月刊みんぱく 14-1 1990年1月号 pp.15〜17 私的民族建築学入門 |
今から一〇年以上も昔の話になる。当時、建築の学部を出たばかりの私は、ある設計事務所に就職して建築家への道を志していた。建築家というのは、特定の個人なり集団なりの意向にしたがい、彼(ら)の存在様態に実在の形式をあたえてやることをなりわいとする人格である。今の私ならそう答えるところだろう。しかし、朝から夜までを製図版にむかい、ひたすら鉛筆をはしらせて形の操作を繰りかえしていても、頭のなかにまっ白な霞がいっぱいに広がってゆくのを感じるばかりだった。やがて建築史の勉強のために大学に戻った私は、フィリピン・ルソン島の山岳民、ボントック族のもとでおこなわれる予定の調査に誘われ、そこではじめてのフィールドワークを体験することになった。 |
住まいがある種の文化的強制力の産物であったことはたしかである。だから戦前の民族誌のなかのボントック族のように、ある民族の構成員がすべからく同一の家屋形式を共有していることはべつに驚くに値しない。外套膜から分泌する炭酸カルシウムを利用して、生長とともに拡大する対数曲線の貝殻をつくりあげる軟体動物のように、あるいは、腹部の出糸腺から吐き出される幾種類もの絹糸を駆使して、複雑な巣作りのプロセスを毎日繰りかえしてみせる蜘蛛のように、人間の住居建設も一定のプログラムにしたがって反復される作業の結果にすぎないのであろう。巻貝や蜘蛛が生まれながらの本能によって、自然の領域でやってのけてきたことを、人間は文化という教育の場を通してでなければおこないえなかっただけの話である。 1989.12.05 |