紀元5世紀をすぎる頃から東南アジアは歴史の黎明期をむかえる。スマトラやジャワを舞台にした王朝の興亡史は、各地にのこる石造建造物やプラサスティ(石碑刻文)、それに、ヤシの葉に記されたロンタル文書や漢文史料のなかに言及されたわずかな事績をたぐりよせるようにして構成されたものだ。ジャワ人自身の手になる王国の年代記が史料として登場しはじめる14世紀中葉まで、インドネシアの歴史がそれ以上に明確な像をむすぶことはない。
ポルトガルのインド副領事だったアルブケルケがマラッカ占領を果たすのは1511年。16世紀を通じて、ヨーロッパ各国は交易(つまり経済的利益)をもとめてつぎつぎと東南アジアに現れるようになる。マラッカ陥落のおよそ100年後、1619年には、オランダ東インド総督のクーンによってバタヴィア城建設の端緒がひらかれている。バタヴィアは連合東インド会社のアジア交易の拠点として発展し、のちには植民地支配の政治経済的中心(現在のジャカルタ)にまで成長した。
本稿が目標とするのは、欧風化を受ける以前に東南アジアに息づいていた木造建築について、かぎられた史料からその素描をこころみることである。
以下は東南アジア史の通説にしたがって比定された土地の建築についてまとめるつもりで書きはじめた。しかし、その作業の過程で(結果的にチャンパ史として掲載 砂上の楼閣をこえて)漢文史料に言及された国の多く(シュリビジャヤとされる室利仏逝や三佛齊をふくめて)がインドシナ半島に限定されたものであることがわかり、以下の記述はまったくの嘘になった。通説がどのように嘘の上塗りをされてゆくかの記憶として。
林邑は環王、占城と名前をかえて15世紀まで存在した。ベトナムにあったチャンパ王国のことである。
其城西南際山,東北瞰水,重塹流浦,周繞城下。東南塹外,因傍薄城,東西橫長,南北縱狹,北邊西端,回折曲入。城周圍八里一百步,磚城二丈,上起磚墻一丈,開方隙孔,磚上倚板,板上層閣,閣上架屋,屋上構樓。高者六七丈,下者四五丈。飛觀鴟尾,迎風拂云,緣山瞰水,騫翥嵬崿。但制造壯拙。稽古夷俗,城開四門,東為前門,當兩淮渚濱,于曲路有古碑,夷書銘贊前王胡達之德。西門當兩重塹,北回上山,山西即淮流也。南門度兩重塹,對溫公壘。升平二年,交州刺史溫放之,殺交趾太守杜寶別駕阮朗,遂征林邑,水陸累戰,佛保城自守,重求請服,聽之。今林邑東城南五里,有溫公二壘是也。北門濱淮,路斷不通。城內小城,周圍三百二十步,合堂瓦殿,南壁不開,兩頭長屋,脊出南北,南擬背日。西區城內,石山順淮面陽,開東向殿,飛檐鴟尾,青瑣丹墀,榱題桷椽,多諸古法。閣殿上柱,高城丈余五,牛屎為埿。墻壁青光回度,曲掖綺牖,紫窗椒房,嬪媵無別,宮觀,路寢,永巷,共在殿上,臨踞東軒,徑與下語。子弟臣侍,皆不得上。屋有五十余區,連甍接棟,檐宇相承。神祠鬼塔,小大八廟,層臺重樹,狀似佛剎。郭無市里,邑寡人居,海岸蕭條,非生民所處,而首渠以永安,養國十世,豈久存哉?元嘉中,檀和之征林邑,其王陽邁,舉國夜奔竄山藪。據其城邑,收寶巨億。 (『水經注』卷三十六「溫水」)
ベトナムのオケオを外港として前1世紀には建国されていた。インド世界と交易し、はやくから金属器文化がひらけていた。
4ー5世紀には最盛期をむかえ、7世紀には衰退、北の真臘に併合された。アンコールの礎をきずいたクメール人の王国。
木を伐って家を造り、
大型船をつくって交易
扶南人黠惠知巧,攻略傍邑不賓之民為奴婢,貨易金銀綵帛.大家男子截錦為橫幅,女為貫頭,貧者以布自蔽.鍜金鐶鏆銀食器.伐木起屋,國王居重閤,以木柵為城.海邊生大箬葉,長八九尺,編其葉以覆屋.人民亦為閣居.為船八九丈,廣裁六七尺,頭尾似魚.國王行乘象,婦人亦能乘象.烬败及狶為樂.無牢獄,有訟者,則以金指鐶若败子投沸湯中,令探之,又燒鎖令赤,著手上捧行七步,有罪者手皆燋爛,無罪者不傷.又令沒水,直者入即不沈,不直者即沈也.(『南斉書』扶南国)
扶南の奴隷交易 パレンバンも交易品として奴隷がある ピレス『東方諸国記』pp.281
マレー世界をつくりあげた王国の名は室利仏逝。7世紀中葉、歴史の表舞台に登場するや、海上交易の要衝をおさえて発展をとげた。その特徴は、農業をベースに国土と国民の管理をめざす社会ではなく、商業とネットワークに基盤をおいた社会だった。
モンスーンを利用したアジアの東西交易では航海の途中で季節風を待たねばならない。その基点に都市がひらけ、交易がおこなわれた。海上交易の重要性が増して(その背景には造船技術の進歩と交易品の増加があげられる)、船でマラッカ海峡を通過するようになると、海峡の入口と出口の二カ所で風待ちをする必要がある。その地の利を生かして繁栄した最初の王国が室利仏逝であった。この時以降、東南アジアの政治史はこの海域の覇権をめぐって動いたといっても過言ではない。当時この海域にはペルシャ、アラブ、インドをはじめ東南アジア各地の交易船が往来し、室利仏逝は南洋随一の国際都市の様相を呈していた。
671年には、唐の義浄 (*3) が仏典招来のためにインドへ向かう旅の途中で、室利仏逝に立ちよっている。室利仏逝には、千人におよぶ僧侶が仏法修行にはげみ、インドへ修行にむかう者はまずはじめにこの国で準備をととのえたという。また、どこの国へ行っても言葉が通じないことはなかったとも記している (*4)
。海域アジアはすでに活発な東西文化交流の坩堝にあったのである。事実、義浄はインド渡航の前後7年間を室利仏逝ですごして、招来された仏典の翻訳と著作に心血をそそぐことになった。
義浄の滞在した室利仏逝がどこであったのかについては、スマトラ島のパレンバンであるとも、あるいはマレー半島東岸ともいわれている。
『新唐書』南蛮伝によれば、室利仏逝の国土は東西千里、南北4千里におよび、14の城があって、二国にわけて統治されていたとある。当時の南洋交易は、マレー半島の付け根で船荷をおろして半島を陸路横断するか、船のままマラッカ海峡を経由するか(そのためには最低でも季節風の変化を2度待たねばならなかった)のいずれかであったと考えられている。スリウィジャヤの発展は、その双方の交易路をおさえることではじめて実現されたのにちがいない。いずれにせよ、スリウィジャヤは、ゆたかな後背地を基盤とした農業国家としてではなく、交易の基点となる都市をむすぶネットワーク型の社会として発展した (*6) 。
その支配は城市をこえてはほとんど広がらなかったようだし、社会を統合するためのコスモロジカルな巨大中心施設を(ジャワやクメールの諸王朝のように)残すこともなかった。
この海域の都市国家がどのようなものであったのかは、唐代に編纂された漢文資料のなかにうかがうことができる。
民衆は多く水辺に住む。国に城なく、みな堅木を柵にしている。王は金龍の牀(しょう)に座す。座るたびに、重臣はみな両手を交差させ肩を抱いた格好で跪いた。(『通典』卷第一百八十八「南蠻下」槃槃) (*7)![]()
槃槃(『新旧唐書』では盤盤)はマレー半島東岸のバンドン湾(スラタニ、チャイヤー)付近に比定される。扶南、広州からの船が寄航する港湾都市として5世紀には知られていた。マレー半島横断ルートの漲海(シャム湾)側の基点だったと考えられる (*8)。しかし、その実態は水上住居の建ちならぶ漁村の景観をそのまま残しながら、インドからの植民者が築いた国(?)であったようだ。その国には天竺から財貨をもとめてやって来たバラモンが多く住み、王は彼らを重用しているとも書かれている。槃槃には王城がなく、ただ王の徴として玉座の牀(台座)
があるだけだったが、インド化のさらに進んだ地方では王城が建設されている。
その国は磚を累ねて城となし、二重の門のある楼閣があった。王は外出に際して象に乗り、幡旗をたて、鼓をうち、白い蓋(きぬがさ)で覆い、衛兵を甚だしく設けた。(『梁書』卷五十四「狼牙脩國」)
狼牙脩(『隋書』では狼牙須)はマレー半島の東岸にあった国で現在のパタニ(あるいはナコーンシータンマラートまでふくむ領域)とされる。建国以来すでに400年、王の跡取りがなくなり、一族のうち、天竺に追放されて、そこで現地の女性と結婚していた者をふたたび王にむかえいれたとある。王や貴族はインド風に薄い雲霞布を肩からかけ、金の縄の帯をしめ、金の耳飾りをしていたが、その他の人民は男女とも髪を結わず、綿の干縵(腰衣)を巻いただけの裸同然だった。王権は強化され、支配(?)階層はインドとの関係を保っていたようだが、その影響がどこまで国内におよんでいたかはうたがわしい。宋代の記録でも、交易には金銀でなく、米や酒をもって単位にしていたとある(『諸蕃志』凌牙斯加)。
狼牙脩の王城は磚(煉瓦)で建設されていた。この時代に煉瓦の王城をもつのはほかに林邑(『通典』)とミャンマーの驃(ピュー~『唐會要』驃)しかない。それだけ東南アジアのなかではインド化のすすんだ地域だった。楼閣もここでは高床建築の意味ではなく、煉瓦造の建物だった可能性もある。一般民家は盤盤とさほど変わりのない木造の高床建築だったと考えられるから、生活様式も共通点はすくなかったようにみえる。屋根の素材はわからないが、瓦ではなく草葺きされていたのではないだろうか。文献によるかぎり、唐代に瓦をもちいていたのは、ビルマの驃とタイの投和(ドヴァラヴァティ国~『通典』)にかぎられる。北インドの瓦の影響圏である。 (*9)
王城の構造にだけ注目してみると、この時代にもっとも手のかかる(それゆえ経済的基盤と技術があった)石造の王城を建設していたのは哥羅だけだったようだ。
その城は石を累ねてこれをつくる。城に楼閣あり。門に禁衞あり。宮室は草をもってこれを覆う。(『通典』卷第一百八十八「南蠻下」哥羅)
哥羅はマレー半島西岸のクダー(義浄の訪れた羯荼)と考えられている。内陸のブジャン渓谷には4世紀に遡るとされる寺院遺構群もある。唐代のクダーは東南アジアの玄関口であり、インド洋を東進してきた船は、それより先に進むためにここで風待ちをするか、船荷をおろして陸路マレー半島を運ぶしかなかった。それだけにインド化の度合いもはげしく、城壁は石造で建設されていた。城内には楼閣や宮室もあり、宮室は草葺きされていた。役人はみな髪を束ね、遺骸は火葬にして灰を金壺におさめて海に沈めたとある(林邑や真臘、投和と一緒)。税率(輸銀二銖)も決められていた。ただし、植民者のコロニーをこえて、国土(?)が実際にどの程度政治的な支配下におかれていたのかはよくわからない。24島あるが県制度はないとも記されている。
林邑や真臘を別とすれば、当時この海域で国内の統治体制がもっとも整っていたのは赤土国ではなかろうか。
僧祗城に居る。三重の門があり、それぞれ百步ほど離れている。各門には飛仙、仙人、菩薩の像を描き、金花の鈴毦を縣け、婦人数十人があるいは樂を奏し、あるいは金花を捧げる。また四婦人を飾り、仏塔をまもる金剛力士の如き装いで、門を挟んで立っている。門の外の者は兵仗を持ち、門の内の者は払子を手にしている。道を挟んで、花綴りの素網が垂らしてある。王宮の諸屋は悉く重閣で、北に戸口をひらき、北面して座す。王は朝霞布をまとい、金花の冠をかぶり、雑宝の瓔珞(ようらく)を垂らして、三重の櫂(かい)に座った。四女子が立って侍り、左右に百余人の兵衞がついた。王の榻の後ろには木の龕が一つ、金、銀、五香木、雑鈿をもってこれを作る。龕の後ろには金の光焔を一つ懸け、榻を挟んで金の鏡二つを樹てる。鏡の前には金の甕がならび、甕の前にはそれぞれ金の香爐がある。その前には金の伏牛をひとつ置き、牛の前には宝蓋一つを樹て、蓋の左右にはみな宝扇がある。バラモン等数百人が、東西二列になり、向かいあって座る。(『隋書』卷八十二「南蠻」赤土)
スリウィジャヤとマレー世界のその後を追うまえに、東南アジアの西の果て、インドとの中間地帯にも眼を向けておく必要がありそうだ。文明はいつも西からやってくる。
スリウィジャヤが登場するまで、東南アジアは扶南を中心に動いてきたといってよい。唐代までの中国の文献資料があきらかにしてくれるのも、タイ湾周辺の動向にかぎられているようだ。スマトラ島やジャワ島はまだその関心の外にあった。そして、これらの島との航路をおさえていたのはイラワジ(エーヤワディー)川流域に城郭都市を築いていた驃(ぴゅう)だった。 婆利と闍婆をめぐって
王が出るには、金縄の牀を以て輿とし、遠ければ則ち象に乗る。嬪史は数百人いる。青甓で円城をつくり、周囲は一日程(百六十里とも)。十二の門があって、四隅に浮図をつくる。農民も皆その城内にいる・・・・・・(『新唐書』卷二百二十二下「南蠻下」驃)
驃は音楽と建築にとりわけすぐれ、貞元十八年の正月にはその楽団35人が国楽を献じに唐を訪朝している。『新唐書』は驃の音楽についてきわめて異例な長文の記事をのせている。
室利仏逝が登場するまで、スマトラ島やジャワ島は中国の朝貢圏の外にあった。これらの島との航路をおさえていたのがじつは驃なのである。
ピュー人の王国が中国史料にはじめて登場するのは、紀元前1世紀の『華陽国史』における「ピヤオ(にんべんに票)」と考えられており、3世紀前半の『西南異方志』によると「驃」がエヤーワディー河流域に存在していたと記されている。また『新唐書』によると8世紀頃の「驃」の中心は現在のピエー市Pyayの南東約9kmに位置ずる現フモーザー遺跡Hmawzaであるタイエーキッタヤー(パーリ語のシュリー・クシェトラSri Ksetra(「吉祥の国土」の意味)が転訛したもの)にあったことが記されている。
タイエーキッタヤーは7世紀の玄奘三蔵による『大唐西域記』には「室利差咀羅(シュリー・クシェトラ)」と記されており、レンガの城壁に囲まれた約13キロ平米の楕円形をした城趾で、レンガ造の寺院や仏塔はほとんどが城壁の外側にのこっている。
この城壁にある西の城門付近からは5世紀頃のものと考えられる碑文が発見されており、そこにはパーリ語で「孔雀経(モーラ・スッタ)」や「吉祥経(マンガラ・スッタ)」などが書かれていることから、この国の主な宗教は上座部仏教(※1)であったとされるが、同時にヒンドゥー教の神像や大乗系の菩薩像なども出土しているので、上座部に加えヒンドゥー教や大乗仏教も混在していたと考えられている。また発掘によって、この国では死者を火葬にし骨壷に納めて埋葬する習慣があり、銀製の円形コインを使用していたこともわかっている。
このピュー人の王国は『蛮書』によると832年に南詔国の侵攻で住民約3000人が捕虜として連行されたことから、徐々に衰退していったとされている。
驃の地は、東は真臘から崑崙世界と接し、西はインドに、南東は墮和羅からマレー半島に、北は南詔を経て中国に抜けるまさに交通の要衡にあった。『新唐書』には、じつに18もの属国と、9の鎭城、298の村のうちの32村の名前があげられている(『新唐書』驃)。この驃国の記述は他の南蛮諸国とくらべて異様にくわしく、『新唐書』の編纂者が独自の情報源をもっていたことがわかる。その属国のなかに仏代と闍婆というふたつの国名がみえる。
海を行くこと五ヶ月で仏代国に至る。川が有り、支流は三百六十。其の王の名は思利些彌他。有る川の名は思利毗難芮。土地に異香(木)が多い。北に市が有り、諸国の商船が湊所にする。海を越せば闍婆なり。十五日行き、二大山を踰(こ)す。一は曰く正迷、一は曰く射鞮。国が有り、その王の名は思利摩訶羅闍、風俗は仏代に同じ。多茸補邏川を経すと闍婆に至り、8日行くと婆賄伽盧に至る。国土は熱く、街路に椰子、檳榔を植え、仰ぎ見ても太陽は見えない。王の居所は金を甍(いらか)とし、厨(くりや)を銀の瓦で覆い、竈は香木、堂を明珠で飾る。二池が有り、金を堤とし、舟檝(ふね)は皆金宝で飾る。 (『新唐書』卷二百二十二下「南蠻下」驃)
驃の港から船出すれば5ヶ月で仏代国に着くという。仏代には360も支流のある川があり、その北には諸国の船でにぎわう港市がひらけている。さらに海を越すと闍婆(ジャワ島)がある。王のなかの王、思利摩訶羅闍(スリマハラジャ)の王名を名乗れる国は唯一中部ジャワのシャイレンドラ朝しかない。二大山とあるのは、正迷(スメル山)と射鞮(ベリラン=ムラピ山?ウィリス山?)を意味するのか、あるいは、二大寺院であるボロブドゥール(聖仏)とプランバナン(捨身)のことかもしれない(後述)。さらに多茸補邏川(ボンゴル(ソロ)川?ブランタス川?)を越すと闍婆の領内にはいる。闍婆の王都はまるで黄金の国さながら、クディリに都した婆賄伽盧(パンジャル)王国の姿である。
つまり、この記事は、東ジャワでパンジャル王国が成立した11世紀中葉の様子をつたえるものだろう。唐代の記事というよりも、『新唐書』の編纂された時期とかさなる。中部ジャワにはまだシャイレンドラ朝の国があり、仏教が信仰されていた。その風俗は仏代と同じとある (*11)。
ジャワのことはひとまずおいて、スマトラに話をもどそう。仏代国の王都は思利毗難芮川の河口に外港をもっていた。支流の多さから、これはジャンビのあるバタン・ハリではなく、パレンバンのあるムシ川だろう。そして、その国の王の名こそ思利些彌他(也)、スリウィジャヤなのであった。
しかし、商業国家として繁栄をきわめたスリウィジャヤも、この地域の覇権をめぐって、インド、ジャワなどからたえず干渉をうけ、8世紀中葉には、中部ジャワのシャイレンドラ朝の統治下にはいるようになる。スリウィジャヤにはジャワの諸王朝のような大規模な建築遺跡がのこされていないために、その建築文化についてはほとんど知ることができない。けれども、10世紀後半になると、王都のパレンバンを足がかりに、ふたたび三仏斉国という名の王国がうまれ、その建築についていくつかの漢文史料がつたえている。
甍を累ねて、周囲数十里の城となす。国王は船に乗って出入し、身に縵衣を纏(まと)い、絹傘をもって蓋(おお)い、金標をもって衛った。その人民は城外に散居し、あるいは牌(いかだ)を作りて水居し、板を鋪(し)き茅で覆った。(『諸蕃志』三仏斉国) (*6)![]()
三仏斉国には広東、福建から逃げてきた中国人が多く住み、一部には漢字も使われていた。王宮の屋根が瓦で葺かれているのは、高い木工技術とともにこうした中国の影響をしめすものであろうが、それにたいして、庶民の家は茅(『宋史』では椰子の葉とある。海岸よりの地勢から推量するに『宋史』の記事が正しいのだろう)で屋根を覆っていた。しかも、どうやらその住民の多くは水上生活を営んでいた。
南中国の蛋民や日本の家船などのように、筏や舟を利用して半定住的な水上生活をおくる人々のことをマレー語ではオラン・ラウト(海の人)とよんでいる。スマトラ東岸からマレー半島西岸にかけて、あるいはボルネオやスラウェシの北岸地帯が、こうした水上居民の活動の舞台であり、定住化がすすめられために、現在では沿岸に高床の水上集落を築いている場合もある。彼
の起源はもともとイスラム化したマレー人で、南洋貿易の発展とともに、商業活動やときには海賊行為に従事しながら各地に広まったものとかんがえられている。(◆写:ブルネイの水上集落)
スリウィジャヤの王都のあったパレンバンはムシ川の河口に位置し、朝夕の満潮時には海水が内陸ふかくまで河川を逆流した。土地が低湿で、つねに洪水の危険にさらされていたことにもよるが、水上住居はこうした水利の便を積極的に活用して、アジア各地からあつまる貿易船と交渉するのに好都合な生活様式だったわけである。明代の『瀛涯勝覧』はパレンバンの水上住居の様子をもう少し詳しく記している。
水が多く土地が少ないので、頭目の家はすべて川岸にあったが、庶民はみな木筏の上にいて、屋根を覆って住まいとし、杭を用い纜(ともづな)を繋いで岸にいた。増水しても筏なら浮かぶだけで沈むことはないし、また別の場所に住まうときには、杭をたて、家を連ねるだけで、運搬の労なくして去ることができた。(『瀛涯勝覧』旧港国)
もっとも、この記事の書かれた15世紀には、パレンバンはふたたびジャワ勢力の支配下におちて(1376年にマジャパヒト王国の属国となり、王都は北西のジャンビにうつり、パレンバンは旧港とよばれていた)、風俗習慣はみなジャワに同化されていたとも記されている。
スマトラ(ないしマレー半島)でスリウィジャヤ(室利仏逝)が繁栄をきわめていた7世紀~9世紀に、ジャワ島には訶陵(かりょう)と呼ばれる国があったことがわかっている。
堅木で城をなし、閣を重ねた大屋を作り、棕梠の皮をもってこれを覆う。王は、悉く象牙をもちいて牀となし、その中に座す。(『旧唐書』巻一九七 訶陵)
訶陵は碑文のなかでシャイレンドラという名で知られる王朝をさすらしく、中部ジャワを中心に、ボロブドゥールをはじめとする石造チャンディ建築をさかんに建造した。唐代の『通典』以下、中国の記録によるとその王城は木造で、重層の大建築であったとされている。その建築様式を具体的に知る鍵は、当時さかんに建設されたチャンディと呼ばれる石造寺院建築のレリーフにある。
8~9世紀にかけて建設されたチャンディ・ボロブドゥールには、各回廊の壁面にそって仏教説話をえがいたレリーフが飾られている。このなかには、おそらく当時実在の住宅、宮殿、寺院などを直写したとみられる建物が散見され、それらをもとに、おぼろげながらシャイレンドラ朝時代の建築様式を推測することができる。重層の木造建築をえがくレリーフは五例あって、そのうち四例は、いずれもかなり妻先のころんだ切妻屋根を上層にのせ、下層は庇をめぐらせた建物である。釈迦がのちに妃となるゴーパー妃(ないしヤショーダラー妃)を宮殿で引見する場面では、ゴーパー妃の従者たちのいる建物がこの様式で表現されている。しかし、残りの三例は玉垣でかこわれ、住宅というよりは祭壇か祀堂に類する小建築のようだ
(写:チャンディ・ボロブドゥールのレリーフ;僧院を参詣するウポサダ王)。
明確に宮殿とわかる建物は、9世紀後半の建立とされるチャンディ・プランバナン(ロロ・ジョングラン)のレリーフに表現されている(写:チャンディ・プランバナン、シヴァ神殿のレリーフ)。このレリーフはヒンドゥー叙事詩の『ラーマヤナ』に題材をとったもので、ハヌマンひきいる猿の大軍に取りかこまれて炎上するラワナ王の宮殿をえがいている。切妻屋根のころびがやや小さく、建物全体が大ぶりで高床である点をのぞけば、ボロブドゥールの建物と共通する様式のようだ。
チャンディ・プランバナンを建設したのは、シャイレンドラ朝とほぼ同時期にジャワ島中東部を支配したヒンドゥー教系のサンジャヤ朝であるといわれる。中部ジャワでは、シャイレンドラ朝とのあいだにある種の調和的関係がたもたれていたらしいが、九世紀中葉にシャイレンドラ朝をスマトラのスリウィジャヤに追いやって、中部ジャワの覇権を確立した。チャンディ・プランバナンの建設にむかうのはちょうどその頃で、仏教にかわるヒンドゥー教の再興をめざしたといわれるのもそのためである。そうした背景はこのレリーフにも反映されている。
『ラーマヤナ』のなかで、ラワナはラーマに対決する悪の世界の支配者である。物語は、ラワナがラーマの王妃シータに魅せられ、シータを誘拐して、王宮のあるランカー島に幽閉するところからはじまる。ラーマは、猿王ハヌマンのたすけをかりて、シータ妃の奪還にむかうが、このとき猿軍の放った炎によりラワナ王の宮殿は炎上するのである。ところで、悪の中心であるランカー島は、ヒンドゥー世界にとっていわば周縁的世界の象徴であり、現実には仏教徒の住むスリランカをモデルにしていた。プランバナンのレリーフのつくられた当時の中部ジャワに場所を置きかえてみると、仏教を奉じたシャイレンドラ朝がそれにふさわしい対象であったことがわかる。そうだとすれば、ラワナ王の宮殿のモデルとして、シャイレンドラ朝の王宮がイメージされた可能性は十分ありうることだし、ボロブドゥールのレリーフのなかでは、玉垣でかこわれた小建築がおなじ屋根形をしめしているのをみると、王宮は祭祀施設とも類似の観念でむすばれていたようだ。
サンジャヤ朝は中国の史料にいう闍婆であるらしく、九二九年には、それまで政権のあった中部ジャワから東部ジャワのクディリに遷都している。その建築については、宋代の『諸蕃志』に、
「屋宇は壮麗、金碧をもって飾る」(『諸蕃志』闍婆国)
と記されている以上には、住居様式について詳らかにできる史料はない。しかし、闍婆国の属国であった中部ジャワの蘇吉丹(スキタン)や西部ジャワの新(スンダ)については、おなじ『諸蕃志』の記述から、柱を建て、その上に床を築いた高床住居であり、棕梠の皮で屋根を覆い、藤葛を編んで壁にしていたことがわかる。チャンディ・プランバナンのレリーフには、宮殿のほかにもこうした高床建築がえがかれており(写:チャンディ・プランバナン、ウィスヌ神殿のレリーフ)、それをもとに九世紀当時の中部ジャワの木造建築様式を知ることができる。
これらの建築構造をみてまず気がつくのは、想像以上に発達した木造技術の存在である。たとえば、高床をささえる柱は通し柱となって屋根の軒桁までのびているが、そのさいに床梁は柱を貫通して固定されている。こうして貫をもちいて軸組がかためられた結果、柱を礎石の上に据えることも可能になった。いまだに掘立柱が利用されている地域が多いことをかんがえると、九世紀のジャワ島の木造建築技術はすでに今日とかわらないレベルに達していたらしい。礎石を利用して建物の恒久性がたかめられたことにより、壁面の彫刻や仕上げのディテールなどを洗練してゆく条件はようやくととのったのである。また、貫穴をあけ、柱を礎石上に立てる技術は、小屋梁に棟束を立てて棟木をささえることも可能にした。それによって、棟持柱が地上から建ちあがる場合とくらべて、間取りの自由度は格段に増加した。屋根は切妻でも、桁行方向へ空間を増築するのはまれで、平側の一方もしくは両方ともにやや低い床を付属させ、母屋の切妻屋根を葺きおろして庇空間を追加する手法がとられている。スマトラのアチェ族(写: )や西部ジャワのスンダ族(写:)などの家屋は、こうした空間構成を現在にもひきつぐ最良の見本である。
さらに興味ぶかい建築構造上の特徴に方杖がある。ボロブドゥールとプランバナンの二大チャンディをはじめ、中部ジャワ期のレリーフにあらわれる木造建築では、穀倉以外の建物の床桁と柱、あるいは軒桁と柱のあいだに斜材がわたされている。ところが、つづく東部ジャワ期にはいると、こうした方杖の利用はまったく影をひそめてしまう。スンバワ島東部のドンプ、ビマ地域では、現在も同じような方杖をもちいた家屋建設がつづけられている(写:ドンゴ族、ドンプ)。なぜこの地域だけにこうした構法がつたえられてきたのかあきらかではないが、これらの地域の住居をみると、プランバナンのレリーフがそのままの形で再現されていることにおどろかされる(写:スンバワ島ビマ族の住居)。
10世紀以降に東部ジャワで建設されたチャンディのレリーフとはことなるもうひとつの点は屋根の仕上である。中部ジャワ期には、屋根が茅や椰子などの草葺で覆われていたためか、レリーフ中の建物の屋根に模様をえがくものはない。棕梠の皮で屋根を覆うという『旧唐書』の訶陵伝の記述は、サトウヤシの幹をつつむ黒い繊維を屋根葺材に利用することである。これは一般に ijuk とよばれて、現在でもスマトラの諸族やジャワのスンダ族などのもとではイジュックをもちいた黒い屋根をみることができる(写:アチェ族、ミナンカバウ族、トバ・バタック族、カロ・バタック族、スンダ族)。草葺屋根であれば、切妻屋根の妻先が外にころぶのは当然で、技術的には、棟先が軒先よりも外に出ることで、屋根の螻羽位置に屋根葺材の端部が露出するのをふせぎ、あわせて妻壁を雨からまもる効果がある。
また高床住居とならんで、高床の穀倉も重要な建築要素であったことは、ボロブドゥールやプランバナンのレリーフにもたびたび登場するから言うまでもない(写:チャンディ・ボロブドゥールの穀倉レリーフ)。これについても中国史料は、
「土地に米穀多く、巨富の家は萬余の倉を設ける」(『諸蕃志』蘇吉丹)
と記していて、倉は一種のステータス・シンボルであった。
チャンディのレリーフによると、倉は鼠返しのある四本の主柱にのり、妻先のころんだ切妻屋根でおおわれている。高床上にのった壁面も外へ傾斜しているのは、インドネシアばかりでなく、フィリピンから日本の南西諸島にいたる広大な地域で共通にみられる特徴である(写:バタック族住居)。また、レリーフでは高倉への戸口が建物の平側にえがかれているが、現在は切妻側に戸口をもうけるのがむしろふつうで(写:スマトラ島バタック族、バリ、ロンボック島ササック族、スンバワ島ビマ族、スラウェシ島サダン・トラジャ族)、ボルネオのビダユー族(陸ダヤク族)などわずかな地域で例外的にのこされているにすぎない(写:ビダユー族の穀倉)。
中部ジャワを中心に繁栄をきわめていたジャワの王朝が、東部ジャワにうつらねばならなくなった理由は一説に火山の噴火といわれる。クディリに移った政権は、1222年にはシンガサリ王国へ、さらに1294年にはマジャパヒト王国へと交代するものの、中部ジャワの沿岸地帯でイスラム教の諸王国が台頭をはじめる16世紀初頭までのあいだ、ジャワ島の政治・文化の中心は一貫して東部ジャワにあった。
クディリ王国は中部ジャワ期のように大規模なチャンディ建築を建てることをしなかったが、シンガサリ、マジャパヒトの両王国時代にはいると、ふたたびさかんに煉瓦造のチャンディが建設されるようになる。そのなかには、シンガサリ時代のチャンディ・ジャゴ(現存するチャンディはマジャパヒト時代の再建とみられる)やマジャパヒト時代のチャンディ・パナタランなどのように、木造の建物をレリーフ中にえがくものもある(写:チャンディ・ジャゴのレリーフ)。
これらのレリーフから、中部ジャワ期と東部ジャワ期とでは木造建築の様式に大きなへだたりのあることがわかる。屋根には六角形や鱗形の模様がえがかれ、切妻造りにかわって寄棟造りや方形造りの屋根が大勢をしめるようになる。それにともなって、母屋と前(後)の庇から構成されていた中部ジャワ期の横長の空間は、四本の主柱でかこまれた求心的な空間に変化をとげる。また建物全体が基壇のうえに建設されるようになったかわりに、高床そのものの高さはずっと低くおさえられている。これらの建築様式のなかに、現在のジャワ家屋の接客空間であるプンドポの萌芽を認めることができる(写:ジャワ家屋のプンドポ)。
こうした建築様式のちがいが、中部ジャワと東部ジャワという地方的差異をあらわすものなのか、それとも時代的な変遷の結果にすぎないのか、明確なことはわからない。しかしながら、たんなる時代的変化以上の意味を現在におよぼしていることは確実で、中部ジャワ期の様式がジャワ島西部やスマトラなど、どちらかといえば西インドネシアを中心にひろがりをみせるのにたいして、東部ジャワ期の様式はジャワ島中・東部からバリ島、さらに東インドネシアにかけてみることができる。
中部ジャワから東部ジャワへ、突然政権の移動した理由さえあきらかではないのだから、それにともなう建築様式の大転換がどうしておきたのかを跡づけるのは容易なことではない。しかし、建築遺構のすくないクディリ王国時代にあって、その変遷期をおぎなう貴重な資料が、クディリの南、トゥルン・アグン遺跡にあるグア・セラマングレンの洞窟レリーフにえがかれている。この洞窟遺跡は紀元一〇世紀に造られたらしいが、レリーフに描写された建物は、中部ジャワ期と東部ジャワ期の過渡的様式として注目される(写:グア・セラマングレンのレリーフ)。
この建物は四本の通し柱でささえられた高床建築で、入母屋風の屋根にはいずれも棟反りがあり、屋根中央には生命樹らしき表現がみられる。屋根に生命樹をえがくことは、三世紀のものとされる青銅鼓からもあきらかになっている(→第四章)が、ボルネオのンガジュ・ダヤク族の祭儀画をみると、聖なる建物の象徴として、屋根にはこうした生命樹や傘がえがかれているのである(図 )。スマトラのカロ・バタック族の には実際に屋根の中央に (写:カロ・バタック族の家屋)。高床上には胡座をかいてすわるふたりの人物がいるが、通し柱の半分ちかくも高さのある床面は、一般に東ジャワ期の建物にはみられない。高床を支える方杖も中部ジャワ期特有の形式である。しかし、人物描写にみられる土着化した表現は、まぎれもなく東部ジャワ様式の幕あきを告げるものだし、屋根にも東部ジャワ期特有の鱗形の模様がえがかれている。東部ジャワ期の建物の屋根を覆うこの鱗形の模様はいったい何をしめすのだろう。
東部ジャワにうつった王権は、マジャパヒト王国時代にはいると、インドネシア史上最大の領土(範囲については異論も多いが)を支配下におさめるまでに繁栄した。宮廷詩人プラパンチャのあらわした叙事詩『ナーガラ・クルターガマ』(*4)には、王国の歴史、制度、宮廷生活、行事などの記述とならんで、王宮の建物についても言及した部分があり、それをもとに王都の復元がこころみられている。それによれば、現在のジョグジャカルタやスラカルタ(ソロ)と同様、王宮は南北軸に沿い、城壁にかこまれた城内に、王族の居館をはじめ、シヴァ教、仏教信仰のための祀堂や儀式用の施設を建てていたことがわかる。
一四一六年に馬歓のあらわした『瀛涯勝覧』に瓜哇国の満者伯夷という名で登場するのは、やはりマジャパヒトの王都であろうとみなされている。
その王の居る所、磚をもって墻となし、高さは三丈あまり、周囲は数百余歩。その内に重門を設け、甚だ整潔、房屋は楼の如くに造り起て、高さはそれぞれ三、四丈あまり。板をもって布き、細藤の簟あるいは花草の蓆を鋪き、人はその上に盤膝して座す。屋根には硬木を用い、板を瓦として、破いて縫って蓋う。国民の住屋は芳草をもってこれを蓋い、家々は倶に磚の砌をもって土庫となし、高さは三、四尺、家私什物を貯蔵し、その上に座臥し止まり居る。(『瀛涯勝覧』瓜哇国)
王宮は高さ一〇メートルにたっする煉瓦積の城壁でかこわれ、そのなかにやはり一〇メートル以上も高さのある楼閣を建設していた。『ナーガラ・クルターガマ』も、王宮が高い赤煉瓦の城壁にかこまれていたことを記しているし、王族の居館は、どれもレリーフのある煉瓦の基壇にのり、柱は絢爛たる彫刻をほどこされ、屋根の頂にはテラコッタの棟飾りが飾られていたという。
『瀛涯勝覧』によると、王宮の屋根は小割板の瓦をもちいた板葺であったが、一般民家にはあいかわらず茅がもちいられていたようだ。板葺はシラップと呼ばれ、ジャティ(チーク)やブリアン(ボルネオ鉄木)などの木を三~五センチメートルの厚さに削いだ小割板がつかわれる。小割板の先端を尖らせたり丸く削って、千鳥にかさねて葺くことで、屋根表面には六角形や鱗形のテクスチャーをあたえることができる。東南アジア大陸部ではおなじみのこの屋根構法が、東部ジャワ期の建物の屋根を覆う模様の正体であった。
ジャワでは、テラコッタ製の薄い引っ掛け桟瓦が普及し、また良質の木材が入手しにくくくなったこともあって、板葺はすっかり影をひそめてしまったが、瓦が登場する以前には、板葺はもっとも快適で耐久性にすぐれた屋根葺材であったし、じっさいボルネオ内陸部のように瓦の入手が不可能な地域では、現在でも波形亜鉛鉄板などの新建材より格式の高い屋根とみなされている(写:ボルネオ、カヤン族のロングハウス)。
『瀛涯勝覧』の記事は、板張りにした床の上に蓆を敷き、胡座をかいてすわる王宮の生活をつたえている。これは東部ジャワ期のチャンディにえがかれる建物の情景とも一致する。しかし、マジャパヒト時代にこうして低い高床をもうけていたジャワの建築は、それ以降に高床そのものをうしなって、現在のジャワでみられる土間式の生活スタイルが確立されていったものとかんがえられている。それは、一説にヒンドゥー時代につづいてジャワ島を支配したイスラム王国の影響ともいわれるが、高床から地床への変遷過程は依然として大きな謎につつまれている。ところが、これについても『瀛涯勝覧』の記事には重要なヒントがかくされている。
王宮が高床で建てられていたのにたいして、一般住民は煉瓦を積んで高さ一メートル内外の基壇をもうけ、その上に起居していた。しかも、この基壇は土庫の役目も果たし、家財道具の収納につかわれたという。土庫の上で起居するという記述からは、一種の高床生活がイメージされるが、煉瓦造の土庫の形式は、稲米をおさめる高倉とはあきらかにことなり、通常の基壇の域を出るものではなかったとおもわれる。とすれば、基壇を倉庫に利用するような住居様式が存在したことになる。
バリ島の東にあるロンボック島に居住するササック族は、ジャワ人やバリ人とならんで高床住居をもたない。その住居は泥と牛糞で丁寧に被覆した基壇のうえに建設され、住民たちは土間の上に敷いたパンダヌスのマットに腰をおろしたり、横になって日中の暇な時間をすごすのである(写:ロンボック島ササック族)。ところで、基壇はふつう山の斜面を利用してきずかれるが、平野部では基壇の内部を倉庫につかう地方もある。ササック族のあいだでは、これは富裕な家族にだけゆるされる住居様式で、二メートルあまりも高さのある基壇の内部を農作物や農具の収納にあて、その上に板張りの床をもうけている。ササック族のもとには、マジャパヒト王国の子孫との関係をつたえる伝承もあり、その住居様式がマジャパヒト時代に起源をもつ可能性もかんがえられる。『明史』に、華僑や他国の商人は清潔だが、
「本国人はもっとも汚穢なく、好んで蛇、蟻、蟲、蚓を啖い、犬と寝食を同じくする。」(『明史』瓜哇国)
と記されているのは、ジャワの庶民住宅が中国人とおなじ土間住まいであればこその感想で、清潔な貴族階級の住宅はもちろん考慮の外であった。
要するに、東ジャワ期の住宅建築にはふたとおりの区別があったらしい。そのうち、レリーフにえがかれるような低い高床をもちいた貴族住宅はバリ島につたえられているし、土間をもちいた庶民の住宅はロンボック島でみることができる。現在のジャワの貴族住宅は、マジャパヒト時代の貴族住宅が庶民住宅同様に地床化をとげることでうまれたらしいが、果たしてその変遷過程はやはり謎のままだ。ここではそれを土着化、つまり地方的様式の確立の過程ととらえて、以降の章に話題を引き継ぐことにしよう。