私がいま原稿を書いているパソコンは3年前に20数万円で購入したものである。このパソコンは現在なら数万円の値打ちもないだろう。技術の革新はめざましいから? 3年間も使ったのだからあたりまえ? そう考えて、消費経済のなかで生きる自分を納得させるしかない。これは相手がパソコンだからというだけではなく、コンビニで買ったボールペンであろうと、ローンを組んでやっと手にいれた住宅であろうと、われわれの手にするものの多くは購入したとたんに消費され、価値がさがる運命にある。
けれどもいっぽうで、パソコンのハードディスクにつまった3年分のデータや写真は私にはかけがえのないものであって、おいそれとそれを手放すことはできない。さいわいパソコンには自身の歴史の一部を記録しておく仕掛けがあり、人手にわたすまえに情報としてこれを取り出し、保管しておけばよい。いや真実は、そもそも個人の歴史をまっさらにしてからでなければ市場価値がつかない。かくほど個人の歴史、つまりはわれわれの人生には価値がなく、社会との接点をうしなっている。この個人覚醒の時代に。それだからこそ、と言うべきなのか。
私、という個人が直面している問題は、このパソコンの例がよく示しているのではないかとおもう。身の回りにあるほとんどすべての物にはパソコンのような記憶装置がない。物とともに経てきた個人の痕跡は、物とともに捨て去られる。パソコンにしてからが、不注意な事件でついたキズも愛着のあるシールも、物自体がになってきた歴史をすくうすべはないのである。そして、まるで当然のことのように、そうした事態を私はうけいれている。
人間は道具をつかいこなすことで人間たり得ている動物である。だから、身の回りの物をすべてはぎとった先に正真正銘のアナタがあらわれる、などという幻想をいだくべきではない。持ち物がもっともすくない民族のひとつとされるブッシュマンでさえ79品目の道具をつかいこなしている(1967年の調査記録)。戦後28年間もグアム島のジャングルに身を潜めていたあの横井庄一が発見されたときに所持していた物は119点。どちらも半数以上は生業活動のための道具だった。これらの物から社会や人間についてある種の知見を語ることはそれほど的外れでもないだろう。
けれども、日本の現代家庭にある商品アイテムは4千件をこすといわれる。これらの商品にたよらねばならない現代人の人間像は、はるかに複雑な、というより、錯綜して首尾一貫しないものにみえる。歴史や文化といった手触りのよい言葉で要約してしまうには、切り捨ててしまう部分の意味があまりにも大きいのである。
個人の記念館は別として、博物館は収集した物によって社会(「想像の共同体」と書くべきか)にかんするなにがしかをつたえようとこころみてきた。しかし、そのようにして描かれた現代社会の先に、はたしてどれだけの個人が焦点をむすぶだろう? そうした展示は、個人と社会をつなぐ接点となるのではなくして、反対に、個人の歴史を孤立させ、見る者を不安に突き落とす結果にならないだろうか?
2002年に韓国展を企画したさいにかかえていた問題をいま整理すればこのようなことになる。もうすこし正確に言うと、調査や展示を通じて、直面している問題の本質があきらかになっていったのだった。
この展示企画は、現代韓国の生活文化を紹介するための事例として、ソウルのアパートに住むある家族の持ち物をしらべることから出発した。当時、とくに大きな意味をその作業に認めていたわけではない。間取りだけではわからない日本との相違がすこしでもあきらかになればよいといった程度の問題意識しかなかった。ちょうどデジタルカメラが登場して、容易に多量の写真をあつかえるようになったこともあって、部屋ごとにそこにおかれた物をすべて写真に撮り、その由来をひとつひとつチェックシートに埋めるだけの単純作業のはずだった。購入や寄贈の履歴から、この家族をめぐる社会関係がわかるのではないかと期待した。
しかし、数日で終わる予定ではじめた仕事は、家の隅々から際限なく出てくる物のために1ヶ月ちかくにおよんだ。家族の協力がなくてはとてもできない作業だが、本当の「協力」は調査の終了後に待っていることになる。ともかく、このとき撮影した写真は3200点。お婆さんの手作りの衣服をのぞいて、そのほとんどが市場に出まわる商品でしめられていた。
自身が所有するすべての物について、それにまつわる思い出や由来を誰かに聞いてもらうなどという経験をもった人間はおそらくいないにちがいない。この調査は、聞き取りをする側にもされる側にも不思議な変化をもたらすことになった。
それまで取るにたらないガラクタ同然にあつかわれていた物が、その履歴を語るうちに、捨てるにしのびない大切な物にみえてくる。家のなかにちらばる無数の物のひとつひとつが、じつは自分の人生を構成する貴重なモザイクの一片であったことに気付きはじめる。粗末な物がつむぎだす過ぎし日の物語。つぎつぎと未知の世界を発見するおどろきに、調査にたちあった者同士が興奮していた。個人の思い出が社会化された瞬間といってもよいとおもう。家の空間が物の発するおびただしい情報の洪水であることを知って私は慄然とした。物にたよらねば自己確認ができない現代家族の本質をそこに見たおもいがした。
私(たち)は国や社会について語るのはただしく、私的なことはあまり公然と語るべきではないと考えている(最近はそうとも断言できないようだが、すくなくとも私の感情はそのように馴化されてしまっている)。韓国を代表する家族として日本国の展示に登場するとなればなおさらで、李家の人たちも自分を表現する以前にことさら韓国らしさをアピールしようとしていたのだ。彼我のちがい以上に、現在は世代間の相違のほうが大きいかもしれないというのに。身の回りの物にたいするインタビューは、そうしたイデオロギーの垣根をもなしくずしにする力を秘めていた。
韓国展は「2002年ソウルスタイル:李さん一家の素顔の暮らし」というタイトルで開催される。もはや李さん一家は、韓国の生活文化を紹介するための一事例として展示に登場するのではない。この展示はあくまで李さん一家を知るためのもの。その先に韓国社会がうかびあがればよいと発想を逆転させていた。
ソウルのアパートにあったすべての物は、ゴミ箱のゴミにいたるまで展示場にはこびこまれ、李さん一家の素顔の暮らしを再現するための貴重な資料になった。展示場にたりないのは、ただそれらの物の主人公だけ。まるで現代のポンペイさながらに、ソウルスタイル展はオープンした。小学生の団体がやってきて、おかまいなく夫婦のベッドにもぐりこんでゆくさまを、私は複雑なおもいでながめていた。
この展示について、一家の所持品をすべて奪うのは調査の暴力だの、金の力で買い取ってきただの陰口をたたかれたことがある。李さん一家の名誉のために書いておくが、それはまったくお門違いな詮索というものである。
調査が終わり、展示の方針がきまってからも、電子メールを駆使して物に対する聞き取り作業はつづけられていた。思い出はすでに李家だけのものではなくなっていた。さらに多くの人たちにこの事実を知ってもらいたい。この破天荒な展示をつきうごかした情熱の正体はそのような願いにあった。李家の物たちは、現実生活のなかで消耗し、やがて捨てられる運命を受け入れるよりも、その価値を凍結して博物館の収蔵庫にはいることをのぞんだのである。
現在、李家の資料は国立民族学博物館に収蔵され、一家の存在のあかしでもあった思い出情報は韓国生活財データベースとして公開されている。20世紀大量消費社会の担い手であったマイホームを2000年11月時点で凍結保存した、世界のどこにも存在しない資料がここに誕生した。
調査当時3200点にすぎなかったデータベースは、収集にともなう資料整理で10000点をこすまでにふくれあがっている。風呂のタオル一式とされていたものが、じつは記名入りのタオルそれぞれに異なる情報がこめられていることに気付いたからである。スナップ写真、葉書、名刺など、捨てられずに家の片隅にあったものにはかならずそれなりの情報がある。ちびた鉛筆が忘れていた友人の記憶をよみがえらすこともある。なぜ現代人はこんなにも多くの物にかこまれていたのか、という問いかけへの回答がそこに用意されている。
ところで、もし、この調査・展示が2002年ではなく2008年におこなわれていたとしたら、調査の意味はもっとちがったものになっていたかもしれない。この数年のあいだに、写真や手紙の類はもはや物ではなく電子的なコンテンツとして記録されるようになった。個人の思い出として、物とともに消え去る運命にあった情報の多くが、現在は電子メディアにうつされ、いつのまにかインターネット上でアーカイブされているのである。個人の歴史と社会をむすぶ可能性の一端がひらかれたといってもよい。宗教にかわるあらたな精神文化の登場と私は理解しているが、既存の社会関係をなしくずしにしかねないこの精神文化の未来は、いまだはるかな想像の埒外にある。(2008.11.28)