民族建築あるいは人類学的建築(1) という、固有の学問分野も研究者相互をむすぶ共通のドグマも確立されてはいない研究領域を展望するにあたり、前提となる二、三の問題点の指摘からはじめたい。
建築は人間の営為の対象となるただひとつの活動ではない。だから、建築史学のあつかう範囲は、同一分野の研究者を再生産する組織としてみた場合に、歴史学や地理学、考古学、文化人類学など、いっそう広い社会的、学問的コンテクストにおいて建築をとらえる分野とくらべて、人間活動のはるかにせまい領域に限定されている。しかも、建築史学の特異性は、本来研究の対象物にすぎない建築(や都市)が先験的にあたえられるという状況のもとに、研究者個々人が他分野によりどころをもとめながら、ふさわしい学問上の方法を選択することにある。一般に了解されるところでは、建築史学は歴史学の一分野であるから、われわれもまた多かれ少なかれ歴史的な興味にささえられ、歴史学の方法にしたがって建築をかんがえてきた。ところで、建築史学が歴史学の一分野であるとする立場は、たんに文献史料批判と実証主義のよき伝統をうけつぎ、歴史叙述のうえで歴史学との整合性をはかることによってなしとげられるものではない。たしかに建築史学者の研究は隣接分野の方法論に依存せねばならない宿命をもつけれども、それは同時に、当該分野のかかえる方法論上の問題に対する一定の理解を前提としている。
現代の歴史学は、文学的な歴史叙述によって多くの一般読者の共感を獲得することを目的とした歴史家たちの学術団体ではない。それどころか、「人間の歴史的社会的現実からあらゆる事象を了解しようとする」歴史主義の敗北は、歴史学に「状況の論理」や「場の論理」にしたがいその範囲内でのリアリティを追求する歴史科学としての道をえらばせた(2)。 その結果、近年の歴史学は個人の動きのような現象面の叙述から、社会構造、政治形態、経済体制などの場の構成に関心を推移させてきた。それは「物語る」歴史から「説明する」歴史へと叙述の重点の移行を意味しているし、また、政治史的叙述から社会経済史的叙述へ、通史からモノグラフへ、という歴史学全般の傾斜をもたらすことになった。そして、歴史学が歴史科学として自律化することを要求し、これを支えたのは、厳密な学問を可能とする研究者集団の成立と間主観的な評価の体系の形成であった。(3)
こうした過程は、ただたんに歴史学の内部に起因した歴史学固有の事件というわけではない。民族学ではすでに1920年代には機能主義が登場して歴史主義の批判を行ない、その後につづく構造主義への突破口を開いている。考古学(とくにアメリカ)もまた「推測の時代」から「分類-記述の時代」、「分類-歴史の時代」をへて「コンテクストと機能に関心をおく分類-歴史の時代」へと学史的変遷をとげてきた(4)。歴史学の歴史主義からの離脱は、関連諸学が経験した一連のパラダイム転換と平行する事件といってよいだろう。
このような傾向は建築史学においても例外ではない。方法論的な吟味が正面から取りあげられることはなかったが、歴史の構造や状況の論理への関心の増大と、それにともなう研究の細分化、緻密化は建築史研究にあたらしい方向をみいだしてきた。そのような細分化、緻密化が、じつはより大きな歴史の論理の把握をめざすものであるという視点はしばしば忘れさられてきたにしても。建築史学もまた専門化した建築史学者集団による、その集団のための学問となることによって学問的自律をとげたのである。しかし、それは同時に、建築史の全体性(リアリティー)の喪失と建築史学の建築学からの離脱を意味していたとおもう。
第三世界の建築に対する関心は、ここ10年ほどのあいだに、ますます多くの建築学者をまきこんで建築界のあらたな潮流をかたちづくってきた(5)。種々の原因がかんがえられるにしても、こうした傾向が減少することは今後もありえないにちがいない。事態の意味を明確にしよう。それは、これまで日本と西洋(6)、ある時代には中国とインドまでを守備範囲としてきた建築史学に、たんなる対象領域の拡大以上の質的な変化をつきつけているのである。
第一に、われわれの直面している建築の基本的な性格は、古文献もなく、多くの場合には、考古学的に発掘された遺構ももたない民族のものである。建築史学は文献史学や考証学の方法が地球上の限られた範囲でしか通用しないことを認めねばならない。
第二に、これらの諸国の多くは多民族国家であり、戦後に独立した新興国が多い。そのために、歴史は民族間のイデオロギーに左右され、国家のアイデンティティーと深くむすびつく。また、最近では少数民族出身の歴史家が独自の民族史をあらわすこともある。誰のための歴史記述かをたえずもとめられていることは、われわれのあつかっている歴史の意味さえも相対化せずにはおかない。
第三に、建築史学が前提とする記念物中心の歴史観は当面する課題の解決にふさわしくない。建築史学は過去のある時点の状態や変化の解明をおもな目標とする学問である。そのような学問は、当然のことながら、記録がのこり、建物も現存する古建築の研究にもっとも適しているばかりか、その種の建物を優先的に選択しさえするだろう。文化財の選定基準のなかに結実するこうした歴史観は、第三世界でもとめられる建築像 ― 地域の共同体と生産システムにそくし、現在の文化と自然に無理のない建築 ― の対極にある。
じつはこうした歴史の意味の変革は、建築史学が研究対象として民家を発見したときにすでに用意されていた。伊藤鄭爾、稲垣栄三、大河直躬、田中稔の連名になる民家研究のマニフェストは、民家研究の萌芽期を次のように位置づけている。
これらの研究者がその研究の目的とするところは、民俗学・民間伝承・住居学等種々の主張があったが、文献史学としての建築史に対するエスノグラフィックな方法を、様式建築中心に対する住宅建築重視を主張する点では軌を一にしているといってよいであろう。そしてそれは民家研究を新しい研究分野としての自覚のもとにおしすすめた。(「民家研究の成果と課題」 1955:30)(7)
記念碑性のかわりに陳腐さを、記録に残る事実のかわりに匿名のまま消えさる現実を、恒久的な施設のかわりに人々の生活とともに確実にほろび、再生産されてゆく住まいを、建築史学は対象にくわえたのである。そして記念建築物(支配者のイデオロギー)ばかりでなく民家(民衆の生活)とむきあうことを通して、社会経済史や生産組織に対する関心の端緒がひらかれたのだった。建築史学が建築史科学への道をあゆみはじめるのもおそらくこのときからである。
現在という時点からふりかえると、民家の発見によって、けっして民衆の一部ではありえない研究者じしんが、記録し、書くという行為の意味を問いなおさなかったことが、研究の可能性をいちじるしくせばめてしまったようにおもう(8)。
その後の建築史研究はひたすら史料の発見と厳密な文献考証へとふたたび方法論的な後退をつづけたからである。
ここで問題となる「民族建築/人類学的建築」は、基本的に実地調査や調査の記録にもとづく民衆たちの現在(場合によっては近代化以前)の住居の研究であり、建物の古さや未開さの程度は研究上の障害とはなりえない。しかしながら、そこには共同体のなかでつちかわれた住居の理念的なモデルの存在が前提とされるだろう。言いかえれば、ある建築形式が個人の力によって維持されるのではなく、社会的な規範によって、複数の人々に、世代をこえて伝承されている必要がある。
そのようにかんがえるときに、日本の民家研究や民俗学と多くの部分を共有するはずであるが、本稿でそれらの成果にまでたちいることはしなかった。また、文献その他の史料の存在はけっして無視できるものではない。しかし、本稿の目的のひとつが従来の民家史研究にはない他分野の方法の提示にあるため、古文献の考証に多くをあおぐ歴史研究はここでは除外した。以上の趣旨にかんがみて、今までにおこなわれた研究を羅列的に紹介してゆくよりも、どのような方法論的パラダイムのもとで、どのような住居研究がなされたか、にまとをしぼり代表的な研究をやや詳しくとりあげる(9)。
1859年にダーウィンが『自然淘汰による種の起源について』を発表すると、進化論は生物学の分野をこえて社会思想全般に影響をおよぼしてゆく。産業革命をへて確立された進歩思想や自由競争といった観念、海外でのあらたな植民地獲得競争へむかおうとしていた帝国主義的欲求に対して、生存競争や適者生存という生物学の概念は科学的な裏づけをあたえるかにみえた。さらにそれをたすけたのは、大航海時代やその後の植民地統治をへて蓄積された未開民族にかんする知見と、考古学の発掘する先史時代の人骨や石器などへの関心を通して「人類」の概念がうまれていたことだろう。神の摂理にかわる包括的世界観が(しかも外在的=科学的な)要請されていた。こうした背景のなかで文化進化主義はうまれる。
文化進化主義の理論的前提は、
①人類の歴史があらゆる地域と民族において等しく、
②原始から文明へ漸進的に進化発展しているが、
③進化の速度が一様でないために民族によって進化の段階に相違がみられる、
というものであった。そのために現在ある未開人の文化を孝古学的に知られる過去の時代とむすびつけ、人類文化の向上的発展の頂に産業革命後のヨーロッパ文明を想定したのである。もともと人類すべての可能性を等しくみとめ、自文化中心のみかたを排すための使命感にささえられた議論でありながら、のちに西欧文明中心主義のためにかえりみられなくなる。しかし、法則定立的な歴史主義という点で、唯物史観や生態学の歴史観を先導し、さらに進化の概念はのちの新進化主義にうけつがれた。
「人類はその起源においてひとつであり、その経験においてひとつであり、その進歩においてもひとつである」という文句を序文にかかげるモルガンの『古代社会』(1877)は、人類はどこでも技術の発展と平行して、政治、家族、財産制度の並列的な発展があり、進歩の度合いにおうじて野蛮、未開、文明の三段階を順次のぼりつめてゆくとみなした。『古代社会』の単系的進化論はその実証の誤りをさまざまに攻撃されながら、エンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』(1884)を通じてマルクス主義の唯物史観につらなるのである。
ドイツでは民族学の父バスティアン『人間科学の構造における民族性原則』(1881)が単系的進化論に対するいわば多系的進化論の原理をしめした。ことなる地域の文化が同一性をしめすのは人間の根本的な心性が共通しているからで(「基性原則」と名づけた)、差異が生ずるのは風土や地理などの外的条件の違いによる(「民族性原則」)。つまり、文化は独立に発生して、それぞれの地理的条件におうじた進化をとげるとかんがえたのである。
ところが、この文化独立起源説に対して人類地理学者のラッツェルが論戦を開始する。ラッツェルは『アフリカの弓矢の分布』(1887)のなかで文化形態の類似は独立発生ではなく歴史的な移動や伝播によってはじめて説明できると主張した。そのさいに類似が文化要素の本性にも材料にもよらないときにこれを「形態規準」とよんで、歴史的な因果関係をしめす指標とした。「移動説」の登場である。
ラッツェルの移動説は弟子のレオ・フロベニウス『西アフリカの文化圏』(1897)によりさらに徹底される。文化の伝播はふつういくつかの文化要素が有機的な関連をもった複合、つまり「文化圏」をなして移動することでおこる。したがって文化圏の決定には個々の文化要素の一致(「形態規準」)にくわえて、一致する文化要素が複数あること(「数量規準」)が必要となる。対象となる文化要素の分布図を作成して伝播経路を推定する、今ではおなじみの方法もフロベニウスが創案したものだった(11)。
「文化圏説」はつづくグレープナーとシュミットの手で完成された。その理論は次のようなものである。
文化圏の各要素は本来有機的な単位をなしているが、ながい移動の途中で各要素は分離したり、ことなる文化圏の要素と融合したりする。こうしてあたらしい文化圏が形成されてふるい文化圏にかさなる。その結果、民族の文化はいくつもの文化圏が時間的、空間的に重合している。さまざまな比較によりこうした層の数と性質、継起順序、相対年代をあきらかにし、そのような文化圏の層の成立した原因をたしかめる。文化層の層位を確定する規準には以下のものがあった。
①ことなる文化圏同士が接触した場合に、混合領域や接触領域はもとの文化圏よりもあたらしく、
②混合領域や接触領域の融合度のひくいものは融合度のたかいものよりあたらしい、
③ある文化圏が他の文化圏を切断していれば、切断するほうがあたらしく、
④ある文化圏が他の文化圏にかさなり各地に残存が散乱していれば、それらの残存はふるい文化圏の証拠となる。
しかるのち文化圏の全世界の分布をしらべ、文化圏同士の絶対的な順序を確定し、それぞれの文化圏がどこに起源したかを推定する。(シュミット『民族と文化』1924)(12)
時代のパラダイムはそろった。文化の研究は進化(独立起源説)と伝播(単一起源説)をふりこの両端にしてその歴史の解明へとむかうのである。文化要素の重要な一部である家屋の研究も、もちろんこうしたパラダイムの外にはなかった。
レオ・フロベニウス「オセアニアの文化形態」(1900)(13)は石斧、太鼓、織物、家屋、帆、舟、投擲具、弓、盾、計数術、発火法、仮面などの様式の分布をしらべ、オセアニア(東南アジアの島嶼をふくむ)の文化形態(文化圏)を、①ニグリト的文化、②マラヨアジア的文化、③前マライ的文化、に三分類した。さらに、これらをインドネシアからメラネシアへむかう三通りの文化移動ルート、①オーストラリア大陸を横断する南ルート、②ミクロネシアを通る北ルート、③ニューギニアに沿う中央ルート、に対応させている。この論文の家屋部分を担当したのがヘルマン・フロベニウスである。
オセアニアの家屋にかんするヘルマン・フロベニウスの見解は、「文化圏」を援用した「オセアニアの建築圏」(1899)(14)のなかですでにあきらかにされていた。この研究は広範囲の家屋を歴史的な視点によって系統的にあつかったはじめての例だろう。すでに膨大な民族誌の資料が蓄積されており、そこからえられるさまざまな形態の建築をかぎられた建築圏にまとめることは、現状の家屋形態の分析だけでは不可能にちかい。そこで、彼が採用したのは、「個別に建築構法を観察して起源や精神的価値を説明しようというのではなく、他の多少とも類似の形態と比較し、系統的に分類整理をおこなって、それぞれの架構原理の進化系列をきずきあげる」(同:553)ことだった。つまり、文化圏の概念に進化も導入することで、同一建築圏のなかに多様性を取りこんだのである。
その結果、オセアニアには三つの建築圏が設定された。第一の南オセアニア建築圏ではオーストラリア原住民にみられる海風をはらんだ風よけから、湾曲した壁面やヴォールト屋根、円錐屋根、ドームなどの曲面をもつ建築が進化した。第二の北オセアニア建築圏では支柱でささえられた風よけから片流れ屋根と切妻屋根の家屋に進化した。第三の中央オセアニア建築圏には高床建築とバルラ建築の二種類の系統がある。高床建築は山間では樹上家屋、海岸では杭上家屋になった。おそらくこのような三建築圏の提示が前述したレオ・フロベニウスの研究を生んだものとおもわれる。ヘルマン・フロベニウスの独創は建築の構法にもとづいて文化圏を設定し、その進化を同時に想定していることであり、また進化の理由を建築構造自体に内在するものとして解決しようとした立場にある。東南アジアの鞍型屋根にかんして次のような解釈をこころみている。
もう一方の形態では、舟の形を意図的に模したものとかんがえられており、そうした例をもとに、土台におかれた舟がニューギニアの多くの建物の原型になったという説がある。また、スマトラでみられるように、突きだした破風が強くそりあがることを、舟嘴の観念で説明しようとこころみたこともある。
私はこの習慣のほかの起源をさぐってみよう。切妻屋根は棟木をもち、屋根の垂木はそれぞれこの棟木にむすびつけられている。屋根は妻側の壁面だけでささえられているから棟木がたわみはじめる。そのために妻壁はしだいに内側へひきよせられてかたむく。その結果、破風の先端からは雨が漏ることになるが、もし屋根をはじめから突きだしておくなら、入口は日陰になり、日中でも開放できるだろう。ひとつには実際に反った棟の形に対する愛好があって、それをこのんで用いたのだろうが、破風を外に突きだしておくことで、妻壁がたおれこんでくることも防げるのである。いずれにせよ日陰の空間は広がったわけで、あらゆる熱帯建築にとって日陰は主要な要素である。(「オセアニアの建築圏」 1899:567)
以上の建築工学的な解釈が当時としてはいかに斬新なものであったか、比較のために文化圏説の中心舞台だったウィーン学派の立場をみておこう。
シュミット(『民族と文化』1924)(15)は文化圏説を世界中の民族に適用し、もっとも体系的かつ理論的に文化圏説を確立した人物である。かれのあとに、もはや文化史がそれ以上体系化、理論化されることをのぞむ研究者はいなかった。当初の分類にしたがうと、世界の文化は高級文化(文明国)をのぞいて発展段階順に、原文化、第一次的文化、第二次的文化にわかれる。それぞれの段階にはいくつかの文化圏があって、これを社会組織(婚姻規制と親族組織)を共通の指標にして分類するのである。
原文化には、
①外婚制=単婚文化圏(中央原文化)
②外婚制=性別トーテミズム文化圏(南方原文化)
③外婚制=同権的文化圏(極北)
第一次的文化には、
④外婚制=父権的文化圏(定住狩猟)→円錐屋根の円形小屋
⑤父権的=大家族的文化圏(遊牧)→円錐や半球の天幕
⑥外婚制=母権的文化圏(耨耕)→切妻屋根の矩形家屋
第二次的文化には、
⑦自由制=母権的文化圏(犂耕)→切妻屋根の矩形高床家屋
⑧自由制=父権的文化圏(犂耕・牧畜)→円形小屋
続いて各文化圏が地球上のどの地域に分布し、どのような文化要素をともなっているかが百科全書的にしめされる。シュミットの分類は、物質文化が地域圏よりも社会組織と対応関係にあることをみとめた結果となり、親族研究のすすんだ現在では支持できるものではない。しかし、シュミットの本をみていてかんじるのは、分類がなによりもまず当時えられるかぎりの民族誌の情報を網羅して記述するための手段であったということである。モルガンの文化進化論が法則定立的(演繹的)な方法であるのに対して、おなじようにドグマティックな文化圏説がむしろ個性記述的(帰納的)な印象をあたえるのはそのためであろう。
文化要素のひとつである住居は文化圏のなかにどのように分類されているだろうか。モルガン(『古代社会』)は家屋の形態や居住方法が「野蛮から文明への進歩のかなり完全な例証を提供する」とかんがえ、「その発展の跡は、野蛮人の仮小舎から未開人の共同家屋を経て文明諸国民の単一家族の家屋に至る」と定義している。さて、シュミットは原文化に仮設的な風よけや蜂房状の小屋(壁のない屋根だけの建築)をあて、父権には円形の小屋や天幕、母権には切妻屋根の矩形家屋を関係させている(16)。そして、そのような分類がいかに理にかなったものであるかという点についての目的論的な理由づけがなされる。たとえば、原文化の家屋が丸いのは最小限の資材消費で最大限の空間を生むためであるとか、また自由制=母権的文化圏(東南アジアとニューギニアの一部に該当する)に複数家族制の高床住居がみられることにかんしては次のように説明している。
まず第一に厳として動かぬ事実は、最初の杙上家屋の建造が何らかの意味で必要不可欠と感ぜられたのだということである。もしそうでなければ、金属製の道具をまだ自由に操作しえなかったような時代に、かような困難で面倒くさい建築様式を思いつくはずは決してなかったであろう。さらにまた杙上家屋の起源的な発生動機について言えば、水流の多い、ないしは湿気の多い地帯がそういう動機として考えられる、というのがわれわれの意見である。しかし、よしそうでない動機がこの建築様式を促す最初の刺激を与えたにしたところが、それでも、別して杙上家屋においては複数家族の居住の方が単数家族の建物が具現するであろう施設よりも、ずっと経済的な施設であるという認識は、見当ちがいでなかったはずだ。杙上家屋そのものは多数者の力と手を要求する。多数の家族を容れるに足る建物の築造は、面倒な仕事全体を簡単化する。だがそれだけではない。大きい杙上家屋に、堅固な安定を与えることは、ただ一つの家族を目当てとした小さい杙上家屋の場合よりも容易であることは明らかである。そういうわけで杙上家屋というものは、必然的に複数家族家屋を建てしめるようにしむけるのである。(『民族と文化 下』大野俊一訳 1970:280-281)
文化史民族学に共通する特徴は、できるかぎり多くの資料を通文化的に比較、分類、対照し、まったく無関係にみえるふたつの事象に因果関係をあたえてゆくことにある。あとでふれることになるが、レヴィ=ストロースはそのために構造の概念を用意し、文化史派はそれを歴史によっておこなおうとした。なかでも文化圏説はそうした方法論を問題にした典型的な例であるが、多くの文化史研究は体系化のドグマとは無関係に人類史のロマンのなかに対象をみいだしてゆくのである。
フロクラーヘ「巨石時代の東南アジアと南洋における舟」(1936)(17)は歴史的スケールの大きさの点で文句なく文化史研究を代表する論文である。このなかでフロクラーヘは東南アジアとオセアニアにみられる特異な屋根形態を「舟型屋根」と命名して文化史上の位置づけをこころみている。
この地域には巨石文化的要素の広範囲な分布がみられるが、様式的には均質でなく、先史時代に二度の前後する文化流におおわれたことを暗示している。前期巨石文化は紀元前二千年紀の前半に、強力で攻撃的な民族移動を通して広がった。インドネシアにおけるこの文化要素の均一な、そして連続的で完結した広がりは、この移動がきわめて短期間のうちにおこなわれたことをしめしている。後期巨石文化(ドンソン文化)は、前期巨石文化と西方から伝えられた青銅器文化が融合することで生じた。この文化をになう人々は、少人数にわかれ、帆のない共同舟にのって南の島々へ散っていった。前期巨石文化では、祖先の魂は生者の脇にとどまると信じられ、死体は家の近くに土葬された。墓のうえには築山がきずかれ、ドルメンやメンヒルがたてられた。これに対して後期巨石文化では、祖先が舟にのってやってきたと信じられており、使者の魂は霊魂の舟にのせられて海のかなたの故郷へかえってゆく。そのため死体は舟とよばれる石棺や甕棺にほうむられた。
プラウ(舟)ときわめて密接なむすびつきをかんじる共同体の人々は、地上でもプラウに住もうとした。かれらはその変異形として舟型屋根家屋をつくりだしたのである。舟型屋根家屋はあきらかに後期巨石文化のものだが、その原型がなんらかの形で前期巨石文化に基礎をおくものなのか疑問はのこる。しかし、ナガ族やンガダ族(ナガ族はアッサム、ンガダ族はインドネシア・フローレス島の住人:筆者)のような強度の前期巨石的種族、それにモルッカ諸島や南洋における事情はこの可能性を否定している。たしかに若干のナガ族の家屋はあきらかな舟型屋根をしめすが、これはプラウ棺の埋葬法のように外部の影響によるものだろう。カチン族(ビルマ山地民)や若干のナガ族の家屋にみられる斜めに突きだした屋根は家のまえの空間を太陽や雨からまもる手段とかんがえられるのである。たとえプラウの模倣であったにしても、人々がそう理解していたわけではない。ナガ族はいかだしか知らないのだ! およそ後期巨石文化だけが突きでた屋根の先端をうえにそらせることで舟型屋根をうみだし、この形態を利用したのである。そびえたつ舳先と艫をもつ祝祭用のプラウにならい本来の屋根形はじつに高く湾曲した端部をしめしていた。舟型屋根家屋が高床住居であることも確実である。おそらく高床は前期巨石文化の家屋にもあっただろう。舟型屋根は高級な形態として、現在でも中国や日本の仏塔、寺院、宮殿のなかに痕跡をとどめている。(「巨石時代の東南アジアと南洋における舟」1936:755-756)
文化史研究の第一の特徴は古今の資料の博覧ぶりにある。どれだけ多くの文化要素の複合が、どれだけ広い地域と時代に共通してみられるか、そしてそのような分布を可能にする民族移動なり文化伝播の経路と時期はいかに。目的とするところはたったそれだけであるけれども、十分に人類を相対化してみせてくれたのではないかとおもう。
主要な論文をあげる。
グェン『東南アジアにおける杭上家屋研究序説』(1934)(18)は、東南アジア全域の高床住居の資料を集成し、平面形の検討から五つの共通点をあげて歴史上の因果関係を指摘した。
江上波夫「匈奴の住居」(1942)(19)は、中国の古文献にあらわれる匈奴の穹廬がユーラシア遊牧民の移動式の住車に由来し、西方においてはギリシャへ伝わって祭車として、東方では先秦時代から中国に伝わり葬車として利用された、とした。
戴裔煊『干蘭 ― 西南中国原始住宅の研究』(1948)(20)は、干蘭(高床)住居にかんする中国の古文献や民族学の成果を渉猟し、高床住居は古代越人をはじめとする西南中国の民族に普遍的な住居形式であり、唐代以前には江南一帯にひろく伝わっていたがやがて漢族の版築建築にかわった。その文化的中心は華中と東南アジア沿岸部にあると位置づけた。
レンク『北方ユーラシア諸民族の住居の空間分割システム』(1949-51)(21)は、住居内の施設の象徴性、年齢や性別による空間利用の差、主人や貴人の座席、祭祀の場などの分析により、一般に住居の奥に神聖な空間があること、ユーラシア諸民族のテントや竪穴住居は男女の空間分割の点から三形式にわかれ地理的な分布圏が設定できることを指摘した。
李亦園「台湾南部の平埔族にみられる基壇上住居に関する比較研究」(1957)(22)は、石積み基壇の上に住居を建てる建築形式が台湾、ポリネシア、ミクロネシア、フィリピンに分布し、高床住居のある南中国、インドシナ半島、インドネシア、メラネシアとは分布のうえで対照をなすことを指摘し、これは東南アジア大陸部からのふたつの民族移動ルートに対応すると推定した。
大林太良「アイヌ家屋の系統に関する一試論」(1957)(23)は、アイヌ家屋の原型を三脚支柱のテントととらえ、東北アジアの古アジア族において馴鹿飼育が開始される以前の狩猟民文化層に起源をもつことを北方ユーラシア文化史のなかで論じた。
三上次男「古代東北アジア諸族、特に挹婁族における地下式住居について」(1964)(24)は、三世紀以降中国の史料にあらわれる挹婁人、勿吉人、黒水靺鞨人、乞列迷(ギリヤーク)、野人などの住居が屋上の出入口から梯を伝っておりるほど深大な竪穴住居であり、同一の生活慣習が民族誌時代の東北アジアの古アジア族系の民族の特徴であったこと、こうした住居形式の一部はツングース人系の民族に文化的に融和されてうしなわれたことをあきらかにした。
進化主義と伝播主義は文化史全体に対する見通しをうしなって、独立起源 ― 人類すべてにそなわる発明の才能を信じ、生態環境への適応を重視する ― か伝播 ― 歴史的な交渉のうちにすべてを還元する ― か、といった教条的でしばしば感情的な対立をひきおこした。そしてやがてそのような対立自体が民族学の歴史主義の産物としてかえりみられなくなるのである。以降の民族学はこの時代のもたらした最大の成果、つまり地球上の人間をまがりなりにもいくつかの民族に分類し、人類全体をおなじ学問の対象としてあつかうことを可能にした価値基準のうえにたって(25)、あたらしい分野を開拓してゆく。
伝播主義の波は日本の建築史学界へも伝播する。村田治郎「東洋建築系統史論」(1931)(26)は、豊富な文献資料にもとづく広大な地域を対象とした比較研究であり、文化史民族学と共通する特徴をもつ。
村田治郎はアジアの住居様式の特徴を、天幕系、穹廬系、円錐形移動住家系、井篭組壁系、陸屋根系、高床系、竪穴系の七つの指標によってとらえ、文化史の確立をこころみた。そのなかで、「民族生活を正しく反映した点に於いて、住家にまさる建築はなく・・・・例えば一地に甲なる文化的所産があり、その隣接地にも甲に近似せるものが行はれている時には、その二者は個々独立して発生したものでなく、相互に関連を持つものと考える。即ち、同一に近い条件を具備すれば類似せる結果が孤立的に発生するとは考えないで、むしろ一地に起こった文化的所産が隣接せる地を経て、漸次遠方に伝播したが故に、類似せる結果を呈するに至ったと認めたい」(同:3-4)と、進化主義を否定して伝播主義の意志表明をしている。村田治郎の論文は以上の趣旨にそって、各指標の形態、構造上の特徴を民族誌からあきらかにし、古文献や考古遺物による検証をふまえ、地理的な分布圏を設定したのち、伝播経路の解明へとおよんでいる。
ブラーシュ、ブリュンヌら風土との文化的なかかわりを重視するフランス人文地理学の影響は、今和次郎、竹内芳太郎や今の弟子にあたる吉阪隆正を通じて日本の建築界にも伝えられている。今和次郎は1922年に、生活改善運動の一環として地理学者小田内通敏とともに朝鮮半島の民家を調査している(27)。住居学の開拓者である吉阪隆正の出発点が北中国の民家調査にあったことはあまり知られていない。このなかでブリュンヌ『人文地理学』(1925)をひきながら地理学的な研究の重要性を述べている(28)。
民族学の歴史主義に反旗をひるがえしたのは、マリノフスキーやラドクリフ=ブラウンに代表される機能主義者たちである。
再構成の関心や好事的情熱にもその正当性を認めることと、再構成が文化接触研究の特定な方法であると仮定することとは別である。・・・・文化変化の研究者にとって真に重要なるものは、科学的に再構成されかつ好事家には全く重要な客観的真正の過去ではなく、現今の心理学的実体である。前者は死滅し葬り去られた事象の秩序であり、また人間の記憶から消失してしまった程のそんな遠い昔でさえもある。後者は現在のアフリカ原住民の行動を決定する強力な心理学的力である。彼らを動かすものは、彼らの感じる誤謬であって、彼らの無視する真理ではない。(『文化変化の動態』藤井正雄訳 1945/1963:59-60)(30)
以上のように歴史の機能的側面を強調するマリノフスキーが着目するのは現在の「生きた伝承のうちに残存している歴史」と「制度の作用のうちに残存している歴史」である。しかしまた、マリノフスキーは通時的な変化が社会の機能的理解においても重要なことをみとめており、それが後年のかれを文化接触の研究にむかわせるのである。
私はいわゆる機能主義は歴史的研究と対立するのではなく、また対立する筈はないのであって、実際にはその不可欠の補足であると考える。機能的方法は、私が正しくそれを理解しているとすれば、第一に結果の説明として、文化の過程に関心を持つ。かくして、それはまず小規模ではあるが、やはり真の歴史的な意味での時の要素を導入する。(同:66)
歴史主義批判の意味をかんがえてみると、民族学は肘掛椅子のうえでおこなわれる文献考証学としてよりも、フィールドにおける実験科学としてその可能性がひらかれているという確信に由来するものだろう。そうしたマリノフスキーの意向はともかく、レヴィ=ストロースは通時的変化を無視する機能主義者としてのマリノフスキーに痛烈な非難をあびせるのである。
レヴィ=ストロースによれば、民族学も歴史学もわれわれが現に生きている社会とは別の社会を研究する点では同じである。両者の違いは書かれた記録の有無によるのではなく、民族学者の関心が文字によっては記録されない事象の解析にむけられることにあり、共時的構造の分析でさえたえず歴史に頼る必要がある。
諸制度の変化を明らかにすることにより、歴史のみが、多様な外部へのあらわれの下にある、一連の出来事を通じて変わらぬ構造というものをとり出すことを可能にしてくれる。(『歴史学と民族学』1949/1972:27)(31)
だが、それと同時に、レヴィ=ストロースは歴史に特権的価値をあたえようとするサルトルをも批判する。
史実とは、実際に起こったことである。しかしながら、何かが起こったと言うとき、起こる場所はどこなのか? ある革命、ある戦争の挿話の一つ一つは、多数の心理的・個人的な動きに分解される。そしてこれらの心理的な動きはそれぞれ無意識の生理的変化を反映しており、またその変化は脳、ホルモン、神経の現象に分解される。そしてこれらの現象の基礎それ自体は物理的・科学的性質のものである・・・・。したがって、史実なるものは、はっきり定まったことでないという点で、他の事実と異なるところがない。歴史家もしくは歴史的生成の行為主体が、抽象によって、また無限への遡行の危険を感じて、それを作り出すのである。(『野生の思考』大橋保夫訳 1962/1976:310)(32)
歴史を可能にするのは、出来事の部分集合が、ある一定の時期に、一群の人間に対してほぼ同一の意義をもつことであって、だから歴史はつねに何かのための歴史にならざるをえない。すべての事象、すべての人間にとっての歴史というものが存在できないのであれば(それは事件の解消になる)、サルトルの言うような歴史を通じた主体と客体の合一もありえない。「私のための歴史」を「われわれのための歴史」に転換できるにしても、それ自体が他のわれわれに対しては閉ざされているからである。
レヴィ=ストロースによるマリノフスキーとサルトルへの批判はいっけん矛盾するようでいて共通している。つまり、文化の通時的な変化という歴史的出来事をみとめながら、意識のなかに形成されたその残像にすぎない「歴史(記述)」をそのままでは信頼することができないというのである。
歴史が、世界の歴史と私の歴史とを、その両極で結びあわせるように、民族学は、人類と私に共通の理法のおおいをいっきょにはぎとってみせる。(『悲しき熱帯』川田順造訳 1955/1980:405)(33)
構造分析だけが集団のしきいをこえ、人類文化全体を共通の地平のもとにながめることを可能にする。それはレヴィ=ストロースの思想を貫いてながれる通奏低音である。しかし、構造主義の発達はそのような「歴史」観や「民族」観すらも相対化してしまった。
レヴィ=ストロースは「野生の思考の特性はその非時間性にある」(『野生の思考』1962/1976:317) と述べているが、「時間」の観念もまた文化の所産にすぎぬことを人類学者は指摘しはじめる(34)。
いくつかの未開社会においては、時間の経過は、けっして「はっきりと区切られた期間の継続」として経験されてはいないと思われる。何故なら、そこには同じ方向へたえず進行してゆくという感覚も、また同じ輪のまわりをまわり続けるという感覚も存在しないからである。反対に時間は、持続しない何か、繰り返す逆転の反復、対極間を振動することの連続として経験される。すなわち夜と昼、冬と夏、乾燥と洪水、老齢と若さ、生と死という具合にである。このような図式にあっては、過去は何ら「深さ」をもつものではない。すべての過去は等しく過去である。それは現在の対極物にしかすぎない。(E.リーチ「時間の象徴的表象に関する二つのエッセイ」青木保訳 1961/1974:212-213)(35)
この種の暦が推進する時間測定の性質は、明らかに連続的であるよりも点的である。つまり、それは時間が過ぎてゆく速さ、ある出来事がおきてから過ぎ去った時間、あるいはあることをやりとげるのにあとどの位かかるかという時間などを測るためには用いられない。それは「日々」のような、バラバラの、自足的な時間の部分を区分・分類するのに適用され、用いられている。周期や超周期といったものは、無限で、絶えず動いており、数えられないものであるし、内部の秩序に意味づけを欠くために、クライマックスをもつこともない。それらは蓄積されるものではなく、何かを作りあげるものでもなく、またついやされるものでもない。それらの周期は、今何時であるかを知らせるものではなく、今どんな種類の時間であるかを知らせるものなのである。(C.ギアーツ「バリにおける人間・時間・行為」吉田禎吾訳 1973/1987:343-344)(36)
川田順造はエヴァンス=プリチャードのいう「構造化された時間」(37)の概念にしたがいながら、このような時間概念の相違にもとづく歴史観を「神話としての歴史」と「年表としての歴史」と名づけている。
累積的な歴史をもつとされている社会では、過去の出来事はかなりの深さにまでさかのぼって、絶対年代の上に位置づけられ、その深さは現在が進むにつれて非可逆的に増してゆく。絶対年代を参照点とする歴史は、年表の上に空間化して投影することのできるものである。「構造化された時間」を典型とする歴史意識が、神話と背中あわせになって、生起する出来事をたえず構造化してゆく志向をもつとすれば、年表化されうる歴史意識は、過去を非可逆的な連続としてとらえ、そこに起った出来事を、先後関係の脈絡のなかでとらえることを可能にする。(『無文字社会の歴史』1976:198)(38)
このふたつの歴史意識は相反するものではなくて、現実にはさまざまな度合いで併存している。日本のように歴史の長い国家でも、明治以前の村落社会の歴史は、国家や支配者の歴史とのつながりが意識されていない場合が多いという。
歴史家の関心が編年史から構造史にむかうにつれて、対象となる階層がどのような種類の時間を尺度にしていたかは重要な問題となるだろう。たとえば、民家の歴史研究に年表的な時間概念(支配者の在位年やキリストの生誕年といった)を導入するだけで、あたかも再現不能の唯一物として家屋がたてられていたかの印象をいだかせてしまうことはほとんど注意されないからである。
構造主義の共時態分析の側面ばかりが宣伝されたためにあまりかえりみられることのなかった歴史の問題が、日本でも1980年代にはいるとにわかに脚光をあびる。なんらかの形で歴史のない社会(共同体)というものは存在しえないのであるから、社会の分析から歴史を排除することはできない。しかし、現在のこうした関心がかつての文化史研究者やレヴィ=ストロースのめざす歴史とは大きくかけはなれていることもまた事実なのである。それは端的に言ってしまえば、観察者の側に帰せられる歴史ではなく、居住者自身の歴史意識や歴史観へのいっそうの接近である。それが機能主義ともちがうのは、出来事から歴史が生成される過程、いわば「テキスト化」「モニュメント化」「フィクション化」「身体化」を重要な文化(誌)的現象とみなしているからで、「個人的な記憶と社会的な記憶」、「内在的な歴史と外在的な歴史」、「生きられた歴史と概念化された歴史」(39)といった表現は今日の問題のありようをよく示している。
歴史人類学ともいわれるこのあたらしい分野のめざすところは、
(1)無文字社会の人びとの歴史認識のしくみを研究者の調査経験を通して記述する
(2)構造主義や記号論の分析法と歴史研究とを統合させ、歴史的出来事の背景にある意味をさぐる
(3)歴史研究の領域において人類学(民族誌学)と歴史学の双方の成果を接合させる
の三方向にむけてひらかれているという(40)。
しかし、そう書かしめる人類学者の実感にそくして、もっとリアルに問題の所在を言いあらわすなら、次のようになるだろうか。
歴史というのはやはり一般的な前提でいいますと、あまり結構なものではない。そういうのは無いほうがいいけれどもあるから研究するのであると、そういう感覚を私はもっているわけです。つまり過去の歴史に縛られるのは嫌なんですよね。でも縛られている。刻一刻がすべてであって、過去はそれこそ溶解系で消滅していけばいいはずのものがそうならないところに何か、歴史をやらなければならない因縁があるのではないか (昭和60年、第39回日本人類学会・日本民族学会連合大会の小シンポジウム「共時態からみた歴史」における関本照夫の発言)(『人類学的歴史とは何か』1986:91)(41)
このような共有感覚のうちに、レヴィ=ストロースの構造主義から現在の構造主義にいたる基本的な問題意識の変化 ― 通文化的に「社会的な法則性を見出していくような領域の議論」から個別文化的に「対象社会を了解可能に、かついかに歪みを最小限にして描くことができるか」(同:88) ― を読みとることができるし、それにともなう視点の移動 ― 歴史を(大)共同体をうみだすための重要な条件とみることから、(小)共同体が開かれるために障害となる規制ととらえることへ ― がかくされているのである。
村田治郎「東洋建築系統史論」の伝播主義に対して、藤島亥治郎「住家構成の発生史的汎性」(1959)(42)は、東南アジア、オセアニアの住居にかんする戦前の研究成果を進化主義的な視点でまとめている。
藤島は世界人類に共通する「住様式の純性」を想定し(「基性原則」にあたる)、気候風土の相違や民族意識の発生がこれを多様化せしめたという前提にたって(「民族性原則」にあたる)、豊富な民俗資料の分析から「低文化諸族の住家についてその汎性を摘出」してこれを系統的に分類している。藤島は明確に指摘していないが、バスティアンのいう多系的進化主義の応用である。したがって、問題とされているのは「人類がその発生時代に住文化に対して考案し得る限りの工学的頭脳」であって、個々の民族におけるその歴史性の検証ではない。藤島の論文は分類や比較の基準に日本の古代住居や農家の知見を意図的に採用しているために、日本民家との比較研究の方向をしめす初期の例となった。
他にモノグラフに属するものであるが、文献と実地調査にもとづく鷹部屋福平のアイヌ建築にかんする研究(43)、また、1934年以降長年にわたり台湾の山地民族である高砂族の全域を踏査した千々岩助太郎『台湾高砂族の住家』(1960)(44)は、世界的にも類のない民族建築関係の資料である。
戦中の研究の社会的な意味や、建築学者の立場についてここで詮索する余裕はない。建築学会の公式の機関誌である『建築雑誌』に掲載された「大東亜」関係の記事は、1941年の開戦を境に飛躍的に増大し、1942~43年には誌面の大半をおおうにいたったこと、そして終戦後再開された同誌のなかにそうした関心の継続をおもわせる記事が絶無であった事実を指摘すればたりる。経済進出の恩恵に浴しつつふたたびアジア回帰を強める現在と質的な差があるとは言いきれないし、筆者がその埓外にあるとも言えない。
とくに住居にかんするものではないが、京都帝国大学建築学教室編『大東亜建築論文索引』(1944)はこうした時代背景によらねば生まれることはなかったにちがいない。
ともかく、終戦と同時に日本は異民族調査のためのフィールドをうしない、建築界の注意もしばらくは国内の問題に沈潜していた。
1955年、京都大学に提出された増田友也の学位論文『建築的空間の原始的構造』(45)は当時の建築界にあって時代をはるかに突出したテーマをあつかっていた。「建築もまた現象であるならば上の問題(建築における空間とは何か:筆者)はただ一つ、建築的空間とはどのような現象であり得るかと言うことに帰着する」(同 1955:4)と増田はみずからの研究を位置づけ、オーストラリア原住民であるアルンタ族の儀場とデカン高原のトダ族の建築の分析をもとに建築的空間の原始的様相をあきらかにしようとこころみる。未開人は記号的な活動の空間に住みながら、象徴的な神話的空間を表出している。しかも、かれらの建築的空間はそれを抽象的にではなく、具体的な行為を通して実体的に象徴するのである。原始的な段階における建築的空間は、そのようなしかたで表出する象徴的空間を構造的に措定することである。
以上の議論はのちに大幅な改稿をへて同題名で出版された。改稿前とのもっとも大きな相違は、記号=象徴、聖=俗の二元論がいっそう両義的、相互浸透的な解釈をほどこされていることだろう。
聖石のまわりのタブーの領域は、聖石の記号的性質に注目しながら他の標識(たとえば色のような)を排除し、日常的な道具的世界を非世界化することによって記号的空間を形成している。記号的空間は全体的脈絡において象徴的空間を開示するが、記号から象徴が浮かびあがるのではない。レプリカによっても聖石とおなじような空間領域が成立するのであり、聖石の記号的性質は象徴的な空間領域によってひきだされている。つまり、象徴的空間は現象学的に記号的空間に先行している。建築的空間は象徴的空間を記号的に構造化することであるが、そのようにしてあらわれる建築的空間を通してしか(象徴的)空間は空間として見いだされないのである。
増田のたっした結論は、原初的な建築においては、建築的空間は建物が建てられたときにはすでにはじめからそこに存在している、という認識であった。自然(フィシス)の模倣(ミメシス)としての制作(ポエシス)と言うときに、自然のうちにみいだされる空間は事物のしめる位置関係に還元できるような自然世界ではなくて、事物のもつ記号性によって構造化された実存的空間だからである。
社会学者のデュルケムとモースが一九〇三年に共同で発表した「分類の若干の未開形態について:集合表象研究のための試論」(47)は、文化史研究全盛の民族学界に注目されることもなく歴史の背後でつぎの時代を用意していた。構造主義はそのような土壌からうまれ、現在の民俗分類学(認識人類学)や象徴研究は理論的前提をかれらの「分類」や「集合表象」におっている。
われわれにとっては、事物を分類するということは、事物を明確に定められた境界線によって区別できる別々の群に整理することである。・・・・分類することとは、単に集合体を構成することだけではなく、これらの集合体を特殊の関係に従って配列することである。・・・・すべて分類ということは、可感界もわれわれの意識もその範型を与えてくれない、一つの序列的秩序を含意するのである。(『分類の未開形態』小関藤一郎訳1903/1980:5,10)
オーストラリア原住民とアメリカ・インディアンのトーテミズム(に中国の易経をくわえ)の分析を通して、デュルケムとモースが達した見解は、事物や時空間の分類が個人的、生得的な行為ではなく、人間の社会的関係(胞族や氏族)をモデルにしているということだった。つまり、簡単に言うと、われわれの分類観は個人のものではなくて社会に帰せられるものであるから、社会を研究したければその社会がどういう分類体系をもつかをしらべればよい、ということである。このかんがえがほぼ60年を経過して『野生の思考』に実をむすび思想界に革命をひきおこしたことの一部はすでにふれた。デュルケム学派の牙城『社会学年報』のなかで、本稿の範囲でふれておかねばならない人物がもうひとりいる。
エルツ「右手の優越」(1909)(48)によると、地球上のほとんどの民族のもとで右手が左手に優越するのは、身体の生物学的な構造に内在するのではなく、社会が外在的に人間にはたらきかけるからである。未開人の思考に本質的な双分観は社会を聖と俗とに対立するふたつの半族にわけているし、自然を光と闇、昼と夜、東・南と西・北、上と下、天と地の対立として位置づける。小宇宙としての人間の身体もまた全宇宙を支配している両極性の法則をのがれることはできない。このようにして左右の腕力のわずかな差が右手に神聖な力、生命の源泉、真理、美徳、昇る太陽、男性をむすびつけ、左手にまったく反対のカテゴリーをあたえたのである。
数世紀におよぶ制度的な左腕の麻痺は、他の身体毀損と同様、人間をして、聖が俗に優越し、個人的な欲望や利益を集合意識のかんじる要求の前に犠牲にし、価値の対立と倫理的世界の激しい対照を刻印することにより身体そのものを精神的にするように、勇気づける意志のあらわれであった。これは人間が基本的に差異づけられた右と左をもつという二側的存在 ― 二側の人間(homo duplex) ― だからである。(『右手の優越』1909/1973:21)
エルツは身体が社会化されたものであることを示し、身体を通して社会を理解する道をきりひらいた。エルツの論文は1960年にエヴァンス=プリチャードの序文を付し、ニーダムの手で翻訳されてイギリス社会人類学界に影響をあたえた。デュルケムやモースらの方法は本国フランスやイギリスのみならず、ことにJ.P.B.デ=ヨセリン=デ=ヨングを通じてオランダの民族学界に伝わり、そこで構造主義的な分析方法をうみだしていった。
1920年代頃から、レイデン大学のJ.P.B.デ=ヨセリン=デ=ヨングを中心とした民族学者たちはインドネシアの空間分類を問題にしはじめていた。かれらがめざしたのは「社会が大地へ投影した像を、社会自体を説明し正当化するためにもちいる」(49)こと、要するに空間構造と社会構造に共通する原理をみつけだすことだった。双分観はこうしてかれらに発見され、レイデン学派の主要な関心事となったのである。
人間社会を二つの出自集団、二つの胞族、そして二つの氏族系列 ― これは原初的な四分割を暗示するのであるが ― に分ける根本的な二分割は、同時に宇宙論的な二分割でもある。そして、ここに天と地、上界と下界、そして考えうるかぎりのあらゆる対立 ― 特に優と劣、善と悪の対立 ― が包含されているのである。この社会的・宇宙論的双分観が、すべてを包含する分類体系の核を形成し、各氏族は父系的であるか母系的であるか、また二つの胞族のいずれに帰属するかによって、それぞれこの包括的な分類体系内の位置を得る。つまり、各集団は、宇宙論的な生活共同体のなかで、自らの果たすべき独自の機能をもつが、その生活共同体の核を成すのが双分観である。(J.P.B.デ=ヨセリン=デ=ヨング「民族学的研究領域としてのマライ諸島」郷太郎訳 1935/1987:53)(50)
法学者オッセンブリュッヘンの「ジャワにおけるモンチョ・パット概念の起源 ― 未開の分類体系とのかかわりで」(1918)(51)はジャワの空間分類に言及した最初の論文といわれる。ジャワには中心の村とその周囲の四方向に位置する村をあわせてモンチョ・パットという連合体をつくる観念がある。この1-4-5からなる象徴的な体系はジャワの政治組織(中央の王と4人の官吏)、王侯領の農業(耕地の5分の1が村長、のこりの5分の4が農民の耕作分)、占い(暦)の体系などにもあらわれ、かつて存在した部族組織の名残りではないか、ということをデュルケムとモースの論をひきながらオッセンブリュッヘンは指摘したのである。
デュルケムとモースにいっそう忠実に、そして家屋空間にかんしても研究の可能性をひらいたのはラッセルスだった。ラッセルスはジャワの神話、伝説、影絵芝居、家屋などに色濃くみられる双分的観念の研究を通して、古代ジャワに双分制があったことを示そうとした。
完全なジャワ家屋の建築は、性の対照ときわめて深くむすびつき、社会的な双分制のしるしであるとみなさねばならぬが、それはまた、数々の現象にかんがみて古代ジャワにおいても存在したと仮定せねばならない。家屋のまえの部分はガムラン奏者による神聖な演奏のためのものであり、それ故に、この儀礼の創案者である英雄神パンジーの領域である。家屋のうしろの部分、ことにコボンガンでは女性神デウィ・スリが中心人物になっている。・・・・われわれがここでみいだしたかくの如き同一性と対照 ― コボンガンは女、空、農耕と密接に関連し、男、大地、狩猟に関係したプンダパとの結婚を通して統一されるとみられている ― は本来の半族制にもとづく典型的な分類原理である。(「ジャワのクリスについて」1940/1959:248,270)(52)
ジャワの家屋は三つの建築空間からなっている。プンダパというのは家屋の一番手前にある接客用のホールのことで、コボンガンは反対に家屋のもっとも奥の空間にある儀式用の部屋である。さて、その家屋のプンダパとコボンガンが、男/女、天/地、狩猟/農耕の対照をふくみ、それが社会のあらゆる局面を支配する双分観の反映であるというのである(53)。
レイデン大学に学んだスイス人の民族学者シェーラーもまた住居の研究にあたらしい可能性をひらいた一人だろう。
家屋の建設を主導するのは優位にある与妻者集団であり、劣位にある受妻者集団の成員がこれを援助する。家屋の建設は両集団の仕事であって、どの家屋もこの二分割をしめしている。家屋の全体性は天界と下界、つまりマハタラとジャタにあるばかりか、宇宙の四方向を統合するものでもあり、この統合においても中心であり全体である。家屋の位置はさまざまである。川の流れに平行に建てるなら、川上側が川下側より重要になる。川上側には家族の寝室があって、もっとも貴重な品々が保管される。これに対して、川下側は台所であり、未婚の男子と召使い(かつては奴隷)がベランダや別棟の小屋で眠らない場合にここを利用する。また、家屋が太陽の軌道にそって、日の出と日の入りのむきに建てられた場合にも上に述べたような分割ができる。かくして、家屋の位置は宇宙の聖性をあらわしており、その全体像とともに、神の観念を通してはじめて理解できる。なんとなれば、家屋はこの神観念を建築において表現したものだからである。(『南ボルネオ、ンガジュ・ダヤク族の神観念』1946/1963:73)(54)
ラッセルスとシェーラーの論文は空間分割と方位観が住居の研究にとっていかに重要であるかを示している。その後の住居の象徴論、あるいはコスモロジー論はこのふたつの視点を柱に議論を展開してゆくことになるのである。
レイデン学派は分類体系ばかりでなく、はやくから循環婚(レヴィ=ストロースの言う一般交換)を女性や財貨の交換ととらえてきた。そのためにレイデン学派の研究はのちにオランダ構造主義とよばれるようになる。しかし、比較の対象を歴史的因果関係のはっきりした「民族学的研究領域」に限定し、かぎられた社会内部の構造的な把握をめざす点で、構造を人類全体に共通するものとみなすレヴィ=ストロースとは立場を異にしていた。レイデン学派の目的や住居に対する斬新な研究方法は、後年エヴァンス=プリチャード(オクスフォード大学)のもとからレイデン大学に留学中だったニーダムによって精力的に英語圏に紹介され広く知られるところとなった。
二ーダムの「プルム社会の構造分析」(1958)(55)は民族誌資料だけをたよりにインドとビルマの国境地帯にすむプルム(チン)族の「価値、社会関係、象徴、給付の体系の全体構造分析」、要するに双分的な体系の復原をおこなった。ニーダムによると、一般に社会人類学者は物質文化を軽視しているが、社会構造の原理を分析するさいには、物ことに家屋や空間分割の象徴的な意味がきわめて重要になる。そこで、プルム族の家屋をしらべると、家のなかは入口からみて左側のプムリルと右側のニンガンにわかれている。入口はニンガンにあり、炉はプムリルにある。プムリルにはチァトラという柱が建っていて、家長や子供たちはここでねむる。それに対してニンガンにはセナジュンピという柱が建ち、婚資労働中の娘婿や若者、客人はここでねむる。チャトラには農耕神がむすびつき、セナジュンピには祖先神がむすびついている。家屋を建設するときにはかならずチャトラを先に建てねばならず、柱をつなぐ横架材をのせる手順も同様である。これらの事実からプムリルがニンガンに、つまり左が右に優越することになるが、プルム社会のコンテクストではつねに右は男とむすびつき、女に関係した左よりも優越するのである。じつは、観察者が家屋を入口からみていたのが誤りで、プルム族の家屋は奥のほうに象徴的な重要性があり、左右の分割は入口にむかってきめられる。こうした家屋の分析にくわえて、ニーダムはプルム社会が三つの集団間で循環婚をおこなうことをしめす。しかし、それは三元的な秩序を意味するよりも、嫁の移動にそって与妻者から受妻者へ循環する女財と、それとは反対に循環する男財の相対する相補的な給付の循環体系であって、特定の集団にとってみれば受妻者側にたつか与妻者側にたつかの二元的な対立があることになる。ニーダムは以上の結果をつぎのような二項対立の表にまとめたが、この方法は1970年代以降にさかんに報告されはじめる住居の象徴論的解釈にさいして好んで利用されることになった。
劣 | 優
受妻者 | 与妻者
ニンガン | プムリル
女 | 男
女財 | 男財
左 | 右
凶 | 吉
俗 | 聖
「右と左の象徴的な対立や、現象の双分的な類別は、人間精神の自然な性向とおもわれるほどに普遍的である」(同:97)と感想をもらすニーダムは、つづいて双分的分類体系にかんする論文ばかりをあつめた『右と左』(1973)を編集するがそれはのちの話である。
おなじような分類体系をあつかった論文に、エイド「ティコピアの社会空間」(1969)(56)、タンバイア「動物は考えるによく禁じるによい」(1969)(57)がある。前者はポリネシアのティコピア島の親族組織が男女の対立や世代の連続、婚姻を通して人々の「社会空間」(家屋や世界の二元的、四元的分割)といかに密接にむすびついているかをしめした。後者は分類の記号的側面に注目した東北タイの報告で、食用可能性の程度にもとづく動物の分類(禁忌)と結婚可能性の程度にもとづく人間の分類(インセスト・タブー)が、住居空間の分類を媒介にむすばれているといういかにも構造主義らしい分析。自己からの距離によって空間、人間、動物を分類すると、境界領域や姉妹、ペットのような両義的存在は禁忌の対象になる。ここでは住居の問題がそのような方向にも発展可能だという点の指摘にとどめたい。
これまでにも住居の象徴性の問題が個別の民族誌のなかで言及されてこなかったわけではない。しかし、住居が人類学のなかの独自の領域として研究の対象にのぼるきっかけをつくったのは、カニンガムの「アトニ家屋の秩序」(1964)(58)である。カニンガムはインドネシアのティモール島にすむアトニ族の家屋を分析することによって、家屋が社会的な秩序ばかりか、住民たちの認識する宇宙の秩序のモデルを提供すると指摘した。カニンガム以降にうみだされた住居の象徴論研究は多かれ少なかれこの論文の視点を継承している。ややくわしくかれの方法を追うことが以降の問題の理解をたすけるだろう。
建築の秩序は概念を象徴的にあらわすものだと私はおもうけれども、家屋はそれらをあらゆる個人が生まれてから死ぬまでのあいだ、いきいきと描写している。そのうえ、秩序がかかわるのは抽象的な概念やシンボルばかりでなく体系なのであるが、体系は分類の原理と同時に分類のための価値を、すなわち統一と差異の定義をあらわすのである。(「アトニ家屋の秩序」1964:34)
家屋は無文字社会において概念をカプセル化し、世代から世代へと伝達するためのもっとも有効な手段のひとつであるが、それは抽象的なかんがえをあらわそうとして家屋を建設するからではなくて、年長者たちがおしえ管理する方法で、かれらの伝承する規範の命ずるままに建設することによって可能となったのである。こうした家屋の分析にあたって、カニンガムがもっとも注目するのは、住民たちが説明し表面にあらわれた家屋の意味ではなく、建築各部分や部材の名称と機能のうちにかくされた構造である。アトニ社会では家屋が居住、経済、儀礼の基本的な単位になっている。家屋には入口が一箇所にあるきりで、窓はなく、内部は間仕切りのない単一空間であるが、その空間はしかるべき秩序にしたがって構成されている。カニンガムはアトニ家屋の秩序が、+型と×型の4分割と同心円状の分割の重合した形式であり、たえず全体を二分割する原理によって支配されていることを示し、そうした秩序の社会的な意味をさぐるのである。
家屋内部(<中心>ということばで示される)は右/左(男/女や隠喩としての南/北の対立に対応)と前/後(男/女、南/北)に四分割される。さらに前/後の対立は屋外の庇空間<肘>と屋内<中心>の対立、つまり外/内(前/後、右/左、男/女)に対応している。屋外の庇空間<肘>と屋内<中心>は全体としてこれらをおおう屋根裏に対立し、下/上(女/男、俗/聖)の対照を形成する。つづいてこれらの家屋全体<中心のイエ>は前庭<男>と対立し、家屋と前庭をふくめた屋敷は塀の外の外界に対立するといった具合である。しかも、家屋にあらわれるこれらの分割原理は、社会秩序、政治秩序、宇宙観にも反映されている。
アトニ族では循環婚がおこなわれるが、儀礼において妻を与える集団<男の子>は家屋の右側に、妻を受けとる集団<女の子>は左側に位置する。同様に、結婚にさいして与妻者から贈られる調理した肉、御飯、布などの女財は家屋の左側の台に、受妻者から贈られる生の米(や生きた動物)などの男財は家屋の右側の台におかれる。アトニ族の王国は、中心<根>にいる神聖な儀礼王と、その周囲にいて実際の統治をうけもつ四人の世俗王によって支配されている。儀礼王は女にたとえられ、通常は世俗王に対して劣位にあるが、儀礼のさいにはこの立場は逆転する。アトニ族の宇宙観のなかでは、<地上>は祖先の居住地であった<空>に対立している。この<地上>は<乾いた土地>(人間界)と<海>(怪物、鰐、大蛇のすみか)にわかれ、さらに<海>は<男の海>(外洋)と<女の海>(内海)に再分割されている。などなど、カニンガムは家屋を通してあらゆる社会現象を説明しようとしているかにみえる。
家屋 ― その構成要素、分割、形態、シンボル、秩序や配置にかんする規範、そして、それらに含まれ排除される行為 ― は人々の把握する宇宙の機械的モデルのようであるかもしれない。アトニ族が家屋のなかに表現されるものとして「秩序」に関心をもつことはあきらかだし、かれらの社会的、政治的な秩序にも家屋の形式や命名と関係した部分は多い。しかし、関係は社会秩序をこえて広がっている。空間と時間、人間と動物、人間と植物、人間と精霊にあたえられた秩序もまた、家屋のなかにあらわれたことにかかわる原理や、家屋のなかでおきるあらゆることを含んだシンボルにしたがうものとかんがえられているのである。(同:66-67)
フランスでは、マルセル・グリオールの組織していたアフリカ民族調査に1936年から3回にわたって参加したルブフがファリ族の居住全般の詳細なモノグラフをあらわしている(『ファリ居住区:北カメルーンの山地民』1961)(59)。このモノグラフには各種建築の構成、家財道具とその象徴性、変化発展、生活、外来文化の影響、神話、空間分類、宇宙、身体などの住居をめぐる諸問題が網羅され、一地域の居住をあつかった報告書としてはもっとも完全なものである。しかし、本稿の目的にとっていっそう重要なのは、アフリカのカビール族(ベルベル人)の家屋にかんするブルデューの論文「カビール族の家屋あるいは反転した世界」(1970)(60)であろう。
ブルデューによれば、これまでの住居研究がいかに詳細な報告であっても事物や活動の位置と方向にかんして体系的でないのは、物や行為を象徴システムの一部とみなしてこなかったせいである。観察や調査をなすための唯一の方法は、観察された事象の必要性や意味が他の全体との関連において導きだされるという前提にたつことであり、体系的であろうとすることによって、はじめて、武器をもたない観察からはのがれ、観察者には自明であるために気がつかなかったような事実をあきらかにできるのである。神秘的な表象や儀礼的実践の体系のなかで家屋が特異な位置にあることはそれを証明しているが、家屋もまたより大きな体系のなかでとらえられねばならない。
そのためにブルデューの注目するのは、家屋内におかれた物(壁、中心柱、主梁、炉、水瓶、穀物壷、織機、ライフル銃)や家屋内の特定の場所で行なわれる男女の活動(接客、結婚、葬式、生殖、出産、就寝、調理、機織、食事)である。その結果、家屋は二項対立 ― 火/水、調理された/生の、乾燥した/湿った、高い/低い、明るい/暗い、日/夜、男/女、人間/動物、調理・機織/就寝・生殖・出産・死、文化/自然など ― のくみあわせによって構成されていることがわかる。そして、このような家屋の体系が意味をもつのは、それが宇宙を支配する体系 ― 外/内、公/私、昼/夜、男/女 ― と共通の原理にもとづくからなのである。ところでそうかんがえると、家屋は宇宙のなかで家屋外の世界に対するさいには女として、また家屋内の空間についてみれば男女のいずれかとして、二重の意味をになうことになる。その事実を発見したときにブルデューはよき構造主義者であることをやめる。
『実践感覚』(1980)(61)ではこうした両義性の由来を「実践の論理」によって説明している。矛盾や多義性は、ことなる状況、ことなる行為者によって利用される論理を観念のレベルで全体化しようとすることから生ずる。象徴体系は統一と規則性ばかりでなく、不明瞭や不規則性といった首尾一貫しない面をもつけれども、それは実践の場が時間のなかで非可逆的に展開するからで、当事者にとってみれば、客観的にも内在的にも首尾一貫した論理、すなわち貧しく経済的な「実践の論理」にしたがっている。それはあたかも「同一の思考図式の近似的適用の重ね合わせから生ずる無数の協和音や不協和音」のようである。
反転した世界とは、家屋の内部空間と外部空間が扉を介して身体を半回転するような、象徴的意味の変換をともなっていることをいう。カビール族の家屋は世界の原型をさだめる属性と関係のすべてを提示するその鏡像なのである。
カニンガムやブルデューの住居研究は、1970年代初頭にアメリカで出版された人類学のアンソロジーに再録されて広く知られるところとなった。カニンガムの論文をのせた『右と左:象徴的二元分類にかんするエッセイ』(1973)(62)は、ニーダムの編集により前述したエルツの『右手の優越』を翻訳紹介し、また本書をエルツの記念にささげている。一方、ブルデューの論文はフランス語から翻訳されて、M.ダグラス編の『規則と意味:日常的知識の人類学』(1973)(63)にタンバイアの論文とともにおさめられた。その結果、象徴的な空間の二元論が人類学をこえた影響を関連分野におよぼしはじめるのである。
住居空間の分類と社会構造の分類が対応関係にある、という仮定から出発した住居の構造分析の方向は、カニンガムやブルデューの論文ではすでに大きく逸脱をはじめている。社会構造が住居の分析にしめる役割はしだいに減少し、分類範疇のえらびかたはいっそう多様で恣意的になっている。以降の住居研究は社会構造ではなく、住民の信仰や宇宙観を基点にしながら歴史の舞台をうつしてゆく。
激しい社会変動の時代にはいる。それに呼応するように1960年代後半から建築界はデザイン・サーヴェイの全盛期をむかえた。
耳なれないことばかもしれないが、デザイン・サーヴェイ design surveyというのは、アーバン・デザインにおける基本的な方法の一つを指す用語として作られたものであり、今後次第にテクニカル・タームとして頻出することになると思われる。広義の environmental survey (環境調査)の一環をなすと同時に、そのヴィジュアルな側面を集約するものと考えていいようである。・・・・現在、古い文明をかかえた世界の各地域で、既存の都市形態は急速に崩壊しつつあり、都心部にも周辺にも、好むと好まざるとにかかわらず、新たな相貌をもった環境と空間が現出しつつある。その状況の中で、しかし第一線のアーキテクトの眼には、かえって逆に、崩壊しつつある環境デザインの在りようのうちに、むしろ新しい局面で恢復されるべき空間のオーダーが映し出されはじめている。(国際建築「オレゴン大学のデザイン・サーヴェイ」1966:8)(64)
デザイン・サーヴェイの概念とはたったひとつしかない。ある人間集団が生み出す(生み出した ― ではない)自律的な相互関係をできる限り主観的でない方法によって資料化し、系統化されたデーターによって、その内部構造に触れ、それを創造のひとつの母胎の一部とする、ということでしかない。(宮脇檀「創る基盤としてのデザイン・サーヴェイ」1971:4)(65)
リッチ『アノニマス(20世紀)』、ルドフスキー『建築家なしの建築』が日本にも紹介される(62)。
わたしは自分に言い聞かせる。新しい世界は周辺から生れつつある、すべてのひとのつつましい労働、無数のアノニマスなひとたちの活き活きしたアノニマスな行為から生まれつつあると (『アノニマス(20世紀)』森岡侑士訳 1969:61)
これまでの建築史もまた社会的な地位によるバイアスをこうむっている。それは権力と富を祭りあげることに加担した建築家たちの紳士録の域を出るものではない。つまり、特権階級の、特権階級による、特権階級のための建築物 ― 本当の神々や偽りの神々、豪商や王侯たちの住まい ― のアンソロジーであって、弱者の住まいについては一言もふれられていないのだ。・・・・これらの建築物はあまりにも知られていないので、適当な呼び名すらもたない。一般化されたレッテルがないから、私たちは場合に応じてそれらの建築を風土的な(vernacular)、匿名の(anonymous)、自然発生的な(spontenous)、土着の(indigenous)、田舎の(rural)などと呼びあらわすことにしよう。(『建築家なしの建築』1964)
アノニマスやヴァナキュラーといったフレーズが合い言葉となって、建築家や学生をフィールド・ワークにかりたてていった。しかし、デザイン・サーヴェイの成果はけっしてみのり多かったとはいえない。それは資料としてたしかな情報をのこしえたかどうかということではなくて、建築家のフィールド・ワークに期待されていたのは、調査者のそれぞれが生活者との相互交流を通して総体との関係を認識することにあったが、まさにそうした行動の論理をデザイン・サーヴェイは後世に伝えることがなかった。
時をおなじくして、海外の民家にかんする情報が建築界に紹介されはじめる。人類学者による報告ではあったが、1968年より『都市住宅』誌上で「文化人類学の眼」(泉靖一編集)の連載がはじまる(67)。
あれを始めた理由は、ひとつは非常に単純なことで、建築家の未開の住居に対する認識の仕方に不満があって、住居の原型がいかに多様であるか、また住居を形態の面白さだけでとらえているのでは意味がないということを実証したかった。(「文化人類学におけるフィールド・ワークの意味」1971:67)(68)
住居の意味、フィールド・ワークの方法をめぐる議論が建築家の側から文化人類学者にむけて発せられたわけである。「どのような行動が満足される条件がそろったら、ある文化において住むということの概念が成立するのか」という問題にこたえるために文化人類学者の石毛直道は、「人間行動をいくつかの詳細なカテゴリーに分類し、それらの類型化した普遍的な人間行動が個別的な住居内においておこなわれるかどうか、ということを検証していくことによって、すべての文化の住居内でおこなわれる共通した行動を抽出する方法」を例示している(『住居空間の人類学』1971:240-241)(69)。
こうした経緯のなかでみるなら、建築(家)学者じしんがデザイン・サーヴェイの対象を日本国内から海外にもとめてゆくのはもはや時間の問題だった。1972年から79年まで5次にわたる原広司らの集落調査旅行はその開幕をつげるものであった(70)。住居単体については八木幸二によるシリアとソロモン諸島の住居にかんする生態学的な比較研究があらわれた(71)。こうした海外での調査活動は1980年代にはいるころから組織的な研究者の参加をよびおこすことになる。しかしながら、研究の工学的精度がます一方で、観察者と被観察者のみぞはこえがたいものとなり、生活者との相互交流は調査の過程から姿をけしてゆく。
民族学のなかで事物のもつ象徴的な側面にたいする関心はけっしてあたらしいものではない。しかし、初期の民族学者のあいだにみられたシンボリズムへの視点(たとえば、フレーザーの『金枝篇』(1890-1915) のような)と、機能や社会構造の研究をへて、意味や象徴といったみえない事象の解釈におおきく比重をうつしてきた現在の(象徴)人類学の課題とを同一視することはできない。文化は「知識、信仰、芸術、道徳、法、慣習、さらに人間が社会の成員として習得したその他もろもろの能力とか習慣をふくむ複合的な総体」(タイラー『原始文化』1871:1)(73)であると定義されていた時代と、「文化はシンボルによって実現可能な、歴史的につたえられる意味のパターンのことであって、シンボルという象徴的な形式で表現され、伝承される概念体系をとおして、人間は生活にかんする知識と態度を伝達し、永続させ、発展させるのである」(C・ギアーツ『文化の解釈学』1973:89)(74)と了解される時代とでは、人類学者たちが文化にたいしていだくイメージにおおきなへだたりがある。象徴は切りはなすことのできる文化要素のひとつではなく、全体が関連をもった体系をなしている。そして、現代の人類学者はこうした意味の体系にたいして、対象となる社会の内部から説明をくわえてゆこうとするのである。このような人類学全般の傾向は、民族誌の記述じたいを方法論上のもっとも活気にとんだテーマにおしあげることになった。カニンガムやブルデューの研究以降、民族誌のなかではすでに共通の了解事項となった住居の象徴性をめぐる議論が、こうした背景のもとで認識論上の問題をひきおこしてゆく。住居の象徴的側面を記述するとは、はたしてどういう現象でありうるのだろうか?
1973年に出版された『右と左』(75)は二元論研究に対する一般の理解をひろげると同時に、人類学内部から非難をまきおこした。双分観はある意味でどこの社会にでもみられる現象であるから、構造主義ふうの解釈をよそおった民族誌が量産される結果となった。しかしながら、パターン化した観念体系の分析は主体の関与するレベルや基準をあきらかにできなければ、特定文化の記述方法としてきわめて不完全なものである。
長島信弘「住居の象徴性」(1971)(76)はアフリカのウガンダとケニアの4社会の住居の象徴性を分析するにあたって、静態的な側面と動態的な側面の両面から「記号としての住居」をときあかすことをこころみている。静態的な側面は住居の配置とその諸名称が恒常的に表明する社会的意味のことであり、動態的な側面は日常生活では実用価値しかもたない諸物や空間が世界観の表現手段としてもちいられる儀礼における意味である。その結果、住居空間に双分的な秩序があることを発見するが、その分析にさいしてわざわざ主観性の混入の程度をあきらかにしようとつとめている。
長島が直面しているのは象徴論研究の本質にかかわる問題であったとおもう。カニンガムやブルデューは主知主義の立場にたち、住民たちの意識にのぼらない法則の発見者であればよかった。長島が主観性を客観化しようとするのは民族誌の記述をめざした相対主義の立場にいるからである。そういうときに相対主義がもとめるのは、たとえば右/左の対立があるという事実の観察者に外在する判断の規準のことである。ところがかれらが問題にしている事象は住民たちの集合表象、つまり被観察者個人に外在するものなのである。右/左の双分観があることの判断を観察者にも被観察者個人にもよらずに決定することは現実には不可能なのである(77)。
その後、住居の象徴的解釈は個別な社会の民族誌のなかでうけつがれてゆくが、研究の隆盛はそうした方法論上の疑問を棚あげすることによってなりたっていた。対立項の選定は体系的な観察を可能にするための観察者の側の手段(調査表や図面のごときもの)としてである。したがって、おおくの研究がこの方法を応用したけれども、理論的な問題についてふれたものはあまりない。ここでは関連する論文のタイトルをかかげ、一連の研究に共通の彩りをあたえるムードをつたえるにとどめよう。
馬淵東一「琉球世界観の再構成を目指して」(1968)(78)、村武精一「沖縄本島・名城のdescent・家・ヤシキと村落空間」(1971)(79)、倉田勇「バリ島家屋の位置と方位観」(1971)(80)、常見純一「台湾・アミ族の住居と方位観」(1971)(81)、大貫恵美子「南サハリン北西海岸のアイヌ民族の空間概念」(1972)(82)、フォックス「悪い死と左手について:ロティ島の象徴的逆転」(1973)(83)、テルユール『東インドネシアにおける家屋の象徴的意味』(1974)(84)、笠原政治「琉球八重山の伝統的家屋:その方位と平面形式にかんする覚書」(1974)(85)、ウェシング『西ジャワの村落におけるコスモロジーと社会的行為』(1978)(86)、フェルドマン「南ニアス、バウォマタルアにおける世界としての家屋」(1979)(87)、関根康正「ロングハウスをめぐる空間構造:イバン族のばあい」(1979)(88)、カナ「サヴ島家屋の秩序と意味」(1980)(89)、佐久間徹「マカッサル族における家屋のシンボリズム」(1980)(90)、宮田登「家のフォークロア」(1981)(91)、クレマン「ラオ族住居の空間構成」(1982)(92)、キーラー「ジャワ家屋の象徴的次元」(1983)(93)、鏡味治也「宇宙と調和する住まい」(1987)(94)
以上のなかで、馬淵、倉田、常見、大貫、笠原、関根、クレマン、鏡味等の論文は方位観や環境認識を対象に、いわゆる住居のコスモロジカルな側面を問題にしている。家相や風水もそうであるが、宇宙の分類体系のなかに住居を位置づける思考法とみなすときに、コスモロジーも構造的な空間概念ということができる(95)。
ところが、おなじような結論をしめすだけの住居の報告が量産されるにつれて、象徴論研究は分析者が恣意的な解釈を対象文化のうえにあてはめているにすぎない、という批判にさらされることになった。こうした批判にたいして、インドネシアに構造的な思考法が存在しなければオランダ構造主義はうまれなかったろうし、バリ島や沖縄の住民たちがコスモロジカルなもののかんがえかたをしていなければコスモロジーが報告されることもなかった、といってしまうことはたやすい。たとえば住居の象徴性にかんして、もっともおおくの話題を提供したフィールドのひとつである東インドネシアについて、この地域の文化にしめる家屋の重要性を人類学者のフォックスはつぎのようにまとめている。
「家」は東インドネシアで、ある種の社会単位をさすためにもちいられる基本的な文化範疇である。その適用範囲はおどろくほど柔軟であるにもかかわらず、この範疇は一定の特徴を共有している。家はほんらいなんらかの地域化(あるいは起源)概念をしめすものであるが、それは結局のところ特定の物理的構造物のうえに集中されるのである。老/若に類する範疇が一般に家内部や家相互、さらに家とおなじような相互関係を主張するいっそうひろい集団間を区別するのにもちいられている。こうした範疇はヒエラルキーをともなうが、このヒエラルキーがどちらの性にあてはめられるべきかを特定するものではない。それゆえ、父系集団をもつ社会では老/若の範疇は男性親族集団を対象とするし、母系社会では女性とつよくかかわる集団を対象にするのである。こうした範疇の使用が意味するたえざる分節化の過程をかんがえるなら、家は、現実の婚姻規制において、独占的ではないにしても、第一に意味をもつ最小の外婚集団をさだめる傾向があるようにおもわれる。(『生命の流れ』1980:11-12)(96)
東インドネシアでは「家」は建築としての家屋をあらわすと同時に、「家」という名称をもつ社会集団をあらわす概念でもある。そのような家屋が社会の分析をはじめるうえでいかに重要な鍵を提供するものであるか、東インドネシアのスンバ島の家屋を分析するフォースは以下のようにその見解をあきらかにしている。
リンディの家屋はリンディ人の思想や行動のなかでもっとも広範に適用されるカテゴリーや原理をその構造においてあらわした小宇宙であり、秩序ある全体の諸形式と諸関係を包括的に表象している。それどころか、生と死は家屋のなかではじまりおわるために、家屋はそれにかかわる集団にとって大宇宙の中心とみなすことができる。そのため、家屋はリンディの社会秩序、概念秩序の全体性の分析を開始するにあたって格好の場を提供するのである。(『リンディ:東スンバの伝統的領国の民族誌的研究』1981:23)(97)
こうしてフォースの提示するスンバ島の住居像はつぎのような単純明快な二項対立のかたちづくるきわめて様式的な小宇宙なのである。
女 | 男
下 | 上
左 | 右
後 | 前
外 | 内
周縁 | 中心
世俗 | 神聖
冷たい | 熱い
ところが、象徴研究にさいして住民や観察者たちのおもいえがく理想家屋の生硬なイメージだけが追求されるなら、それは変化のない固定した社会を暗黙のうちに期待していることになるだろう。かくて動態的な理解をかく住居の象徴論は、変化や変異をもはや無視できない社会現象として進行する現実世界の記述として、はなはだ不完全な方法であることを指摘されはじめるのである。
ニアス島(インドネシア)の家屋と集落がニアス社会の宇宙観の反映であると報告したフェルドマン(98)は、おなじ島を研究対象にするスズキによって、以下のように激しい批判をうけることになった。(「構造主義の限界とインドネシアにおける都市計画、都市デザインのための土着の原理:ニアス島の場合」(1984)(99))
分析の対象は首長の家や儀礼家屋のような公的な家屋にかぎられ、一般住民の家屋は考慮されていないし、集落が特定の家屋の双分的空間概念の反映であることを指摘するために、集落を構成する他の諸要素(通路や路地の用途、近道の役割、たまり場、子供の遊び場、井戸端会議の場、交通路など)は犠牲にされている。このように特定の集団の社会的、観念的秩序と家屋の建築秩序の相関を指摘するという構造主義的なアプローチは、本来多元的であるはずの文化を単元的にとらえ、しかもそこからえられた結論の実践的な用途や意義にたいする見通しさえもかいた不毛な議論にすぎない。
また、エレン「小宇宙、大宇宙とヌアウル族の家屋:隠喩のレベルに適用するさいの還元主義的虚偽について」(1986)(100) は従来の研究を「家屋の象徴論は、一種のパズルであり、唯一の解答をみつけるために断片をただしいパターンにはめこんでゆく必要があるという類の盲信」(同:4)と断言し、「家屋のもっともおもしろい点はたんに秩序をあらわすだけではなく(たしかにそのとおりなのだが)、秩序が何種類もあって、ことなる場合に、ことなる人々に、ことなる仕方で理解されていることなのである」(同:4)と、ことなるコンテクストにおうじてことなるレベルの意味を喚起する象徴本来の動態的側面に注意をむける。そのうえで、家屋を小宇宙ととらえることに同意をしめしながらも、「本来二つの要素をむすびつけるためにある既存の同位概念をもちいながら、小宇宙を統辞的、範列的な関係によっていいあらわすことは困難である」(同:2)とのべて、家屋の象徴論のかかえる根源的な不可能性を指摘している。
エレンによると小宇宙は「理想化、抽象化(単純化)、一般化、統合化」の四条件を満足し、多様で複雑なシンボルの言語範疇(もしくは、その一部)を経験的な真実にもとづくずっとちいさい関係項によって、中間領域で統合したものである。家屋はこれらの条件を満足した現実的な意味の小宇宙であるが、シンボルの領域ではとじた体系にあるわけではないから、その解釈は他の言語範疇と相互浸透した還元不能な意味をあつかわざるをえない。ところが、われわれは家屋を分析するさいに特定のパターンを採用して形式化をおこなうが、こうした形式化は小宇宙にそなわる特性でも、居住者が家屋をみる仕方に根拠をもつものでもない。建築図面だとか男女の対立といった概念は分析者が便宜的にもちこむにすぎないのである。では、家屋の分析はなにをたよりにすればよいのだろう。
エレンは、家屋のなかでおこなわれる活動に反映された象徴関係、「女のねむる部分」、「儀礼をおこなう(神聖な)部分」、「祭祀のさいの席次に関係する対角の軸線」などは分析の対象にできるという。こうしてえられたヌアウル族(インドネシア、セラム島)の家屋の空間分割は平面的に中心/周縁、東/西(桁行き方向)、北/南、南西/北東、さらに垂直に屋根裏/高床/床下の全部で五通りある。しかしながら、家屋内に象徴的な対照軸が存在することと、それに対照されるカテゴリー(男/女、聖/穢、年長/年少)が一定で、村落と家屋、世界観と家屋などの象徴的な一致があるとかんがえることとは別である。それは人類学者の予想にはんして、コンテクストにおうじてことなる(場合によっては対立する)矛盾にみちたものなのだ。ようするに男/女のような基本カテゴリーは、配管工が継ぎ手を雄雌とよぶのにちかい形式的な手段にすぎず、ことなる場合に矛盾する仕方でもちいることが可能なのは、まさにこうしたカテゴリーにほかならない。
ブルデューの言葉をかりながらエレンも指摘しているように、「象徴的な事物や行為は、ことなる視点でくみたてられた関係によって物事をみる観察者には矛盾するものにみえても、参加者たちにかんするかぎりは事実上なんの矛盾もきたしてはいない。矛盾が意識されていない以上、象徴体系にかんして内部から分析や説明をくわえる必要はすこしもないのである」(同:24)。対象文化の象徴的な体系は外部の眼をとおしてしかあきらかにできないということである。しかし、エレンのいうのは、そのようにして理解された象徴は対象文化の体系とは相違するから無効だということであって、象徴研究の限界にとどまらず、人間の理解(形式化)の可能性まで否定してしまったようにみえる。(101)
長島信弘は人類学の目的がこうした背反命題と表裏一体であることを「遠似値への接近」と表現している。
私もまた集合表象の研究こそ社会人類学における最も永続的な対象であると考えている一人だが、それは無限に「真」に近い近似値を求める操作というよりも、三者(集合表象と個人意識と研究者の分析概念:筆者註)の動態的関係の中で相対的により不確からしくない、遠似値とでもいうべきものについての流動的な合意を設定して行く作業のように思われる。(長島信弘「遠似値への接近」1977:320)(102)
ところが、住居の象徴性がよりおおきなコンテクストでとらえられるべきことを指摘したタートン「タイの建築政治空間」(1978)(103)は、「家屋が政治空間のセットのなかではひとつの単位であり、また、建築の象徴性はたんなる分類体系どころかイデオロギーの一部でもある」(同:114)という。イデオロギーは個人の理想化された状態の表象である集合表象だけでなく、多かれ少なかれ事態の本性をおおいかくす集合誤表象の側面をもつのである。住居の象徴性には、①村落共同体内部における社会単位間の関係、②これらの社会単位とそれより上位の社会単位(国家)との関係、③社会単位と自然(社会単位が生産にさいして変化させる物質界)との関係、の三種類のレベルのことなる政治空間の関係がふくまれている。①の関係は、不平等や従属(年齢、性、世代、熟練)をふくみはするけれども、互恵性と再分配によって特徴づけられ、そのなかに全体を表象する個人はいない。それにたいして、②は基本的に生産階級と非生産階級、従属階級と支配階級の関係である。それは地域の余剰をかれらの支配する首長やイデオロギー構造をとおして徴収する、不平等な交換の関係であり、搾取の関係である。
タートンは、北タイの一農村でおこなわれる建築儀礼のシナリオを追跡しながら、伝統的とかんがえられていた儀礼のなかに村落外部の政治構造がどのように反映されているかをあきらかにしてゆく。儀礼の対象である祖霊でさえ、すでに本来の血縁集団をはなれて地方神や、よりたかい秩序の神に統合されているのである。タイ族では家屋の建設は象徴的に「柱を植える儀礼」からはじまる。ところが、少数民族のなかにはタイの政治機構にくみこまれるさいに、権威の仲介者である首長だけがタイ式の柱建て儀礼をおこなう権利を主張する例がみられる。
住居の象徴論研究にたいしてこころみられた批判をまとめてみると、つぎの三点に要約されるだろう。第一に象徴の動態的側面への理解と方法論をかき、そのことが現実の居住問題への対応を困難にしていること。第二に社会の内部にはことなるレベルの象徴体系が混在し、あるいは、社会がよりおおきな象徴体系からの力学をうけているという視点をかくこと。第三に象徴にかんする認識論上の問題に体系的な基準をあたええていないこと(104)。その結果、現在模索されつつある民族誌のなかで、住居の象徴性がいぜんとして重要なテーマのひとつであることにはかわりないにしても、従来のステレオタイプ化した記述方法がもはや成立しえない状況になっていることもたしかなのである。
山口昌男はルロア=グーランをひきながら、住居をなりたたせる要因として、技術的に有効であり、社会組織の範疇をさだめ、宇宙論的な秩序感をあたえることの三点をあげている(「ひとの棲処」1985)(105)。このなかで山口がもっとも注目するのは第三のコスモロジカルな視点である。
「家屋を読む:リオ族(インドネシア・フローレス島)の社会構造と宇宙観」(1983)(106)のなかで山口は、「個人は家屋という舞台(それは村落、畑、リオ族の地と拡大可能である)で演じられる、宇宙論的な劇の中で、自らのアイデンティティを支える枠組を再確認」(同:27) しているという。文化は人体、衣装、家屋、労働、祝祭、神話などの亜テキストの集合体であるが、文化のなかにすむ人間集団は世界を解読する手がかりをこうした亜テキストのなかにもとめる。住民はみずから意識するとしないとにかかわらず、これらの亜テキストを、行為をかいして演ずることによって、身体の直接性をとおして解読している。つまり、住民たちは「家屋を読む」ことをとおして、宇宙の秩序とそのなかで各自のしめる位置を理解するのである。リオ族では、蛇が頭と尾の極性をあらわす基本的表象「ルートメタファー」としてつかわれ、おなじような極性構造をもつ人体、村落、耕作地、家屋、踊り、親族集団、神話、儀礼などの亜テキストをむすびつけている。山口の議論は個別の儀礼的なシチュエーションをつみかさねて家屋の構造をあきらかにしようとするよりも、家屋をとおしてそこでおこなわれる種々の儀礼の解釈にむけられている。
儀礼のなかに「家屋を舞台とした演劇的出来事」(同:16) をみようとする山口の立場は、杉島敬志「舞台装置としての家屋:東インドネシアにおける家屋のシンボリズムに関する一考察」(1988)(107)のなかにもうかがえる。杉島は「宇宙論的な観点にもとづく研究は、さまざまな行為者が、さまざまな行為を、家屋のさまざまな場所でおこないうるといった事実を、十分に把握することができなかった」(同:204)と批判して、家屋のシンボリズム(空間の方向やレベル差にあたえられた象徴的な秩序)が家屋内でおこなわれる行為におよぼす効果を検討する。家屋のシンボリズムは住民にとっても解釈の対象としてあり、行為との相互作用によって多様な解釈を住民じしんにあたえる。それゆえにこそ、家屋は「さまざまな行為がおこなわれる場所となり、さまざまな行為の舞台装置として機能することができる」(同:214)。
山口や杉島の議論は象徴のもつダイナミックな側面をとらえてゆこうとする立場を表明している。ところが、おなじような意識をもつブルデューとくらべるときに、理論的、全体論的な姿勢はかげをひそめて、むしろ民族誌に解釈的に関与していこうとするのである。
住居は基本的にまもらねばならない建築構造にしたがってたてられ、空間やそこでおこなわれる活動をとおして文化的メッセージをつたえる媒体である。ある言語を象徴的な意味もふくめてべつの言語に完全に翻訳することが困難であるように、住居の意味を言語や他の体系にうつしかえることの限界もあきらかである。しかしながら、人間は言語の象徴的な意味を把握しなくても会話をまじえるし、住居の意味がわからなくてもそれを建設することができる。それは言語や建築が形式をもつという本性のためであるけれども、象徴の自由な利用が可能なのはまさにそうした形式上の特性のおかげであるとかんがえられる。住居自身の文化的な重要さは、言葉による理解が限界をゆうするにもかかわらず、住居が意味作用をもつ体系としてわれわれの手のとどくところに実在し、再生産されているという事実のほうにもとめるべきだとおもわれる。
言語の研究に音韻論と意味論があるように、住居の研究においても建築構造の分析と意味の分析は相補的なものである。建築界がシンボリズムやコスモロジーに注目しはじめるのと時をおなじくして、人類学の側からモノの研究への回帰がおこるのは当然の帰結かもしれない。
象徴的な側面は、伝統家屋を構成する、重要でかつ本質的な要素ではあっても、伝統家屋の建築構造(を構成するありとあらゆる要素)の総体を、おおいつくしているとはいいがたいからである。仮に象徴的な側面に、焦点をあわせ、伝統家屋の建築構造を記述するならば、建築構造のいくつかの部分は、捨象されるか、もしくは註の中におしこめられることになるであろう。(杉島敬志「フローレス島・リオ族・リセ地域における伝統家屋の建築構造」1986:76-77)(108)
フェルドマン(前掲論文(87))、小林繁樹『ヤップ島家屋の構造と建築過程』(1978)(109)、杉藤重信「家屋の建築・修復に関する伝統的知識と技術」(1982)(110)、鏡味治也「伝統的バリ家屋の建設過程」(1988)(111)などがこうした方向を模索している。住居は物理的に完成された建築物として象徴性を発揮するだけではなくて、建設や建設にかかわる儀礼をとおしても象徴的な意味をあたえる。あたらしい研究領域への関心はあたらしい視野を住居の理解にもたらすことになるだろう。
家屋の建設は永遠の儀礼サイクルのひとつであって、ヌアウル族の時間概念を規定する儀礼の焦点なのである。それは連続する固定点である。だから、ここにあるのは、ほんの一時的に実現されるにすぎないけれども、人々がいつもそれを求めて努力するような理想家屋の概念なのである。(エレン「小宇宙、大宇宙とヌアウル族の家屋:隠喩のレベルに適用するさいの還元主義者のあやまりについて」1986:26)
住居の建設が共同体のなかの人々にとって「構造化された時間」の枠組でもあることをエレンはしめしている。
民族学/文化人類学の研究に漸進的な変化を余儀なくさせてきたのは、外部にあらわれる表象の研究からかくれた意味の研究へ、そして全世界を網羅的にかたろうとすることから特定社会をできるかぎり精確に説明することへ、というふたつの方向だった。この相互に因果関係をもつ二潮流のなかで、民族誌をいかに記述してゆくかに人類学者の最大の関心がそそがれるようになったのである。ところが、もし社会の現在おかれた状況に忠実であろうとするならば、人類学者が直面するのは、政治経済的にも精神的にも、限定された地域社会の枠内ではもはや問題解決が不可能な社会であった。
人類学のこれまでの伝統的な分析単位 ― ひとつの文化 ― を決定しようとしてもそれは同じことである。新聞記者やテレビの視聴者は各人が、自分のいる社会にも影響を及ぼしている全体世界の一部としてそれらの部族を知ってしまっている。だからこそ民族誌は、それが対象とした人々が置かれた歴史的文脈をこれまでよりさらに正確に把握できなければならないし、フィールドワークが通常行なわれる地域レベルにおいて、個人とは関わりのないところで進行している世界規模の政治的、経済的システムが、いかに内在的に作動しているかを記録できなければならない。こうしたシステムは、地域的で自足している文化にたいして、その外側から刺激を与えているにすぎないとはもはや説明できない。むしろ外側からのシステムは、すでに完全にその地域の内側で捉えられ、そこに浸透してしまっており、民族誌の対象とされた人々にとって最も親密な生活世界の内部で象徴形式を与えられ、共有された意味を形作ってしまっているのである。(マーカス&フィッシャー『文化批判としての人類学』永渕康之訳 1989:85-86)(113)
通文化的な比較がこのまれるという時代背景には、従来のようなとざされた地域社会という枠組が個人の認識レベルでも機能をはたさなくなり、歴史(関係性)の枠組が再編されつつある状況が反映されている。建築学全般にみられるそうした問題領域への関心のたかまりも、このような文化(内)活動のひとつととらえることができる。しかし、残念ながら比較文化史の研究は、その時代背景じたいを対象化する視点をもちえていないことも事実である。なぜなら比較が前提とするのは、おおくのばあい、まさに閉鎖され特殊な条件下に位置づけられた社会の表象間の差異であるからだ(114)。
このように、通文化的な研究を可能にする方法は比較と分類しかない。それは類似の事象をひとつの群にまとめ、他の事象と類別する操作を意味している(115)。しかも、建築の研究においてふたつの事象が類似することを保証するのは染色体の数や化学的な成分組成ではない。つまり分類された結果あきらかになる因果関係の妥当性いかんが、そのような分類を可能にする指標の存在をわれわれにつげてくれるのである。ここで目標にされているのは、もちろん自然科学的な意味でいう真理とはことなる次元の問題である。それはおそらく、究極において特定社会の解釈をこころみることですらないのだ。歴史ばかりでなく、生態、風土、環境、コスモス、身体、構造といった言葉がつかわれるにせよ、そこには世界を(世界をとおして自己を)認識してゆくための知識をもとめる欲求と、知識のおかれた状態にたいする危機意識とを同時にみいだすことができるようにおもわれる。
住居の文化史研究をここでふたたびとりあげる。建築学者の関与(116)と「日本学」(起源論)への関心、というふたつの理由によって、1980年代にはいり日本における住居の研究はあたらしい局面をむかえた。
ドメーニグ『原始的家屋の架構法』(1980)(117)は東南アジアを中心におこなわれてきた文化史民族学、民族誌の成果をひろく渉猟し、建築学者の手で再考した画期的な論文だった。ドメーニグもまた鞍型屋根の起源から問題をすすめたが、観念的な仮説をたてて伝播説とむすびつける従来の方法を否定した。かれはまず類別のための指標を明確にするために、棟反りではなく破風の外ころびをもって「ころび破風屋根」と命名した。その結果、東南アジアばかりかオセアニア、中国、日本の建築までを対象にする広大な歴史的視野を獲得することになった。それにたいしてドメーニグのあたえた解決は、ヘルマン・フロベニウスにならい共通の指標をもつ建築群のなかにある変異 ― 家屋文鏡にみられるような高床構造と地床構造、入母屋屋根と切妻屋根などの混在、と棟反りの問題 ― を「建築進化論」により説明することだった。
あらゆる成果を満足させ、しかも詳細な考察のくわえられた仮説にしたがうか、すくなくとも緻密な論理にもとづく首尾の一貫性 ― それが進化論的な思考と論証であり、原則的にはつぎのような概念で建築史に「進化」を導入することである。すなわち、あたらしい建築秩序の発見者、ないしはあたらしい建築技術的解決の発明者のそのときに知っていたことが、各「進化段階」における変革の可能性の前提になっていたという概念である。適当な変革をつぎつぎとうけいれた結果生じる進化というのは、現実にはおなじ前提からでもしばしばことなる変化をたどることがあり、しかも実際には前提がまったくおなじではないうえに、つねに創造的な要因がはたらくため、あたえられた進化の可能性のうち、場合によってまちまちの進化が実現される結果となる。(同:7-8)
進化論によるドメーニグの仮説は、①軸組によって屋根をささえる地上家屋と高床家屋は四本柱の入母屋の伏屋(竪穴住居)から発展した、このときに②入母屋の伏屋は「ころび破風屋根」であったが、円形平面に垂木をかけるために棟は自然に反っていた、したがって③ふつうの切妻屋根の原型は「ころび破風屋根」だった、④棟持柱は四本柱軸組をおきかえることでとりいれられた、の四点に整理できる。しかるのちこの建築発展図式を文化史のなかに位置づけるこころみがなされる。
オーストロネシア語族のころび破風屋根の歴史が、文化史の通説にしたがって南中国のどこかで開始されたことをみとめるならば、日本での考古学的証拠から推測して、原オーストロネシア語族の故地であるアジア大陸では、ころび破風は本来(つまり新石器時代には)地面に伏した円錐入母屋や入母屋の形態として知られていたものと想像できる。さらに中国の考古学的資料にもとづくなら、ころび破風屋根のこの仮説上の原型とならんで、軸組上にきずかれたころび破風=切妻屋根が、おそらく新石器時代には特殊な目的の高床建築(たとえば米倉)にかぎって出現し、しかも一部はすでに住居として高床や平屋の家屋が建設されていたと仮定することもゆるされるであろう。おそらく原オーストロネシア語族にかきくわえてよい第三の建築形態は、軸組上にきずかれたころび破風=入母屋屋根をもつ高床や平屋の建築であり、それはまえにのべた形態とならんで、日本の先史時代の画像や埴輪において外観上の顕著な発達をとげている。・・・・前述した原オーストロネシア語族の三建築型のうち、どれがかれらのインド太平洋諸島への出発にさいして知られていたか、移住の時期にかんする意見がまったく二分している現状では明確な解答をあたえることは不可能にちかい。比較的早期(紀元前3000年以前)にみつもるとすれば、移住した原オーストロネシア語族に入母屋屋根の高床や平屋建築の知識は期待しないほうがよいだろう。またおそい時代(紀元前1500年以降)と評価するなら、入母屋屋根の結合形がすでに出現していたかわりに、地上型はもはや一般的でなかったか、せいぜい特殊の目的にさいして臨時に建てられたにすぎないであろう。いずれにせよ、原オーストロネシア語族は入母屋屋根と切妻屋根という家屋型をともなって南方へ移動したが、おそらくその破風は外ころびをしめしていたのである。(同:94)
ドメーニグ論文はその仮説によってではなく、その歴史的視野のおおきさによってあたかも黒船のように日本の建築界に登場した。
おなじ屋根形態の歴史についてはフランスの建築学者デュマルセ「引張棟木」(1982)(118)も独自の見解を披露している。この屋根形態は破風のころびによって棟木にテンションをあたえ、建物内部の支柱を省略するための架構技術である、としたうえで、ドンソンや石寨山の青銅器、石造寺院の壁面レリーフにえがかれた建築図をもとに歴史的な発展を再構成している。
住居空間の象徴的側面に注目して、比較文化的な研究分野をきりひらいた論文にズグスタ『東アジア、特に日本に於ける住居空間四分法の多様性』(1986)(119)がある。ズグスタは住居空間の象徴的な分割をもとに日本の住居の起源論を展開している。
住居空間は水平に二本の軸で四分割されるが、それぞれは均質ではなくて一般に奥にはいるほど価値がたかい。この空間は祭祀場や貴重品の保管にあてられ、家屋の主人はたいていこの空間を管理しているのである。東南アジアの島嶼部ではここは農耕儀礼とむすびつく主婦の領域であるが、東南アジアの大陸部では反対に奥には男性がいて、主婦は外側の公的な空間をしめている。漢族や東北アジアの状況も東南アジアの大陸部と一致する。ところが、日本の民家のなかでこの両タイプの融合がみられる。妻入りの場合、奥のカミテと手前のシモテは炉端の座席ヨコザ(主人)とキジリに対応し、奥は男の空間である。ところが、平入りの場合には、奥のウラと手前のオモテは炉端の座席カカザ(主婦)とキャクザ(男)に対応して奥には女の空間がある。結局、日本の住居空間は妻入りと平入りの空間構成を重ねあわせた四分割にしたがい、ナンド(奥)/ゲンカン(外)を対角軸としてザシキ(男)/ダイドコロ(女)の対照ととらえることができる。それは日本の住居が、東北アジア的な古層文化(カミテ―シモテ系)から東南アジア島嶼部的な新層文化(ウラ―オモテ系)へ歴史的に変遷したことを予想させる、と論じている。
日本民家の起源論はズグスタ論文にかぎらず、近年この分野の研究におおくの話題を提供してきた(120)。一連の日本文化論、すなわち「日本学」のなかに建築学もまたおくればせながら参戦を果たしたわけである。ただ従来の日本民族、文化の起源論とはやや事情がことなるのは、周辺諸国の研究者との連携の可能性がのこされていることであろう。
李鎬洌『韓国建築のマルに関する研究:その発生と変遷』(1983)(121)は、韓国民家の板間であるマルが朝鮮半島北部のツングース族の神聖な空間であるマルやマロに起源をもち、東南アジアの高床構造と融合することで生じたとし、両者の要素が韓国に招来された青銅器時代末から三国時代にかけて韓国住居はうみだされ、三国時代をつうじて朝鮮半島一帯にひろまったと推定している。また、林會承『先秦時期中国居住建築』(1984)(122)は新石器時代から秦時代までの中国の建築様式を地穴式建築(竪穴住居)、干闌式建築(高床住居)、地面建築、宮室建築にわけそれぞれの文化史上の位置づけをこころみている。
両論文ともに古文献、考古学資料、民族誌などの成果を縦横に駆使した文化史研究の古典的なアプローチをしめすものであるが、1980年代にアジアの一画でにわかに住居をめぐる文化史研究が活性化した事実にここでは注目しておこう。一般に「日本学」は地域や文化をこえた普遍化を必要としないために、方法論なしでも成立することが可能な領域とかんがえられている。しかし、「日本学」もまた「朝鮮学」や「中国学」とかかわりながら、ひらかれた「日本学」になりうるかどうかに今後の可能性はかかっているのではなかろうか。
いまからおよそ90年まえにフランスの人文地理学者のブラーシュはつぎのようなことをしるしている。
このローカルな諸影響と全般的な諸影響とが交錯し、分析のためには絶えず比較を頼りとしなければならないような諸問題にあっては、観察の分野があまりに狭小であるときは語謬に陥ることは必定である。別々な諸文明相互間の連絡ということが環境の諸影響の見解を是正するために必ず顧慮されるべきである。われわれの研究が邁進する多様な雑多な場合を査定するにあたっては、かくかくの社会あるいはかくかくの社会群ではなく、人類全体の映像をつねに念頭において考えてゆかねばならない。このような大望は、なおわずか数年前には、無謀もはなはだしいと思われたかも知れない。(「人文地理学」飯塚浩二訳 1970:285)(123)
90年たって、世界各地の民族についておどろくほどおおくの情報をわれわれは手にしているけれども、こんどは、人類全体の映像をおもいえがくほどはなはだしい無謀な研究はないとおもわれるようになった。風土、環境、自然、生態と、研究のパラダイムにおうじてことばの表現はかわっても意味する内容じたいにはさほどおおきなちがいはない(124)。ようするに、人類がそのうえに生活をいとなんできたところの地球にむすびつけられているということである。
日本で最初に生態人類学(125)の領域を開拓した人類学=考古学者の渡辺仁は、はやくから住居の文化史的研究の可能性に関心をしめしていた。渡辺は「竪穴住居の体系的分類、食物採集民の住居生態学的研究(Ⅰ)」(1981)(126)のなかで、北アジアや北アメリカの猟漁採集民族のあいだでつかわれていた冬家(越冬用住居)が「北方圏への人間の進出、寒帯諸地域への諸民族の文化的適応放散の歴史を探る重要な鍵」であるという。そして、このような環境への適応によって住居の形式が左右されることを「住居生態学」と名づけている。
いかにして冬を越すかの問題を解決するための基本的な鍵は住居と食物の確保である。いいかえると北方民の生存は冬の寒さと食物獲得の困難に対処する彼等の住居生態学と食物生態学にかかる所が大きい。(同:1)
そして、冬家を土による被覆の有無と竪穴かどうかというふたつの指標の組みあわせによって、広範囲にわたる民族誌資料を体系的に分類している。さらに「竪穴住居の廃用と燃料経済」(1984)(127)では、こうした竪穴住居が排煙、排水、出入りなどの欠点にもかかわらず、白人と接触する時代までつかわれていたのは保温のための燃料の経済性によるが、鉄斧と煙突つきのストーブの普及にともない、そのような変化に対応できる富者の住居から地上化されていった。これはたんなる様式の変化ではなく、文明の発展と社会の工業化にともなって人間一人一日あたりのエネルギー消費量は人類発生以来増大の一途をたどってきた、という文化進化の仮説を熱エネルギーの見地からも支持するものである、と結論している(128)。
岩田慶治は「東南アジアにおける居住様式の展開」(1986)(129)のなかで、「住居をそこに住む人の行動論、身体運動論の立場から考える」(同:7)という方向を示唆している。それは住居や集落を人間の身体との形態的類似によって理解しようというのではなく(象徴論研究にみられた)、人間行動の原型的なものとのアナロジーをさぐることであるという。
自然の表情を読む。住居にとりこまれた意味空間を読み解く。山・川・木・石の形と配置を読み、住居の骨格を読む。・・・・・・文字の意味にたよらず、辞書なしに、身体で読む。身体運動によって、その同調作用によって読みとる。われわれが回復しようとしているのは<身体知>であり、<知の身体>であり、ほんとうの身体、運動する身体なのである。自然のなかで伸縮する身体、それが<知のかたち>だといいたいのである。(同:15)
岩田は、のぼる(のぼることによって到達する)空間、すすむ(すすむことでそこに入ることのできる)空間、こもる(包む)空間、ひらく(あける)空間、身がまえる空間、リラックスする(弛緩した)空間という空間的アナロジーを提出し、ボルネオのロングハウスを「多様多彩な身体運動の容器としての住居」としてあらわすことをこころみている。
こうした視点は、マルセル・モースのいう「身体技法」のかんがえにわれわれをたちかえらせる。人間がそれぞれの社会で伝統的なしかたで身体をもちいる仕方は、生物学的、心理学的な問題であるばかりでなく、社会学的な考察の対象ともなる。あるき、泳ぎ、たべるといった行為は社会によって、また性別、年齢別にもことなるそれぞれの型をもち、社会的な教育と、その結果もたらされる秩序にかかわっている。
身体こそは、人間の不可欠の、また、もっとも本来的な道具である。あるいは、もっと正確に言えば、身体こそは、道具とまでは言わなくとも人間の欠くべからざる、しかももっとも本来的な技法対象であり、また同時に技法手段でもある。(『社会学と人類学 Ⅱ』有地亨・山口俊夫訳 1976:132-133)(130)
モースもまた「総合人」(l'homme total)の視点こそが必要だとしるしている。多様性と統一という矛盾する命題は、すくなくとも個人の身体のうえで、身体をとおして実現されているのである。
(112) エティック、イーミックは言語学者ケネス・パイクがもちいた概念。音声的(フォネティック)と音素的(フォネミック)からとられた。エティックな研究とは通文化的な比較研究をさし、イーミックな研究とは個別文化的な研究をさす。エティックなアプローチにあっては外部的な論理性が問題になり、イーミックなアプローチでは対象文化内の全体的な機能性が問題になる。(吉田集而「エティックとイーミック」現代のエスプリ別冊「言語人類学」 1984:62-77)
また、エティックを感覚器官によって知覚された所与をさし、イーミックを精神(大脳皮質)のレベルでうける抽象化作用ととらえる立場もある。「唯一ほんとうに<エティック>である水準は<イーミック>の水準にほかならない」(レヴィ=ストロース「構造主義とエコロジー」『レヴィ=ストロース:変貌する構造』国文社 1987)
ここでは前者の視点にしたがっている。
(113) 前掲(104)
(114) とくに建築(史)学のばあいには、原初に一本の幹のような原型を共有する黄金時代があり、しだいに枝わかれして多様な表象を獲得するにいたったが、あるときから折り返し点をすぎて(ふるきよき時代はおわり)、ふたたび一本の幹のような(こんどは否定すべき)均質化にむかいつつある、といった思考パラダイムないしは修辞法に研究全般がよりかかりすぎているのではないだろうか。
(115) 「同じ品種の二本のパセリは同一であり、まったく見分けがつかない。・・・・・・植物の父と子が完全に同一であるということは、要するに植物には歴史がないということである。各植物は互いに交換可能だということである。生命というよりはむしろ記号、あるいは幾何学的図形に植物は近いのだ。・・・・・・この植物の世界の無歴史性が、博物学者にとってばかりでなく、私たちにとっても、ただちにユートピア世界を暗示するものであることは明らかだろう。」(澁澤龍彦『思考の紋章学』)
(116) 「人類学的調査によって、物理学から借用した空間概念が、何千年にもわたってつちかわれた意味論的方位観のような人間の基本的システムを破壊したことをあきらかにしてゆくなら、近代建築もポスト・モダン建築もふたたびいっそうふかい危機にみまわれるだろうし、建築はわれわれの時代のしめす社会的にも心理的にも不安定な性格に、実のある貢献をするようもとめる非難にたいしてみずからを守ることを余儀なくされるだろう。」(EGENTER,Nold Foundation for an anthropological theory of architecture/ノルド・エジェンター「建築人類学をめざして:ポスト・モダン建築と類人猿による巣づくり」前田哲男訳、建築と都市 8702(1987):99-108)
(117) DOMENIG,Gaudenz Tektonik im Primitiven Dachbau, Zurich, 1980
(118) DUMARCAY,Jacques La faitiere tendue (Histoire d'une technique), Bulletin de l'Ecole Francaise d'Extreme-Orient 70(1981):231-251
デュマルセはアンコール・トムやチャンディ・ボロブドールなどの修復にたずさわった建築学者で、以下の本の著者でもある。
DUMARCAY,Jacques The House in South-East Asia, Oxford-New york, 1987
(119) ZGUSTA,Richard Variations in the Quadripartite Pattern of Spatial Organization in Dwellings of Eastern Asia, Especially Japan, A thesis presented to the Department of Cultural Anthropology, University of Tokyo, in partial fulfillment of the requirement for the degree of Doctor of Philosophy, 1986
(120) こうした日本民家の起源論にたいしては、1983年に国立民族学博物館でおこなわれたシンポジウム「日本のすまいの源流」を契機として多数の建築学者をまきこんだ学際的なアプローチがなされるようになっている。
杉本尚次(編)『日本のすまいの源流:日本基層文化の探求』文化出版局 1984
また杉本尚次はこのシンポジウムの成果をうけて、「日本の住まいのルーツ」をさぐる研究のおかれた問題点と可能性についてまとめている。そのなかで、「住まいは、これら諸構成要素の統合されたものとしてとらえる必要があるのだが、住まいを構成する諸要素は、それぞれ異なった文化系統に属している。住まいはこれらが集まった文化複合体なのだ」として、住居にあらわれた種々の文化的表象とその地理的分布を複合的にとらえるべきであるという。(杉本尚次『住まいのエスノロジー:日本民家のルーツを探る』住まいの図書館出版局 1987)
(121) 李鎬洌『韓国建築のマルに関する研究:その発生と変遷』嶺南大学校大学院碩士論文 1983
(122) 林會承『先秦時期中國居住建築』六合出版社、台北 1984
(123) ブラーシュ『人文地理学原理』飯塚浩二訳、岩波文庫 1970 より下巻の付録「人文地理学:それと生物地理学との関係」(BLACHE,P.V.de la La Geographie Humaine, 1903)
(124) ここで筆者は、ある時代の人間社会に外在的に関与するものにたいして社会の側からの関与によってあたえられた名称、といった意味に解釈している。
「「文化」にとっての「生態」」と題するシンポジウム(昭和六二年、第四一回日本人類学会・日本民族学会連合大会)へのコメントのなかで、関根康正は生態にふたつの次元があることを指摘している。「一つは、具体的な歴史的営為の中で取捨選択といった人間主観の操作の手にかかる自然で、研究者も客観的分析が可能な対象と考えている。もう一つは、馴化されない他者として(野生)の自然であり、それゆえに相互主観性(滲透性)を余儀なくさせられたものである。そこでは対象化して分析する方法は通用しないことになる。」 前者を「対象化された生態」、後者を「生きられた生態」とよぶなら、たいていの人類学者のあつかってきた生態はたかだか「対象化された生態」の範囲にすぎない。(「「文化」にとっての「生態」」季刊人類学 19-2(1988):3-82)
ずっと素朴な建築学のなかでは一般に歴史(歴史意識)を捨象しながら建築を対象化するための手段とみなされてきた。それなら気候区分や植生といったほうがむしろふさわしいのだが、そのような理解のせいで、風土や環境は(反近代主義ではなく)近代主義建築運動の推進にとってきわめて有力な理論的、方法論的根拠をあたえてきた。
ラポポートの議論とその影響について、重要ではあるが筆者にはかたる用意がなかった。『家屋、形態、文化』(RAPOPORT,Amos House Form and Culture, Englewood Cliffs, 1969/『住まいと文化』山本正三・佐々木史郎・大嶽幸彦訳、大明堂 1987)ほか、いくつかの編著がある。
(125) 生態人類学(エコロジカル・アンソロポロジー)または人類生態学(アンソロポロジカル・エコロジー)には方法や理論を異にする多様な分野の研究者がふくまれている。そのために「生態学は理論じたいというよりも、理論を予測するための参照の枠組」であり、「究明すべき問題を限定するのに役立つ枠組をあたえ、問題に接近するための方法をしめし、関連分野で集中するおなじような関心に焦点をあたえ、拡散する研究傾向と民族誌資料を統合する」(ELLEN,Roy Environment,Subsistence and System: The ecology of small-scale social formations, Cambridge,1982) といった八方美人的解釈にあまんじてきた。
ここでは、本項に意味のある範囲内でいくつかの特徴をまとめておこう。第一に、大前提として人間と環境との相互関係に関心をよせる学問分野である。それは「文化は人間が自然界のなかで生きていくための適応のメカニズム」といったことばに代表される。第二に多様化、断片化、専門化する人類学(をふくむ科学一般)の傾向にたいして、人類と文化を統合的に理解しようという問題意識によってささえられてきた。全体論をめざす立場である。第三に、あたえられた事象の解釈をもとめる象徴論などの方向にたいして、一般に仮説をたて事象にそくしてその検証をこころみるという研究方法をとる。第四に人間活動(文化)を数量化できるモデルによってとらえる。たとえば、ある社会のひとりあたりの食物摂取量を計算し、それによって進化や適応の度合いを説明しようとする。その結果、第五に生態学的アプローチは弁証法的唯物論とシステム論を有力なバックグラウンドにすると目されるにいたった。そして最後に特徴的なことは、のこされた遺物を対象にするしかない考古学者によって、とくにビンフォード(BINFORD)以降のニュー・アーケオロジストとよばれる人びとのあいだで、ひろくうけいれられるようになったことなどである。
先述したエレンもまた、生態学の概念が拡散しすぎることを警戒して、「生態学は専門家の道具をしろうとがもてあそぶだけだったり、生態学のジャーゴンに魅せられた人類学者が、自分じしんのためにカロリー計算をやるようなえせ科学になりがち」であるという。エレンにいわせると、社会構造や社会システムを背景にかんがえたときに人類生態学ははじめて意味をもつのであり、究極的には人類生態学は人類社会の一般理論のなかに解消すべきなのである。宇宙人がみたら笑うだろうが。
(126) 渡辺仁「竪穴住居の体系的分類、食物採集民の住居生態学的研究(Ⅰ)」北方文化研究 14(1981):1-108
これにはるかに先立つ研究に、「北ユーラシャからみた日本人の原始建築構造」日本人類学会・日本民族学協会連合大会紀事 12(1957):139-143 がある。
(127) 渡辺仁「竪穴住居の廃用と燃料経済」北方文化研究 16(1984):1-41
生態人類学者としての渡辺が特異なのは、こうした生態学的アプローチが文化史の研究にとっても有効だとみなしている点だろう。「北太平洋沿岸文化圏」(かつての文化圏説から、親族関係の分類項をのぞいたものにちかい)を主張するなかで、「いかなる文化にせよ、その文化を構成する要素の歴史的意味(起源と変容を含む)はその文化をとりまく諸文化との関係を無視しては理解し難い」とのべている。と同時に「文化というものは、機能的にみると、環境或いは居住地(habitat)に対する社会の適応手段ないし機構であるから、その意味を理解するには環境との対応関係が問題になる」という。(「北太平洋沿岸文化圏:狩猟採集民からの視点 Ⅰ」国立民族学博物館研究報告 13-2(1988):297-356) そのため、渡辺の生態はひじょうにひろい概念をふくむことになり(生態系に自然と超自然のふたつのサブシステムをおく)、本来の生態は一般理論の一部に解消されている。
(128) 考古学による住居研究について、ことにシンボリック・アーケオロジーの方法と問題についてのべる余裕がなかった。ここでその概略をしるす。
住居空間の象徴的な分割と社会組織が対応関係にあるという初期の象徴論(構造主義)の立場は、遺物だけをたよりに社会の復原までこころみようとする考古学者に格好の理論的根拠をあたえた。民族学者の大林太良ははやくからこのことに注目して、縄文中期の住居にみられる男女の空間分割(石柱、石棒、土偶、埋甕、炉石などの遺物をもとに住居の奥が男性的、手前が女性的な空間と推定される)が北方ユーラシアの狩猟民のテントの空間分割と一致し、縄文時代にも同様な外婚父系氏族が存在したのではないかとの指摘をおこなっている(「縄文時代の社会組織」季刊人類学 2-2(1971):3-81)。一方で、M・ダグラスのように、「住居空間が年齢、性、階級などの区別を表現することを十分承知したうえでも、象徴的な秩序を遺物だけから推論するのは危険だ」と反証をあげて批判する声もあった(DOUGLAS,Mary Symbolic orders in the use of domestic space, in P.UCKO・R.TRINGHAM・G.W.DIMBLEBY (eds.) Man,Settlement,and Urbanism, Cambridge, 1972:513-521)。しかし、「空間分析」(とくに集落や交易圏の範囲をあつかうものがおおい)の象徴的側面への関心が考古学者をとらえはじめるのは、1980年代におこったイアン・ホダーを中心とする考古学のあたらしい潮流、シンボリック・アーケオロジーの渦中においてだった。ホダーの編集した『象徴論的、構造主義的考古学』のなかに一文をよせたムーアは、考古学上の解釈に民族誌の資料をもちいる ― 一般に、民族考古学(エスノ・アーケオロジー)の名でよばれる。既存の民族誌資料を利用する段階から、現在では考古学者が実際に民族調査をおこなう段階にはいっている ― さいのアナロジーの問題(ニュー・アーケオロジーでは否定的にみられていた)についてつぎのようにのべている。
考古学者たちはいままで、説明のために採用する理論は観察の結果に影響をおよぼすことはないとしんじてきた。それがいまでは、意味は対象に内在するものではなく、観察は理論にしたがうと当然のようにいわれている(ニュー・アーケオロジーをさす)。しかし、そうした理論がそもそも考古学者じしんの知的、文化的背景にもとづく自民族中心のかんがえであることには気がつかない。人類学的議論の前提は、第一に観察者の文化的背景は、観察/記録と理論的モデルの発展の両面で決定的な意味をもち、第二にその説明(一種の翻訳である)の過程で、文化相対主義という非難をまぬがれたいならば、形式上の類似ではなく構造や構成上の類似をもとに議論をすすめる、という認識にたつことなのである。考古学者は加工のために消費されたエネルギー総量によって対象物の「価値」をはかろうとするが、これはエネルギーの節約や効率といった西洋的な概念にむすびついている。たとえば考古学者が「廃棄物」とよぶものにも、機能的な必要性だけでなく認識論上のカテゴリーが反映されているのである。
ムーアはかれじしんのケニヤでの調査をもとに、廃棄物の空間構成がたんにそこでおこなわれた活動を表現するばかりでなく、集落の配置を決定する一連の規則に支配されていることをあきらかにする。死体の埋葬には性、年齢、不慮の死による区別がある。廃棄物もまた概念的に三種に分類されている。そして、それらが集落内でしめる場所は社会的な意味をもち、集落における男の家と女の家という双分的空間秩序と構造的な関係をしめしている。(MOORE,H.L. The interpretation of spatial patterning in settlement residues, Ian HODDER (ed.) Symbolic and Structural Archaeology, Cambridge, 1982:74-79)。
また、ケントは『活動領域の分析:空間利用にかんする民族考古学的研究』(KENT,Susan Analyzing Activity Areas: An Ethnoarchaeological Study of the Use of Space, 1984)のなかで、特定の人間活動がおこる場を「活動領域」とよび、遺物(文化物 cultural materialと名づけている)をもとに活動や文化の推定まで可能となるために必要な三つの命題を提出している。すなわち、(1)活動領域は加工品や動物遺存体のアッセンブリッジの内容と空間配置によって識別できること、(2)たいていの活動領域は性差があること、(3)たいていの活動領域は単一機能的であること、の三点であり、この前提をみとめるには、①加工品と動物遺存体はつかわれていた場所にのこされていること、②活動領域で放棄された廃棄物は空間の(諸)機能にかんする推定をうけいれること、③男女は一般に同一の活動の場を使用しないこと、④ことなる機能にかかわる活動は別の領域でおこなわれること、の検証が必要となる。このような経緯でいくつかの民族調査をおこなったケントの結論は、すべてにおいて否定的(一般化はできない)ではあるが、いったん活動領域が設定されたならば、考古学者は共時態、通時態の双方で変異の力学を理解することができるというものだった。なお、ケントのような住居の空間構造の研究は、民族考古学と空間学(象徴人類学をふくむ)のふたつの学史的背景のうえに成立している。同書中に研究史が略述されているからそちらを参照されたい。
さらに、考古学全体の方法論的な展望については以下がくわしく紹介している。
後藤明「「シンボリック・アーケオロジー」の射程:1980年代の考古学の行方」東京大学考古学研究室研究紀要 2(1983):293-309
および、前掲 注(4)
安斎正人「先史学の方法と理論 ― 渡辺仁著『ヒトはなぜ立ちあがったか』を読む(1)~(4)」旧石器考古学 32(1986):1-10、33(1986):1-16、34(1987):1-15、35(1987):1-16
(129) 岩田慶治「東南アジアにおける居住様式の展開」住宅建築研究所報 1986:3-16
全体論をもとめる岩田の立場は、シンボルやコスモスといった象徴論の概念をつかうときでもかわることはない。
「人間が生きる、旅人がひとときのやすらぎを得るためには、1が多に展開し、多が1に収まるような、多層・多様な意味空間が表現されていなければならなかった」(同:15)あるいはまた「<コスモス>像は、美的な、秩序をもった、調和した世界の姿は、アニミズム的、密教的空間に構築しなければならない。われわれはこの画面の上に、自由に、<コスモス>を描く。あるいは、そこで、そこでだけ創造的に生きることができる」(『コスモスの思想』日本放送出版協会 1976:242)
(130) M・モース『社会学と人類学 Ⅱ』有地亨・山口俊夫訳、弘文堂 1976(MAUSS,Marcel Sociologie et Anthropologie, Paris, 1968)の第六部が「身体技法」にあてられている。
大河直躬は「身体技法」をもとに、住居のなかで相互に関連をもってうごく身体動作の体系を「身体動作様式」と名づけ、日本の庶民住居には土間と床上のことなる身体動作様式が混在すると指摘している。
大河直躬『住まいの人類学』平凡社 1986
現在も活動中の研究組織の目的と成果については、『住居・集落研究の方法と課題:異文化の理解をめぐって』(1988)(131)になんらかのかたちで紹介されているから、本稿ではそれにもれた個人の活動を中心にのべる。
太田邦夫ははやくから東ヨーロッパの木造民家の調査をつづけてきた。その成果は学位論文『東ヨーロッパの住居における木造架構の比較研究』(1985)にまとめられた(132)。太田はさらに対象を東南アジアにひろげ、関連分野の研究者との学際的な交流をつうじて独自の住居論を展開する。本稿のタイトルとなった「エスノ・アーキテクチャー」という言葉が市民権をうるようになったのは太田の活動をとおしてである(133)。
若林弘子は日本民族の起源を南中国にもとめる「倭族論」をもとに、タイや南中国の少数民族の民家調査を継続させている。若林の成果は学位論文『高床式建物の源流』(1986)(134)にまとめられた。さらに『家屋文鏡が語る古代日本』(1987)(135)ではそれまでの調査結果をもとに家屋文鏡の建築構造に新説を提出している。
ほかに、建築構法に着目して世界の住居の類型論を展開した若山滋『風土に生きる建築』(1983)(136)や、茶谷正洋「原始住居の類型を探る」(1979-82)(137)の研究がある。
また、日本の住宅にかんするものではあるが、大河直躬『住まいの人類学』(1986)(138)は「現代の日本の住まいにどんな「文化的枠組」が存在するか、もし存在するとしたらそれを作りあげている仕組はどんなものであるか」を主題に論をすすめており、本稿の内容とかさなる部分はおおい。
現地に比較的長期間すみこんでインテンシブな調査をおこなう研究者があらわれるようになったのも特記すべきことである。浅川滋男のミクロネシア・トラック島や南中国での調査(139)、乾尚彦のフィリピン・ルソン島、インドネシア・ニアス島、台湾・蘭嶼の調査(140)、佐藤浩司の東インドネシアの調査(141)、八代克彦の中国・窰洞住居の調査(142)などがそれであり、このなかには住居の静態的な側面ばかりでなく建設過程の調査をおこなった例もみられる。しかし、こうした活動が建築界にいかなる問題を提起できるかはむしろ今後にのこされた課題であろう(143)。
建築学以外の日本人研究者による研究の学史的展望は、主要なフィールドであった南方圏にかんして佐藤浩司・乾尚彦(編)『東南アジア・オセアニアの居住様式:日本における研究の概況と文献目録』(東京大学工学部アジア都市研究会 1982)にまとめられている。またアジア全域の伝統的な住居・集落にかんする内外の文献を総覧した資料に、アジア居住史研究会(編)『アジアの居住に関する研究の概況と文献目録』(未公刊)があり、研究のスタートラインはととのっている。
現実に進行する事件のなかで社会生活をいとなむ人間は、広義のシンボルを操作することによって現実の諸矛盾を各人の秩序に統合しながら対社会的な関係をつづけているものとかんがえられる。ある事件がおこったときに、個人の内部に喚起される象徴的な意味あいはおなじとはかぎらない。そのようにして喚起される象徴的意味はたしかに文化的なバイアスをこうむってはいるだろう。しかし、そういうときの「文化」は概念的な枠組にそうように選択された一定の意味作用を共有する集団として、じつは先験的に規定されている。
たとえば、日本文化は政治秩序の枠組に着目するならひとつの文化かもしれないが、言語や人種にかんしてはいくつかのサブ・カルチャーにわかれ、宗教にかんしては中国文化の一支流であったかもしれず、住居にかんしては東南アジアや東北アジアと連帯し、世界観の一部はヨーロッパであるといった、対象となる概念によっても、また社会階層によってもレベルのことなる集団意識を「日本」という象徴的な概念によって統合しているだけかもしれない。寝殿造りと民家がおなじ日本建築史という時間系列のうえにならべて論ぜられるとかんがえるのは、日本と中国、日本と東南アジアをおなじ歴史的枠組におくことよりも高い蓋然性がある、とはかならずしもいいきれないのである。
「日本」という集団意識の発生が「日本建築史」というシンボルをもたらしたともいえるし、集団意識の演出がそのようなイデオロギーを必要としたともいえる。「日本」や「西洋」をこえたもっとひろい集団意識が建築生産にさいしてもとめられるようになれば、われわれは「世界建築史」や「人類建築史」をうみだしてゆくだろう。
かりに原初の社会というものを想定してみると、建築史の存在理由は、共同体が建築をうみだすうえで前提となる共通の地平(規範)としてある。もちろん現代社会ではレベルのちがう共同体が複雑にからみあい、規範もまた一元的ではないし、共同体や規範の解体がのぞまれたりもする。しかし、どういう立場をとるにしても、建築史学の課題はいつでもこのような問題の周囲からそうとおくはない。建築学がまったく特異な学問であるのは、どのような価値体系の混乱や規範の喪失にもかかわらず、価値や思想を統合的に解釈し、場所にそくして物事を構築するための学問だからである。それはある意味で人間の本性によりふかくむすびついている。そして、建築というモノをうみだす学問を背景にしながら建築を対象化していることは、建築史学の他の分野にない独自性であるとおもわれる。
歴史には「歴史学的な歴史」と「人類学的な歴史」のふたつの側面があって、前者が歴史上のテキストに固定された歴史であるのにたいして、後者は人々の意識のなかに存在する生きられた歴史である(144)。しかも、建築はつねに現在の歴史意識の反映でつくられている。われわれが直面してきた課題は、個人の歴史意識がどのていど社会的なものであるかについての基準がまったくないにもかかわらず、なおも建築学として建築の生産に関与していかねばならないということである。「歴史学的な歴史」にはらうのとおなじくらいの情熱を、建築史学は「人類学的な歴史」にもむけなくてはならないだろうし、これからの建築史にもとめられるのは、歴史にかぎらず建築を全人間領域において対象化する視点ではないかとおもう。
建築はその実在性をとおして否応なく人間の存在を左右する。それは美術や音楽や文学とはちがい、一定期間のあいだ不特定多数の人びとにたいして、象徴的な意味の解釈やイデオロギーをしいる。筆者は、建築学がそうした「建築」の生産を独占的につかさどる学問であるかぎり、建築学に「人類」を提示しつづける分野が必要であるとかんじている。民族建築/人類学的建築は建築が社会のさまざまな側面といかに密接にむすびつき、それを表象しているかをおしえてくれる。
本稿は既存のアカデミズムの研究史の回顧ではないから、いくつかの問題点をかかえている。ここでは重要な研究をすべて網羅したわけではないし、その能力もなかった。内容はいまのところ個人的な記憶の範囲にとどまっている。また、本来研究はそれぞれの分野のコンテクストにおうじてなされるものである。ここにはそうした背景から切り離された住居にかんする研究だけが、著者の意向をはなれ、いわばつまみ食いのようにならべられている。しかも、筆者の専門が東南アジア、とくにインドネシアであるために引用された文献は地域的に偏することになった。以上の欠点をみとめたうえで、なお確信をもっていいうることは、現実の人間生活の観察と認識にもとづく建築空間の研究は、すでにおおくの成果をうみながら問題をふかめてきており、われわれのよってたつ地盤そのものが地殻変動をおこしつつある。そのような予見をもって今後の研究展望にかえたい。
(131) 前掲 注(5)
(132) 太田邦夫『東ヨーロッパの木造建築:架構形式の比較研究』相模書房 1988
(133) 太田邦夫「エスノ・アーキテクチュア序説」群居 1-16(1983-1987)/「日本の木造建築の系譜 ― 比較建築論からの考察」~『新建築学大系1 建築概論』彰国社 1982:157-203/「世界の木造構法の分布とその技術史的背景」住宅建築研究所報 10(1983):3-24 など
(134) 若林弘子『高床式建物の源流』弘文堂 1986
(135) 鳥越憲三郎・若林弘子『家屋文鏡が語る古代日本』新人物往来社 1987
(136) 若山滋『風土に生きる建築』鹿島出版会 1983
ほかに、『建築へ向かう旅:積み上げる文化と組み立てる文化』冬樹社 1981/「構法の成立条件に関する研究」その1(構法の分類と分布)、その2(風土と構法)、日本建築学会論文報告集 317(1982):69-74、323(1983):94-98
(137) 茶谷正洋「原始住居の類型を探る ①~⑫」ディテール 61(1979)-72(1982)
(138) 大河直躬『住まいの人類学』平凡社 1986
(139) 浅川滋男「ウートがたちあがるまで ― トラック諸島トル島におけるウート建設過程の報告」季刊人類学 11-3(1980):112-176/「住空間の民族誌 ― 中国江南の伝統的住居をめぐって」国立民族学博物館研究報告 11-3(1986):669-779/「”灶間”の民族誌 ― 江浙地方のカマドと台所」季刊人類学 18-3(1987):60-125/「カマド神と住空間の象徴論 ― 続・”灶間”の民族誌」季刊人類学 18-4(1987):107-145
(140) 乾尚彦「隠された高床 ― フィリピン・北部ルソン島ボントック族の住居」住宅建築 91(1982):95-104/「蘭嶼・ヤミ族における居住空間の成立過程」民俗建築 89(1986):19-28/「オモ・セブア:インドネシア・ニアス島の王の家」季刊民族学 37(1986):38-49
(141) 佐藤浩司「チモール島の住まい」季刊民族学 43(1988):24-35/「舟型住居の原型を追う:サブ島とロテ島の住まい」季刊民族学 46(1988):92-103/「スンダ人の家屋をめぐる時間と空間 ― 「円環的な時間」と「双分的な空間」」住宅 37-11(1988):45-51
(142) 八代克彦(他)「窰洞 ― 中国・黄土高原の地下住居 ― 風土に合った地下住居/生成から崩壊まで」季刊民族学 30(1984):6-21/「"MY HOUSE" ― Research on spatial recognition of Chinese children living in YAO DONG(cave dwellings)」国際民居学術討論会議(天津、中国)1987/『民家集落の建築類型学的研究”中国黄河流域の窰洞式民家考察”』住宅建築研究所報告書 1988
(143) これからも建築の専門家による長期間の海外調査がおこなわれる可能性はあるとおもわれるが、当事者のひとりとして研究上の問題を指摘しておく。第一に、日本の民家研究の場合と同様、それ以上に無限定にひろい事象をわれわれは手にしていることになる。なにを、どういう目的で、だれのために報告するかをつねに自問してかからないと、作業は浜の真砂をひろいあつめるにひとしい。第二に、建築的事象は人間活動の反映であるにしても、そのすべてではない。ある土地の人々が建築にかける文化的なエネルギーの質と量は地域によってことなる。同様にわれわれがなにに着目して解答に到達するかはまさに当人の(文化の)建築をかんがえる視点にかかっている。一般解は存在しない。第三に、いっそう現実的な問題として、そうした調査を可能にする支援体制が建築界にはない。というのはそのような時間を出張なり授業なりとしてとりこむ制度がない。第四に、学生相手に教条的な歴史の知識をつめこむ授業よりも、建築をみる方法をおしえフィールドにおいて各自の問題を深化させる手段を提供することがのぞまれるのではないか。
(144) 無数の出来事のなかからテキストになる事実を選択する基準は、人びとの意識のなかに累積された歴史の総体である。これを歴史意識とよぶ。出来事の選択をとおしてテキストのうえに固定された歴史意識には、その時代の社会的な記憶と個人的な記憶が反映されている。こうしてかかれたテキストはやがて歴史上のテキストとなり歴史家の考察の対象となる。歴史家は数かずのテキストをもとに、テキストのなかの個人的な記憶を排除してある時代の社会的な記憶を再現しようとつとめる。歴史家の手になる歴史についてのテキストには歴史家の歴史意識(社会的な記憶と個人的な記憶)が反映されるが、それをよんだ人びとの歴史意識のなかに還元され、ふたたびつぎの瞬間の歴史意識をかたちづくる。