日本軍と大男と小人の話

TOKK(1990.1) pp.26-27

 S島のある村でおこなわれた結婚式の話である。式は伝統にしたがいまれにみる盛大な規模のものだったという。
 新郎新婦を祝う祭宴は夜に至ってもとどまるところを知らず、いよいよ待望のダンスがはじまろうとしていた。この日のダンスは、村の若い男女がたがいの熱い想いをたしかめあうまたとない機会なのである。さて、日本軍の一隊が村にのりこんできたのは、まさに宴たけなわというそのときであった。忽然と出現した異国の兵隊たちは広場をとりかこみ、参列者に銃口を向けて立ちならんだ。戦争中のことであるから、夜間に灯火をもちいることは厳重に制限されている。それにもかかわらず、式場となった村の広場はこうこうたるあかりにつつまれていたのである。ところが、めでたい儀のことであるからというので、日本軍の隊長は粋なはからいをしめしたものだ。裸になれ、隊長はそう命令する。村人たちは一瞬耳をうたがい、それでも銃口が彼らに向けられたままなのを知ると、おとなしく上着をぬぎはじめた。しかし、日頃従順な村人たちも下着に手をかけたところでさすがに躊躇したそうだ。兵隊たちはさらに威嚇する。しかたない。結局、参列者はいうにおよばず、新郎新婦にいたるまで全員その場ですっぱだかになってしまった。その格好のまま、結婚式はなにごともなかったかのようにつづけられた。これも戦争中であるから、踊りはよくてもダンスは禁じられているのであるが、隊長の温情のまえにはそんな規則もあらばこそ。村の若者たちは恥部をかくすために窮屈に腰をかがめ内股になりながら、愛の交歓ならぬ裸踊りを踊るはめになったというわけである。それでS島××村の裸踊りといえば今でも知らぬ者はないという。

 この話は元日本兵でK島に住む男の語ってくれたものである。男は太平洋上の島々を転戦したあげくA島で終戦をむかえた。戦争中、剣術の腕前をかわれて斬首役をつとめ、切り落とした首の数は一九人におよんだという。彼の手にかかったのはおもに現地人だったから、さすがにA島に住むわけにはゆかずにK島に移り住んだのである。

 S島はインドネシアのモルッカ海域にある一番大きな島のことで、内陸部は奥深いジャングルと険しい山岳に閉ざされて、いまだ人跡未踏の地をなしている。この島の内部に文明と接することもなく人知れず棲息する民族がいる、と言われればなるほどと納得してもおかしくはない。
 ある男がこの島の奥地を探検しようとして装備をととのえ村を旅立ったことがあるそうだ。何日か山歩きののち、食事の支度をしようと火をおこし、油を注いだ鍋を火にかけておいた。薪が足りないというのでしばらく火元をはなれて戻ってきてみると、どこからあらわれたものか、見あげるほどの大男が鍋を片手に煮え立った油を飲み干しているところであった。大男は呆然とたたずむ彼の姿に気がつくと、やにわに鍋を放り出し森のなかに駆け去った。彼のほうも大慌てで取るものもとりあえず村に逃げ帰ったという。山奥で大男が人間の頭をかじっていたという話もある。

 大男がいれば、当然小人もいる。おなじモルッカにWという名の比較的大きな島がある。いまもって内陸交通の手段がなく、巡回船もほとんどこの島には寄港しないために最近まで開発の手も及ばずに残されている。モルッカの島々を渡り歩いていると、××島に行くときには生水と果物には十分気をつけた方がいい。ココヤシ、バナナ、パパイヤなどを不用意に食べると、悪寒におそわれ、やがて体がふるえて発熱する。用心のためにマラリアの薬をぜひとも買ってゆくように、といった類の忠告をことあるごとにうける。それで用意万端ととのえて、いざ××島に乗りこんでみると、はたせるかな、ここ××島では安全だけれども万一○○島へ行くならマラリアには注意しなさいと親切に言われる、という具合である。○○島に行けば□□島、□□島のつぎは△△島、そうやって、もうこれ以上辺境には行きようのない、最後の最後に行き着く先の島がW島である。W島の山奥には塩水をたたえる湖があって、山のなかにもかかわらず、この湖ではあらゆる種類の海の生物が見られるということである。
 このW島に小人族の住む村がある。彼らは他の島民に見つからないように大きな洞穴をえらんで、そのなかにひそんで暮らしている。昼間は畏れてけっして外界を出歩くような真似はしないので、彼らの住む洞窟がどこにあるものか、島の誰一人知らない。もちろん、彼らの言葉はまったく特異なものであるので彼らの話を解すこともできない。それでも、夜になると海岸ぞいを徘徊する彼らの姿を目撃したという村人の数は多くあり、小人族の存在をうたがう者はいない。彼らは身長が大人の膝丈までしかないから、遠くから人影を見ただけですぐそれと知れるのだという。

 この話はK島で公務員をつとめる男が、自分の目撃談だとことわりながら話してくれた。男がW島に行ったことがあるなどと私は夢にもおもわないが、彼が小人を目撃したのはまごうかたなき事実にちがいない。なぜなら、そう話すときの彼の顔は真剣そのものだったからである。
 また、W島のとなりにあるKi島の国会議員先生の語るところによると、W島には耳の大きな民族が住むというふるくからの言い伝えがある。しかし、彼は自分の目で確かめたわけではないので、この話をにわかには信じる気になれないということである。
 小人といえば、十六世紀のはじめマゼランの世界一周に随行したピガフェッタは、航海記のなかで身長わずか五〇センチメートルの住民について言及している。この小人は身長に似合わぬ巨大な耳をもっていて、夜になると両の耳を蒲団がわりに、そのあいだにくるまって眠るのである。彼らのすむアルチェト島はインドネシアのどこか東方にあるというから、あるいはW島をさすのであろうか。

 彼らの信念が私たちの真実であるとも、私たちの真実が私たちの信念にすぎないとも、言うつもりは私には毛頭ない。自然科学的な思考の持ち主ならばなにをおいても事の真偽を確かめたいと願うところだろう。ところが、はたして民族学者のほうはそうした話が信念を持って語られるという現象のほうにまず魅入られてしまう。だから私のかんがえでは、民族学者の仕事は信念を共有するための作業であると言ってよいとおもう。(1989-12-16)

フローレス原人
Homo floresiensis
この文章を書いたのは1989年のこと、その後2003年にフローレス島リアン・ブア洞窟で矮小化された成人の人骨が発掘され Homo floresiensis と命名された。小人の存在は、16世紀マゼランの航海記にも言及されていた通り、この海域ではいわば周知の事実だった。

リアン・ブア Liang Bua 洞窟

発見された人骨

フローレス島原人の復原図