その村は津波被害で有名なバンダアチェ市からさらに西にはなれた海岸沿いにあった。クローブの生産で潤い、村人が財産を貴金属に代えて身にまとうことから歩く宝石とまで呼ばれた村である。その村に当時の面影はない。村のあったはずの場所には、わずかに残る瓦礫のあいだにぽつりぽつりとNGOによる復興住宅が建ちはじめていた。3000人以上いた村人は7人を残して地上から消えた。生き残ったのは偶々村を離れていた者たちばかり。津波に呑まれて生還したひとりの男は身体に残る傷跡以外に事件の記憶をうしなっていた。
記憶? 一体全体、生存した7人の村人にとって、思い出は生きるよすがとなるだろうか? 家族や友人をうしなったとか、持ち物や財産をすべてなくしたとか、それは悲劇を語るさいのお手頃な拠り所でしかない。生き残った者たちは事件について語る言葉を見いだせないでいる。死者のことを考える以前に、自分とは何かを確認するすべがないからだ。
私がほかならぬ私であるという確信はどれほど脆い土台のうえに築かれていることだろう。住み慣れた場所やともに生きてきた人たちが瞬時に消え去ったあとに、私はどうすれば私でありつづけることができるだろう?
言葉にもならない、考える糸口さえわからない存在に形をあたえること。そこで何が起きたのか、彼らとは何であったのかを指し示してくれること。現代のデザインに問われているのは本来そういう種類の作業ではないかとおもう。
バンダアチェ市の海岸沿いに小さなワルン(露天)をかまえる女将がその日の出来事を語ってくれた。朝、子供をつれて買い物に行こうとしたら大きな地震があったこと。自転車ごと転んで結局買い物をやめて家に引き返したこと。遠くまで潮が引いて子供たちはみな浜辺に出かけてしまったこと。津波が襲ってきて夢中で走って逃げたこと。橋の途中まで走ったところでお腹が痛くなって立ち止まったこと。津波の第一波は橋の向こう岸を直撃していったこと。真っ黒い巨大な波がすぐ後ろまでせまってきたこと。お母さん、振り返っていてはダメと子供の叫び声がしていたこと。
車で渋滞する大通りを避けて脇道にそれたおかげで彼女は命拾いした。災害後の援助に対してべらんめえ口調で不満をまくしたてた彼女も、21人いた大家族のなかで助かったのはたったの5人だった。写真を撮り忘れたことに気が付いて引き返すと、店の椅子で彼女はひとり涙をながしていた。
どんな悲劇に直面していても、人間は食事をとらねば生きてゆけないし、食べた以上は排泄せねばならない。災害直後は死体をかきわけ流れてきたパンの袋を拾って食べたという。大津波の残した爪痕はいまや観光名所と化して物見遊山の客はひきもきらない。いまだにつづく被災者キャンプでは、伴侶をうしなった者同士のカップルにちょっとしたベビーブームが起きていた。人間という生き物はつくづく滑稽だ。