地球上に人類の祖先が登場したのは数百万年前と言われている。農耕がはじまるのは今からおよそ1万年前のことだから、人類は誕生以来99%以上の年月をただ自然の恵みにたよる狩猟採集によってすごしてきた計算になる。獲物をもとめて移動する生活から、定住して生産や貯蔵をおこなう生活へ、人類はいわば定住革命をなしとげることで、はじめて文明化への道をふみだしたのである。こうして都市や国家を生みだし、複雑な社会制度をつくりあげたものの、その代償に、人間社会は絶え間ない諍いやストレスの種をかかえこむことになった。離合集散を繰り返していれば、隣人や隣国との関係に苦労しながらひとつ所にしがみつく必要はなかったし、将来のために現在を投資するかわりに、今この瞬間をせいいっぱい生きていればよかった。移動のたのしみはその道程にある。こうした移動民の処世術に、空間や時間を所有したつもりになっている私たちの胡散臭さはない。
ボルネオの熱帯雨林には、政府の定住化政策にもかかわらず、今も狩猟採集生活をおくる人びとがいる。プナン族は数家族から十数家族が集団をつくって森のなかを移動している。家族と言っても土地や財産などを相続するわけではなく、たいていは夫婦とその子供たちを単位に、ひとつの家屋を共同で建設して、そこにある期間一緒に住まう人びとと言うしかない。家族という単位が社会的な意味をもつのは、つぎにすすむべき場所について、つまり集団を離脱するかどうかを家族ごとに決めるところにある。 プナンたちが主食にするのは、森のなかに自生するヤシから採れるサゴ澱粉で、それに運がよければ野豚などの獲物がくわわる。そうした資源の枯渇をふせぎ、季節によってことなる食料源をもとめて、プナンは数日から数ヶ月の範囲で集落を移動している。集落にえらばれるのは、水や食料が確保しやすく、家屋の屋根に葺く低木のヤシが群生している場所である。大木には精霊がやどるとかんがえられており、家屋を建てるからといって、森に無尽蔵にある大木を切り倒すことはできない。プナンがプナンでありつづけるための場をまもること、そのようにしてプナンの文化はプナンを存続させてきたのだ。彼らは遠慮がちに下ばえの小木を切り、立木をそのまま柱に利用する。家屋の建設自体は数時間もあれば済んでしまう。こうして完成した集落をベースキャンプにしながら、若者たちは森のなかへ食料獲得のための出撃を繰り返すのである。
ところで、プナンの家屋は壁もない粗末な高床建築にすぎないけれども、ある意味で、ボルネオのなかでもこれほど人間中心の住まいはない。ふつう農耕民の家屋には、先祖代々つづく家の守り神をまつったり、豊作を祈願するための祭壇がもうけられている。それは、しばしばこの世に生きる人間の生活を犠牲にせねばならないほど重大な意味をもつものだが、プナンの家屋にはそうした空間上の制約がない。それどころか、出産や死といった、人間のいとなみのなかでも超自然の領域に属することを住まいのなかから丁寧に排除している。 子供を産むには、家屋の近くに仮小屋をもうけたり、わざわざ家屋の床下を利用する。その場で嬰児とともに数日間をすごしてからでなければ、家屋にもどることはできない。ようするに、出産は住まいのなかで起きてほしくない事柄なのである。おなじように、家屋のなかで誰かが死ねば、そこにはもはや住みつづけることができなくなってしまう。遺骸は籠にくるんで家屋や森のなかに放置し、集落全体が荷物をまとめてすみやかに移動する。成員の死にさいして家屋を捨てる風習は、プナンにかぎらず、狩猟採集民のあいだにはひろく知られている。その理由は、彼らの死生観ともふかくかかわっている。 プナンも霊魂や死後の世界を信じていないわけではない。ただ、彼らには死者の霊魂と永続的なかかわりをもつ必要がないだけの話だ。死は人間界とは別な次元の事象であって、プナンにとって、そのような刹那的な存在として人間はこの世に生を受けているのである。これは、おなじ場所に住みつづけるために社会全体で死を懐柔し、そうすることで祖霊と共存していかねばならなくなった農耕民の人間観とはまるで異なっている。そのとき、人生は祖霊になるための過程にすぎないからである。
興味ぶかいことに、定住化の果てに到達した巨大な都市文明は、じつは現代人をふたたび移動民の社会へとひきもどしたようにみえる。私たちの手にした家屋は、永住の住みかではなく、いつでも市場に流通可能な不動産にすぎない。そこではぐくまれるのは、祖先から受け継ぐイエの担い手とはほど遠い、産業社会を支える一代かぎりの労働力である。そうして、じつのところ歴史からも文化からも自由な個人が、都市の海にただよいながら、仕事や出会いをもとめて遊動を繰り返している社会、それこそが現代に生きる狩猟採集民の姿なのである。そのとき、たしかに死とは社会的な出来事であるよりもまえに個人的な出来事なのだ。それは、私たちの人生がなによりも私たち自身のものであると期待するのとおなじくらい確実に。
2000-03-01 (Wed) 23:16 |