなかったので会議に出なかったけれど、その話を聞いてイカった。それで、さっき2軒の家へ行って怒ってきた、と言った。髪はボーボーで目はまだうるんでいる。頭がふらふらすると言いながらも、建築に使う木の見学につきあってくれた。彼は自分がなんとかしてやると言ってくれるけれど、ヨセフやヤムコ父はちっとも動こうとしない。Tualに戻る船の手配などしている。有り難いような、情けないような気分だ。
フェリにバファリンを4錠あげたためだろう。彼の帰ったすぐ後で一人の男があらわれ、しきりに咳をしながら話をしている。と思うと、案の定、薬の催促だった。風邪薬一錠やると、不服そうだ。あしたの朝、まだ気分がすぐれなければまた来い。もう一錠やるから、と言うと、あすの朝だな、と念をおして帰って行った。あの歳で、潮風を吸いながら生活をおくり、強いタバコを年中ふかしていれば、喉の調子がおかしいのは当然だ。村中の人間に薬をやらねばならない。おまけに、その村はこの僕を受け入れないと決定したのではないか。この家に訪れてくる人間は、タバコをせびるか、薬をもらうかのどっちかだ。
ここの水は(ほんの10メートルほどの井戸)すこし塩分を含んで塩辛い。それで甘いお茶をいれると妙にねっとりと甘い。
6月15日(日) 快晴
ヨセフは朝から教会の仕事でいない。3日分の日記をつけていると、昨日の老人があらわれ、横におとなしくすわってしきりに咳払いをする。仕方なし。調子はどうだ、と訊くと、大部よくなったのでもう一錠くれという。薬をやるとそそくさと帰っていった。しばらくすると、ヤムコ父があらわれ、あすTualへ帰るのかと訊く。そうだ、と答えると、じゃ私も一緒に行こうという。船便の確認に来ただけらしい。
海辺を散歩する。通りすがる女、子供はHiu Yamanと親しげに声をかけてくる。ヒウのお父さんということで、テクノニミーのここではごく一般的な呼称だ。
昼食後、所在なさそうにしていると、ヨセフが話しかけてきた。どういうわけか、話がこの村の観光資源としての価値におよぶ。彼はともかく村の政治家だから、こういう話題になると熱っぽい。日本ではこういう伝統を残した村がいくつかあって、古い家を観光客相手の民宿として資金を得ている、と僕は話す、。だけど、この村がインドネシアの近代化のなかで、このままの状態で生き残り、観光客が昔をしのんでやって来れるというような話は、いったい何年先のことだろう。ヨセフはともかく中央からの援助が得られるなら、村の伝統を保存してゆきたい心算だ。Cecile夫妻の人類学調査に助手として仕え、人類学の手ほどきを受けた彼は、民族文化の愛好者だ。それで、もしこの村を保存するための援助を受けるつもりなら、公共事業省や教育文化省がこの村のことを知る必要がある。だったら、家屋の調査をしておいたほうがいいだろう、と水を向ける。ヤムコの家でも調査になるか、と彼が乗ってきたので、昨日見たRahan Habad(Habad家)なら、と答える。ヨセフは嬉しそうな顔をして、ヒルマ(Rahan Habadの家主)を呼んできた。これは私とヒルマの間だけの関係だ、とヨセフ。
夕方、Rahan Habadの調査。平面、断面。
夜、子供の中学入学のサインをするため、あすTualへ出発するヨセフを交えて謀議がもたれた。出席したのはヒルマ Kormav'ubun、副村長のサハット Singer'ubunとその弟のおしゃべりで人のいいタムロー Tabal'ubun(サハットはTabal'ubunの出)、例の風邪薬のアルルッド Rahaya'an。ヨセフは事情を説明し(島の言葉で)、みんなの了解を得た、と語った。約2時間。最後は戦争中の日本人の話。
この村には軍略上の価値があったらしく、Tual、Saumlakiとならぶ日本軍の基地だった。船で毎日20人くらいの兵隊が送られてきては前戦に向かった。カジマという日本軍の料理人が、ある時、不発弾を解体しようとして爆発し、カジマは死亡。何人かが負傷してTualへ送られた。カジマの死体は、村はずれで焼かれ、遺灰はやはり送られた。この場所は今でもカナヤロウと呼ばれている。カジマは太った大男で、村の子供を見ると、ズボンの後ろポケットに手をつっこみ、きまって、オイ、コドモ、金ヤロウカと話しかけたそうだ。
また、日本人の家が、下の村から上の村へ至る抜け道の途中の林のなかにあった。日本軍の見張りがいつも道の脇の大きな岩の下の穴ぐらにひそんで、通り過ぎる者に「もしもし」と声をかけた。それでこの抜け道は今もモシモシと呼ばれている。
ヨセフは僕がTualへ行けないなら、妻への手紙は私がかわって出してきてやるという。5000RP渡して、残ったらタバコとお菓子を買ってくれというと、ありがとうといって受け取った。石油を買うお金がないのでモーター船が動かない(家のランプもこの時石油が切れて隣家から油をもらってきていた)、と婉曲に僕に金を出すようにいう。はじめの日といい・・・また僕のフィルムを見て、私はカメラをもっているけれど、フィルムがないのでアダットの写真が撮れなかった。でも私はみんな覚えているから別にかまわない、と暗にフィルムを要求したりしていた。10000RP渡すと、強制はできないからと言ってポケットにしまった。
6月16日(月) 快晴
Rahan Habad(Habad家)調査。おしゃべりのタムローは夫婦そろって調査家屋に来て、いろいろ世話してくれる。お茶、食事、お茶、と、それも情がこもっていてヨセフのように裏がない。ヨセフはきのうの会議のあとでだけど、私はまだ彼らのことを信じていない。何か質問があれば私の帰るのを待て、彼らとは世間話だけしていればよい、と語った。彼はやはり政治家だ。フェリの姉はヨセフの妻、妹はタムローの妻という関係だ。
夜、マラリアあけのフェリとタムローがやってくる。フェリは、調査のことは俺がなんとかしてやるという。ファルネーが反対したのにはわけがある。Pemerintah Negeriのヨセフと彼らとは昔からゲンコツをつきあわせる仲だと二人は言う。村長が許可を与えると、彼らは反対し、村が許可すると村長がヘソを曲げる。ということは前にもあったらしい。僕はそういう政治的状況の渦中にとびこんでトバッチリをくってるわけだ。ヨセフは調査のことよりも、ブパティに報告すると啖呵をきって、あっさり自分は手をひいた。僕の調査ができないことで、逆に彼らの立場を悪くし、僕に対する多くの村人の同情を自分への支持に結びつけようとしているのではないか。フェリはシニカルなインテリである。インドネシア社会や、周囲の人間に対する批評は辛らつだ。口は達者だし。二人は夜遅くまで話をして帰っていった。
6月17日(火) 快晴
Rahan Habadの図面取り。混乱をきわめて、図面の数ばかり多い。海亀の卵を食べる。メスの海亀は胎内に100個ほどの卵をもつ。多分、海辺に産卵のために来てつかまるわけだから、これらの卵はほとんど出来上がっている。ピンポン玉くらいの大きさのこれを茹でて食べる。弾力のある皮をむいて中身を吸うのだ。
6月18日(水) 快晴
Rahan Habad図面。午後休み。フェリと散歩。ファルネーは彼の船造りの仕事をしている。なぜアダット(慣習)に挨拶にこなかった。目的も何も明らかにせず、受け入れられないならterima kasihというのでは受け入れるはずがない。と相変わらずだ。そんなことを言った覚えはないぜ。
帰りに病気の赤ん坊を見舞う。1週間前、僕が入村した日に産まれたが、腹水で腹がふくれている。便がよくでないという。薬草を与えているらしい。炉の前の暑い部屋に何人もの女が居並ぶなかで、一人の女性(母親)の膝の上で毛布にくるまっている。フェリがどうだと訊く。二言三言会話があった後、毛布をあけて子どもの腹をみせる。そして、死んでいると言う。周囲の女たちが口々に死んだと言う。別に狂乱するわけでもなく、そういう状況を受け入れているかのようだ。フェリと僕は呆気にとられてつっ立っている。僕の来た日に産まれ、僕の前で死んだ。
夜、タムローともう一人日本語をよく話す老人(ヨハネス)があらわれ、えんえんと二人の話はつづく。
日本軍に使われて、タニンバルに行ったとき、船の物資が枯渇したらしい。ある村に近づいて叫ぶ。サカナアルカ? ナイヨ。バナナアルカ? ナイヨ。コメアルカ? アルヨ。それっというんで頼むと、わずかばかりの米をくるんで投げてよこしたそうだ。
日本時代には、この島で石鹸も作ったし、皿も布も作った。それが今では何も作れない。日本人は頭がいい。
カナヤロウの葬式のとき、全員黙祷せねばならない。見張りがいて、それができない人間がいると殴られた。カナヤロウは勇気があった。アメリカの飛行機が落ちたというと、すぐ見に出かけたし、不発弾が落ちると、信管を抜きに行った。結局、それで死んだけれども。
国民学校は青空教室だった。道ばたに棒きれで字の練習をさせられた。
明け方まで死んだ子を弔う賛美歌の歌声が続いていた。
6月19日(木) 快晴、曇、晴
9時、葬送の列が家の前をとおる。しばらくして戻ってきたタムローと昨夜のヨハネスの所へ行く。村唯一の工場だ。彼は日本時代に習った技術でアルミナベを自作している。Tualのものよりよい、というのが彼の自慢。原料のアルミは戦争中に日本軍が撃ち落としたアメリカの飛行機から取ってくる。これを溶かして型に入れて作る。この飛行機の乗員10人のうち、一人は死んだが残りはTualへ送られた。また、独自の創案になるハンドドリルも見せてくれる。
この家にたまたま共産主義でつかまったというヨセフのオヤジが来ている。彼は憲兵隊にも4回つかまったという。日本時代のことをオレに話させたら一週間続く。オランダは何も残さなかったけれども、日本はわずか3年の間にいろいろなことを我々に教えてくれたとも。ヨハネスは北を向き、直立不動の姿勢をしてみせ、
ヒトツ、私ドモハ大東亜ノ学徒デス。体ヤ心ヲキタエ頑張リマス。大日本ニ従イ、新シイアジアノタメニツクシマス(敬礼)
と暗唱してみせる。
午後、ドミングス(新しい分村のMunに住む日本語に堪能な男)の所へ行こうと、タムローと約束して別れる。しかし、これには横槍がはいった。アナタがいろいろと人の家を訪れるとあれこれ噂する奴らがいる。Munに行くのはPemerintah Negeriの帰るまで待て。Pemerintah Negeriを出し抜いてもいけないし、村の連中を出し抜いてもいけない。大変な村だ。
おかげで、午後は暑いなか寝袋で寝る。ベッドの上を蟻が行列して歩く。蚊にもこれだけ刺され続ければ、マラリアにならないのが不思議なほどだ。驚くほど何もすることがない。起きて部屋にいれば蚊に刺されるのがオチで、しばらくボーっとしてまたベッドに横たわる。空腹と所在なさを耐えるのみ。
夜、フェリがあらわれ、インドネシアと日本の比較論。ここではどんなに金持ちになっても楽しむ術がない。どんなに疲れて帰ってきても、水も電気もない。帰って眺めるのはせいぜい枕で、部屋の片隅の床の上や椅子で眠らなければならないこともある。だから、俺たちの楽しみは儲ける(cari uang)ことだけだ。だけど、考えてもみろ。この村で一番金をためてる奴だって10万RPがせいぜいだろう。ここでは300万RP持ってくれば金持ちになれる。向こうの小島を買って、家を建てて暮らせる。
4日前から石鹸がなく、マンディも水だけ。昨日で蚊取り線香もハビス。歯を磨いた後は、唾を吐くだけ。マンディ場の水はキタナイ。
6月20日(金) 晴
居候もながくなると食事はしだいに貧しくなる。朝、ピサンゴレンと蟻のたくさん浮いた紅茶。海辺で海亀の解体をしている。
タムローがあらわれ、Rahan Teliのカットウヴスに面会。カットウヴスは3人の Tuan Tanah(土地の主)のひとり。例の会議で僕を支持しなかった一人らしい。Tuan Tanahの他の二人、ウェラヴにはすでに会っていたし、ロダルは現在アンボンでここにはいない。カットウヴスは村の大工、船大工。はじめ調査の目的はなにか?調査の結果はどうなる?とするどい口調だが、職人気質のためか、建物の話なら俺に聞くしかない、と次第に好意的になる。今でも日本時代の話をすると、村人たちの話題は尽きない。
日本があと10年いたら、村でいろいろな物が作れただろうと。オーストラリアの爆撃で村の梯子が壊れたし、村の家も被害をうけた。爆弾は雨のように降ってきた。カナヤロウが死んだとき、遺灰は箱におさめて、しばらく建物の窓辺におかれていた。学童たちは学校への行き帰りにここを通るたびに立ち止まり、黙祷をせねばならなかった。見張りが立っていて、これを怠ると手招きされ、叩かれた。日本軍の大きな船が沖合で沈没していて、船の中から米を持ち出して食べた。
のち、Rahan Hedmar でお茶をご馳走になり、帰宅。結局、Pemerintah Negeriを待つより他に仕方がない。海岸で今度は3匹のサメを見物。鰭と肝だけとって捨てる。
午後、フェリと引き潮の浜辺へ。仕事できないので潮干狩りだ。彼は巨大な薄緑色のナマコをつかまえる。これはマズイので輸出用。うまいのは白いもの。ゴロゴロと転がる黒いナマコには目もくれない。この引き潮の最中にモーター船は戻ってきた。夕刻帰宅。ヨセフが待っている。
カットウヴスに会った話をすると、何のためにとスルドイ。いつ帰るか? 彼らが受け入れないならもう用はない。こういう態度のとき、彼は政治家としてアダットと張り合っている。
夜、タムローもまじえて会談。村の連中が譲歩しようが、俺はもう村に頭を下げに行く必要はない、とヨセフ。また滅茶苦茶なインドネシア語で説明した。われわれは受け入れられるような道を捜しているのであって、受け入れられないような道を捜しているのではない。僕は村の政治的な問題に巻き込まれたくない。単に調査できるならばそれでよい。ヨセフの立場はわかるから、二度と頭を下げる必要はないだろう。だけど、俺はもう知らないから勝手に彼らと折り合えというのでは何のための村長だ。村長は彫刻ではないはずだ。今、僕の前には道がふたつあって、二股をかけて歩くつもりは僕にはない。僕はPemerintah Negeriに従うよりないのだから、何とかしてくれないだろうか。というようなことだ。何パーセント通じたかはわからない。
ヨセフとタムローは話し合っていた。僕は荷物を片づけ始めた。このまま部屋に引き下がろうとしたが思いとどまった。この4日間、僕のために動いてくれたタムローに悪い。
やがてヨセフが口をひらく。私はタムローを彼らの使者として受け入れよう。そして、私は彼らの譲歩に対し、感謝の言葉を述べ、それをタムローに伝えよう。タムローはまた私の使者として彼らのところへおもむき、私の意を伝える。私はすでにコージを受け入れているのだから、あとは彼らのあいだの問題ということになるだろう。ヨセフは、双方が汚点を残さないこのような政治的な解決を思いついたことが嬉しいらしく、得意になって語った。
6月21日(土) 曇
タムローとRahan Tokyarの見学。Tabil(露台の上の小部屋)がまだのこる唯一の家。その後、Rahan Melinという祖父の代まであった1本柱建物の話。この建物はゆっくりと傘のように回転を続けた。なかにadmalanという灯心が7個あるヤシ油のランプがあって、一日中火を灯しておかねばならなかった。朝夕と太陽の光線を避けてランプを移動させたという。
Tenggara Jauh(遠南東マルク)へ行ったら、クラパムダを飲んではいけない。バナナを食べてもいけない。料理したパパイヤを食べてもいけない。これらを食べると寒気で身体がふるえ、発熱してマラリアになる、とタムローと奥さんの話だ。
僕のおかした過ちのひとつは、はじめにヤムコ父子にたよったことだ。ケイ一帯にはいわゆるカーストがある。上からmel、rin、riという階級だ。この村はほとんどmelで、rinの家系はひとつしかない。それで彼らは同族結婚を繰り返すしかなく、片輪も多いという。ヤムコは本来melの家柄だけれど、父のヤムコは3人の女と結婚した。うちひとりはrinの出で、こうしたばあい、ヤムコは上半身melだが、下半身rinになったといわれる。離婚すればmelにもどる。しかし、生まれた子供は一生rinのままだ。TualのPUに勤めるヤムコはだから村内で結婚することはできない。いまの奥さんもタニンバル人だ。それで、rinの案内でアダット会議にのぞんだ者は、要するにmelには受け入れられないということらしい。
野豚がふえてヤシを荒らすということで、きょうは朝から村人は山にはいった。それで入村の承認は夜になった。一日、寝るよりほかにすることなし。
夜、アダット会議の復活戦。Pemerintah Negeriは出席しない。カットウヴスは指導的に会をすすめる。そういう会の雰囲気だからか、ショアル・ヤマンまでが終始ニコニコとしている。Munの日本びいきのドミングスと、一人だけのアルミフライパンの工場長ヨハネスが僕の両脇にすわり、僕の立場をしきりに弁護してくれる。発言するのは、みな、かって知ったる連中ばかりで、他の連中は黙っている。会は議論の場ではなく、それ以前の村の雰囲気の反映にすぎない。当然のように、僕の入村は許可された。
Pemerintah Negeriの家に戻る。村にはKantorがふたつある、とPemerintah Negeriの奥さん。あの連中はこちらの時間がないことなどわかってない。だから、予定通りに事がすすまないだろうと。
こちらの予定の思惑外なのは、村にかぎったことではない。ジャカルタから、アンボン、ケイまで、役所という役所はすべてそうだ。フェリがあらわれ、インドネシア社会の批判をはじめる。
連中は出勤すると書類を一枚書く。それが済むと、お茶をすすってぶらぶらとする。昼近くなると、そそくさとPasarに出かける。Pasarから帰ると、時間を気にしながら帰り支度をはじめる。ドクターやインシニュールはどうか? わざわざ外国まで行ってタイトルをとる。帰ってしかるべき立場におさまると、彼らは立派な身なりと貫禄ある物腰にばかり気をつかい、私服をこやすことに専念する。仕事といえばサインをすることぐらいしかないから、空っぽの頭はますます空っぽになる。これでどうしてインドネシアが発展するだろうか、と彼はするどい。日本へ行って皿洗いをする。ひと月で100万RP(15万円=当時)かせいで、俺はパンをかじっていればよいし、服も寝床もいらない。それでも半分使うとして年に600万RPたまる。5年働くと3千万で、村に帰ってくれば大金持ちだ。これで祖先伝来の所有の離れ島に豚や羊を飼い、船を買って商売をするというのがこの頃の彼の口癖だ。
Hiu Yaman(ヒウのオヤジ)というのが僕の呼称だ。しかし、僕はインドネシア語しかできないことを知っている連中はインドネシア語で話しかける。そこで、Hiu punya Bapak(ヒウのもつお父さん)というのが僕の呼称になってしまう。親族関係の話はややこしい。私の妻は私の従兄弟だというのは、saya punya Ibu punya saudara sama isteri punya Bapak (わたしのもつお母さんのもつ兄弟は、妻のもつお父さんとおなじ)となる。
6月22日(日) 小雨のち曇 Tual(小ケイ島)
教会の礼拝終了後Tualへ出発という予定でいるところへ風邪薬の男が来る。しばらく座っていたとおもうと、きょう出発か、と切り出す。そうだと答える。不吉な予感だ。じつは子供の学資が必要なので私もTualへ行く。山羊をつかまえて行きたいが、まだつかまらない。夕方つかまえるので、出発はあすにしてもらえないか。なんという疫病神だ。
しかし、船は風邪薬氏をのこして出発した。急病人が出たという。胸の病気だというので肺炎の薬をわたしたところ、昨夜血を吐いたという。それは結核だからこの薬ではダメだ。ほっておくと死ぬばかりだと言うと、ヨセフは、ならこの薬は俺がもらってよいかと訊いてくる。この男は変にカッコウつけているけれど、本当のところ、ショアル・ヤマンや風邪薬氏と変わらない。この薬は危険だからむやみやたらとは使えないと言いながらもわたした。食事代として、奥さんにわたしてくれと言いながら2万RPをポケットに入れてやった。私はあなたが無事に日本に着いてくれればそれでもう嬉しい。こんなお金はどうでもいいと言いながらヨセフは受け取った。これまで、彼をインフォーマントにした他の人類学者の話をさんざん聞かされてきた。Cecileは村のために100万RP寄付した。タニンバルで調査したスーザンは給料をくれた。云々。で、これは暗に要求された金だ。で、船の料金は払う必要があるかと一応訊くと(普通は不要だから)、石油代にバケツ2杯分、1万RPもあれば十分だ。気持ち次第で5千RPでもいいから向こうでわたせという。このあいだ石油を買うように1万RPをわたしたはずだからこれは不要だろうし、本来は役所の出費である。こちらもこの村に来てからやたらと出費多く、神経質にならざるをえない。
船は来たときより小さかった。モーター付きなので、大型では推力が足りない。巾2メートル、長さ6メートルの巾広の外用船で、外海に出るとまさに木の葉のように揺れた。が、沈みそうな気配はなく、海面にへばりついたように走った。波は1メートルほどで、横前方から船に打ちつけ、水しぶきをあげた。まるで遊園地のボートのようだった。乗員は男4人と女3人(うちひとりは病気で横倒しにしたマストの下に寝かせ、上からシートをかぶせてある)のわずか7名。途中でイルカの群れが船の左右を囲んで走った。大きなエイが宙返りをうつ。1時半に島民の見送りを受けながら出発し、6時にはDebut着。Tual行きのオトはすでになく、病人がいるため車をチャーターせねばならなかった。島民みずから金を捜すことしか信用しないというごとく、金のかかる島だ。島民のほとんどが金の妄者だ。
K宅では子供たちが迎えてくれた。船がすでに出てしまっているので、タニンバル出発は火曜、飛行機で行くことになる。
6月23日(月) 快晴 Tual(小ケイ島)
K家の一騒動。夕方K氏は仕事を終えて帰ってきた。氏が台所へ消えるや、奥さんのすごい金切り声とガタガタドンドンという家を壊すような物音が聞こえてきた。奥さんの金切り声は続く。バシンバシン。ドロボー猫を追い払っていると思った。しかし、この騒々しい悲鳴と物音はえんえんと続いた。トランプをしていたユウジが扉の陰まで見に行って戻ってきた。Saya takut(ぼくこわいよ)。オバーサンとオジーサンがケンカしている。誰か女性の泣き声もしてきた。バシンバシン。やがて奥さんはカバンをもって家を出ていった。台所からユキちゃんがあらわれる。オバーサンがガバガバ(竹のようなもの)でオジーサンを叩いていた。オジーサンはまだ生きている、と告げる。オバーサンは洋服を全部カバンにつめて出て行った。もうどこにいるかわからない、とやけに所帯じみた(井戸端会議の主婦のような)さめた口調で話す。続いて洗濯のオバサンがこそこそと戻ってくる。ヒソヒソ声で理由を説明する。Kさんには女がいる。子供までつくった。と、子供たちの前でも平気で話す。子供たちも動じない。KさんがElatに行ったときに、女に1万RPわたした、という話を奥さんはきょうの午後耳にしたらしい。皿を投げる。ガバガバで無茶苦茶に叩きのめす。けれども、オジーサンはうずくまったまま抵抗しなかった。かれこれ10分ほどして、ようやくK氏はあらわれた。インドネシアの女は口が悪い、と言いながら、オバーサンの行方を追って外に目をやっている。オバーサンが帰ってきたのは、夜もふけてからだった。
ユウジは気が強いうえ癇癪もちだ。親違いの弟のボボとケンカすると、きまって兄のヤントがボボを助ける。5歳も年がちがうヤントにユウジはかなうわけがない。実の姉のユキは男のケンカに割っていることはないから、いきおいユウジは孤立する。ユウジがボボを蹴る。ヤントがユウジを滅茶苦茶に叩きのめす。ボボは泣き虫で甘えん坊だから、祖母に言いつける。ユウジは泣くのを必死にこらえながら、なおもヤントに向かってゆく。ヤントはユウジが完全に打ちのめされ、戦意を失うまで蹴る。ユウジはついに泣き出す。
6月24日(火) 快晴 Tual(小ケイ島)
オバーサン手作りのBagea(サゴでつくった保存食お菓子)を一箱もらって、どうもお世話になりました。また、いらっしゃい、家はわかるわね。どうもありがとうございます。さようなら。とK家を後にした。K氏がつきそい、飛行場へ行く。しかし、飛行機は来ない。飛行機の故障で昨日もアンボンからの便はなかった。きょうはアンボンから着いたとしても予定より遅れ、したがってSaumlakiへは飛ばないだろうという。電話があるわけではないから、この手の情報の確認はたいへんだ。無線で必死にアンボンを呼んでいる。雑音にまぎれて、何を言っているのか僕にはわからない。タニンバル島には飛びそうにないとわかっても、乗客たちは帰ろうとしない。しばらくして、係官があらわれた。と言っても、ここはジャカルタやバリの飛行場ではない。野原のような飛行場(日本軍のつくったものだ)の脇にバラックの建物があるきりだ。待合室は、田舎の駅のそれのようにコンクリートの腰掛けらしきものはあっても、壁はない。この一画を仕切って、小さな机と木の椅子がふたつ置いてあるのがMerpatiのオフィスで、ここから二人の男が手をつないであらわれ、アンボンの飛行機はまだ修理中であり、ウジュンパンダンからアンボンへ来る便がこれに代わってケイに来るであろうこと、しかし、到着は午後2時頃であり、Saumlakiへ飛ぶことはできないから、このままアンボンに引き返すであろうことを告げた。その間も、相棒の男は手をからめて後ろにつきそっている。であるから、木曜日までSaumlakiの便はない。とこれを聞いて、ゆうに飛行機1機分くらいはいた乗客たちは帰りはじめた。しかし、結局のところ、この日はついにアンボンからの飛行機は到着しなかった。
いったん家にもどり、仕方なくPUに挨拶に行く。所長のチョーさんはまだアンボンにいて帰って来ず、ショアル・ヤマンの兄のヤバル・エルがすでに噂を耳にしていたのか、私が行けばこんなことにならなかったのに、と言って苦笑いしている。ヤムコはヤムコで僕を家に案内するや、ショアル・ヤマンはよくない、あいつは金ばかり要求する、とショアル・ヤマンを非難する。自分の父親もこの騒動には一枚噛んでいた、とは知りもせず、Pemerintah Negeriは私の兄だと繰り返す。このように限られた村では、確かに親縁関係はあるだろうが、けっして実の兄ではない。rinの弟をもった覚えはない、ヨセフが聞いたら怒るだろう。そのヤムコとは、あすRumaatに行く約束をして別れた。
家に帰り、子供たちの相手をしてトランプをしているうち、きょうも一日くれた。待つことより、他にすることなし。
Tualの町に店を構えるのは中国人とアラブ人が半々だ。店にはいり、出てきた店主がサルバドル・ダリのように、先端を綺麗にそろえて上にむけて尖らせたカイゼル髭をはやしていたら、果たしてこの店ではボラれるのではないか、と一瞬とまどう。出てきた相手が中国人だと、こういう感情はわかない。時々、家の奥に招き入れ、お茶を入れてくれたりする。民族的感情とはこんなものかと思う。
Kさんの身の上話。俺の友人はほとんどみんな死んでしまった。終戦後、取り調べのためにアンボンに集められ、5人いた仲間のうち4人は死んだ。国へ帰るのが恥だと短剣を喉に突き刺して自殺したのもいる。俺は首切り役をDobo(アルー島)とアンボンでしていたので、ここには住めなかった。それでケイに移り住んだ。
6月25日(水) 曇のち晴 Tual(小ケイ島)
RumaatはTualから1時間半、すし詰めにされたオトで激しい振動に耐えてやっとたどり着く。乗客の息の根をとめるかのように、頭上のスピーカーは完全に音の割れた音楽をがなりたてる。途中で道路脇に立つ親子が車を止めた。小さな女の子だけが乗ってくる。空いている席に腰をおろした、と思うと、しばらくして立ちあがった。これを発見して運転手はおこった。とうとう可哀想な女の子は、乗った地点よりずいぶん離れた場所で車を降ろされてしまう。ふつう、親に同伴した子供が親とおなじ席に座るか立つかしていると無料になる。けれども、彼女はただひとりで無賃乗車してきたわけだ。金を払わない奴は断じて椅子に座るな、と運転者は喚きちらしたらしい。隣りの席に半ば腰を掛けていた男の子は驚いて立ちあがった。運転手は居丈高で、乗客を人間として見ていない。非人情だと思うけれど、こうしたしたたかな乗客達が相手ではこれも仕方ない。
Rumaat は Kampung Raja(王の村)で、Sititit というRajaが住んでいる。Rajaといっても隣りのゴンベイさんと変わらない。顔立ちはタニンバル・ケイのPemerintah NegeriやMunのOrang Kayaなどと似て、どこか日本人、あるいはバリ人的なところがある。ヨレヨレのズボンと、ツギのあたったポロシャツといういでたちのRajaは、僕の話をヨセフから聞いてすでに知っており、この村の伝統住居は日本軍によって全部焼かれたという。ただ一軒だけ、森のなかに高床の神聖な建物がのこっていて、この村はほとんど100%カトリックに改宗しているのに、この家族だけがいまだにヒンドゥーをまもっている。
森のなかに孤立して建つこの建物は、しかし構造上はたんなるバラックにすぎなかった。すでに3代目の建物というけれど、現在のものは約30年前に建てられ、平面計画はともかく、そのもっとも合理、経済主義に徹したバラック建築である。構造は考えられる限りヤボで、屋根に波板鉄板を葺き、壁には、一部ガバガバ(サゴヤシの葉柄)、一部木板を打ち付けてある。そしてこの建物は、私と妻以外の入室は禁じられた神聖な一室をもち、なかを見るためには金を神に捧げなければならないから、お金を払うならば写真を撮らしてあげよう、と神官の家主は告げた。多生の興味はあったが遠慮した。間取りはすでに聞き取りでたしかめた。構造は不要だ。神器を見てみたいけれど、どうせ写真は撮れないだろう。第一、家の神に金を払えば見せてやるなど、日本の神社の拝金主義と変わらない。もうすこし、デリケートな神格化はできないものだろうか。2時間ほど、ヤムコの手前、仕事らしいことをして引き上げた。
6月26日(木) 晴 Tual(小ケイ島)
子供3人を引き連れDullahへ海水浴。市場につくや、上の子ヤントは車をチャーターするつもりでいる。それを無視して乗り合いバスを待ち、約30分。海にはいるやいなや、何ものかに足の指を刺されたらしい。傷口はないのに足がふくれあがるように痛む。子供たちは平気。それ以後なんともなかったから、よほど悪運。珊瑚のあいだを魚の群れが泳いでいる。が、なんとなく不気味で、1時間ほどいて引き上げる。子供たちは海の近くに住んでいるくせに泳げない。ユウジは海水を怖がり、膝までも来れず。ワガママで怒りっぽく、気が強いくせ弱虫だ。彼は両親の顔も知らない。愛情に飢えているのか、家に帰ると異常につきまとい、暴力をふるうので困った。
K氏の身の上話。氏は戦争中兵長だった。パラオ、マーシャル、ソロモン、アルー、アンボンと渡り歩いた。首切り役をして、ソロモンで10人の首を切った。アルーでは6人、アンボンで3人切った。首切りは切るのが上手な者が選ばれる。切られるのは主として現地人だった。
1957年、戦後しばらくしてElatの市役所でひとりの日本人と会った。彼はスハルトノと名乗り、流暢にインドネシア語を話したが、物腰態度で日本人とわかる。K氏が問うと、周囲に目をやりながら、彼はそうだと答えた。二人だけの間では、日本語でお互いの身の上話をした。が、第三者があらわれると、たちまちインドネシア語にかわった。彼は元陸軍でインドネシア国軍のセクレタリスをしていた。すでにインドネシア人と結婚し、日本人であることを隠しながら、ウジュンパンダンで暮らしていた。こうした日本人はジャカルタに多く住むらしいが、彼らは身元をあかすことを避け、多分、インドネシア人に同化しながら暮らしているという。
6月27日(金) 晴 Tual(小ケイ島)
もし飛行機があれば出発します、と言い残してK家を出た。朝8時、すでにMerpatiの事務所へ行きチケットを購入してあったので、これはずいぶんヒカエ目な表現と言えるとおもう。飛行場着は9:00。しきりにアンボンの管制塔と交信している。アンボンから(タニンバル島の)Saumlakiまで乗る乗客は何人いるか、というこれだけの質問に、相手側はひどくもってまわった回答を寄こしているらしい。それはわかったから、いったい何人乗っているのか答えてくれ、と最後はヒステリックに叫んでいる。飛行場にはすでに満員にちかい乗客が待機しており、このうち何人が搭乗できるかはもっかの重大事であった。であるから、18人の乗客全員を受け入れるという返事が来たときには待合室にざわめきがおこった。けれども出発予定の10時に飛行機は到着するどころか、ようやくアンボンを出発したのは9時20分になってからだった。したがって、Langgurに到着するのは11時半という計算だ。あと2時間ある。待つのみ。必死になって椅子にすわり瞑想を続ける。
やがて飛行機は到着し、乗客たちは炎天下のゲートに向かい、そこで給油、清掃の終わるのをかれこれ1時間ほど待たされる。勢い込んで飛行機に乗り込んだまではよかった。預けたはずの背負子は飛行機に積まれないまま待合所へ引き返してゆく。係員は、飛行機を空にするのが先だ、と怒鳴りつける。挙げ句の果て、Saumlakiへ行く乗客はLanggurでは受け入れないと告げられる。1時半。問答無用。質問する余地はない。何事かあったばあいの責任をとる者がけっして明確にならないのがインドネシア社会だ。係官を責めても仕方ないだろう。チケットを売ったMerpatiを責めても無駄だろう。パイロットはあずかり知らぬことだろうし、アンボンにこの一件の張本人がいるなどと想像するのはもっとナンセンスだ。結局、信じて待った俺がバカをみたというわけだ。さんざん待たされた挙げ句、取り残された乗客たちを尻目に、遅れてあらわれた軍人と市の役人だけが飛行機に乗り込んでいった。こうしたばあいのインドネシアにおける優先順位は、軍人、警官、つづいて高級官僚、外国人、民間人の順だ。
眩暈をこらえながら家にもどり、ゆっくり休もうとおもっても、異常にまとわりつく子供たちに阻まれて無駄なことだ。躾をするべき両親がいないために、子供たちはワガママで邪悪だ。ヤントたちの父親は遅く家に帰ってくると、博打でかせいだ小金だろう、食事をしているその食卓で子供たちに金をわたす。だから、わずか5歳のボボは人の顔を見ると、お金頂戴、時計頂戴と一人前のインドネシア人並にCari Uangをする。僕は心を痛めてそれを見る。
夜、Sembayanの集いがこの家であるというので何事かとおもって待つ。7時をすぎるころから、三々五々あつまる近隣の中老年層。K家ではこのために居間中央に祭壇(十字架)をもうけ、椅子をならべてこれをむかえる。ひととおり人が揃うまで四方山話に花を咲かせ、日本時代の歌をうたい、やがて・・・狂信的とおもえるこの集いのリーダーのもとに、聖書をよみ、賛美歌をうたう。彼は神の代弁者、解説者、生まれ代わりだ。朗々と歌の指揮をとりながら、彼は賛美歌を完成させてゆく。彼は聖歌指揮者でもある。最後に、彼はこの家の祭壇の位置について深い啓示にみちた説教をたれ、どうもありがとうございました、と丁寧に挨拶するK夫妻にむかい、どういたしましてと答えて帰って行く。これは反対ではないのか?
こうしたSembayanは、毎日家を点々と変えておこなわれ、毎週日曜日にはいくつかのSembayanの集いが教会において一同に会するわけだ。
ユウジは僕のことを拳骨で思いっきりひっぱたく。黙ってみていると、これは度を超すほどになる。怒ると勝ち誇ったような顔をしてさらに向かってくる。彼の望むことはわかる。彼は愛がほしいのだ。けれども、赤ん坊のときから両親なしで育った彼にはその方法がわからない。僕は、彼の気持ちはわかるけれども、その方法が違うということを教えることはできない。僕が本気で怒れば、それは彼の愛情をもとめる方法を、ではなく、彼のその気持ちを否定していると彼は考えるだろう。僕は彼のじつの父親ではないのだ。
そんなことがあった後、ユウジは兄のヤントにつねられて泣き出した。我が儘で気は強いけれど泣き虫だ。誰もかまわないでいると、彼は壁際でいつまでもしくしくと泣いた。僕、つづいてオジーサンがちょっかいを出す。彼は狂ったように暴れ、泣き出した。もう、どうしようもない。君のやり方の誤りは君自身で気づくしかない。
6月28日(土) 雨・曇 Tual(小ケイ島)
子供たちとのトランプもいいかげんに飽きた。じっとしていると不安に駆られる。何ひとつ仕事がない。午後ひたすら眠ってすごす。
午前中、Pelniオフィス、Merpatiオフィス、郵便局とまわり、そのままKさんの仕事場を訪問。エンジン修理の小さな作業場。万力、ドリル、電動ヤスリ、工具ひととおり揃い、小さな工場のおもむき。石油発電機の修理中。これをカンポンの結婚式などのときに貸す。言うには、「カンポンの人はわからない。壊してしまうだけだ。」
6月29日(日) 曇・晴 Tual(小ケイ島)
いよいよすることなし。寝るということにも疲れてしまった。けれども起きて椅子にすわっていれば蚊に刺されるから、いきおいベッドに横になる。
LanggurでPermunas(Perumahan Nasional=国営住宅)の住宅建設を請け負う中国系のブル島人と会う。ニコイチの平屋住宅。寝室2、小さな居間兼食堂と流シ、WC。現場打ちの粗悪なコンクリートブロックの内外壁、波板鉄板の屋根、ラワンベニヤの天井、コンクリート打ちの床、細部の仕上げは言うにおよばず。公務員向けに400万RPちかくで売るという。
ユキは両親とのアンボンでの生活をよく覚えている。父親は車を持っていて、夕方よくドライブしたこと。あるとき、男が来てお母さんを殴った。父親が帰ってきて、その男を殴り、半殺しにしたこと。家の裏が海になっていて、友達、名前はもう忘れちゃったけれど、と海水浴したこと。お父さんが日本へ逃げた後、お母さんとケンカした。お母さんはお前なんかいなければよいと言い、ユキは家へもどらなかった。お母さんはユキたちをおいてバンドンに行き、いまはそこで8人も子供がいる。そして、このお母さんにユキはナイフを送り、母親が死ねばよいとおもっていることなど。彼女はおとなしく、素直で、よく家事を手伝う。こういう話をするとき、まるで大人のように、自分の境遇をつきはなし物語る。
K氏の身の上話。氏にはもうひとりの奥さんがいる。彼女は27歳で、氏の工場のちかくに家を構える。男女2人の子供をもうけたが、男の子はすでに死んでいない。彼女はいままた妊娠中だ。K氏は彼女に月4万RPをわたしているが、これは奥さんには内緒の話だ。もっとも、この家に来る洗濯のオバサンはこの話を子供たちの目の前で話してくれたことがあるから、いわば公然の秘密というわけだ。
K氏の奥さんの身の上話。彼女は結婚前Doboに住んでいた。アメリカの飛行機が来れば森に逃げたし、日本兵が来ればやっぱり森に逃げた。日本兵は未婚の女を捜した。あるとき、ケンペイタイに呼ばれた。男は、両親の名前と彼女の名前を型通りにした後で、彼女におそいかかった。彼女は抵抗して逃れた。彼は彼女にピストルを向けた。彼女は両手をあげ、お願いだからゆるしてと繰り返しながら後ずさりした。扉口まで達したとき、ケンペイタイの隊長があらわれた。隊長は彼を殴った。彼はその後、汚名をそそぐため自殺した(あるいは、させられた)。
またあるとき、こんなことがあった。ある日本人の女性が現地人2人と結託して彼女の夫の日本兵を殺害した。やがて3人ともつかまる。男2人は両手を縛られ食物を与えられずに放っておかれ死んだ。女のほうは、裸のまま下半身を火で焼かれたが命だけは助かったという。
K氏は仲間2人と森の中に偵察に行く。ある家まで達したときに、いまの奥さんの名前を呼び、彼女はいるかと訊ねる。未婚の女たちは日本兵をおそれているから、彼女もすでに夫がいると嘘を言い、ひとりの若者を指さす。K隊長はふたりを取り調べると命令する。ふたりはおそれ、理由を訊ねるが、結局、言われるままに本部に連れて行かれる。K隊長は男を殴れと命ずる。男は半殺しになるまで殴られる。女のほうは現在奥さんになってK隊長を殴っている。
戦争中、セラム島のある村で結婚式があった。夜間は厳重に灯火管制されているから火をつかうことはできない。けれども、彼らは村の伝統にのっとって灯火をつけ、結婚式をおこなった。日本兵の一隊が村に乗り込んだ。日本兵は結婚式にあつまった村人たちをかこみ、銃を向ける。隊長は命令する。裸になれ。村人たちは上着を脱ぎ、下着に手をかけたところで躊躇する。銃口を向けさらに威嚇する。仕方なく、新婦をはじめ、調理人、参列者すべて丸裸になった。結婚式にはダンスがともなう。大東亜構想のただ中にあるから、踊りは認められても、ダンスは西洋のものだとして認められない。けれども隊長はこれをみとめた。村人たちは恥部をかくすため不格好に腰をかがめながら踊った。村の名前は聞き忘れたが、いまでもセラム島で××村の裸踊りと言えば知らぬ者はないという。
6月30日(月) 晴 Tual(小ケイ島)
風邪気味。K氏は海軍基地の発電機の修理。これに同行する。発電機は電気のない昼間の無線交信のために必須だ。発電機はアメリカ製のものをあちこち修理しながら使っているので、外観からすればかなりのオンボロ品といってよい。市街地を走る乗合自動車と変わらない。けれども、とにかく動く。動くように修理をするので使えるわけだ。これを修理するためにKさんは何度か海軍に呼ばれている。氏は実践派だけれども別に機械の理論を知っているわけではないから、日本で言えば日曜大工に毛のはえたようなものだ。しかし、すでに76歳になるこの実践派旧日本兵の双肩に、インドネシア海軍の情報網の一画が担われていると考えると悲愴だ。
午後、疲れて寝る。夜、アサイさんの叔父さんでTualに住む中国人の家に食事によばれる。彼は真珠の養殖で日本人と共同し、昨年日本へ行って1千万円ほど稼いだという。この日本人たちはDoboの日本の真珠会社で働いていたのを辞め、いわば国の秘密である真珠養殖の技術を売ったわけだ。それでアサイさんの叔父さんはTualの向かいの島で真珠の養殖をはじめた。昨年の日本行きは、その最初の成果だった。食事は肉ばかりで油こく、すこし食べると食傷した。子供の誕生日ということで、このTualのどこからあつまるのか、着飾ったうら若い中国人の女性がたくさんいた。
この会の後、たまたまTualに遊びに来ていたUwatのOrang Kaya、ウェレルブンの家へ行く。彼は親切で温厚だと感じていたが、この夜の会話でその理由がわかった。彼は敬虔なクリスチャン、いわば理想的教条主義者で、K氏の二人の奥さんのことを誤った道だと非難する。人道主義のKさんはもとめられるままにモスレムの二人目の奥さんと結婚式をあげた。これはキリストの教えにそむき、またK氏の手は首切りの血を浴びているから、いままで男の子宝にめぐまれないのだと言う。私たちはお祈りをし、お祓いをする必要がある。そうすれば男の子が産まれるだろうと諭すようにかたった。
7月 1日(火) 快晴
Kapal Perintis(開拓船=国が所有する輸送船)は前日の朝からTual港に停泊していた。朝8時半、意気揚々とこの船に乗り込む。いよいよケイを出発できる。6月1日にアンボンから飛行機で到着してからすでに1ヶ月になる。その間、ほとんど2週間は無駄に使った。二等でよいとおもって船に乗り込んでみると、通路という通路に荷物とすわりこんだ人があふれている。このぶんでは客室にはウンカのように人が群れているだろうと恐れながら船中を歩き回るが、一般客室というものはない。インドネシアは多民族国家というが、学校教育やテレビの普及したいま、共通言語が話せるのは常識だし、文化的なヴァリエーションも形をうしないつつある。そのかわり、現在のインドネシアにはふたつの民族があるきりだ。金持族と貧乏人族とで、このふたつの文化異相はインドネシアのあらゆる社会的局面において著しい対照をみせる。
Kapal Perintis は定員375人の乗客を乗せられることになっている。特別料金の個室客室は4室あって、約8名泊まれる。また、地下のエンジンルームの前に小さな2段ベッドが12個、2室に分けて窮屈に並べられてあって、ここに24名泊まれる。これも特別料金(料金体系はないので、乗員との交渉による。ぼくはTualからレティまで乗り、5万RPと請求されたのを4万RPに値切った。しかしまた、レティより先のキサールに住む学校の先生は、行きは17,500RPで乗ったのに、帰りには23,000RPになったとぼやいている)がいる。
さて、問題は他の343人の乗客たちの行方だ。乗客室というのはどこを捜してもないので、彼らは通路という通路、船倉の貨物室の隙間、船倉に被せられた板の上、甲板など、ありとあらゆる空間をみつけ、ゴザやビニールを敷き並べ寝転がる。夜、トイレに行こうなどとおもうと大変だ。扉をあけたすぐ下に、子供を3人も引き連れた母親が食事の鍋や皿を一面にひろげて寝ていたりする。寝ている人間の体と腕の隙間、股の間、鼻頭の脇などにそっと爪先を差し入れ、つぎに行くべき空間を吟味しながら進まねばならない。万一、足を踏み外し、つぎに進むべきところが子供のお腹の上だったりしたらもう大変だ。そして、万一トイレのある場まで達しえたとしても、まだ気を抜いてはいけない。金持族と貧乏人族との間には信頼関係がないから、たいていのトイレには鍵がかかっている。その鍵は一部の船員や個室客室の客だけがもっている。だから、彼らは自分の望むときに望むだけの水をつかってマンディや用をたし、彼らの慈悲によって鍵を開けられているときにかぎって、われわれはそのオコボレにあずかるわけだ。タニンバルに住むある学校の先生が言うには、この船は客船でなく貨物船であり、貨物船にわれわれは乗せさせてもらうにすぎない。インドネシアでは、人間の価値は貨物や動物とおなじであり、この船の帰路には、われわれは羊の群れと一緒に、その隙間で眠らねばならない。いまに羊のために飛行機が飛ぶようになるだろう。
船中ではレティやキサールの人間に出会う。彼らは親切にぼくを彼らの村にさそってくれるし、情報を得ることもできる。その情報はけっして正確とは言えないけれども。
バリを出るときには、マルクにはマラリアがいるから薬を持って行くように言われた。アンボンに着くと、ここにはマラリアはないが、ケイに行くと危険だから注意しろと言われた。ケイでは、ここは安全だがタニンバル・ケイはあぶないと言う。タニンバル・ケイへ行くと、テンガラ・ジャウー(Maluku Tenggara 南東マルク県のなかでタニンバル諸島より西にある島々、現在の西部南東マルク県)はあぶないからマラリア錠を是非買うように注意される。レティの人間に訊くと、レティにはマラリアはないが、キサールにはあると答える。それでキサールの人にたずねる。キサールは安全だけれど、ウェタールに行くならマラリアの薬は持って行ったほうがよいと言われる。これは神話の機能とおなじで、一種の社会アイデンティティの確立に一役買っている。
ウェタール島に小人族の住む村がある。彼らは独自の言葉を話し、洞窟に住む。昼間はおそれて外出せず、夜になると海岸沿いを歩きまわる彼らの人影を見ることができる。彼らの身長はおとなの膝頭ほどしかないのに、顔には髭をはやしている。これは小ケイ島のPUに勤めるヤムコが自らの目撃談として語ってくれた。
またキサールに住むAnggota DPR(国会議員)によると、ウェタールには耳の大きな民族が住むという言い伝えが昔からあるが、彼は自分の目で確かめたわけではないので、これを信じないと語った。
マゼランの一周記に伝える耳の大きな小人の住むインドネシア東方の島というのは、どうもウェタール島のことらしい。果たして、彼らが眠るときに、その大きな耳にくるまって眠るかどうか確かめねばなるまい。
7月 2日(水) 快晴
午前11時、Saumlaki着。地下客室は機関室の横だ。騒音と熱気、おまけに小さな丸窓がひとつあるきりの空間に洗濯物を吊し、ベッドのあいだの空間には子供連れの客がゴザを敷いて寝る。というわけで、サゴとコプラと汗のまじった臭気と熱気で眠ることは容易でない。ベッドは狭く、天井が迫り、シーツは湿気をおびて臭い。
Saumlakiで米の積み卸しのため出発は午後9時となり、町の見学に行く。Saumlakiの町は一本道だ。道の両側に中国人の店がならぶ。道幅がひろく、埃をけたてながらトラックやバスが走るので西部劇のセットのような印象をあたえる。これらの店はTualやElatの例にもれず、どれも特色のないナンデモ屋だ。どこへはいっても同じ物しかおいてないのに店の数ばかりあっても仕方がない。誰も知友があるわけではないので、道ばたに腰をおろしていると、おなじ船で降りてきたブギス人に声をかけられた。中国人があちこちにネットワークをめぐらすように、ブギス商人も昔から商業活動でならしてきた。したがって、彼はみずから商人であることを誇りとしている。Saumlakiに住むブギス人の家でマンディ後、船にもどる。
乗客の多くがSaumlakiで降りた。空間ができると商人たちが店開きをはじめる。船倉の天井板の上に屋根をかけた空間が多くの乗客たちの寝床となる。この船舷側に棚をならべ、縁日の露店のように商品をならべる。タバコ、石鹸、お菓子、飲物、衣類、薬、日用品など、AmbonやTualで仕入れ、船内で売る。彼らはこの船の赴くままに生活をともにする。このブギス人の仲間のもとで休んでいた時に、日本の工業技術の話がでた。相手が日本人だとたいていこの話がでる。日本はいまや世界一だ。日本人は頭がよい。云々。
昨夜、キサール島の国会議員の個室で、オランダに住むというキサール人の話を聞かされた。彼は日本の工業技術がいかにすぐれているかをさかんに僕に向かって話してきかせる。その内容は幾分の真実と誇張、なかば期待のまじった幻想にみちている。日本ではロボットがすべて仕事をし、人間ははたらかなくてよい…。日本のおかげで有色人種の地位が向上した…。いまは1位日本、2位西ドイツ、3位アメリカの順だ…といった内容。その彼も、僕が日本人だとわかると早々に引き上げてしまった。
また、この船の船員のひとりは、かつて日本に行ったことがあると自慢する。多くの乗客の前で彼が語るには、日本人は混んでいる電車のなかで、男も女も新聞や本を読みふけっている。インドネシア人は仲間があつまってダラダラとおしゃべりするだけだ。これではインドネシアが進歩するはずがない、と日本賛美をする。朝6時に起きて動き始めるのは勤め先が遠いからで、電車のなかでも必死に読みふける本の内容が、松田聖子と郷ひろみの結婚話しだとか、前日の野球の結果だったりするということを僕はあえて説明しなかった。
7月 3日(木) 曇、雨
朝7時半、Masela着。前夜より波高く、船舷の窓から海水が流れ込むという理由で、この部屋の唯一の小窓は閉じられてしまった。ただでさえ息苦しい空間はとてもおとなしく休んでいる状況でなくなる。目がさめるとともに吐き気と肝臓痛。外に出て外気を吸うとようやくおさまる。天候は悪化、黒い雲が東の空からせまっている。波はさほどでもないが、風がはじまる。海もおだやかでない。Maselaの家屋は妻を海に向けてならぶ。高床住居のようでもあるがよくわからない。
今年の5月頃、アンボンからTualに向かう航海中、このおなじ船室に寝ていた男があまりの暑さのために目をさました。彼は外気を吸うために外に出、しばらくして上半身裸になってふたたび床に就いたという。彼は二度と目をさますことはなかった。
Saumlakiを離れると、埠頭のある港というものはない。各島に到着すると、海岸から遠くはなれて投錨する。すると、村から幾艘ものカヌーが漕ぎ寄せる。船に乗るための乗客というのはすくない。彼らは、船内に開かれた露天の列を歩きまわり、2週間に1度の物品の買い入れをこの船でおこなうのである。島の産物(オレンジ、鶏など)をこの船に持ち込み売る者もいる。こうして2時間ほどの停泊時間が終わると船は汽笛をのこして島を離れる。
船のなかを歩きまわると、船中の人間から声をかけられる。ドコヘユク?ドコカラキタ?モクテキハナンダ?トシハイクツダ?ケッコンシテイルカ?コドモハナンニンダ?といったお定まりの質問に繰り返し答えねばならない。
ババール島のTepa到着は夕方4時。霧雨のなかを雲間から太陽光がさし、全天180°の虹が二重にかかってみえる。Tepa発は夜中の1時となり、この沖合で9時間もとまる。
夜、オランダ帰りの昨日のキサール人にまたつかまった。彼は多くの乗客たちを前に身振り手振りをまじえ、まるで昨日見てきたかのように世界の情勢、ことに日本の話をする。この乗客たちのなかにイリアンの鉱山で働いてきたという男がいて、この男の合いの手がすばらしい。彼は自分もまた見てきたかのようにキサール人の話をよどみなく繰り返すことができるうえに、しきりに感嘆の声援をおくる。日本では子供のときからカメラを持ち歩き、自分で現像できる。日本人は子供のときから空手や柔道の訓練をおこたらない。日本の女性は背中に団子のついた服を着て内股に歩きマニス・スカリ(とても可愛い)。東京の人口は2千万で、いまやニューヨークやパリをしのいで世界一の都会だ。ジャカルタ-スラバヤは日本の電車だったら45分ですむ。日本人は死ぬことをすこしも恐れていない。戦争中、飛行機ひとつで敵の戦艦を沈めた。原爆さえなければ、いまごろインドネシアの首都は東京で、もっと発展した国になっただろう。このふたりの掛け合い漫才は夜更けてまで延々と続いた。僕はいわば日本国の代表になったかたちで、彼らの横につきそっていねばならない。いい面の皮だ。彼らの誤解を解こうとしても無駄だ。すでに日本に対する幻想のほうが完成されている。私は空手も柔道もできませんと答えると、日本人は自分の能力をかくす美徳をもった礼儀正しい民族で、インドネシア人がすぐ自分の肩書きをひけらかすのとはちがう、とキサール人。そうだろうそうだろう、だから日本は先進国になれたんだろう、とイリアン帰りの男、といった案配。
7月 4日(金) 曇、雨 Serwaru(レティ島)
午前6時40分、セルマタ島着。屋根のセン葺きはないが、地床の近代住宅しかない。8:00発。このセルマタ島からルアン島まで島が連なり、引き潮の時には陸続きになるという。セルマタ島西方の小島ルアンは南東マルクのほとんどの島の住民の渡来の地とされる。島の東と西に村があり、いずれもふるい伝統をのこすという。島全体は赤土色の地肌があらわれる。それで、ここには石油があるとも。他の島がほとんど珊瑚の隆起によって生じ、一面に草木に覆われているのとくらべると、この島の景観はよほど異なる。
13:10ラコール島のSera着。高床住居はない。この島の住民は鶏、山羊を売りに船に乗り込む。売った金で必要な物資を買い入れ下船する。ラコール島はまな板のような扁平な島だ。ここからモア島はすぐ目と鼻の先に見える。Seraの集落は背後を椰子の木に覆われている。島の他の部分に椰子の密集したところはないから、村人の管理になるものだ。
船内には、小さな乗客向けの食堂と、その隣りの船員向けの小ぎれいな食堂がある。船員向けの食堂には椅子とテーブルが並べられ、テーブルの上にはいつも料理の大鉢がいくつかのっていて、船員たちはここで食事をしながら優雅にたむろしている。いっぽうの乗客向けの食堂は木の机の四周に木のベンチをとってつけたもので、一皿のてんこ盛りメニューを出す。初日が大盛り飯の上にナスのブッタ切り煮と目玉焼き、続いておなじく飯、ナスのブッタ煮、茹で卵、つぎが飯のうえに牛肉の角煮、つぎが飯のうえにイカの姿煮とナスのブッタ煮、つぎが飯のうえに缶詰のイワシとナスのブッタ煮だった。裏の調理場にまわるとソーゼツなもので、蝿はたかる、汚い洗い桶の水で皿を注ぐ、肉片はちらばる(これは後で拾って調理するに相違ないが)といった有様だ。この食堂のほかに、小さな売店でコーヒー、紅茶とピサン・ゴレン(揚げバナナ)、シンコン・ゴレン(キャッサバ芋のチップ)などのファーストフード(?)を売っているから、所在ないときは、ここで異常に甘いミルクコーヒーをすする。例のオランダ帰りのキサール人の場は近く、彼はたいていこの近辺で講演を繰り広げている。
Serwaru到着は夕方6時40分、すでに日は落ち、サンパンに乗り移る頃には真っ暗闇となった。海岸まではかなりの距離がある。暗黒の海のなかを左右両舷にすわった4人の男が櫂で漕ぎながらはしる。途中からひとりの男が船を降り、体の半分まで水につかりながら船を誘導する。けれども積み荷が多いから船はすぐに浅瀬に乗り上げる。水深はまだ股の位置まである。ここから水のなかを荷物をもって歩かねばならない。浜辺に見える明かりをたよりにすすむ。砂浜までたどり着き、ここで同じサンパンで到着した人びとと合流する。肝臓が痛む。船のなかで何人かの人間が自分の家に泊まれと言ってくれたけれども、下船のドサクサでみな自分のことでいそがしく、結局、僕を家まで案内してくれたのは警察の自称副所長だった。ここの警察は全部あわせてもわずか8名で、所長はジャワ人の若造である。彼が出張のときは、現地人の彼が所長代理となるからいわば副所長なのだ。
真っ暗闇のなかで、右も左もわからない道を歩き、警察寄宿舎に到着したときには相当疲れていた。夕食を食べていないと言っておいたので、用意してくれたゾウムシ入りの飯と胡椒の異常にきいたマカロニスープ、味のないクルプックの食事をとり、早々に寝た。
7月 5日(土) 快晴 Serwaru(レティ島)
早朝、警官に連れられ市長に挨拶。彼も昨日家族を連れて前任地のSaumlakiから船で到着したばかりで、引越しの真っ最中。親切に各村宛の書類を手配してくれた。彼はSaumlaki(Kec. Tanimbar Selatan 南タニンバル市)の副市長を5年務めたあと、レティ島(Kec. Letti Moa Lakor)の市長として赴任したアンボン人。前任の市長はTepa(ババール島)の市長として転任した。
Serwaruの村には井戸がある。けれども塩辛いというので飲料水は毎日2km離れた山中からかついではこぶ。この家はTutukeyの女性に金をはらい、水をはこんでもらっている。また、この警察官舎には雨水溜の大きな貯水槽があってマンディにはこの水をつかう。水は硬く、石鹸はなかなかおちない。
Tutukeyの村はSerwaruの東の小高い台地上にある。SerwaruはかつてTutukeyの港であったのを市の中心として開発した。SerwaruからTutukeyに至る斜面を登り切ったこの村の西のはずれにmesibeという石積みの基壇があり、村人の儀礼的会合はこの「村の中心」でおこなわれる。このmesibeの脇にはガジュマルの大木がある。Tutukeyは1983年に火事で村の西半分が焼けた。このときに多くの伝統住居もうしなわれた。ここの伝統的住居形式はフィリピンのボントク(ルソン島の山地民)に似る。建物は東西を向く入母屋形式で入口はこの妻側、東と西にある。東の妻側には小さな露台がもうけられ、ここにも屋根がかけられる。建物は地床形式だが、なかにはいると東と西に高床のベッドがあり、中央部は8~14本の柱で支えられた高床建築である。床上は祖先をかたどった彫刻やトーモロコシなどの食料の保管場としてつかわれた。これらの彫像の多くは、ベルギー人のJohn M. Pierretという社会学者によって1972年に持ち去られてしまった。
Tutukeyに古い形式の住居は現在5棟のこる。地上から棟までの通し柱のあるものがRumeh Darwuru、Letwatu、Tunmati(1927年建設)の3棟。他の2棟、Watpipi(1910年代頃)とWaewawan(1940年代)は4本×2列の柱にのった高床構造の上に2本の真束柱を建て棟を支える。もっとも古いのはDarwuruで2本の通し柱、高床を支える12本の柱という他に例のない形式。外周に板柱をめぐらし、壁板を横張りにする。建物は天井低く小ぶり。Letwatuはやや大型で、高床も高い。改変激しい。東側室内を壁で囲い仕切る。扉を南北、つまり平側にももうける。扉を南北側に追加する例は他にも多く見られる。いわゆる近代住宅が平入りであるための影響か。Tunmatiは通し柱形式ではあるが、高床部は建物全面におよび、このため一見すると2階建家屋と変わらない。これも天井高く大型。Darwuruの調査。付き添いの警察官氏が寝てしまったため、昼食になかなかありつけず、調査どころではなかった。
7月 6日(日) 快晴 暑い Serwaru(レティ島)
Rumeh Darwuruの調査続き。
レティにもいわゆるカーストは残る。王族のmarna、平民bur、下民stamと言い、プロテスタントの普及や民主主義教育のためにケイ諸島ほど目立った影響を社会生活におよぼすことはなくなった。カーストは主として結婚規制や心の中の感情としてのこる。現在では、王族以外から優秀な人材が輩出し(Drs. Ir. など)、政府は有能な人材を登用するからburの下でmarnaが仕事をするというようなことがおこる。そうすると、政府機関は円滑に機能しないという。Tutukeyも焼失した村の西部は主としてこうした低いカーストの人間が住む。現在、王族の住む村の東部が貧しく、昔ながらの生活を続けるのにたいして、村の西部には煉瓦積みの近代(高級)住宅がならぶ。王族は怠け者だから、王族としての社会的な特権・財産をうしなった今、ただその特権意識のみで生きる。それにたいして、低カーストの者は熱心にはたらき、王族より豊かなくらしをいとなむのだと警察のハノック・ツァヘウスは語ってくれた。彼自身、Nuwewanの王族の出だし、奥さんは王の妹だ。彼の長男はTualの工業高校にいる。この長男ができるかぎり教育をうけ、僕のようにしかるべきタイトルをとり、島に帰ってその能力を島の発展のために生かしてくれるというのが彼の希望だ。軍人や警察官など、仕事にしばられ何もできない。俺が自由にジャカルタへ行き、ディリに行けるのはいったいいつのことか。それを待っていたら人生は終わってしまう、と彼は言う。彼は警官に似ず公務員であることに批判的だし、教育や民主的ということに熱心だ。彼の月給は約14万RP、月に米と衣服が支給される。服務は20日間と決められているらしいが、このような島では陸上交通の便はないし、任務のあるときは村から村へ歩いて行かねばならない。それで離島などへ巡回に行くと、すぐ20日間を超えてしまう。
レティ島には日本時代の遺物が多い。Tutukeyには日本時代の官庁舎の建物が残っていた。日本の遺産のなかでも、もっとも村落生活にとけこんでいるのは、この土地でware jepang(インドネシア語のcawat)と呼ばれる赤フンドシだ。村の慣習的儀礼、あるいは独立記念日(8月17日)の儀式の時には、村人たちはみな伝統的衣装であるこの赤フンドシに身をかためて踊る。
7月 7日(月) 前夜より雨、朝曇のち晴れ Serwaru(レティ島)
Tutukey村のPem. Negeriはいい歳をしたジーサンで何を訊いても答えは要領を得ない。警官のツァヘウスは人はよいけれども、物事の白か黒かを自分の判断でつけてしまう。おまけに声が大きく出しゃばりだから、彼が説明をはじめると村の者は沈黙してしまう。こちらは村人の説明を引き出したいのであって、彼の話を聞きたいわけじゃないから、できれば彼に引っ込んでもらいたいのだ、ということをお互いに貧しいインドネシア語で角の立たないように説明することは大変だ。
午前中、Rumeh Darwuruの持ち主の老婆を訪ねる。彼女は村で有名な布の織り手で、われわれの訪問時にも布を織っていた。ついでに糸のつむぎ方、染色の仕方、模様の出し方の説明を受ける。午後から家の調査の続き。
Desa Tutukey むかしはTutuwaruをふくんだが、現在は独立した村desaとなった。また市役所があるSerwaruは本来はTutukeyにふくまれる。人口統計上は除外。
533人、103家族、家屋棟数未詳。
村には3つの大マルガがある。Lakursera Anwata、Srupunは王族のmarnaで約40%、Riskei Rumkesarは下民のstamで60%をしめる。
母系妻方居住。結婚後、夫は妻方の家屋に居住する。子供たちは妻の大マルガに所属する。家屋は長女が相続。しかし、妻は夫のファームを名乗る。これはファームとマルガの混乱をもたらすはずで、この慣例が近代化、とくに戸籍の作成による便法かどうかはツァヘウスの出しゃばりのためについにわからなかった。彼の説明は彼の解釈にもとづくことはあきらかで、僕に混乱をもたらすばかりだ。もっとも、その彼によると、母系制をとる村はレティ島周辺でTutukeyだけだという。
家屋は一般に正面妻側(露台のある側)を東に向ける。このばあい、主人の座は東側の高床ベッドとなり、成長した子供たちは西側、老人は外の露台で寝ることになる。しかし、一部西に正面を向ける家屋があり(Letwatu家、Suame家)、このばあいには主人の座も逆転する。
家屋には神聖視される梁がある。これは高床を中央左右で東西方向に支える。これにはヤシの木のなかで特殊なものがつかわれる。この木を切り倒し、成形した後、地面に横たえることは厳禁され、そのまま歌を歌いながら村まではこんで、幹の根先を正面(東側)に向けるように柱上に据える。この梁の現存する家屋はTutukeiには一棟(Darwuru家)しかない。
LはWatrouw(大マルガSrupun)の出。隣村のTombraから夫をむかえたが、子供なく、妹の娘Pを養子にもらう。家屋を新築し、旧家屋には現在居住する者なし。夫のSの姓(ファーム)はMarantaで、Lは夫の姓に変わり、L.Marantaと名乗るが、マルガの上では妻、夫ともSrupunに所属する。子供の姓もMarantaになる。
7月 8日(火) 快晴 Werwaru(モア島)
モア島へ向けて出発。8時、市長の家へおもむく。
「きょうモアへ向けて出発しますが、村長宛の手紙はどうなっていますか?」
ここの新任市長は親切だ。いまから私が役所に行くからちょっと待っててくれと面倒見がよい。道中を急いでいるからとそれを慇懃にことわって市役所へ。係の者がまだ出勤していないので受付に訊く。その書類ならば土曜日にモアの者が来たのですでに送ったあとだという。僕が書類を頼んだのは土曜日の朝だからずいぶん手回しがよいものだと思いながら念をおすと、間違いないと言うので家へもどる。遅れてもどってきたツァヘウスにこのことを告げると、彼は笑いながら書類を3通取り出して見せ、副市長の家へ行ってきたところだという。呆気にとられて物も言えず。
2日前に市役所に勤める出納係?の男が死んだ。昨日は葬式で、これは村の者が参列し、別にどうということもない。面白いのは、帰ってきたツァヘウスが言うのに、日本で金庫の開け方を学んだか? 僕はドロボーでないからと答えると、金庫の番号がわからないので学校の先生の給料や俺の給料も支払われずにいる、と話しはじめる。死ぬ前にくだんの男は金庫を開けようと試みたという。けれども病魔はすでに彼の頭をむしばんでいたのだろう。彼は、自分で組み合わせ、妻にも打ち明けなかった金庫の番号をついに思い出すことができなかった。鍵はある。たんに番号がわからないだけだとツァヘウス。なかには300万RPが眠る。
8時40分Serwaru発。西に向けて徒歩30分で隣村のTombra到着。あと3年で退役するという陸軍下士官マックスの家に立ち寄る。彼はこの地区のBabinsa(Bintara Pembina Masyarakat=社会育成下士官)で、Tombraの港から出港する船はすべて彼の許可証がいる。それでダマール島へレモンを仕入れに行くという大型の帆船に同乗し、モア島で降ろしてもらうように手配済みだ。マックスは地区司令官に似合わず金持ちだ。家は大きく、こうした地域の例にくらべておそろしく美麗に飾られている。家の壁という壁に、あるかぎりの自分や家族らの写真を貼り付けるのは常套として、造花、貝、亀の剥製、ラジカセ2台、配線されない大型スピーカー(中身はカラか?)などが所狭しと置いてある。下腹が大きく突き出し恰幅がよいのは、やせぎすで神経質なツァヘウスといい対照だ。そして、この地区司令官までわれわれの道中に同行してくれる(?!)という有り難い話だ。おかげで警官と軍隊の護衛付きの珍道中となった。彼の家で豪華な昼食をとる。豚、犬、焼き魚、揚げ魚、芋、スーパーミー(インスタントラーメン)、ご飯と並べられた皿の列を見てツァヘウスが言う。Serwaruでは皿はいつでも3つしかないのに、Tombraはこんなにたくさんある。われわれはツァヘウスの家でいつもご飯、クルプック、魚、野菜スープしか食べていなかった。
ダマール島行きの船はタニンバル・ケイ島行きの帆船とくらべて格段に大きい。6m×14m、マストの高さ15mほどもある。ダマール島にはセメントを積んで行き、帰りにlemon manis(甘いレモン)を積んで来るという。Tombra港発12時過ぎ。当初の予定ではSiotaまで行って降り、Tounwawanまで歩くことになっていたが、風の方向が悪い。結局、Kaiwatuの港で下船。3時半。ここでこの地区の陸軍Babinsaに挨拶。彼は書類は本来、、、と、わけのわからないイチャモンをつけ、抹香臭い話しぶりだ。ともかくこの関所を無事通過。Kaiwatuを出たのはすでに4時をまわっていた。ここからKayu Jati(チーク)の林のなかを約4時間ちかく歩く。道は所によりぬかるみ、所により岩肌の固い道で、重い荷物を背負って歩くから足が痛い。デブの軍人と痩せで骨ギス、長身の警官が僕の前後を歩く。彼らはほとんど手ぶらにちかい。猪八戒と沙悟浄と荷物を担いだ三蔵法師といういでたちでWerwaruという村についたのは夜7時半。途中から暗闇のなかを懐中電灯の明かりをたよりに歩いた。休憩もできず、死ぬほど疲れた。
7月 9日(水) 夜半雨、曇 Tounwawan(モア島)
Werwaruの村は豊かだ。家屋は綺麗に区画整理され、道に沿って木が植えられている。村長の家には今までに泊まったどの家より贅沢な家具がおいてある。村に来る途中で見たKayu Jatiの林はこの村が所有するもので帆船を送るから日本と貿易しようと言う。
朝、足が象のようにふくれるマラリアの男が来る。この村でKaki Gajah(象足)と言い、今まで6人の患者がいる。彼は10年前にこの病気にかかり、周期的に足の付け根から足全体が痛み、寒気がするという。村長は日本の協力で製造されたというこの病気の予防薬アンチ・フィラリアの缶を見せてくれた。けれども、この男のように金のない者は、時々病状の重いときに薬を飲むくらいなものだ。パパイアの葉がマラリア(この地域全体で熱の出る病気はなんでもマラリアという)に効くともいう。
Werwaruの村で1949年建設という(この村で一番古い)Rom Natreonnaを見る。この家の構成は、昨日レティ島のTambraで見た家屋と同一だ。平入り、入口側に小さなベランダ風の空間をとり、室内に間仕切りをもうけ、2階床を全面にはるのは、伝統から現代化に向かう空間構成のひとつのプロトタイプらしい。
9時20分、陸軍のマックスはとうとう音を上げて直接Siotaへ向かい、ここで船とわれわれを待つという。この彼をのこし、Klisへ向けて出発。道は岩がちで足もとがふらつく。警官のツァヘウスはWerwaruから案内の男にしっかり荷物を持ってもらって(彼は注射の技術を学んでいるとかで、やたら薬と注射を鞄につめ、村々で病人を見つけてはこれらの薬で金儲けをするつもりだ)、こちらが半死な状態で歩いているのに目もくれない。かれこれ2時間でKlis着。村長は死亡、副村長は昨日村を発ったということでたよるべき者もない。さいわい1947年建設という比較的古い形式の家が見つかり、3時間ほど簡単な調査。この家で昼食にありつく。飯、インドミー、トーモロコシと小豆のお粥。15時30分Klis発。はるかに見えるGunung Karbau(水牛山)に向けて大草原のなかを歩く。赤黄色の重い石がごろごろところがり、この山には木が生えない。それで石油があるという噂もある。鉄かもしれない。ここにKlisとTounwawanの水牛が放牧されている。道がわるいため、足の裏にはすでにいくつものマメができ、肩と首は重い荷物のために痛い。
Tounwawanの村はGunung Karbauの東側の麓にあり、われわれは北岸からはいり、東に向けて歩き、この山の南側をまわりこんで村に達した。この日4時間半の徒歩。
Klisの村は豊かだという。けれども金の使い方を知らないと警察官。ここは祭り好きで、昨年の葬式では水牛を12頭殺した。一頭約15万RPで、これは約200万RPの散財だ。これで発電機を入れるか、モートル船を買えばよほど近代化するだろう、とこの警察官とアンボン帰りの調査家屋の主婦が話す。
Klisの1947年建設の家屋はRome Prilulu(Prilulu家)という。大工はアンボンで建築の技術を学んできたらしい。構成、構造はTutukeyのRumeh WatpipiやWaewawanなどにちかく(外の露台はないが)、3×2の柱列にのった高床構造が室内に取り込まれている。高床部壁構成はボントク(ルソン島)の家屋に似て、横板を校倉に組んだもの。ところが、この大工は建築の細部の意味を知らずに真似ているためか、おかしなところが散見する。マニエリスム。たとえば、扠首と垂木をそなえていながら、両材とも棟木の上に同様に乗っかってしまい、扠首の機能はない。2階部に壁柱をもうけ、横板壁を受けるが、この柱の下部の納まりようがなく、途中で切れてしまう。
7月10日(木) 曇、雨 Tounwawan(モア島)
Tounwawanは由緒ある村だが古い家は大戦中に爆撃を受けてみな焼失した。Pem.Negeriは人のよい老人で、WerwaruのPem.Negeriにくらべるとはるかに貧しい。ここのトイレは、ヤシの茂みのなかにヤシの葉を壁代わりに打ち付けた高さ1mくらいの小さな囲いがあって、ここに大きな穴が掘ってある。なかには高さ1mくらい糞尿がたまっていて、いわば肥溜めになっている。この穴の上に板を二枚ならべて、ここに腰をおろし、後ろの肥溜めに向かって排泄する。ここでは返り水?を避けることはできないし、ヤブ蚊の群れに襲われるので長居も無用だ。
Tounwawan領内のDusun Poliwuに古い家が2棟あるというので馬の背にまたがり出かける。足の裏にいくつものマメができ、ビッコをひいているのを見かねたPem.Negeriが馬を出してくれた。Pem.Negeriの息子が手綱をとり、僕は黙って後ろに乗っていればよい。と、思ったのはとんだ誤りで、馬の背にボロ切れを被せただけの上にまたがるわけだから、馬の尖った背骨はこちらの尾てい骨とぶつかり、たちまちお尻の皮が破けそうになる。この苦痛に耐える緊張のため体中に力がはいってしまう。わずか30分の道中を往復しただけで、青アザができたと思われるほどに、これを書いている今も痛い。
Poliwuの家は、残念ながら昨年強風で倒壊したということで屋根がなく、軸組、壁構造だけの調査。Klisの家屋と同形式、ただし、外の露台をもつことはいっそう原形にちかく、聞き取りの範囲では、棟束をもたず扠首で棟木を支える。高床部には4本の束柱を建て、これはもやとラーメンを組んで小屋組を支えるらしい。
Tounwawanでは日本時代までは陸稲を収穫していたという。これは赤い米で、トーモロコシはなかった。現在、この陸稲の場所は水牛が放牧され、牧草がはえるのみだ。この村では、Lemon Manis というJeruk Lembangに似た(グレープフルーツのような食感)オレンジがたくさんとれる。警官のツァヘウスはわれわれのために用意してくれるこのオレンジをひとりでパクパク食べる。食べかすは家のなかにまき散らすし、勝手放題にしている。警察官の権威なのか、彼自身の性格によるのかわからないけれども。
モア島には5つのカーストがある。marna lalawanは王のなかの王というべきもので、ファームはひとつしかない。Werwaru、Tounwawan、PattiのPem.Negeriがこれにあたり、Lico(リコ)を名乗る。つぎが諸王で、lalawanの下の領土をおさめる。marna kekehといい、Klis(姓 Baker)、Kaiwatu(Pol-Bartalimeos)、Wakarleli(?)、Moain(Hgertua、Rinpar、Wonlainmeha)のPem.Negeriだ。たとえば、KlisにはBakerとLicoの両ファームがあり、これはどちらが王位についても構わない。つぎがwholeで、僧侶(ohrera)とTuan Negeri(orleteという)のふたつの立場がある。最多数をしめる一般住民はersukun、その下の奴隷はaateと呼ばれる。aateは多く東ティモールから連れて来られた色の黒い民族がなったが現在ほとんどいない。Tounwawanには無く、Werwaruに少数のこる。現在は、民主主義とキリスト教の普及で結婚規制がのこる程度だという。
かつてヒンドゥーであった村には、村の中心mesibeに巨木と巨石がおかれる。TounwawanではこれをNatarwawanという。
Tounwawanの王の息子はガジャマダ大学で学んだことがあるという。建築を志すが、わずか1年で、本人の弁によると経済的理由でやめたという。この村で学校の先生をするレティ島のNuwewan生まれの男によると、王の子供たちはみな頭がよいけれど、何かが頭を妨げるらしく、みな途中で途切れる。例の息子はジョグジャカルタ、ジャカルタ、バンドン、スマランで学んだことがあるが、スマランから真っ直ぐに引き返してきたらしい。そういえば、こちらの質問に答える時に、はじめの言葉が出るまでに苦労するらしい。だから、ちょっとドモリのようなところがあるかと思うと、映画で見た日本やドイツの話などをするとき、彼は能弁で、憑かれたように話題は尽きない。彼の笑うときは唐突で周囲から浮き上がり、ちょっと異常な雰囲気をあたえる。近親結婚のゆえか、その彼はまた異常な熱心さでキリストの教えについて語るのだった。
7月11日(金) 雨、曇 Serwaru(レティ島)
ツァヘウスは昨日の夜から船の手配のことしか考えていなかった。ここに3ヶ月いたくなかったら船に乗ることを考えろ、という彼を仕事が先と説得して昨日までいた。その仕事も昨日で終わってしまったので、帰りの船を考えないわけにいかない。Tounwawan近くの港Wetに2艘の帆船があるということがわかり、これをつかまえる。渡航パスは村にあるので出発前に村に寄らねばならない。そこをつかまえるのだ。
午前中、とくにすることもなく建築に使う木の見学。昼食後、村を出発。昨日までマメのためビッコをひいて歩いていた足もきょうは回復している。ツァヘウスはひとりで馬に乗り、レティから持ってきた拡声器(警察用の)で奇声を発して牧草を食べる水牛や馬を追い払い、汽笛を鳴らして喜んでいる。周囲の者はこれを見て苦笑するばかりだ。村から3人の供の者がついたおかげで、僕は手ぶらで歩く。1時間ほどののどかな行軍の末に村の港に着いた。港といってもヤシの葉で葺いた小屋が2棟あるばかりだ。昨日来の雨で海は荒い。遠く沖合で2艘の帆船が前後に30°位の角度で揺れている。浜辺で半ズボンとサンダルに着替える。この2艘がわれわれの到着を待つかのように帆をはり、走りはじめた。ツァヘウスが拡声器でがなりたてる。
「そこの帆船、乗客が浜辺で待っている!」
そのうちの1艘が引き返すかにみえた。われわれはカヌーめがけて走る。カヌーは小さく、波は激しく浜辺にうち寄せる。荷物をのせ、カヌーにしゃがみ込む間に、荷物も人も波をかぶってびしょ濡れになった。沖合の帆船めがけてカヌーを漕ぎはじめる。波高は約2m、カヌーはこの波をかわしながら沖合にすすむ。けれども、例の帆船との距離はいっこうに縮まらない。帆船はスピードを速め遠のいてゆく。ツァヘウスがののしる。
「仕方ない、浜に引き返せ!」
僕はカヌーの転覆しないことを祈るばかりだ。転覆すれば調査道具、書類、カメラ、モアでの調査資料がすべてうしなわれる。命はたすかるだろうけれども。波が後ろから押し寄せるために帰りははやい。けれども、ツァヘウスが中腰でふらふらと揺れるたびにカヌーは水をかぶる。僕のほうはケイで引っ繰り返った経験があるから、ズボンが濡れるのもかまわずカヌーの底にすわりこんでいる。命からがら(という言葉通りに)浜辺にたどり着いた途端、またしても大波の直撃をうけた。荷物はほとんど海水をかぶった。ズボンも下着もびしょ濡れ。船は行ってしまう。重い足を引きずって、これからBabinsaの待つSiotaまで2時間歩くかと思うと力が抜けて、砂浜に横たわるアウトリガー付カヌーの縁にすわりこんでしまう。浜辺の野次馬、子供たちが笑うのを悪意のこもった眼差しで睨みつける。
その時、天の奇跡!! 帆船は海岸に向かって帆を繰りはじめたらしい。船上でこちらを手招きしていると目ざとい野次馬のひとりが言う。ツァヘウスは例の拡声器をつかみ、ふたたび叫びはじめる。船はあきらかにこちらに向かってきた。しかし、海岸との距離はまだはるかに遠い。われわれは2度に分けて船まで行くことにした。急いでカヌーに荷物をのせる。漕ぎ手が二人つく。ツァヘウスは、カヌーを転覆させるなと漕ぎ手に向かって叫んでいる。その時にはとっくに打ち寄せる波がカヌーを海上にさらっていた。振り返っている余裕はない。カヌーは海面にへばりつくような具合だから、前方から押し寄せる波は目よりも高い。船との間にはこうした波がいくつもあって、その波の向こうに見はるかす具合だ。海岸はどんどん遠くなる。帆船は錨をおろしているわけではないから、帆をはらましたまま、右へ左へ蛇行を繰り返している。この帆船に向かって、カヌーは逆方向から近寄ってゆく。両方とも波をうけて木の葉のように揺れているのだ。もし針路を誤って正面からぶつかれば、カヌーは転覆し、われわれは死ぬだろう。帆船は自分の思う通りに直ちに止まったり、目的の場所に行けるわけではない。そのうえにこの波だから、われわれを置き去りにしたまま流されてゆくだろう。
このランデブーはあっという間のすばやさで終わった。僕と荷物は帆船の船縁にいた男によって引き上げられ、カヌーはまたたくまに遠く離れていった。僕は船の後方にすわりこんで、ツァヘウスのカヌーを待った。
高波が4~5mになると船員たちも恐怖を抱くという。どんなに泳ぎが達者でも、海の只中で波にさらわれ、どこに泳ぎ着くべき場所があるだろう。とくに向かい潮のばあい、船が波をひとつ越した途端につぎの大波の直撃を受ければ転覆する。この日の波はまだ2mで、しかも追い潮だから船は揺れながらも波に乗って快調に走る。レティ島のTombra到着は夜7時半。この時には波はおさまり天候も回復していた。
7月12日(土) 晴 Nuwewan(レティ島)
9時半、Serwaruの警察官舎発。寄り道をしながらNuwawangに着いたのは12時。道は土の広い道で、モア島の徒歩行とは雲泥の差だ。
Nuwawangの村はレティ島の観光名所でオーストラリア、ヨーロッパの観光客が民芸品を買いに来る。観光地と言うにしては村は綺麗に整備され、あたらしい住宅が目立つ。村の中心にpanaru(mesibe)があり、ここに例によってガジュマルの巨木と石積みがある。その西に石の腰掛けが3基あるところが普通とちがう。すこしまえまで、古い家屋と呼ばれるのは2棟あった。Rumeh Tur'rehi(より高い)とRumeh Rehiara(戦いに勝つ)の2棟で、いずれもTutukeyの古い形式と一緒の構成をとる。しかし、Tur'rehiのほうは一週間ほどまえに取り壊してしまった。残る一棟のRehiaraも細部に改変が多い。このほか、村には1920年代と言われる家屋が2棟ある。中央に4本の柱と真束をもった家屋で、高床は全面におよんでいる。さらに、村はずれのili山の上にRumeh Rumlawneと呼ばれる家があり、これはモア島の形式と同一だ。
ここのPem. Negeriはなんとなく呆けているのではないかと思った。ボーッと椅子にすわっているだけで、何を考えているかわからない。彼はまた村の棟梁だというので、大工道具を見せてくれるように頼むと、明日と言ったままラジオの放送に耳を傾けている。王族たちは怠け者で貧乏だとツァヘウスは言っていた。貧乏と言うのは、この家を見るかぎり不当な表現だが。そう思って所在なく椅子に腰掛けていると、彼は日本時代の話をしてきた。この地域の大本営は東ティモールにあった。地区の本部はモア島のTounwawanにあり、ここで6名の者(おもに王族たち)が首を切られた。言うことを聞かぬ者は首を切ると脅し、日本人は毎日酒盛りをひらいた。モア島の者はarak(ヤシの焼酎)の時期になると朝から酒を飲んでいるという評判はこの日本時代に培われたのかもしれない。こうした話の後、大工のことに水を向けると、彼は紙とペンを持ってきて、急に熱心に説明をはじめた。彼はアンボンで建築を学んだと言い、大工のことにはたしかにくわしい。村には現在36名の大工tukna aiがいるが、彼らはみな彼から大工を学んだという。上棟式の儀礼はもっとも大きく、前日の夜から水牛や豚を屠り、踊り続ける。棟木は神聖視され、形成された後、地面に置くことは禁じられている。こうして翌日の朝、棟木は柱の上に載せられる。これにくらべると、Tutukeyで神聖と言われた2階の床梁は、ここでも棟木についで神聖とされるが、儀礼はより小さい。
レティ島には正確に言うと4つのカーストがある。marne(王族marna)、poore(平民bur)、aane(下民stam)、ate(奴隷budak)の4階級で、ate以外なら大工になれる。
7月13日(日) 晴 Nuwewan(レティ島)
Rehiara家の調査続き。トーモロコシ、アズキ、ウビ・カユ(キャッサバ)をまぜたお粥に塩唐辛子をかけて食べる。調査中、Hと名乗る老人があらわれ、俺はいまでもこの家に権利をもっているのだから、調査するならなぜ俺を呼ばないかと家の者たちに怒る。彼は家の由来にくわしい。この家に30個の祖先を象った木彫yene(家族が死ぬとその姿に似せてつくり、高床部分に納める)があったが、うち26個はアンボンのシワリマ博物館にあると語る。
ツァヘウスはつぎからつぎへと僕の仕事をアレンジしてくれるし、また情熱的につきあってくれる。おかげで120%有効に時間がつかえる。モア島のBabinsaのところで時間を無駄にするのが嫌だと彼に言ったため、僕がすこし休もうとすると、時間を無駄にせずに働けと冗談めかして言う。その言葉を素直に受け取って僕はとことん仕事をする。彼はつぎからつぎへと言う僕の注文にこたえてくれる。Rehiara家のあとはili山上のRumlawne家の調査。暗くなってから大工道具の図面取り。
7月14日(月) 晴 Serwaru(レティ島)
朝、大工道具の撮影。その後、昼近くまでRehiara家の東隣りの家に住む老婆Lの話を聞く。昨日のHの話はかなり眉唾をふくんでいるらしい。
Hはいわば私生児で、子どものなかったOs(前の居住者)が引き取り、この家で水くみや火の番をしていた。母のKiには腹違いの姉妹Puがおり、その子供がOb(現在の居住者)である。以降の経緯は昨日Hの語る通りなのだが、この家はもともとOsのものではなかった。マルガWetwaに属するWeという女性の所有であった(母系妻方居住だった)のを、Weが病弱であったため夫のKeが自分の村Tutukeyに引き取った。このため空き家となるこの家にOsが移り住んだ。
Lの言い分によると、このOsが移り住んだ後に、本来の家屋権は長女Duに移譲された。Duには子供がなく、従って兄の娘Kiを引き取り、彼女が相続権を持つはずである。しかし、KiはTutukeyの男と結婚し、アンボンに移住しているために、相続権はおなじマルガWetwai(たぶんWと姉妹もしくは従姉妹)のRaの娘Moに移譲された。Moは長男のRuに家屋をわたした。したがってRuが本来の家屋の所有者である。Osは単に委任されただけだ。ところが、Raの夫のマルガRuwinonaに理由があって(子供がなく?)MoはマルガRuwinonaに移った。したがって、彼女の子供たちRuをふくめて、すべてRuinonaの者であり、Wetwaiの家屋の所有者とは認められないことになる。Hの言い分も、Lの言い分もどっちもどっちということだ。こういうばあい、日本だったら裁判で決着をつけるところだが、ここでは現実には現在の所有者であるObが(すくなくともその子供の代には)家屋の権利をにぎることになるだろう。
こちらの質問に対して、ツァヘウスやL、その場に居合わせた村人たちが延々と話す。言葉がわからないから仕方ないが、答えが出てくるまでが長い。インドネシア語の回答がまた混乱をきわめている。人物間の関係が定まっていない。Lひとりの聞き取りでは本当のことはわからない。Hが私生児だとLは言ったが、父親も母親も名前を言おうとしない。OsはWと伴にこの家に住んでいたというが、二人の関係もわからない。DはMoに家屋をわたしたというが、二人の関係もあきらかとならなかった。Lは要するにその場にいたMoという老婆とその息子で村に住むRuの権利を主張したことになる。2日間の調査では足りない。
この茶飲み話(茶はなく、パパイヤの種とバナナを出してくれた)を聞くために3時間ちかくもかかってしまった。ili山にのぼったのはそれからで、Rumlawne家の調査の続き。約2時間。疲れ果て、空腹に耐えて村に帰る。ここで熱いコーヒーでもあれば気力も回復するのにと思いながら、水と白米、パパイヤの花の炒め物、Kelorという葉(村には道ばたにこの木がたくさんはえている。パパイヤの木、sukunというナンカによく似た果実のできる木と伴に多い)のスープの昼食をとる。ほとんど味気ないため、ご飯に塩唐辛子をまぜて食べる。
食後、ちかくの山で樹木の撮影。Kayu Putih(ユーカリ)が多く植樹されている。Nuwewan発、夕方の5時。40分でTombraに到着。Babinsaマックスは(モア島に置いてきぼりにされていた)昨日モートルを見つけて帰ってきたばかりだ。奥さんは礼拝で家におらず(例のモア島から命からがらレティ島に戻った日、ツァヘウスと僕は家主夫婦のいないこの家に立ち寄り、勝手に食事をあさり食べて行ったのだ。その日も奥さんは礼拝でいなかった。ケイ島のK家とおなじく、ここでキリスト教の礼拝というのは日本のママさんコーラスやゲートボールと変わらない。マダムたちの社交の別名だ)、ここでも熱いテーにはありつけなかった。帰宅6時半。夕食は白米にスーパーミーのスープをぶっかけ、卵焼きを一切れのせて食べる。結局、異常に甘く熱い紅茶にもコーヒーにもこの日はありつけず。うらめしや。
Nuwewanの林のなかには蚊が多い。木の写真を撮っているとウンカのように蚊が群がる。これを手のひらで叩くと、一度に2匹ということはままある。けれども、防虫剤を塗り、厚手ジーンズの長袖、長ズボンを身につけ、どんなに防戦態勢をしいていようと、この集中砲火を防ぐことはできない。戦艦大和でも沈没したのだから、僕の腕といい足といい、隙間のないほど蚊のためにふくれあがるのもやむをえない。寝ているあいだにこれを掻きむしると、皮膚が破けカサブタとなる。すると今度はこのカサブタめがけて蝿がたかる。
7月15日(火) 晴 Serwaru(レティ島)
昼食後、Tutukeyの東南の村Batumiauへ。戦前のTombra型住居Tunmati(不死の)家があるのみで成果なし。
Tunmati家には頭のおかしいオバーサンがいて、われわれの話を聞きつけて外に出てきた。イェイーヒッヒッヒッーと何度も大声で笑う。村の子供たちがそれを真似て、いっせいにイェイーヒッヒッヒッーィ。
この村には中国人の店が3軒も軒をならべる。Serwaruはたったの1軒だ。そのうちの1軒の店先を見物していると、僕が日本人であると知って、店主がわれわれを中へ招き入れてくれた。缶ジュースを出してくれながら、カメラを持っているならちょっと見せてくれないか? 彼はためつすがめつ僕のNikon FE2を検査した後、私に売ってくれないだろうか? これは高いですよ、と僕。いくらだ? インドネシアのお金で100万RPぐらいです。警官のツァヘウスの給料は月13万RPで、これは、ここらの住民としてはまあまあのほうだから、100万RPは結構な値段だ。札束にして3センチくらいになるだろう。彼はいとも簡単にその値段を受け入れる。いつ帰るのだ? 僕が2台もカメラを持参していることを知ると、今度はそのうちの1台を自分のために今売れという。これは婉曲にことわる。これは調査のために必要な物で…。すると、彼は日本で無線機はいくらだ? Orbenという僕が知るはずもないメーカーの無線機を日本から買って来てくれないかとくる。挙げ句の果て、彼の寝室まで案内され、そこにある彼の無線機を見学させられる。われわれがいるのもかまわず、彼はたまたま入線した西ジャワのCianjurの女性と交信をはじめる。いい気なものだ。誰か友人に頼んで持ってきてもらえばいい。1台50万RPだったら2台買うから。はいはい、たしかに努力してみましょう、と早々に店を出る。
ここで例の無線機は1台100万RPするとツァヘウス。彼は船を持っていてSurabayaやDiliと往復して金をかせぐ。金持ちだから100万でも200万でもカメラを買っただろうとも。
Batumiauで会議のあるツァヘウスとわかれて、僕はひとりでSerwaruへもどる。途中、Tutukeyに立ち寄り、建物の写真。Watpipi家の所有者で大工の老人の家に行くと、娘の婿だというキサール人が昼間から酒臭い。ずいぶん酩酊の様子で、くどくどと老人の外出中なことを説明する。
帰路、たまたま通りかかったSerwaruの沖合にモートル船が見える。浜辺にはすでにこの船からの乗客がたむろしている。彼らはキサール島の住人で、船はティモール島Kupangからのものであった。キサール島で降りるはずだったのに、船の船長はどういう理由でかキサール島に停まることを拒み、彼らをレティ島で降ろしたという。彼らのチーフ格の男が、小船をチャーターする予定だというので、僕もキサール島に行きたい旨を告げると、それならばご一緒に、ということでわかれた。
夕刻、彼らはまだ浜辺にいた。このなかで、日本だったら真っ先に電車の席を占めそうなタイプの主婦が言うには、今、船を捜しに隣りの村へ行っている。チャーターするのに10万RPかかる。私たちは全部で12人だから、トゥアンも含めると13人となり、一人約1万RPで済む。見れば、たしかに大人の数は13人だろうが、子供ばかりが10人あまり、それに荷物・トランクの山。
僕がレティ島を離れるというので、ツァヘウス家では大きな鶏を一羽つぶした。ツァヘウスが話しはじめる。ここでは学問をおさめた人間をOrang Kayaという。これは綺麗な洋服を着、高価な靴を履くことではない。どんなに貧しい格好をしていても、彼らは金持ち(豊かな人)と呼ばれる。私の息子はTualにいるが、このあいだTualに行ったとき、私は彼に部屋着と訓練着の2着しか服を買ってやらなかった。肝心なのは勉学のための道具、ノートとペンである。そして、われわれがモア島へ行ったときに、僕の荷物があまりに大きいので、毎日服を着替えるつもりだろうと思った。けれども、僕は服を全部家に残してきて、持参したのはみな調査のための道具だった、という話を感慨深げにつけ加えた。知識をもとめることは重要だ、と彼は何度も繰り返した。Nuwewanでの調査のときに、ツァヘウスは村の者たちに向かって、伝統的なものがすべてうしなわれたらわれわれは負けだ、と力説していた。Tutukeyにのこる唯一の伝統住居を彼は自分のものにし、自分の手で修復するつもりだとも告げた。
夕食後、浜に行く。キサール人は船を見いだすことができなかった。Batumiauの中国人は、モートル船のチャーターに30万RPを要求した。これが無理だというと、この中国商人は、モア島から水牛を乗せ、Diliに運ぶ用事があるから、金曜日まで待てば一人7500RPでその船に同乗させてやると答えたという。水牛と同じにあつかわれ、しかも一人7500RPということは13人で10万RP(彼らの要求額)という計算になる。この船をキサール人らは待つ予定だという。何というしたたかさだ。彼らにとって100万RPのカメラなど安いオモチャにすぎないだろう。ツァヘウスと明朝船を探しにTombraへ行く約束をして、キサール人たちとわかれた。
7月16日(水) 曇 Serwaru(レティ島)
Tombraにて船の交渉。船主は20万を要求。けれども10万でも出帆するだろうとツァヘウス。この雰囲気、感覚は僕にはわからない。
Tombraの中国人、洪さん宅に立ち寄る。彼は戦争中、東ティモールで日本軍の靴職人としてはたらいた。現在は眼鏡や種々工業製品の修理職人をして細々と暮らしている。かつては大きな店をかまえていたが、社交的すぎるので今では金持ちとはいえない、とツァヘウス。娘夫婦がキサール島で一番大きな店をもつというので紹介状をもらう。
帰宅、昼食の後、キサール人に船のことを告げる。真夜中3時頃出帆する。彼らは知人の家の軒先にゴザを敷き並べ寝泊まりしている。彼らは浜辺に停泊、修理中の小さな帆船を指さし、あれも今夕出帆する。13人中9人がこれに同行の覚悟だ。ツァヘウスの熱弁がはじまる。Kapal Perintis(開拓船)で行くか、それともこのKapal Debu(塵芥の船)で行くか。Tombraの船はこの3倍ある(実際は2倍もない)。キサール島までは3時間(先刻は4~5時間と話していた)だ。キサール人もこれを受け入れた。
その足でTutukeyに行き、大工道具の聞き取り。建築現場ではたらく大工のひとりは、日本時代に父親の首をはねられたという。小原というこの地区の日本軍の司令官の逸話はどこへ行っても話が出る。彼はここで6人の王族の首をはねた。強制労働はきつく、空腹で死ぬ者は多かった。怠けるとコラッ、バケロー、コノヤロー。殴り蹴られた。殴られながらキオツケをしてハイッとこたえる。けれども、その彼が言うのに、大日本はよかった。4年の間に道は整い、建物は建った。日本人はいろいろなことを教えてくれた。独立してから40年たつのに道は悪くなるばかりだし、進歩がなくなった。
これは半分真実だ。日本人に代わってジャワ人が彼らを管理する。暴力はない。強制もない。あるのは少ない仕事と少ない給料とで、暴力の代わりに話し合いが好まれる。それで、話し合うばかりで行動する者はすくない。
この地域一帯で、人びとが未だにおぼえ、子供たちまでが日常つかう日本語。ジョートー(baik)、ジョートーナイ(tidak baik)、バケローだ。ケイ諸島でも、タニンバル・ケイ島でも、レティ島、モア島でも、これらの言葉は生きている。
夜、ふたたびTombraに船の交渉に行っていたツァヘウスが興奮しながら帰ってくる。俺がわざわざ半死の思いで奔走しているのに、キサール人たちは沖合の小船にすっかり荷物を積み込み乗船している。船が警察で航海パスの検印をまだ受けていないというので、俺は彼らのパスを取り上げてきた。これで彼らは出航できない、と息は荒い。
しばらくして、船の乗員、キサール人、彼らの渡航を認めた若い警官があらわれる。彼らの鼻息も荒い。ツァヘウスはこの船が他の市に行くのに航海パスを受けていないこと、そのために東ティモールなどに漂着したばあい、責任は出航地の警察であるわれわれのもとにあること、またこの船は小船で2度もマストが折れていること、それなのに、乗客を乗せるばあいの義務である救命具や水の設置を怠っていること、おまけに、現在雲行きがあやしいこと、などを理由に、急ぎたければ安全な道をとれというインドネシア語の慣用句を連発する。彼の言うことは教条的だ。こんなところで救命具をそなえた帆船などあるわけないし、航海パスは帰港後に受け取ることも可能だ。
普段は本音だけでうごいている社会が、何かの機会に突然建前をもちだす。これはトランプのジョーカーと同じで、それを持ち出す人間がいると、一同ふむふむごもっとも、その通りである、となって異議のはさみようがない。その途端、社会活動は停止する。
7月17日(木) 晴 Wonreli(キサール島)
朝、浜辺でまた一悶着ある。キサール人たちの荷物はすでに小型帆船に積み込まれている。これを見たTombraの船長が、お互いの関係の悪くなることをおそれ、荷物の移船をしぶっている。この期におよんでも、例のキサールの主婦は女たちをあつめて相変わらず声高に船賃の損得勘定などしている。
ツァヘウスの一声で、ともかくTombraの船が乗客を引き受けることになった。ひいき目に見てもキサール人の荷を乗せた帆船は小さすぎる。
9:40 出帆。Tombraの船名はGunung Sejarah(歴史の山)。船員をふくめ乗員は大人18人、子ども10人。キサール、ティモール、レティの3つの島を視界におさめながら航行する。キサールは台形をした起伏に乏しい島だ。この島の沖合を縦走しながらおそい昼食をとる。トウモロコシとアズキのおかゆ。船員たちが船上で調理したものだ。
キサール着は6時。子どもが先だ、女が先だ、とごもっともなことを言う人たちがいて、結局僕が下船できたのは最後で7時をまわっていた。すでに暗い。ここの人間は自分のことしか考えない。浜辺でトラックをチャーターし、今度は村をまわる順番と値段のことで議論している。これにこれ以上つきあうのはかなわないとおもい、ひとり荷物をかついで歩き出す。
「トゥアン、道に迷うよ。私たちとおなじ道だから一緒に行こう。」
後ろから声がとぶ。かまわずすたすた歩き出した。道はひろく、ほとんど一本道だからわけはない。しばらく歩いたところでようやくトラックが追いつく。「つかまれ」という声にしたがい、その車側にしがみついて走る。荷物は重く、木の葉が顔をうつ。サンダルをはいた足先と、しがみつく手がしびれる。Wonreliまでは近い。なのに、こうしたゴタゴタを引きずったため、DPR(国会議員)の家に到着したのは8時をすぎていた。
蚊帳のついたやわらかいベッド。豊かな水。
7月18日(金) 雨 Wonreli(キサール島)
キサール島には世界に3箇所しかないという大変おいしいオレンジがある。このオレンジを政府は輸出する計画だという。主農産物はトーモロコシとキャッサバ、豆類、それにヒツジとヤギ。アンボンと現在は東ティモールが主要な取引先だ。
キサール島にはふたつの言葉(両者はまったく通じないという)とそれを話すふたつの民族がいる。Oirata(東Oitara村と西Oirata村)とMeher(その他の村)で、おなじ王(Wonreliが中心)のもとに統治されていた。
家屋という呼称はMeherではふたつある。roomeとnakarとで、roomeはより敬意をふくんでおり、王の家や町の家に使われる。nakarは村の家にしか使わない。
DPR(国民議会)議員ヤンの一日。朝、あまいミルクティーとパンで目をさます。30分後に朝食、白ご飯と水牛の田麩。9時より独立記念日と来年の選挙に向けての会議。あつまったのはこの島の副市長(市長本人は小ケイ島のTualにいる)、警察署長、Koramil(町区軍管区)隊長、裁判所長、市の教育文科省室長とDPR議員の彼で、この日で3日目だという会合は彼の家でえんえん午後1時近くまでおこなわれた。1時昼食。トーモロコシ入ご飯、魚のスープ、揚げた魚、野菜炒め、オレンジ。食後、軽い昼寝。4時より村対抗のサッカーの試合を村長として観戦。試合は彼の村であるAbusurの勝ち。雨の中、6時過ぎに帰宅、あまいミルクティー。6時45分、湯を沸かして水浴。7時夫婦そろってAbusurへ。
僕の一日。朝、あまいミルクティーとパン二切れ。これで朝食が終わりと思っていると、しばらくして朝食。8時半、市役所へ。副市長はまだ出勤せず、警察署にて報告、市役所にもどる。しばらくして現れた副市長に調査書類の依頼。書類は11時に取りに来ることを約し、彼はそのままDPRの家へ。僕は軍のKoramil事務所へ、隊長はすでに会議でおらず、レティ島のTombraの中国人レハから依頼された封筒をもってToko Gembiraへ。市役所へもどるとタイプしているはずの女性は僕の顔をみてようやくタイプの前に座るという有様。なんとか書類をもらい帰宅。会議はえんえんと続くため部屋にはいれず。隣村のMesiapiへ。
村には2棟比較的ふるい家(1947年と1950年の建設)がある。いずれも切妻平入で石積み基壇の上に建つ地床住居。石積みを粘土でかためた壁を膝高まで立ちあげ、その上に草の壁をもうける。天井を貼っているため構造は明確でない。室内は壁で仕切られ2室にわかれる。屋根の妻側には独特の装飾があり、ここに屋根裏の明り取り窓がある。
帰宅後昼食。昼食後、Wonreliの王の家へ。Wonreliでは1925年に大火があり、村のほとんどが焼けた。王の家は大火後1926年の建設というが、現在、壁はコンクリートできれいに仕上げられ、屋根のサス/オダチ構造も洗練されすぎている。ここでオレンジと揚げパン風のケーキ、あまいミルクティーを頂戴する。
帰路、Toko Gembiraへ寄り、船便の確認。東ティモールのディリに立ち寄る以外に帰る方法はない。アンボンへ向かうKapal Perintis(開拓船)はここ1年ほどキサール島に寄港しないという。ここでまたクッキーとあまいティー。帰宅、その足で村対抗サッカーの見学。15分ほどで帰宅。ここでふたたびあまいミルクティーとパンケーキ。これで完全に満腹感を味わってしまい、レティ島での多少の飢餓感が薄れてしまった。残念。
7月19日(土) 雨のち晴 Oirata Timur(キサール島)
9時30分、たまたま通りかかったトラックにDPRのヤンと乗り約15分で東Oirata村着。ヤンは、僕がOirataに泊まりたいと申し出たときに、きつく駄目だと言った。あすAbusulでおこなわれる催しに技術経済大国の日本の代表として僕を誘いたいためだ。僕は、いわば先進技術を否定し、インドネシアの伝統に惹かれてここまで来たわけだ。ところが、ここでは僕はあくまで技術のもっとも進んだ国、ロボットが人間にかわって仕事をし、海底や海上に都市を建設する夢の国の代表であり、おかしなことに、日本はかくも技術が発展しているのに、伝統文化を大切にし、伝統の延長上に現代文明を花開かせているのに、インドネシアは伝統文化を否定し、これを破壊してあたらしいゴミ溜めのような文化を築こうとしている、と警告を発しなければならないのだ。
Oirataは海岸からほど遠くない丘陵地帯に家々が点在している。家屋はトーモロコシ、マメなどの耕作地の中心にあり、家と家の間隔は歩いて5~10分ほども距離がある。かつて村は Momor Manheri (momorは領国、Manheriは東Oirataの意味)と Momor Mauhara (Mauharaは西Oirata)という小高い山の上にあった。この山の上の旧村は、1912年オランダ政府により村人が低地に移住させられたあとも長らく村人たちの崇拝の中心であった。日本時代にはまだこの山上の村に住む者もいた。1970年頃まで村人は儀礼のたびに頻繁に旧村に出入りしていた。その後、村人たちはこの旧村に近づかなくなった。そして、やがてこの村に立ち入ることすら恐れるようになる。
東Oirataには、当時5、6軒程度の家屋が分村の Momor Ilkesi という隣の山の上にあった。われわれが Manheri に踏み込んだのは約15年の後である。山は鬱蒼とした藪で覆われている。この藪をかきわけ、道を作りながら進むと、高さ4mほどの石積みの壁につきあたる。村はこの壁に全体を囲われた山の頂上にある。いくつかある石段が村の門を形づくっていたらしい。このうちのひとつを登りきったところから、期待に反してわれわれが目にするのは、整然と配置されたヒンドゥーの村落の跡ではない。かつて家々のあいだに植えられていた木々は枝を地上まで這わせ、その枝めがけて他の植物がまとわりつく。この城壁に囲われた空間を支配するのはいまやまったくの無秩序だ。この狂気のようにうねり、からみあう枝、蔦、灌木などのジャングルの中に道をつくることはほとんど不可能にちかい。城壁によじ登ろうと足をかけると、石垣はところどころ脆く、崩壊をはじめる。そのために慌てれば慌てるほど、石はつぎつぎと崩れ落ち、まるで蟻地獄のような案配だ。そして、この城壁を登りきった途端に、今度は山赤蟻の一群の洗礼を受けることになる。この蟻は人を噛むので村の人間は子どもの時からこの蟻を避ける。とはいえ、ただでさえ困難な道行きで、樹上の蟻にまでは気がつかない。必死に払い落としたものの、背中、胸、腕、首と噛みまくって蟻たちは退散した。
かくて、この城壁の上から見る村は、見わたす限りのジャングルのなかに、所々屋根の落ちた家屋の棟持柱に支えられた棟木、扠首などが顔を出す程度だ。そのうちの一棟に向かって枝を切り払いながら進む。土台の石積み、壁、高床構造などはまだのこっている。4本の棟持柱が立ち、棟木を支える。が、屋根のほうは垂木もろとも崩れ落ちて無い。土器の皿、大きな土器の鍋などが使われるのを待っているかのように壁際の棚に置かれている。家々の構造は、現在、下の村落で見る古い形式の家屋とまったく同じものだ。移住する際に、同じ構造の家屋をそれぞれ自分たちの所有する畑の中に建設したらしい。
村には各マルガごとにマルガの中心である石積みと大樹(ガジュマル)からなる Lau (東インドネシアで一般にMesbahと呼ばれる祭壇)があった。とくに Tuan Tanah (字義通りには地主だが、土地の儀礼を司る先住氏族のこと)であるSoa (マルガ=氏族) HanooのLauは村の中心にあり、この石積みのなかには祖先が死んだ際に石化したとされる珊瑚岩の人物座像が納められていた。この石像は年に一度、Hanooの族長Haltere氏の手で黒い布に包み水浴させる習わしだった。
昔、Oirata族とMeher族の村が争っていたとき、いつもOirataの勝利だった。そこで、Meherの村々は協力してOirataに攻め寄せた。Oirataはとうとうこらえきれずに村を捨て、彼らの故郷である東ティモールに逃げ帰った。MeherたちはOirataの村に侵入し、彼らの信仰の対象であるこの石像を掘り起こし、破壊しようとした。ひとりの男が石を取り、像の耳の一部を欠いたとたん、遠く東ティモールの方角から大きな雷鳴が響いた。Meherたちは石像を放り出して逃げ帰ったという。
中央のLauまで辿り着ける見込みはなかった。生い茂る木々のほかに、ヤブ蚊、赤蟻などの襲撃を避けねばならない。日はすでに落ちた。われわれ4人(Pemerintah Negeri/村長、Haltere氏、お伴の男、僕)は帰路を急いだ。村の村長舎に帰り着いたときにはすっかり暗くなっていた。
村にはRatu(王族 30%)、Ultua(20%)、Noora(平民 50%)、Umaler(奴隷 0%)の4カーストがあった。Soa(マルガ)は東西あわせて7つあり、それぞれの渡来地を伝承としてもっている。
家屋はLeと呼ばれる居住棟とLakhounと呼ばれる高床のbaileo(モルッカ諸島では一般に吹放ちの公共建築をさす)からなる。Leは東西に妻を向けた切妻屋根で、4本の棟持柱がならぶ。東側半分に高床の穀倉構造Leiyaがあり、西側屋根裏には壁で囲われた小空間Solorが設けられている。これらの下の土間床には、東西に低いベッド状の床がつくられている。外壁は膝高まで平石を積み上げ、土で固めた上にロンタルヤシの葉で壁をしつらえる。妻部に二箇所、地形により南北いずれかの平側にも二箇所、同形同大の開口をもうけ、このうちひとつずつが出入にもちいられる。他はベッド状構造にさえぎられて出入にはつかえず。別棟のLakhounは石積み基壇の上にベッド状の高床を築いた建築で、東西妻側には板もしくはロンタルヤシの葉でつくった壁をもつが、南北は壁がなく開放されている。これらの建物にはロンタルヤシの葉を編んだ突き上げ式の庇屋根が設けられていて、夜間や雨のときは庇を降ろしてすっぽりと建物を覆ってしまう。
相続は末子にかぎられ、他の兄弟たちはみずから住居をあつらえるよう要求される。
7月20日(日) 雨 Oirata Timur(キサール島)
Le Sawiaraの実測調査。午後、Abusurに呼ばれ、ペスタ(何の祝祭だかわけはわからないけれど)のお裾分けにあずかる。Pemerintah Negeri、DPR、裁判官、牧師などが出席。4時、Oirata帰村。Sawiara調査のつづき。家屋はみな散り散りに離れているため、Pemerintah Negeri の役場からもっとも近いSawiaraでも10分ほど歩かねばならない。
Hanoo氏族のHalが Le Sawiara の建設者。末子のWewは1961年に亡くなるまでこの家に住む(原則は末子相続)。Wew には跡継ぎがなく、死後、長兄の Lek の家族がこの家を所有することになる。Lek には6人の子(すべて女)がいた。長女の Lal は婚儀を済ますまえに発狂し離婚。子どもたちはHanoo氏族に留まったため、Lal の子 Har がこの家の所有者になる。Har は結婚後に Sawiara の西の Yewelala家を改築して、そこに家族と住んだ。Lek の次女 Mim は結婚してセラム島に住む。Lek の三女 Mar は Yewelala家に住んでいたが、婚儀のまえに夫が亡くなり、Wewの死後、空き家となった Sawiara家に移り住む。長男の Hal2 が Sawiara家の所有者となるが、彼はアンボンで死去してしまう。長女は婚儀を済ませ、Asatupa氏族の Huili家に家族と住む。Lek の四女 Yah は結婚して Haiyau氏族の Lilipara家に住む。五女の Lel2 は婚儀のまえに夫 Yak が死亡、長女は Wonreli におり、次女の家族とともに Hanoo氏族の Karara家に居候している。六女の Hui は姉 Lel2 の夫である Yak と密通して男子 Abr をもうける。Hui は Abr の家族とともに Sawiara家の Lakhoun に間借りする。1981年には Lakhoun の西に居室を増築して Hui の寝場所に、Abr の家族は東の居室を占拠する。
現在、Sawiara家に住むのは Lek の三女 Mar、六女 Hui とその子 Abr の家族である。Hanoo氏族の男子は Abr のみであるため、将来 Mar が亡くなれば Abr がこの家を所有すると考えられている。
7月21日(月) 雨・曇 Oirata Timur(キサール島)
Le Sawiaraの調査。朝から日没まで。
結婚にかんする聞き取り
●結婚にはふたつの段階がある。第一段階は“iya-panume”(kaki antar)と呼び、夫となる男の両親が息子を連れて嫁の家におもむく。ヤシ酒を飲み、内々で祝う。この儀式のあと、男は夜間女の家に通い、そこで寝泊まりすることがゆるされる。また、“le-mutume”(rumah antar)と呼ばれるより大きな儀式をすることもある。夫となる男のsoa(氏族)の主だった者たちが夫の家にあつまり、男を引き連れて嫁の家におもむく。嫁の家ではやはりsoaの主だった者があつまってこれを迎える。ブタやニワトリを屠殺し共食する。経済的な理由などから、この儀式の出来ない者は“iya-panume”だけで済ますし、“iya-panume”のあとに“le-mutume”をあらたに催すこともある。“iya-panume”なしで“iya-panume”だけをおこなってもよい。
●こうして夫婦に子どもができ、夫が自立できるようになると、盛大な結婚儀礼“yawanin”をおこなう。この時までに夫は自分の家を用意しておかねばならない。ただし、末子ならば両親と同居することになる。夫のsoaの者たちは夫の家にあつまり、婚資である“lo'or patun”(剣)とブタ、ニワトリを携えて妻の家に向かう。妻の家ではsoaの構成員が待ち受け、盛大な供犠と儀礼をおこなう。この儀礼を済ますまで、夫は妻や子どもたちを自分のsoaに引き取ることができない。したがって、婚儀のまえに夫が死んだ場合、妻と子どもは妻の家族のもとで暮らし、属するsoaも元のままかわらない。
この婚儀から1日休息日をおいて、2日後に“moro-miri-tatane”(manusia-baru-jemput)という嫁入り儀式がおこなわれる。夫の家からsoaの女性たちが新妻を迎えに妻の家を訪れる。その後、妻は晴れて夫の家に住むことになる。ここでは「落ちる」という言葉でこれを表現する。妻は元の家族から落ちたというわけだ。
さらに1日おいた5日目、“iya-panu-liyalana”(kaki-muka-kembali)という儀式がある。婚出した娘が親元を挨拶に訪れる。その際、ultuaやratuカーストの者は、“don”(槍)を婚資に、aitoto(ロンタルヤシの葉でくるんだ一種の粽)を妻側のsoa全員分(100個以上)、sopi(ヤシ焼酎)、干魚をたずさえ、新郎と家族の女性たちがしたがう。
こうした結婚儀礼が滞りなく済むと、数週間おいて、家屋の女性空間(西側)の屋根裏にある高床の Solor において、新妻を家屋に迎え入れるための“ata-nahanen”(api-kasih makan)をとりおこなう。soaの主要な女性がこの高床空間で新妻に食事をふるまう。
7月22日(火) 雨・曇 Oirata Timur(キサール島)
調査Sawiara。朝から日没まで。昼食抜き。疲れた。
一昨日、村の対抗サッカーの二部リーグでOirataは4-0で負けた。これが神への信仰が足りなかったためだというので、昨日の夕方、牧師を筆頭に村長、村の主だった人たち、選手らが教会にあつまって長々と礼拝をおこなった。僕は昨夕それを聞いて内心笑ったけれども、本日の一部リーグの試合では、OirataはMesiapiを相手にみごと勝利した。キリスト様々というわけだ。
先週の土曜日、アンボンからキサール島へ向かうプラフがキサール島の沖合で沈没したという知らせがはいった。すでに海岸に子どもの足があがったという話もある。40人の乗客が死んだ。助かったのはわずか6人で、泳ぎの達者な子ども達だった。Oirataの住人も何人か死んだらしい。多くの乗客の行方はいまだわからず。幾人かの遺体を漁船が引き上げたという。
7月23日(水) 曇 Oirata Timur(キサール島)
帆船転覆の話。正確そうな情報。
プラフは12日にアンボンを出帆した。目的地はキサール島で、13日午前4時、ブル島の沖合で転覆した。乗客、乗員は77人、9人が生存、31人の遺体は確認されたが、残りの乗客の安否はいまだにわからない。Oirataの住人は現在までに5人がこの船に同船したことがわかっているが生死は不明。ほとんどの乗客はキサール島民だった。
Sawiara調査続行。きょうも昼食を抜いた。疲れた。帰って食事にありつく。白いご飯、カボチャの水煮、ゆで卵、唐辛子+塩。これ以上に何も書くことはない。この村の女性は本当にkasarだ。こまやかさの欠片もない。男もそうだけど。子どもたちはみな薄汚く魚臭い。レティ島のツァヘウスのところにも、Wonreliのヤンのところにも、この村のPemerintah Negeriのところにも、ようやく歩きはじめたくらいの赤ん坊がいた。みな我が儘で、そのくせ泣き虫で、おまけにキタナイから、はっきり言って可愛いとは少しもおもえない。でも、お世話になっている都合上、邪険にもできないから困る。
7月24日(木) 晴 Oirata Timur(キサール島)
Le Haraki、Le Teheteherの調査。夕方よりSawiaraで聞き取り。家屋東半分の男の空間と西半分の女の空間。儀礼のための高床。
2日間雨が降らないと、もうドラム缶の水は底をつく。バケツ2杯でしていたマンディもバケツ1杯になり、やがて洗面器1杯になるだろう。乾期にはドラム缶1杯の水を1500RPで買うという。
Oirataの言葉はパプア系らしい。形容詞は名詞の前にくる。日本語と同じ要領だ。
Le Haraki 現在63歳の当主の祖父の代に建設。Leは北入、Solor(西側の屋根裏に取り付いた小部屋。女性の儀礼空間)はない。建物は軸組がゆがみ、かなり傷んでいる。妻壁はロンタルヤシに変更され、途中の小棚を欠く。Lakhounの妻側壁はSawiaraやSawalaiと同様に板を斜め方向に張る。構造は若干の変形があり、側柱に載る軒桁は一般に直接垂木を受けるが、ここでは軒桁が扠首を受け、その上にもやを渡して垂木を受ける。中央の梁はこの桁の下に、東西妻壁の上で梁は桁の上にきてしまい構造的にはすこしオカシイ。
Le Teheteher かつてMauharaにあったTeheteherは特別な家屋とされてきた。Leiya(東側にある女性禁忌の屋根裏空間)には祖先がエルサレムから渡来した際に運んだと伝える香木の箱 koholasa が置かれていた。このLeiyaは神聖であり、光をあてることが許されない。そのため、屋根を葺き替える際には、太陽光の侵入を防ぐように、ロンタルヤシの葉のパネルを一枚ずつ交換した。家屋東側の扉は神聖視され、普段は閉鎖されていた。特別な資格の者だけがこの扉を使うことを許されていた。これらの理由から、TeheteherはLe Tari(塀の家)もしくはLe Lawar(暗い家)と呼び習わされていたという。現在のTeheteherはすでにこうした神秘性をなくしている。Leは北入、Solorには床があるものの壁はない。Leiyaには炉も窓もない。1983年に全面改修(屋根、壁の交換、および沈下した柱を引き上げる)を受けている。全体の構造は整然としているが、魅力を欠く。LakhounはSawiaraと同じ構成で、しかも原初の形態をとどめている。
7月25日(金) 晴 Oirata Timur(キサール島)
Le Laimodoの高床空間Leiyaの調査中に隣家の男が来て怒り出した。
そこに登ってはいけない。禁忌空間である。定められた男の老人だけがしかるべき儀礼の後にはじめて登ることをゆるされる。ふだんは梯子に触れることすら禁じられている……
いくつかの問答があった後、僕は調査を続行した。彼は例のメクラの居住者と話しあった後、室内にあるものに手を触れるなと告げる。あとでシリー・ピナンを捧げるらしい。
Le Sawalai 1907年建設。1908年の台風で母屋Le倒壊。Lakhounのみ残る。Lakhounは特異な形式で、氏族のLakhounが東西にならび、ひとつ屋根をかけたもの。かつて建物内に7種類の居住スペースがあったというが、屋根裏空間は2棟の連接部分を除いて破損撤去されてない。妻壁は板仕様がのこるものの、これも破損が激しい。
Le Soomaulesi OirataのTuan Tanahである。Hanoo氏族のmata rumah、Dadanulu-Sorlewen一家の住む家屋。西から東にほぼ同形式の3戸のLe、Lakhounが屋敷を構える。これは現Tuan TanahのSimonの祖父の代に4兄弟の末弟をのぞく3兄弟によって建設された。長男のLewenmariが中央(北)のLe Soomaulesi Utara(1937年建設)、次男Kasnoiが西のLe Soomaulesi Warat(1924年)、三男Soomaturが東のLe Soomaulesi Timur(1931年)を建設した。家屋は小高い丘の南斜面に建つためLe Sawiaraとは空間構成が異なり、平側の入口を南にとる。これにともなって、西側(女側)のLaulau-lapai(高床状のベッド)を南に移動するため、東(男)のLe-panu(ベッド)との位置関係が変わる。建物は3棟とも大ぶりで粗雑。様式化、簡略化がすすむ。Lakhounは板壁をもった一般型。
Le Laimodo Soomaulesiと同様の南入口型。Le Sawiaraとならび完全な形式のSolorをもつ。細部仕上げは洗練され、空間構成要素も完璧。ただし、目の見えない婦人とその子どもたちだけが居住するためか、東側の男空間は使用されず、東扉、壁の一部、Le-panuに破損。東側入口外の敷石はもはや藪に覆われて見えない。Lakhounは板壁が破損のためロンタルヤシの葉のパネルに全面変更されている。
7月26日(土) 雨 Oirata Timur(キサール島)
Le Laimodo調査続き。雨の中をSoomaulesiに向かうが、家人がおらず鍵がない。雨の中をふたたびHuiliへ。道がわからない。道を訊こうにも雨の中を出歩くバカは日本人くらいなものだ。山の中腹に草屋根をみつけて行ってみるとヤギ小屋だった。Oirata人はみな怠け者で不親切だ。Pem.Negeriは子どものおもりで忙しく、人をつけてくれようともしない。西Soomaulesiの住人は昨日から家に鍵をかけて遊びほうけている。SoomaulesiのTuan Tanah一族は雨の中を出かける僕に傘を貸してもくれない。。。と、こんな呪詛の言葉をひとり呟きながら雨の中を歩いた。たまたま通りかかった子どもに道をたずね、Huiliまで連れて行ってもらった。
Le Huili Haiyau氏族のmata rumah、Kular氏の所有。南入口型。完全な高床のSolorとLeiya上の炉をもつ。この炉を残す家は現在OirataでHuili、Sawiara、Laimodo、Darlekrauの4棟しかない。壁の古形式(旧村にある家屋と同形式)、ロンタルヤシの葉のパネルの内側に竹を編んだ内装を施す、をよい状態で残す。東側梁の一部を新材に変更。tomor-rakan(小屋裏にもうけた棚。通常は男の高床Leiyaに付設)がLeiyaとSolorのあいだ全面におよぶのは類例がない。Leiyaの床組(梁、桁)の納まりはあまり洗練されていない。SawiaraやLaimodoのほうがキレイに納まる。
屋内に婚資に使う剣lo'or patunと槍donを飾る。男の空間の高床Leiyaを支える南東隅の側柱(家屋建設の際の第一柱)に剣を、女の空間の高床Solorを支える中央西よりの棟持柱に槍を固定する。
Lakhounは横板壁。妻壁はロンタルヤシの葉。北側垂木を屋根途中のもや位置で切り替え、軒先をはねあげて、通常庇のとりつく部分全体にひとつ屋根をかけている。
7月27日(日) 曇 Oirata Timur(キサール島)
帰宅が夜8時をすぎ、真暗闇の道を懐中電灯をともして歩く。村役場に帰り着くと、ここでPem.Negeriが人をあつめ、僕の捜索に出かけようとしているところで、私は3回も道の途中まで見に行った。けれども、子どもが一緒なのでそれ以上遠くへ行けず、そこから大声で叫び引き返してきた。道に迷ったのではないかとおもい、今、人をあつめて捜しに行かせるところだった、と苦情を言った。心配するくらいならば、道も知らぬ外国人を一人歩きなどさせないで、人をつけてくれればよいのだ。だいたい昨日だって私は家を捜しあぐねてさんざん彷徨い歩いたではないか。
ここのPem.Negeriはとにかく忙しい。何に忙しいかというと子守で忙しい。一日中子どもにつきっきりだ。その子どもというのが、下の男の子(2歳くらいだろうか)はどうしようもない我が儘で、夜中にむずかって毎晩のように大声をあげて泣き出すし、何か気にさわると親が来るまで泣きわめくときている。それで、誰もいないときに僕は彼をにらみつける。すると彼はおびえた目をしてうろたえパパーッ。
もうひとつPem.Negeriを忙しくさせるのは隣人から借りたというラジオで、せっかく電池を買ったから電池のなくなるまで聞く、と言うとおり、朝まだきから夜寝る直前まで、この超変調ラジオを大音量でかける。それで、こちらが何か質問をしようが、何をしようが、雑音のなかからいくつかの音声の聞こえるこのラジオの大音量はつねに僕の傍らにあり、狂った音波で僕を威嚇し続けている。だから僕が質問をしかけたようなとき、彼は一瞬虚ろな表情から覚め、質問を聞き返す。その言ってることがラジオのせいでよく聞こえないから、僕はエッ?エッ?ということになって、まるでヤギさん郵便の世界だ。ともかく、彼のラジオの電池はまだ当分切れそうにない。僕が暗くなった懐中電灯から抜いて部屋の机の上に置いておいた3個の電池はいつのまにか紛失している。であるから、彼はいつも忙しく、子どもを脇にかかえ、ラジオを持って家の前をうろついている。
Le Soru 1908年の台風後、1909-10年頃の建設。Lakhounのみ残る。Lakhounは妻壁すべて板張りした建設当初の形式を残す。状態よい。
Le Huilwer Le Huiliよりやや斜面を降ったところにある。同じHaiyau氏族のRatuhanrasa氏の所有する家。Huiliwerは1908年の台風以前、Huiliは以降の建設。Leは南入型。Solorは壁上の頭繋ぎのないLe Laimodoと同形式のもの。Leiyaの壁面一部に屋根勾配にそって横板を張る。Leiya上に炉はない。軸組は整い、Leiyaの根太受けの床梁ata-herana下面に抉りをもつ。屋根、壁は1985年に葺替え、骨組ともにあたらしい。Lakhounは壁面、妻壁ともロンタルヤシの葉のパネルに変更。
Le Surimasa Leは1925年、Lakhounは1911年の建設。Leは北入型。妻壁の板、ひしぎ竹を併用した外観は建設当初のもので、Surimasaだけに残る。腰壁の平石積に赤土をつめ、壁にひしぎ竹を張る。この壁の形式はやや整いすぎの感があるけれども美しい。Lakhounの中央棟束の下の枘にT字型の突起を取り付け、昔はここに燈火aiwadu-lor(コサンビの実をつぶし、綿と混ぜたものを竹棒に塗って乾かしたもの。長さ40cmで約10時間もつ)を立てた。このT字型突起はLe HuiliwerのLakhounにもある。Leiyaの床梁ata-herana下面の抉りをもつこともHuiliwer同様。Le Luturmiriも。
7月28日(月) 曇、一時小雨 Oirata Timur(キサール島)
Le Lekrau Lakhounのみ残る。非常に状態は悪く、見るべきところはない。
Le Luturmiri 現在73歳のReginaという隣家の老婆が子どもの頃に建設されたらしい。1920年代か。Le内部は倉庫と化し、雑多な物が置かれているが、架構自体は整っている。壁と屋根を変えたため、妻壁にあるはずの狭い棚がうしなわれ、壁にあるべき棚もない。Leiyaの室内側壁の垂木に沿う斜面は横板張りで、Le Huiliwerと同形式。この横板のひとつに花模様の浮彫がほられている。北入型。東側の扉は閉鎖されている。Lakhounは棟持柱をもつという変形タイプだが改造のためらしい。柱は通常の3×2に対して1×2と少ない。
Le Darlekrau Leのみが残る。北入型。Leiya上に炉をもつ。Leiya妻壁に祖先が使ったlito(ロンタルヤシの葉を編んでつくったシリー・ピナン入れの籠)を吊してある。壁全体をロンタルヤシの葉で葺き直しているが、この仕上げは悪い。1980年代に柱を何本か入れ替えたという。家屋西側に氏族のMesbahをもつ。
7月29日(火) 朝はげしい雨、昼近くより晴 Oirata Timur(キサール島)
西Oirata村のPem.Negeri訪問。周辺の家屋の調査。
Le Horiala Pem.Negeriの語るところによれば、この家は、彼らの祖先がルアン島から到来し、山上の旧村へ登る以前に建てられたもので、他の家々のなかでもっとも古いということである。妻壁板張り。建物外壁にはロンタルヤシの大ぶりな側柱をめぐらし、ひしぎ竹を張る。この外壁の上にのる軒桁に穴を穿ち、垂木をこの位置で切り(別途、扠首がある)、軒先には別の垂木を継ぎ足すといういままでにない構造形式。東側部分の部材は腐食、虫喰いのため傷みが激しい。Le Laimodoにしろ、一般に東側は、扉があるにもかかわらず神聖視され、主に家にいる女や子どもが使わないためか、損傷が大きい。東風(貿易風)期に雨が多いためだともいう。Le Sawiaraと同じ形式のSolorをもつ。Leiyaの壁はロンタルヤシの葉のパネル葺きで、炉はない。北側の柱が沈下し、建物北側の垂木は軒桁とのあいだに大きな空隙を生じている。Lakhounの壁は縦板張り。
Le Ikulusara Lakhounのみ残る。このLakhounの何よりの特徴は東西の棟束下の枘がそのまま床下の貫までのびていること。および、縦板壁の上に横長の高床いっぱいの窓をもつこと。この棟束は、当主の語るところによると、Le Soho、Le Darmasaとならび3棟しかない。(Darmasaにはなかった)
Le Ladale Le周囲の石敷きテラスを欠き見栄えしない。Leiya壁は屋根勾配にあわせた板張り、中央部はロンタルヤシの葉。建物柱は東へ傾く。Leiya荷重のための柱の沈下が原因。Lakhounは高床南北の柱列を欠く。構造、仕上げとも悪い。
Le Tehelawai 1935年建設のLeのみ。石敷きテラスを欠く。軸組は雑でLe Huiliの架構と似る。
Le Herlewen 軸組はよく整っている。Ladale、Tehelawai、Herlewenは近い距離にかたまっている。妻壁はすべてロンタルヤシの葉に変えられ、途中の段を欠く。Solorもない。LakhounはLe Ladaleと同一形式で簡略型。
Le Darmasa 1946年の改修。妻壁横板張り。Leiya壁も全面板張り。壁柱は大きく、洗練され、ひしぎ竹の壁を張る。垂木はこの壁上の軒桁でとまり、軒先垂木を継ぎ足す。一見したところ、この形式は西Oirata村で一番古いというLe Horialaとまったく同じで、Le Surimasa(1925年建設、1955年の改修で壁、棟持柱を代えた)とも似る。妻板壁、壁柱、ひしぎ竹の壁構成は洗練されて美しいが、比較的あたらしいものかもしれない。LakhounもLe Horialaと同形式の縦板壁を使用。
7月30日(水) 快晴 Oirata Timur(キサール島)
午前、Le Darmasa、Le Surimasa、午後、Le Sawiara、Le Laimodoの補足調査。昼食抜きだ。ここの家族から風邪をうつされたためか、このところの疲労のためか、身体がだるく関節が痛い。疲れて村役場に戻る。といって、待っているのは温かい食事でも、熱いコーヒーでもない。今日も食事に戻らなかったね、と言ったきりPem.Negeriはあいかわらずラジオの脇の椅子に腰掛けたまま子どもの世話に余念がないといった案配だ。おりしもWonreliからの帰路立ち寄ったひとりの村人と村長夫婦は村対抗サッカーの話題に熱中しはじめる。Pem.Negeriの奥さんは亭主に輪をかけたような人だから、朝、村の人びとがとっくに仕事に出かける7時に家族一緒に目を覚ます。それで、われわれの朝食はたいてい9時頃になる。僕はそれまで仕事がはじめられないのが苦痛だから、時々この遅い朝食を待たずに調査に出かける。今日もそうで、朝7時に家を出て10時に朝食のために戻った。いきおい昼食は3時、夕食は夜9時近くというのがこのところの日課になった。マルクのどこでもそうだけれど、夕食のメニューはたいがい昼食の残りで、とくに主婦の仕事がふえるわけではない。日本でのように、スイッチひとつで火が使える環境ではないからこれは仕方ないとしても。で、この昼食にありつけないと、自動的に僕の昼食は取り消される。おまけに男も女も井戸端会議は大好きときているから、話しに熱中しはじめた彼らがこの哀れな日本人の食事のことに思いをはせる余地はもうないだろう。ここ数日、過労のせいで就寝中不整脈だったのが、今日は日中から妙な具合で嘔吐感がある。ひとりで水浴場に水をはこび、そそくさとマンディを済ませると、寝袋にもぐりこんだ。彼らの声高な話しはいつまでも続いていた。例の客がいつ帰ったのか、Pem.Negeriが寝込んでいる僕をおこし、おそい夕食をとった。
7月31日(木) 曇 Nomaha(キサール島)
朝6時、周囲の静けさを破る狂ったようなラジオの音声と子どもの泣き声によって目を覚ます。神も仏もない。7時、SoruのLakhounの補足調査。9時頃、DPRの息子が僕の洗濯済のズボンと靴下をもってあらわれる。Oirataに来てからかれこれ10日、ズボンは一度もはきかえなかったため、村人と比較しても僕の格好は十分に汚らしく妙な優越感にひたっていた。村役場へもどり、蒸かしバナナの朝食。DPR息子のオートバイでWonreliへ引き上げる。途中、Romleher Utara村にあるバイレオLeulapaをもつRoom Punlori Warakという家の見学。柱構成はOirataのものに似るが、東西の柱1スパンが板壁の外ではなく一段高い高床となり、外周柱に壁をめぐらすところがOirataとは違う。この建物は軸組仕上げが粗悪で洗練度を欠く。
Wonreliで土産のタバコ、石けん、蚊取線香などの必要品をととのえ、優雅なDPR家で一泊したい気持ちをおさえ、Nomahaへ発つ。NomahaはWonreliから約5km、Oirata-Wonreliと変わらない。伝統的な住居は2棟残る。ただし、かなりの改修(部材の入替え)を受けていて、あたらしい材の仕上げ、彫刻など、どう見ても粗雑で、細部においては昔の姿を知る由もない。家屋の構成はOirataとほぼ同じ。バイレオはRumleherのものと似るが相違点もある。本来の姿はこれだけでは不明だ。
昔、この村に南東スラウェシから公務で派遣された男が一ヶ月住んだ。彼はここのPem.Negeriがつくって差し出す食事を一向に食べようとしない。挙げ句の果て、彼は自分で魚を焼き、自分で食料を買って調理した。それで、たまりかねた村長は、この土地のものが食べられないなら村から出て行くほかない、とWonreliの市役所で訴えたという。だから、おまえは葉っぱを調理したような村の食事が食べられるなら泊めてあげるけれども、そうでないなら暖かいDPRの家に滞在しなさい、と僕に言う。もちろん食べられます。僕はどこでもその地方の食事を食べています、と答えた。
とはいうものの、調査を終えて家に戻った僕を待ち受けていたのはトーモロコシを砕いて小豆と混ぜた味のないお粥(これ自体はレティ島でもモア島でも食べ慣れてきたものだ)とトーモロコシとKacan Kayu(木になる大豆のようなマメ)を混ぜて煮たおかずで、味のあるものが何もないから、勢い塩唐辛子をかけて食べる。これにsegeroというヤシ酒に蒸留する前の発泡性の飲み物だ。これでも十分に酔う。一ヶ月、一年となると、さすがに苦しいだろう。スラウェシ島の官吏に同情の念もわく。
この酒がきいて、体調が悪いことも手伝い、早々に寝ようと部屋に引き上げると、この家の息子がついてきた。
「何か雑誌を持ってないか?俺は雑誌を見ないと眠れない。」
何のことかわからず、インドネシア語が十分読めないから雑誌は買わないと答えると、
「それなら日本の雑誌はあるか?」
執拗だ。ふと室内を見わたすと、キリストの肖像画のかかった壁一面に所狭しとポルノ雑誌の切り抜きが貼り付けてある。
「オーストラリアの旅行者はよく雑誌をもってくる。」
何ということだ。僕は彼らの仲間じゃないってのに。
「あなたは私の家を見て本を書き、お金をかせぐ。それでは私は何を手に入れるのか?」
と、到着早々Pem.Negeriの発した質問だ。
8月 1日(金) 晴・曇 Nomaha(キサール島)
夜半、蚊か蚤か虱か、身体中痒くて目が覚める。寝苦しい。見事に朝は下痢をした。歯を磨こうとすると、その水はキタナイからキレイな水を使いなさい、とカップに水を注いでくれた。どこの村でもこんな洒落た真似はしない。たいていマンディ場の水をそのまま使うから、歯を磨いた後は唾を吐くだけでうがいはしない、というのが習慣になった。それで、久しぶりに歯磨き後にうがいをしようと彼の差し出してくれたコップの水を口にふくむ。残ったコップの水のなかには数匹のボウフラが活発に動き回り、まるで僕をあざ笑うかのようだった。
朝、Nakar Lapaの見学。Nakarは素朴な家のこと。家主はなにを恐れるのか、調査も撮影も拒否した。この家主と、同行の村長の息子との会話は遅遅として、僕のひとつの質問に対して回答が出るまでに時間がかかる。彼らの分別くさい話しぶり。Nakar Lapaは昨日来調査のRoom(上級の家) Reslaiとは大部違う。村長の持ち家だというReslaiはなにかOirataの家の不完全な複製のようで個性に欠けるが、Lapaは細部がよほどきちっとしている。入口は建物平側(南北)にあり、東西側にはない。高床は建物半分の全面におよび、レティ島の比較的あたらしい形式に似るが、高床壁の入口が室内西半分の吹抜空間に開く点でOirata系だ。高床上の2階部分は神聖ということで登ることを拒まれた。外壁は板柱とひしぎ竹で、これはReslaiとおなじ。2階への梯子が上にゆくほど外開きで7段なのもReslaiとおなじ。
帰り際にsopi(ヤシ焼酎)の製造所を見る。Hrana(Brana?)といい、土器の甕に原料のsegero(ロンタルヤシから採取した樹液をアルコール発酵させたヤシ酒tuak)を入れ、3時間ほどかけて沸騰させる。この甕から屋外にむけて煙突のような竹のパイプがのび、この先端に瓶をすえ、ココヤシの葉をかぶせる。バケツ一杯のsegeroから一升瓶のsopi(蒸留酒arak)がとれる。村の人間は、人の家を訪れるたびごとにこのきついsopiをふるまう。あたかもフィリピンのボントックにおけるジンのようだ。sopiは無理だが、発酵中のsegeroは軽い発泡性があってなかなかいける。これでも酔う。
村長のバカ息子は、僕がNakar Lapaへ行きたいと告げると、Wonreliへ行った村長の帰宅を待てと言った。ひとりでたのむから大丈夫だと言うと、道を知らないと答える。それでも執拗に食い下がると、突然道を思い出したのか案内してくれた。帰路、僕は彼に訊く。
「この村にカーストはあるのか?」
「カースト?それは何のことだ?」
「ほら、marna(王)とかstam(平民)とかいう階級さ」
「そんなものないよ」
と平然と答える。キサール島のほかの村にはみんなあるのに、この村だけ特別なはずはない。なおも尋ねる。
「だったら、どうして彼らの家はNakarと呼び、村長の家はRoomなんだい?」
「知らないよ」
こんな片田舎の村で結婚もせず、外国のポルノ雑誌のヌード写真をあつめるような人間はやっぱり異常だろう。あとで村長に訊くと、この村には現在marnaはおらず(昔はいたらしい)、burだけだという。村には氏族がひとつしかない。Lailupunといってそのなかに4つの姓がある。村長によれば、Gilbelthusは天から降臨した。Lakalaiは隣村のLebelauから来た。AntoniはOirataから、SaukoliはPurpuraから来たという。
Room Reslai バイレオのLeulapaの軸組はRomleher Utaraのものと似る。梁のかけ方に若干の相違あり。この主架構の外周に壁をめぐらし、南北に開口をとる。異様なのは垂木の構成で、3種類の垂木仕様が交替する。部材の納まりはよいが、部材はほとんど新材で、仕上げ、彫刻ともにきわめて粗雑。どの程度原型をとどめているか疑問だが図面をとった。母屋RoomはOirataの形式だけを真似た構成で、部材の納まりはきわめて悪い。架構に対する理解がなく、不合理なところをトウによる結びで誤魔化している。これもほぼ新材で、昔のままに補修したと村長は言うが、とても信じられない。とにかく他に例はないから図面だけはとる。
8月 2日(土) 雨・曇 Wonreli(キサール島)
蚊取線香を3つ炊き、寝袋に足を入れて寝るも、夜中に腕中がかゆく目が覚める。これはダニか、それとも昨日来飲んでいるsegeroのせいか。朝、また下痢。下痢はたいしたことはないが、調査家屋が離れているのでこまる。食事はトーモロコシと大豆のようなKacang Kayuだけだから下痢がなおるはずもない。
Room Reslaiの調査を午後で終える。しかし、この家は村長の創作に近いことがわかる。彼の話も曖昧で情報源としての的確さを欠く。自身の考えが多すぎる。この家の調査後に見た二つの家屋AwahkuononとDuhtnanaの空間構成は先のNakar Lapaのものと同様でReslaiのような形式ではない。しかも、この村のすべての伝統家屋は1970-80年代に古い形式に則って建て替えられたもので、確かに外観や空間構成は伝統にならっているであろうが、建築細部までは家主の関知するところではないだろう。垂木の本数や位置が古来の伝統で重要な鍵を握っているかもしれないときに、そうした観念をすでに失った彼らがそこまで忠実に古い形式を受け継いでいるかは疑問だ。Reslaiの大雑把な木の仕上げや材のつぎ方、釘の使用もふくめて、Taman Miniの家屋を調査するよりマシだ、とは必ずしも言い切れないのだ。これ以上時間を無駄にすることにも、夜、板張りにゴザを敷いただけの寝床で痒みを堪えることにも耐えかねて、夕刻村を出る。Wonreliまでは徒歩で小1時間。すでに日は落ち、忍びよる暗闇のなかを歩いた。
8月 3日(日) 曇・晴 Wonreli(キサール島)
DPR宅に着いて気がゆるんだためか風邪をひく。午前中、疲労のため寝てすごす。午後Yawuruへ。徒歩30分。Yawuruの村の雰囲気はNomahaよりあかるい。昨晩のヤンの話だと、NomahaとPurpuraには黒魔術があるという。彼らの家を訪れたときの家主たちの猜疑心にみちた顔はそのせいか。それとくらべると、Yawuruはあっけらかんとしたもので、家々にはいるのも階上へのぼるのも自由だ。もっともNomahaのような神秘性に欠けるが。
Rumah Tua(古い家)と呼ばれる家屋は各mata rumahにひとつあるという。が、実際に古い家屋は今日見た範囲で4棟。Nakar Nohorau(1911年建設)、Nakar Munumeronno(1910年)、Nakar Marehonno(1908年)、Nakar Woorekidari(1910年頃)で、このなかでNohorauとWoorekidariの平面、構造はまったく同様。板校倉風の高床構造を屋内にもち、もっとも原形にちかいのだろう。ManumeronnoとMarehonnoではすでにこの構造の簡略化がすすみ、板校倉はなく、壁柱間に梁をわたし、全面に2階床をはっている。階上はトーモロコシの貯蔵庫。Woorekidariでは階上に炉がある。Nomahaとの共通性といえば、上方に開いた梯子の構造と南北壁面にある大小二つずつの扉(窓)だ。但し北の扉が正面で、階上への梯子は西にある。
8月 4日(月) 晴 Yawuru(キサール島)
Wonreli発、YawuruのNakar Woorekidari調査。昼食抜きの調査で能率悪く、今日中に終わる予定が終わらなかった。
8月 5日(火) 晴 Yawuru(キサール島)
Nakar Woorekidari調査。Lebelauに出発できず。ここのPem. Negeriは大変人のよいおじさんだが混乱している。家屋の聞き取りはそれでメチャクチャに長引く。こちらは風邪がまだなおっていないから声が出ない。声をからしておなじ質問を何度も繰り返す。聞くたびに答えることが違う。しまいには本人もどっちが正しいかわからなくなる。
8月 6日(水) 晴 Lebelau(キサール島)
午前中、Negeri Lama(旧村)、木の撮影。午後、Nakar Nohorauの調査。Yawuruにはチガヤが自生する。が、伝統でないといって使わない。昨晩から食事のたびに魚が一匹つく。これは非常な好待遇で、村長からセクレタリス、村長の家族まで全員で応援してくれる。おかげで調査に専念できるのはありがたい。夕刻、最後の食事のあと、日本から貴殿が来てくれていろいろ教えられることがあり、またYawuruの名が東京にも伝えられるのを私たちは大変嬉しくおもう云々、とあらたまった調子で副村長にいわれた。その後、村長の息子の案内でLebelauへ。すでに暗い。Bapak Raja(王様)に会いに暗い中を延々とあるく。王様というのは、頭のつかえそうなみすぼらしい小屋(あたらしい官舎のできるまでの仮住まいとか)から身をかがめて出てきた。これではどう見ても最下層民にしか見えない。
8月 7日(木) 快晴 Lebelau(キサール島)
王様の案内で家屋の見学。途中で大グラス一杯segeroを飲み、酔って立ち上がれず、しばらく休む。吐き気と頭痛と戦いながらの調査。おまけにコンベックスが途中で折れ、使用不能になり、なんとなく中途半端な実測。もっともここの古い家屋は、材仕口はみなトウによる結縛で納まりは悪い。台風以前の家も完成度低く、文化の中心から遠かったとおもわれる。Oiraram村にNakar Lapa、Nakar Pauhuri、Putihair Timur村にNakar Woorwali(1908年建設)、Nakar Orwaku(1909年)、Nakar Mahahi(1936年)の5棟のこる。本来の形式はYawuruの家屋から東の高床を除き、梯子を西の棟持柱に移動させた平面。Woorwali、Orwaku、Mahahiでは女(南側)のdegudegu(高床状のベッド)はすでに撤去されている。なかでもWoorwaliは台風以前の建設。東の棟持柱の足元にwaku romohorという家屋の中心石が埋められている。この石は家屋の完成後におこなうもっとも重要な儀式とかかわる。
Orwakuには“peleladi”という名前の人間を象った神聖な墨付器 lerne が木の小箱(w260×d150×h150)に納められ、高床東の小棚 werana に置かれている。墨付の紐は綿を撚ったもの。ロンタルヤシの墨付にはこの紐に石灰を塗る。ふつうの木にはヤシ殻を焼いた炭を水に溶かして使う。現在は乾電池の中身を利用。
建築儀礼 Rahoru(竣工式)にかんする聞き取り
家屋の建設が終わると、おなじSoa(氏族)の村人を呼び祝う。
“loye”(舟):ロンタルヤシの葉で小船をつくり、家屋の部材をあつめてこの船に積む。まず、家屋北側の軒先に出た梁の先端からはじめ、左回り(反時計回り)に家屋を一周して材の端を少しずつ削り取る。この時、ナイフの刃は家屋の外に向かうようにせねばならない。こうして軒先にある桁、梁の先端をすべて採取し終えたら、2周目には屋根の隅角部の葺草(ロンタルヤシ、ココヤシ、サゴヤシなど)の先端、結縛に用いたロンタルヤシの葉柄esil、葉柄からつくる紐usulaを少しずつ折り取る。これらの部材を小船 loye に乗せ、舳先を前に向けて家屋から程遠からぬ畑まで運び、畑の一角に石を積んで loye を覆う。
“lokor”:家屋外の一画にkapas(綿の木)かberingin(ガジュマル)の枝を立て、これにココヤシの若葉で編んだlokorを吊す。lokorには葉4枚、6枚、8枚のものがあるが、建設祝いには8枚のものをつくる。それぞれの葉先は二本の角状になっている。このlokorのたもとには、バナナの葉を切り取ってつくった皿の上に2個の小石をのせ、バナナの葉先が西に向くように置く。氏族のbur階級の長老が西を向き(病人の治癒祈願なら東を向く)、lokorとバナナの皿の上にシリの実と檳榔子を置いてゆく。ニワトリの羽毛を2度にわたってむしり取り、lokorに入れる。卵の殻を割り、その破片をバナナの皿に置く。卵の中身はロンタルヤシの葉の器で蒸し焼きにし、lokorとバナナの皿に置く。ニワトリの舌と肝臓の一部を入れるという説もあり。続いて赤米を撒き入れ、銀の円盤形胸飾り(男性祭祀者がまとう)にも米をかけ、シリと檳榔子をすりつぶしたものを同様に撒き入れる。ヤシ酒 sopi を振りかける。lokor を棟持柱(扠首?)に吊す。あるいは、東のwerhorno(主軸組の校倉式に組んだ梁。妻壁にある棚werapaの側壁にあたる)の上と側に吊す。バナナの皿は werana(屋根の妻壁最上段の棚)に置く。(以上Yawuru)
“teitei”:儀礼の文句を唱えながらヒヨコの腹を裂き、肝臓の色を見る。黒は不吉で赤なら吉とする。卵の殻を割って(以上Absul)
“waku romo ohor”(家の中心の石):家屋東の棟持柱のたもとに家の中心石を埋める。北側のLev(高床ベッド)の東隅に布を敷き、その上に用意の石を置く。石の上にシリと檳榔子を置く。石をココナツで磨き、ブタ、ニワトリを屠殺して、bur階級の女性の手で石を埋める。(以上Lebelau)
8月 8日(金) 晴 Wonreli(キサール島)
早朝、Lebelau発、山越えでYawuruへ。Yawuruの老人から家屋の中心にある石と船にまつわる建築儀礼の話を聞く。村長の息子の案内だが、先生の彼も父親譲りか、話が混乱をきわめる。説明のたびに話す内容が違い、説明そのものは要領を得ない。おぼろげな情報だ。なにより現在この儀礼がおこなわれていないため、各人が想像でこの情報不足をおぎなう。これらの話をつなぎあわせても統一した全体像が得られるわけではない。パフォーマンスあるのみ。
Sumpaliに古い家屋が1棟あるというので、これを見てゆくつもりだったが、Yawuruについてどっと疲れが出た。すべての紙は底をついた。手帳、野帳、そしてこの日記帳も。しかも、Yawuruの村長は記念にとばかり僕を写真屋よろしく家族の記念撮影を要求し、また立ち寄った家では主婦の頼みだと伝統衣装をまとったこの家の主婦と、どうにも似つかわしくない現代衣装の子どもふたりの記念撮影までさせられた。これで気力をうしなった。
昼過ぎWonreliに帰り着き、呆けてすごす。夕方はOirata-Yawuruのサッカー試合の見物。3-2でOirataの勝ち。夜、Tualから着いたばかりのCamat宅へ挨拶。タニンバル・ケイ島のSoal Yamanの弟で県のHumas(広報)長がここにあらわれ、また日本軍の話。
8月 9日(土) 晴 Wonreli(キサール島)
午前中、東ティモールのDiliに寄るための手続きに市役所。その足でPasar(市場)に行くとOirataのSawiara家の老婆ふたりが店をひらいていて(市では生産物を持ってきて売り、その売り上げで必要な物を購入して村に帰る)、タバコあるか? 持ってないと言うと、笑いながらオレンジをふたつくれた。それで、Toko Gembilaへタバコの葉を買いに行くと、今度はそこで食事をごちそうになる。
午後、建築儀礼の聞き取りの補足にYawuruに行くが、村長も書記もおらず、どういうわけかそれ以上追求する気力も失せているので、そのままWonreliに帰る。またサッカーの見物。Abusur対Purpura-Nomahaで、2-1でAbsurの勝ち。Abusur出身のDPRは機嫌よい。
夕刻、市長からもらった書類をもって軍の司令部(Koramil)、警察派出所(Polsek)とまわる。警察署長はおらず、前任者がいる。彼はジャワ人でイスラム教徒だ。キサール島にはイスラム教徒は15人しかおらず、モスクもないと嘆く。この島の人は酒も飲むしブタも食べますね、と同情げに言うと、そういうことだと、我が意を得たりとばかりに話しはじめた。どこでも警察署長はジャワ人が多いらしい。レティでもキサールでも、ジャワの若造が島の警官たちの管理をしている。島の警官はツァヘウスのように人情味があって、いくぶん八方破れだが、署長たちは1年くらいの期間であちこちと転任するから、中央の意向しか気にしていない。けれども彼らの頭は単純で、ご機嫌をとるのは簡単だ。
8月10日(日) 曇 船中
DPR一家総出で海岸まで見送りをうけ、船中にて食べるようにと大きなパンの包みふたつとダンボール一箱分のオレンジをもらった。渡航パスのことでたまたま魚を買いにきたジャワ人の警官からいちゃもんがつき、船の出発が遅れた。結局、すでに登記済の乗客3人だけが乗船をゆるされ、海岸の船小屋で待っていた多くの乗客たちは置き去りにされた。
船の名はJendana Wangi (白檀の香)、乗員10名、乗客4名(ジャワ人でインドネシアを一周しているという男とケイ諸島から東ティモールに仕事をさがしに行くという若者と僕、それに警察の去ったあと船にもぐりこんだオレンジ商人)、これにくわえて、ニワトリ16羽、ヤギ6頭、ウマ1頭、ブタ5匹という顔ぶれになった。
15:45乗船、16時出帆。船室下の船倉にブタ、ヤギをおしこめ、悪臭に耐えながら、その上に人間が寝る。夜半過ぎから風はやみ、波まかせの航海となった。
8月11日(月) 快晴 船中
夜半4時、甲板に排水するということで(船倉にたまった汚物まじりの海水を定期的に汲み出していた)、甲板に寝袋を敷いて寝ていた僕は起こされた。そのためか、一日中めまいと吐き気とたたかうはめになった。くわうるに、キサール出発時から下痢気味で、これをこらえるために腹痛。しかも一日二度の食事はトウモロコシ粥と塩唐辛子。午前中、まったく風なし、波もなく、午後までにはとても到着できそうもない。午後からようやく風が出て、ウェタール Wetar 島とリラン Liran 島、アタウロ Atauro 島を右に、左にTimTim(東ティモール)の山あいをながめながら航行。釣り針を一日中流し放しにしているものの、針につけているのはニワトリの羽だけで魚が釣れるわけはない。夕刻、意を決し、船尾の箱形便所で用を足してからすこし元気がでた。
8月12日(火) 快晴 Dili(東ティモール)
時に風はまったく止み、時におもいだしたように吹く。波で甲板が濡れ、船員たちの吐く唾と船底からブタとヤギの糞尿のまじった汚水の排水で、甲板に寝る気になれず、サンパン(帆船に備えつけの丸木船)の上で寝た。海風と疲労で風邪がぶりかえす。夜中3時、雨のため起きる。ふたたびめまいと吐き気。Diliを目の前に見ながら、風がないため5時間かかってようやく入港を果たした。最後は櫂を船舷に括り付けて4人の男で必死に漕ぐ。サンパンには3人の男が乗り、これを船首にロープで結んで引っ張る。涙ぐましい。
この作業を見て、これだからインドネシアはダメなんだと言ったケイの若造は、僕がこの作業を手伝うのを横目で見ながら、櫛を取り出して身繕いに余念がない。この仕事を一所懸命やったおかげで手にマメができた。
船が動き出した途端に吐き、そのあとずっと食事もとらずに船室に転がっていたジャワ人は、到着早々元気な顔で、私は書類が完全にそろっており、道中を急ぐからまっ先に降ろしてくれという。結局、われわれ3人は港の管理事務所で待つことになり、彼ひとりの抜け駆けはできなかった。
船員たち全員に一つずつ配ってまだいくつも残っていたDPRの贈り物のオレンジは、下船の際に見ると、いつのまにか全部なくなり、船長の枕元にならべられていた。
入港事務所で書類の検閲をうける(東ティモールは外国人の立ち入りを禁じていた)。ここでトイレを借りる。用を足すあいだ、トイレの床はぐらぐらと動き、不安定きわまりない。海の上に床を張ってあるのかとおもって、事務室にはいると、この部屋の床もおなじように動く。いったいどうしたんですか?と係官に尋ねた途端に気がついた。船酔いの後遺症なのだ。結局、この地震のような感覚は、この日の夜、床につくまでのあいだ、時々僕をおそった。
Diliには中国人が多い。漢字で書かれた看板が堂々と軒先にかかげてある。流しのタクシーが多く走る。町には活気があり、市場は多くの店が軒をならべる。物価はこの地域のなかで断トツに高い。ホテルは一泊1万~2万RPだ。町はスプロールし、新建築が目白押しで、いわば小ジャカルタといったおもむきだ。疲労のため夕方から発熱。風邪薬を飲み、高級?ホテルのベッドで安らかに眠る。
8月13日(水) 晴 車中
朝7時に出発、と前日約束の小型バスは町のなかの客を拾い歩き、乗客もろとも運転手の家まで連れて行かれ、彼の着替えを用意するあいだ待つ、というのどかな、しかし、外見上はかなりせかせかした状態で、本当に町を離れたのは9時をすぎていた。昼夜2度の食事のほかはノンストップ、というのもじつは誤りで、途中3回もタイヤのパンク修理のために停まったし、東ティモールを出るまで、警察、軍の関所が合計6カ所あって、ここで通行証の検閲をうける。
Kayu Putih(白い木=ユーカリ)ばかりの生える山道をバスはひた走り、平地に出ると陸稲の畑のなかを走った。家屋は方形の寄棟、外見は地床形式で、Alang-alang(チガヤ)で葺いた屋根の棟のおさまりに特徴がある。棟上でチガヤを左右の横木で夾み、場合によっては、この横木とチガヤのあいだに簪のように交差する棒を差し込んでゆく。ちょうど女の子が髪の毛を全部もちあげて、ピンで留めたような棟仕舞いだ。
道は想像以上に整備されているし、あかるい農村ではサッカーや歩行競技に興じる。畑のあいだを突っ切る道の脇に電信柱がえんえんとならぶ様は日本と変わらない。これがマルクだとせいぜい椰子の木だ。すくなくともこの幹線道路沿いの村にはほとんど電気が通っている。橋のない広大な川を横断するも、すでに乾期がはじまっているからか、水はごくすこし流れるきりだ。道はかわき、車が急停車すると、いっせいに土埃が車内をかけめぐる。
8月14日(木) 晴 Kupang(ティモール島)
朝5時45分、PU(公共事業省)着。事情を話す僕に対し、門番は外で待てとつれない。ともかくトイレを借り、この水溜の水で顔と手足を洗い、頭を洗い、歯をみがき、服を着替えて、外に出た。やがて副所長が入所する。所長は出張中のため、彼に面会をもうしこむ。
副所長は怪訝な顔で僕のパスポートとビザの検査をし、ジャカルタからの書類が本物かArsipに問い合わせ、この書類のパスポート番号が誤っているから直してくれと頼んだ僕に、私にはできない、と両手をあげた。誤っているなら直すまでのことです。でないと、混乱をますばかりです、と説明して、僕はさっさと自分で書き換える。何という融通のきかない男だ。そして、自分には関係ないとばかり部下を呼び、彼に書類と僕を押しつけたのだ。この部下も部下で(これでもCipta Karyaの長だ)、また自分の部下を呼び、書類もろとも僕を託した。この男は、まず何が要求か、と僕の言う要求項目をひとつひとつ紙に書き、調査のフィロソフィーがどうのこうのと話しはじめる。いま必要なのは議論じゃなくて、早く役所をまわることです。僕がPUにもとめているのは、誰かこの僕を役所回りに案内してくれる人間をつけてくれることです、という僕に対し、彼はまた別の人間を呼んで、僕と書類を押しつけた。この若者がラムリ・ヌラウィといって、僕は結局、彼の家で泊まることになった。警察、州庁舎、軍、教育文化省とひととおりまわり、昼すぎからようやく寝た。船風邪は車中での埃のためにえんえんともちこす。これをのぞけば、いたって快調。
ヌラウィの兄はITB(バンドン工科大学)の土木Sarjana Muda(学士3年)出の国家公務員2C級(3年勤続)、PUに勤める。3年半前、20年月賦でPermnas(住宅公団)の住宅を購入した。彼の給料は約9万RP。諸手当をふくめると10万RPすこしになる。妻と子ども3人、現在Tugas Belajarという研修制度でPUの県事務所から派遣され、ジョグジャカルタの大学でIr(修士)を取得中だ。給料のほか、月に米30kg(独身は20kg)と年に公務員服2着、靴1足の支給をうける。ラムリ君は兄の留守宅をあずかっている。
彼の家はPermnasのタイプD-6x6(6m×6mの規格)。3m×3mの寝室2室と3m×4mの居室、台所、水浴場兼トイレがつく。RCの枠組に金網の上にセメントを塗った(ラス・モルタル)厚さ20ミリの壁に、木造小屋組、トタン葺きの屋根。ベニヤ貼りの天井にはすでに雨漏りの跡がある。床はセメント、モルタル仕上げ。700万RPで購入。月々の支払いは約2万RP。敷地は10m×10m、電気水道は完備。
8月15日(金) 晴 Kupang(ティモール島)
午前中、博物館の見学。いくつか住居の模型を見せられたが、厳密さを欠くものばかり。垂木の納め方、屋根葺き材など嘘。仕上げ材料も悪い。博物館はスンバとサヴの住居にならった形のトタン屋根で葺かれている。すべからく恒久的建築はトタンだ。夕刻よりNTT(東ヌサトゥンガラ州)の政府各部門によるNTTの開発見本市の見物。
8月16日(土) 快晴 Denpasar(バリ島)
ラムリの見送りをうけ、Garuda 611に乗り込む。風まかせ、豚と一緒のプラフと、快適なこのジェット機が共存するということがインドネシアだ。風邪もいくらかおさまり、体力も気力もまだあるけれど、紙という紙、ペンが底をついた。もはやこれまで。
mati bagus、poton bagus 日本兵の慣用句だ。
1冊目のノートは最後のページの最後の行まで使い切ったところで終わっています。野帳は非常用にとっておいた2枚を残してなくなり、同時に持ち歩いていた手帳は最後のページをこえて裏表紙、表紙、さらに表の裏表紙へと隙間を埋めつくしていました。調査からひさしぶりに滞在地バンドンにもどると、モルッカ諸島で調査中に私が行方不明になったというので大変な騒動になっていました。アンボンからキサール島に向かう帆船の沈没事故に巻き込まれたのかもしれない。行方不明日本人の捜索願を出すかどうか。。。。沈没事故のニュースをちょうど滞在中のキサール島で知った顛末はこのフィールドノートにもある通りです。そういえば、おまえの名前を軍の無線で呼んでいたようだよ、とキサール島で言われたことを思い出します。その時は気にもとめていませんでしたが(軍に行動を監視されるとしたらマズイ事態しかありえないのですから)、もし連絡をとろうにも平時の旅行者には手段がなかったでしょう。当時の関係者がここをご覧になっていたら、その時の私はかく述べる事情の渦中におりました。ゆえ連絡不行き届きの点はどうかご勘弁ください。今さらながらご心配をおかけしました。