国立歴史民俗博物館国際シンポジウム

日中比較建築文化史の構築
-宮殿、寺廟、住宅-

2007.12.08-09に開催されたシンポジウムにおけるコメント

コメント

田中淡先生から中国建築の特徴をまとめていただいたので、その論点に即して、東南アジアの側から中国建築(や日本建築)がどう見えるかを指摘しておきたいとおもいます。

空間の秩序

 東西南北の方位にそれぞれ象徴的な意味をもたせて、世界がそうした意味の体系でなりたっていると考えることは、中国文化の影響圏ではお馴染みの計画原理です。建築や都市を計画するさいには、世界を構成する各要素はそうした秩序にしたがって配置せねばならないと考えられています。たとえば、中国の都城や住宅の配置は、北が上位にあるように、そして、東が西に優越するように建物や人が配置されることになります。したがって、大切な祖廟が南に配置されることはゆるされないし、天子は北に南面して座り、東側に座る者の官位はつねに西側に座る者にまさるのです。


Bali 島では祀堂群のある一画をつねに屋敷地の山側にもうける。

Sulawesi 島の Sa'dan Toraja の集落は、家屋(左)が川上を向き、米倉(右)が川下を向いてならぶ。

 それに対して、東南アジアのとくにオーストロネシア語族の住む島嶼地域では、南北という方位名称がなく、それにかわって山(陸)/海や川上/川下が重要な方位になります。
 たとえば、バリ島では、祭祀の空間は屋敷地のなかでもつねに聖なる山の方向に築かれています。反対に海は不浄な方向とされ、島の南岸と北岸とでは建物の空間配置も逆転します。
 また、スラウェシ島のサダン・トラジャでは、川上が生の方向に結びつき、川下は死の方向と結びついています。家屋は祖先が乗ってきた船を象徴するとも言われ、つねに正面(舳先)を川上に向けて建てられています。いっぽう、家屋に対面して建つ米倉は、葬儀で重要な役割を果たすことになります。死者の霊魂は川下にある祖先の国に還ると考えられており、船を模した棺桶におさめられて、米倉を模した御輿で墓場のある洞窟まではこばれるのです。

 空間の秩序を決めるにあたって、地政学的な方位とおなじくらい重要な考え方に、前後、左右といった身体方位があります。これについて、エルツ『右手の優越』(HERTZ,R. 'La Preeminence de la main droite', Revue philosophique 68, 1909: 553-580)はおもしろい指摘をおこなっています。世界の多くの民族のもとで、右手は左手に優越し、右に神聖な力、生命の源泉、真理、美徳、昇る太陽、男性をむすびつけ、左手に反対のカテゴリーをあたえているというのです。


Sumba 島ではもっとも神聖な部屋が家屋の手前にある。家屋中央の炉をはさんで、右側は男の空間とされ、さまざまな儀礼がおこなわれる。反対に左側は女の空間とされ、炊事場がおかれ、日常的な活動の場となる。

Timor 島の Atoni では、中央の炉をはさんで、右側に家長夫婦の大きなベッドがおかれ、それ以外の成員は左側で寝る。

 実際に、アフリカの円形住居でも、モンゴルのゲルでも、住居の奥に家長や長老の座る場があり、右側に男の領域、左側に女の領域を配置していることはよく知られています。もうすこし複雑な間取りをもつ東南アジアの家屋でも、この原則は変わりません。男の空間や祭祀の場はつねに右とむすびつけられていますし、反対に、女の空間とされる炊事場は左にあるものなのです。

 ところが、中国(漢族)だけは左右(と書く語順自体がそれをあらわしていますが)の価値が逆転しているのです(元代にモンゴル人たちがこの秩序にどう対処していたかはなかなか興味ぶかいテーマではないでしょうか)。これは南面して座ることを視点の中心に、東すなわち左を、西すなわち右に優越させる観念の結果と思われますが、中国の影響をうけた日本でも、都城の計画や宮廷行事においては、つねに左が右の上位におかれることになります。
 しかし、日本も基層文化のなかでは、右手の優越が発揮される局面のほうが多いのではないでしょうか。
 たとえば、日本の民家の空間構造は、夫婦の寝室であるナンドを背にして、世俗的、日常的な活動がおこなわれる女性的なダイドコと、公的でハレの男性的空間ザシキが左と右に対置されていることが指摘されています[ZGUSTA, Richard 'Dwelling Space in Eastern Asia', 大阪外国語大学学術研究双書4, 1991]。
 民家の囲炉裏のもっとも上席は土間の対面に位置するヨコザです。ここは家長の座とされ、来客に敬意を表すときには、家長は客人にこの座をゆずるものとされています。そうでもなければ、客人はヨコザの右のキャクザで迎えられます。いっぽう主婦の座るカカザはヨコザの左に位置しています。一般的な民家の間取りでは、土間の左手奥に台所がもうけられているので、カカザの位置は民家の間取りにも対応したものです。こうして日々の生活のなかで、日本の民家空間は、右手を男性と、左手を女性とむすびつける観念を再生産しているわけです。


石寨山出土貯貝器(出典:  )

家屋の新築儀礼に祝儀の大砲をもってかけつける。奥が主人夫婦。奥から見て左に居並ぶのは家屋の夫側の親族集団。祝儀を持参する集団を上座である右側でむかえる。Tanimbar-Kei 島

 空間構造をしめすおもしろい事例をひとつ紹介しましょう。
 石寨山で発掘された滇国遺物のなかで、人頭祭の光景を蓋上につくりだしている有名な貯貝器があります。船形屋根の建物を載せることで東南アジア文化との関係が指摘されているものです。
 この建物は2本の主柱で支えられ、高床の上には奥の柱に背をむけて儀式の主催者とおぼしき人物(あるいは彫像?)が腰掛けています。床上には銅鼓がならべられており、この人物に対面する位置に、左右に一つずつアプローチの梯子がもうけられています。
 建物は儀式の中心的な施設ですが、貯貝器の蓋の中央につくりだされているわけではありません。建物の前庭では、いままさに収穫祭とおぼしき首狩りの儀式がおこなわれ、蓋の飾りの焦点がこの儀式にあることがわかります。建物はいわばこの儀式を観覧するように配置されているのです。さてその場合、来客が座るのは主人の右側でしょうか、それとも左側でしょうか?

 左側の席は儀式に背を向ける格好になるので、当然右側の席が上座でなければなりません。東南アジアで結婚式等の儀式がおこなわれる場面を考えても、妻方の実家(夫方居住のさいの与妻者)の者たちは、かならず上座である家屋の右側でむかえられます。貯貝器の情景は東南アジア的な空間観念と通底するものです。儀式の場の空間配置にかんするかぎり、漢文化の影響はまだ滇国にはおよんでいなかったようです。


住居とコスモロジー

 中国の住宅がコスモロジーを反映しているという話でしたが、コスモスのかたちは違えど、東南アジアでも家屋はコスモスを再現するものと考えられています。


Ngaju Dayak の生命樹としての家屋[Schärer 1963]

Nias 島。床桁の先に lasara の頭部を飾る。

 シェーラー『南ボルネオ、ンガジュ・ダヤク族の神観念』(SCHÄRER, H. "Die Gottesidee der Ngadju Dajak in Süd-Borneo", 1946)の紹介するンガジュ・ダヤクの家屋イメージは、こうしたコスモロジーのありようをよくしめしています。この図のなかで、高床の建物はナーガ(蛇、竜)の上に建ち、屋根には鳥がとまっています。ナーガは大地のシンボルであると同時に女性の象徴であり、反対に、鳥は天界を橋渡しすると同時に男性の象徴でもあります。人間の住む家屋はそれらの交点にいとなまれるわけです。
 鳥と蛇をそれぞれ天界と地界のシンボルとみなす例はニアス島でも報告されています。首長の家の巨大な高床構造をささえる床桁は前方に飛び出し、lasara という怪物(頭は竜、尾は鳥)の頭部が飾られています。かつては4本の主柱の下には土地の霊にささげるために人の頭蓋が埋められたといいます。そして、首狩りで得た無数の頭蓋骨を棟から吊り下げて天上神を祀っていました。
 これらの例でもわかるように、東南アジアの建築についてよく言われるのは、屋根裏=天上界、高床上=人間界、床下=地下界の3つの世界を高床住居が統合しているということです。中国建築のコスモロジーの特徴は、空間単位を繰り返すことで、奥に進むほど天上界にちかづくといった水平的な観念にあります。それに対して、高床住居にみられるコスモロジーは文字通り垂直的な観念なのです。家屋や屋敷地の構成の仕方が中国と東南アジアで異なるのは、こうした観念の違いに起因すると言ってもよいでしょう。

 では、日本の家屋はどのようなコスモロジーに基づいてつくられてきたのでしょうか?
 日本にも家相といった考えはありますが、現存する近世民家には、自らの住まいを宇宙の縮図ととらえるような発想は乏しいようです(あるいは報告がないだけなのか)。しかし、古墳時代の埴輪家などにみられる巨大な屋根の造形は東南アジア的なコスモロジーの存在を予感させるものです。
 人が住む、というのは、世界の理解をそこで解決してゆくということですから、住宅にはかならずある種のコスモロジーがともなうものだと考えられます。そうした視点で日本の民家を見直す必要があるように思われます。


錣葺き屋根

 錣葺きの原型は切妻屋根と寄棟屋根といった2種類の屋根を合体させたものである、とひとまず理解することにします。そう考えたとしても、なぜ屋根をそのまま(勾配をかえて)葺き降ろすのではなく、2つの屋根(建物)を合体させねばならなかったかは依然として謎のままです。東南アジアの事例はこの問いにどのような回答をあたえるか見てみることにしましょう。


Gua Selamangleng (East Jawa) 10C?

Candi Borobudur (Central Jawa) 8-9C

 紀元10世紀頃とされる東ジャワのスラマングレン洞窟のレリーフには船型屋根を載せた高床建築が描かれています。この建物の屋根は、船型をした切妻屋根の下に寄棟屋根が取り付いた格好をしています。棟から生命樹がのび(家屋のコスモロジーの例証でもあります)、屋根には鱗状のフラットタイルが葺かれているようです。
 この屋根を錣葺きと呼ぶことはためらわれるかもしれませんが、上に載る屋根が通常の切妻であれば錣葺き以外の何物でもないはずです。妻が外転びしているために、船型の切妻屋根はそのまま庇をのばすことが不可能なのです。船型屋根を維持したまま、庇空間をもうけようとすれば錣葺き以外に解決策がなくなります。

 じつはこうした錣葺き屋根には、それに先行する屋根形態があります。紀元8-9世紀とされる中部ジャワのチャンディ・ボロブドゥールのレリーフにそうした屋根形態を見ることができます。それは祀堂か、一種の厨子か、なにか宗教施設の表現のようですが、いずれも船型屋根の下に寄棟の建物を追加した格好の重層建築です。同一形式の建物がボロブドゥールにはあわせて3棟描かれています。上層の船型屋根部分は象徴的、宗教的な意味をもっていたのではないかと思われます。貴人の座る牀の天蓋を同様の船型屋根で覆っている例があります。ボロブドゥールでは2種類の建物を重層に重ねた格好ですが、上層の軸組が省略されることによってスラマングレン洞窟の屋根形態が誕生したと考えられます。
 こうした事例が中国建築の錣葺きとどう関係するのかは不明ですが、錣葺きという特異な屋根の解決策は、船型屋根を想定したときには不可避の手段であることがわかると思います。


船型屋根をのせた重層建築の例。
Candi Borobudur 8-9C [N. J. Krom "Barabudur, Archaelogical Description", 1927] より




錣葺きの埴輪家。ここには3通りの屋根建築が造り出されている。船型屋根の高倉(左右の屋根倉)、高倉を内部にもつ竪穴住居(中央)、そして竪穴住居全体を柱でもちあげた錣葺きの平地建物(手前)。 西都原古墳出土 (出典: )

 そして、「錣葺き」をこのような視点でとらえたときに、日本にもその祖型とみられる屋根形態が存在していたことに気が付きます。古墳時代の埴輪家や家屋文鏡の家屋図がそれです。
 家屋文鏡の描く4棟の建物のうち、高倉とみられる建物をのぞく3棟が同一の屋根形態をしています。つまり、棟覆いと考えるには巨大すぎる船型屋根をのせ、その下に寄棟屋根の建物を追加した錣葺き屋根で描かれているのです。
 東南アジアには、高床の米倉の下に住んでしまう民族例が多数あります。こうして高倉建築から発展したと考えられる高床住居の形式が東南アジア各地に存在しています( SATO, Koji 'To dwell in the granary: the origine of the pile-dwellings in the pacific', Antropologi Indonesia 49, 1991: 31-47 )。家屋文鏡の錣葺きは、日本でも高倉の下を屋根で覆って住んでいた可能性を示唆するものです。独特な屋根形状の日本の竪穴住居は、高倉建築を受け入れることではじめて生まれた建築様式ではないかと思われます。


家屋文鏡 c.4C。 錣葺き屋根の成立:高倉⇒高倉を取り込む⇒住居全体を柱上にもちあげる (出典:   )



基壇

 蕭紅顔先生が基壇について発表されましたので、最後に東南アジアの側からも基壇にかんする資料を紹介しておきます。
 東南アジアが高床建築の宝庫であることは否定できない事実ですが、高床建築をもたない地域では高床のかわりに基壇をきずくことがあります。台湾(先住民はオーストロネシア語族)からフィリピン、ミクロネシア、ポリネシアにかけてひろまる石積み基壇については、民族移動とむすびつけて論じた李亦園「台湾南部の平埔族にみられる基壇上住居に関する比較研究」(中央研究院民族学研究所集刊 3, 1957:117-144)の古典的な研究があります。民族の移動が実際にあったかどうかはともかく、石積み基壇の分布が稲作文化がおよぶ以前の状況を反映していることは間違いないでしょう。ここでは、それとはまた異なる基壇の例をご紹介します。

 15世紀初頭、鄭和の航海に同行した馬歓の『瀛涯勝覧』は爪哇国の満者伯夷の王都のようすをつぎのように伝えています。

其王之所居以磚為牆,高三丈餘,週圍約有二百餘步。其內設重門甚整潔,房屋如樓起造,高每三四丈,卽布以板,鋪細藤簟,或花草席,人於其上盤膝而坐。屋上月硬木板為瓦,破縫而蓋。國人住屋以茅草蓋之。家家俱以磚砌土庫,高三四尺,藏貯家私什物,居止坐臥於其上。(『瀛涯勝覧』爪哇國)

 満者伯夷とあるのはジャワのマジャパヒト王国のことです。その王宮は高さ10メートルにたっする煉瓦積の城壁でかこわれ、そのなかにやはり10メートル以上も高さのある楼閣を建設していたとあります。
 14世紀中葉の年代記『ナーガラ・クルターガマ』も、マジャパヒトの王宮が高い赤煉瓦の城壁にかこまれていたことを記しています。王族の居館は、どれもレリーフのある煉瓦の基壇にのり、柱は絢爛たる彫刻をほどこされ、屋根の頂にはテラコッタの棟飾りが飾られていたといいます。
 『瀛涯勝覧』によると、王宮の屋根は小割板の瓦をもちいた板葺(インドネシアでsirapという)でしたが、一般の民家は茅草で屋根を覆っていました。そして床はといえば、王宮は高床で、床板に籐の簟や草蓆を敷いて胡座したようです。いっぽう、庶民の家は煉瓦を積んで高さ一メートル内外の基壇(高床壇?)をもうけ、そのうえで起居していたとあります。しかも、この基壇は土庫の役目も果たし、家財道具を収納していたというのです。
 現在、ジャワの民家は土間住まいで高床住居ではありません。それどころか、東南アジア全体を見わたしても、このような床構造は例がないのです。そのため『瀛涯勝覧』の記述はながいこと疑問だったのですが、チャンディ・ボロブドゥールの隠れた基壇(建設当時の設計変更のために埋め戻され、現在見ることはできない)のレリーフにはこうした基壇の例が無数に描かれていたのです。床下には水甕や籠、食器などが置かれ、煮炊きなどの仕事をする人が描かれています。おなじ形式で純粋な基壇もあるので、これらはわれわれのいう「基壇」として理解されていたのでしょう。住民たちは、こうした基壇のうえに屋根を架して生活を営んでいたようです。
 隠れた基壇のレリーフはボロブドゥール建設初期のものなので8世紀と考えられます。鄭和の航海は15世紀ですから、ジャワの住宅様式はその間変わらずに(中部ジャワから東部ジャワへ政権が移っても)連綿と続いていたことになります。基壇の発展型としても、高床建築(といってよいと思いますが)の変異型としても興味ぶかいものです。 (佐藤浩司 20080613)


病気の治療か?床下は家財道具の収納に使われるだけではない。魚をさばき、五徳を使って煮炊きをする人物もいる。
Candi Borobudur 隠れた基壇のレリーフ 8C [N. J. Krom "Barabudur, Archaelogical Description", 1927]

高床形式の基壇(左)と純粋な基壇(右)。生活スタイルは変わらない。


参考