インドネシアの観光地として名高いバリ島からさらに東へ、小スンダ列島の島づたいにロンボク島、スンバワ島とたどった先にスンバ島はある。乾期におとづれると、風化して山頂のたいらに削りとられた山やまが地肌をむきだしにした様子が上空からみてとれる。島の気候は東部でとくにきびしく、地上にはえる草木はみわたすかぎり枯れつくして、乗合バスのまきあげる土埃ばかりが島の存在を主張するかのようだった。
けっして生活条件のよくないこの島を有名にしているのは、人物、動物などのゆたかな装飾モチーフで知られる織物と島じゅうにいまも息づく巨石文化、それにとんがり帽子のように棟の高く突きでた独特の家屋の建ちならぶ集落景観である。地域によってはこうして突きでた屋根の棟の高さは一〇メートル以上にもおよぶことがある。高く天空をめざしてのびあがる屋根にはいったいどういう秘密がかくされているのだろうか。
スンバ島では人間が屋根裏にのぼることをゆるされるのは年に二回の儀礼のさいにかぎられている。巨大な屋根裏は神にささげられた領域なのである。どんなに屋根裏空間が巨大化しようとも、そこには日常生活の用に供するものはいっさいおかれていない。人間たちは死してのち、家屋内でおこなわれる儀礼をとおして、はじめて屋根裏に居をしめる祖霊へと転化する。いわば人間たちは神になるための過渡的存在として、神のすまう巨大な屋根の下に間借りしているにすぎないのである。
高く突き出た屋根をもつ形式の家屋をスンバ島ではウマ・マラプ(マラプの家)と呼んでいる。マラプはスンバ語で親族集団の始祖や祖霊をしめす言葉である。高く突き出た屋根の屋根裏にはマラプの宿る神器が小篭におさめて保管されていて、祖先をまつるための儀礼がマラプの家を舞台におこなわれる。マラプの家はスンバ島の住人にとって人の住むための建物である以上に、マラプ教と称される伝統宗教の核となる祭祀施設である。
また、マレー語で家屋のことをルマというが、東インドネシアでウマは多くのばあい建物としての家屋をさすと同時に、その家屋に帰属して生活する人間関係(家族のような)のことも意味している。つまりマラプの家は、そこにまつられた始祖や祖霊にむすびつけられる集団が、まさにそうした集団として存在するための絆の中心として家屋があることをしめしている。
こうしたマラプの家を結合の核とする父系の親族集団のことをカビフという。カビフがひとつのマラプの家をもっているばあい、カビフの始祖(マラプ)を象徴する神器はその家屋の屋根裏に安置されている。カビフが複数のマラプの家をもっていることもある。そのさいには、マラプの家はそれぞれカビフの下位単位のための祭祀の場として利用される。
スンバ人の慣習では、カビフの構成員はみなそれぞれの属する家でおこなわれる祖先祭祀のために米や家畜をもちよって参加する義務をおっている。ふだんの生活は幹線道路沿いの分村にある住居や耕地のちかくの出づくり小屋ですごしている人びとも、儀礼がおこなわれる季節になると中核村にあつまり、自分たちのマラプの家で生活するのである。
もちろん、カビフの規模にも大小があり、ひとつのカビフのなかのすべての家族が自分たちのマラプの家で日常生活をおくれるわけではない。カビフのなかの様々な系統のうち、特定の系統に属する成員だけがマラプの家に住むことを期待されている。
マラプの家は好き勝手に建設することのできる建物ではない。建築様式も慣習にしたがい厳格に決められているし、家屋内部の空間構成もスンバ人の世界観を反映して一定している。そして、なによりマラプの家を建設できるのは、中核村(パライング)とそれに従属する分村(コタク)にかぎられているのである。
中核村というのは一定の領域の宗教的・社会的・政治的中心となる村のことである。オランダ政府によってスンバ島がいくつかのラジャ(王)を中心とする自治国として分割統治される以前には、中核村はかなりの自律性をもってそれぞれの領域を支配していたものとかんがえられている。中核村にはいくつかの分村が帰属し、人びとは分村に住んでいても、かならず自身がどの中核村から出自したかを知っている。そして、儀礼や戦争といった特別の機会にはかならず中核村にあつまったのである。
中核村にはマラプの家以外の形式の住居を建てることはタブーとされている。いっぽう分村にはマラプの家だけではなく、突き出した部分のないふつうの屋根形態をもった家屋も建てられている。しかしこの形式の家屋はただの生活のための住居にすぎず、祖先祭祀をはじめ結婚や葬式にかかわる儀礼もおこなわれることはない。そしておなじマラプの家でも、中核村に建てられたばあいと分村に建てられたばあいとでは、建設にかかわる儀礼の規模や伝統性もことなり、そこでおこなわれる儀礼の格式も中核村のものがはるかに卓越している。
スンバ島のなかでも島の西部にはむかしながらの中核村が各地にのこっている。西スンバ県の県庁所在地であるワイカブバックでは賑やかな町の中心からわずかにはずれた小高い丘の上にタルンという中核村がある。タルンは巨石の支石墓のならんだ広場の周囲に環状にマラプの家の建ちならぶ独特の集落であり、地域独自の暦にしたがって今も祭祀がおこなわれている。また西端のコディ地方では、海岸沿いに何十戸もの家屋が密集して建つ中核村がいくつもみられる。この地方ではマラプの家の建設が今もさかんにおこなわれ、しかも屋根の突き出した部分は、高さをきそうかのように年ごとに異常な発達をとげている。
これに対して、東スンバでは西部よりも社会変化がすすみ、伝統的な形態の中核村はもはやほとんど存在しない。中核村はオランダの統治が確立する以前に頻発していた村落間の争いにそなえ、砦のように高台の上をえらんで築かれるのがふつうだった。その結果、しばしば中核村は河川や耕地から遠くはなれ、生活の場としては著しく不便であった。このように厳しい生活条件のため、東スンバではこんにちほとんどの中核村がすでに放棄され、住民たちは生活の便がよい分村や幹線道路沿いにあたらしい集落をつくって居住するようになっている。東スンバに残る中核村では、レンデのパライ・ヤワングがよく知られている。この中核村は幹線道路沿いに位置していたために現在までのこり、近年は彫刻をほどこされた村の巨石墓とあいまって観光客をあつめている。しかし、この村のマラプの家のなかには屋根がトタン葺きのものがまじり、かなりの変容がすすんでいるのも事実である。
スンバ島中部北岸のハハル岬(神話上スンバ民族発祥の地として知られる)のちかくにウンガという中核村がある。この中核村は東スンバのなかではめずらしく中核村がそのままにちかい形でのこっていて、山の中腹にある森のなかの狭い敷地に13戸のマラプの家がひっそりと建っている。乾期には毎朝30分も歩いて水くみにいかねばならないなど、このウンガも生活環境は劣悪である。雨期の農作業に忙しいときは、中核村内の家屋では家の番をする老人だけを残して、ほとんどの住民は分村や畑の近くの小屋で生活している。日中、中核村ウンガをたずねても人影もなくがらんとしている。ところが、乾期になって様々な儀礼のおこなわれる季節になると様相は一変し、人びとは中核村にあつまって賑やかに生活をいとなむようになる。
こうした伝統的な生活のサイクルも、近年はキリスト教に改宗する者がふえ、合理主義の浸透につれて変容をはじめている。マラプ祭祀にかかわりをもたない村民が増加し、それと平行して村民の中核村離れも進行しているからである。そのため乾期にたずねても中核村全体の居住者が20人にみたない状況もうまれている。
図に紹介する家屋は、そのウンガ村のワイ・モールという名のカビフが所有するウマ・ワイ・モールである(ただし棟飾りはウマ・ラトゥ「祭司の家」のもの)。このカビフには婚入した女性をふくめて約七〇人の成員がふくまれていた(一九八七年の時点)。なかにはすでにキリスト教に改宗し、もはや中核村のマラプの家といっさい関係をもたなくなった成員もいて、常時この家屋に居住しているのはほんの一〇人ほどにすぎない。
スンバ島の家を訪ねる男性客は正面右側にひらいた入口から屋内にはいることになる。入口の手前には露台がもうけられているので、さほどの用件でもなければ、家にはあがらずに露台で用をすます客もいる。この入口からはいった家屋の右側部分はカハル・ボクル「大きなカハル」(カハルは高床)とよばれる空間で、冠婚葬祭のいっさいはここでとりおこなわれる。スンバでは儀礼の執行者もふくめて儀礼は男性がかかわる事柄とみなされていて、マラプに対して祈りと供犠獣が捧げられるときには、家のなかの男性成員のほか、村にある各家の代表者である男性がみな大きなカハルにあつまって儀礼がはじまる。
「大きなカハル」の裏にある入口は「臼の入口」とよばれている。「大きなカハル」をふくめて家屋の右側部分は一般に男性の領域とされているが、この「臼の入口」の外にある「臼の露台」では女性が米をついたり、ブタやニワトリに餌をあたえている。遠来の客ではなく親しい近所の人間は、男女を問わずここから屋内にはいるのがふつうである。この入口の脇にある小部屋では、結婚前の若い男性が寝泊まりしている。
家屋中央にある炉をはさんで、「大きなカハル」の反対側はカハル・ケル・ニアル「水甕のカハル」とよばれている。「大きなカハル」はいつも間仕切りのない開放された空間なのにたいして、「水甕のカハル」には必用におうじて小部屋が仕切られる。女性が調理をするのはこの部分で、「大きなカハル」とは対照的にここは女性のための空間とかんがえられている。水くみからもどった女性は裏手にあいた「水甕の入口」からこの空間にはいることになる。「大きなカハル」で儀礼がおこなわれるようなばあいには、女性と小さな子供たちは「水甕のカハル」に腰をおろして祈りの文句に耳をかたむけている。
家屋内部の空間は以上のように右と左に二分され、右が公的かつ儀礼的で男性の領域であるのにたいして、左は私的かつ世俗的で女性の領域とされている。さらに、こうした右と左の分割にくわえて、前(おもて)と後(うら)によっても空間の質をわけることができる。
マラプの家を前後にわける概念に上方をしめすデタ(ディタ)と下方をしめすワワがある。家屋の前後で床の高さにちがいがなくても、家屋の前面(おもて)デタは後面(うら)ワワよりもつねに高いと認識されているのである。家屋の前面中央に位置する部屋をコルング・ラドゥ・デタ「上部の部屋」(字義通りには「上の太陽の部屋」)といい、中央の炉をはさんで対極にある背面の部屋をコルング・ラドゥ・ワワ「下部の部屋」(「下の太陽の部屋」)とよぶのにはこうした対立概念が反映されている。
「上部の部屋」にはふつう儀礼用の道具や食器類がおかれ、儀礼にかかわる空間とされている。ウンガ村ではこの部分にコルング・ハルという名の神聖な小部屋があり、比較的最近死んだ者の霊魂ママトゥのやどる金銀の金属片などの神器が安置されている。「大きなカハル」で儀礼がとりおこなわれるさいには、それに先行してかならずここで死霊にたいする供犠と祈祷がおこなわれるのである。人間の居住空間に位置するこの「上部の部屋」が祖霊マラプのやどる屋根裏ウマ・デタ(字義通りには「上の家」)とアナロジカルな関係にあることはあきらかで、実際に屋根裏からマラプの神器をおろしマラプにたいする儀礼をおこなうさいには、屋根裏と「上部の部屋」は梯子を介して連接する。こうした空間構成が死霊から祖霊への転化のプロセスをみごとに表現していることは注目にあたいする。
いっぽう「下部の部屋」は出産をはじめとする女性の活動に関連づけられた空間である。このように家屋を右/左にわける概念と同様に、それと直交する前/後の分割もまた上/下、男/女、聖/俗といった対概念によって家屋空間に陰影をあたえている。こうして、スンバ島の家屋の平面は前/後、右/左の軸によって象徴的に四分割され、中央でマラプの屋根をささえる四本の主柱にあたえられた象徴性がそれに呼応するように構成されているのである。
マラプの家を構造上ささえると同時に、象徴的にも中心となるのが四本の主柱カンバライングである。そのなかでも正面入口のちかくにある右手前の柱がカンバライング・ウラトゥ「占いの柱」とよばれ、もっとも儀礼的に重要な柱である。大きな儀礼では、マラプへの祈りはつねにふたりの人間によって捧げられる。このとき、祈祷者マハマヤングは「占いの柱」に向かってすわり、いっぽう伝道者マパレクングが炉辺におかれたラドゥというベンチにすわって祈祷が開始される。
主柱にするための特別の木は、村をとおくはなれた森で伐採され、多くの村人の協力によって、数日をかけて村まで曳かれる。この木曳は一種の祝祭であり、こうして中核村へむかえいれられた木は、掘立柱としてふたたび地面に「植え」られることになる。このとき、もっとも最初に建てられるのはやはり「占いの柱」で、ひきつづき反時計回りに主柱が建てられる。
右手前の部分からはじまって反時計回り(中心に対して右手に移動する「右手回り」)というこの方向性は、柱建てばかりでなく、屋根葺きをはじめ家屋建設のあらゆる局面を支配する。「右手回り」は豊穣をもたらす方向であり、「左手回り」は遺体にまく布にみられる死の方向とされている。
マラプの家は垂直的に三層の領域にわけられる。ブタやイヌなどの家畜がうろつきまわる床下、カハルに代表される人間の生活空間である高床、そしてマラプのやどるウマ・デタ「上の家」つまり屋根裏である。
屋根裏には金銀の装飾品や金属片、陶磁器などの先祖伝来の神器が保管されている。とくにマムリという装飾品は「マラプの陰」とよばれ、数かずの儀礼をへてマラプがやどるものと信じられている。神器をおさめた小篭をおくために、屋根裏には「占いの柱」のちょうど真上、棟木から右手前におりる隅垂木の中央付近に小さな棚ヘンドゥ・マラプがある。この隅垂木をさらに下にたどると、正面入口の右手にもマラプへの供物をささげるための棚ヘンドゥがもうけられている。
毎年二回、豊作の祈願と収穫への感謝をこめて、マラプへの供犠がなされる。このとき神器は屋根裏から「上部の部屋」におろされ、「大きなカハル」での儀礼が執行される。人間(しかも特別な資格をもった者にかぎられる)が屋根裏にのぼることができるのは、こうしたマラプにたいする儀礼のさいにかぎられている。
住居の空間が象徴的に右と左にわかれ、それぞれ男の領域と女の領域、公的空間と私的空間などといった双分的な観念体系とむすびつけられている例はインドネシアの諸民族にかんする多くの民族誌が伝えているばかりでなく、ほとんど世界中にみいだされる人類に普遍的な現象でさえある。スンバ島の家屋もまた家屋の右側にある「大きなカハル」が男性の、公的な、儀礼活動の舞台であるのに対して、左側の「水甕のカハル」が女性を中心とした、私的な、日常生活の場であるという顕著な双分的対立をしめしているようにみえる。
ところが、住居空間を右/左とわけるときの視点は住居内のもっとも奥を背にして、入口にむかって決められるというのがいわば民族誌的な常識である。にもかかわらず、マラプの家の「大きなカハル」は正面の入口を外からみて右側に配置されている。このように家屋の外から右/左を認識する例は、筆者の知るかぎり、インドネシアではスンバ島とスンバ島の南に位置するサブ島にしかない。つまり、スンバ島の家屋では象徴的な双分観の体系はおなじであっても、インドネシアの他の民族の住居とは実際の空間配置がまったく逆転しているのである。これはスンバ人があやまった空間認識をいだいているということなのだろうか。
その理由は比較的容易に説明できる。通常、住居のなかのもっとも閉ざされた、もっとも神聖な領域は住居の内奥にある。この内奥に身をおいたときの位置関係で、住居空間の左右は自然にきめられる。ところが、スンバ島の家屋ではもっとも神聖な空間がもっとも前面に位置している。そのため住居をとらえる視点は内奥ではなく手前に移動しているのである。
しかし、このような解釈はさらにつぎのような疑問をひきおこす。それでは、なぜスンバ人はもっとも不可侵であるべき空間をわざわざ前面の出入口側に配置してしまったのだろう。そのような空間配置をとれば日常の活動には支障をきたすにちがいない。そのために、スンバ島の家屋にはかならず背面側に日常生活の用に供する第二、第三の扉がもうけられる結果になる。以上の推論から導かれる帰結点は、スンバ島の家屋の本来の入口(正面)がじつは現在の背面側にあったのではないか、というものである。
そうかんがえると、スンバ島の家屋の空間構成はインドネシアの他の地域の住居とも一致する。スンバ島の集落では巨石の支石墓のならぶ広場に面して家屋が建てられるため、マラプと密接なかかわりのある「上部の部屋」の側が広場に向かうことになる。祖霊祭祀のあまりの重要性が家屋にこうした配置をとらせ、正面の向きを逆転させる結果になったとは言えないだろうか。
家屋の前後をあらわすデタとワワという対立概念はどうじにスンバ島全体にも敷衍されている。スンバ島は東に頭、西に尾を向けた動物(ウマ)になぞらえて理解されており、このときデタとワワはそれぞれ島の東と西、すなわち頭と尾をしめしている。つまり家屋自体が頭と尾をもった生物ともみなされるわけである。
スンバ人の世界観では、西(尾)の方向に死者の国があると信じられ、そのために巨石の墓は家屋より西、すなわち尾の方向に位置すべきものである。ところが、家屋のなかの死霊のやどる空間は尾の側ではなく、マラプとむすびついた「上部の部屋」、つまり頭の側にある。家屋空間にみられるある種の矛盾はこうしたところにも反映されている。
マラプの家はスンバ島全体をつうじて共通の建築様式で建てられているようにみえる。東部では集落が平地に立地しているために、家屋は高床が低く、平面ののびやかな、地上に根をおろすような安定感にみちている。これに対して西部では丘陵地や高台を利用して家屋が築かれるために、高床を支える柱は全体に高く、平面規模の割に屋根の高い垂直にのびあがる印象をあたえる。しかし、いずれも高く突き出た独特の屋根外観からは、両者の建築に大きな相違があるようにはみえない。
ところが屋内にはいり、その軸組をみると島の西部と東部とでは建築構造に歴然としたちがいのあることに気づく。それは島の西部地方の家屋にだけみられる、四本の主柱のうえにおかれた円板形の鼠返しの存在である。もっともマラプに捧げられた屋根裏はけっして穀物の収納場所ではないため、スンバ人はこれを鼠返しではなく収納棚と理解していることも多いが、類似の鼠返しはインドネシア各地の穀倉建築にひろく利用されている。
さらに家屋建設の過程でこうした高床穀倉の出現する瞬間がある。スンバ島の家屋では、屋根をささえる柱と人間の居住する高床をささえる柱は構造的に分離している。そのため、まず四本柱の軸組を建てマラプの空間が完成すると、床や壁の造作をあとまわしにして屋根葺きにとりかかることになる。このときにできる床のない屋根裏だけの建物は、これが穀倉の変形にすぎないことを物語っている。
マラプの家の屋根裏が穀倉に由来することを暗示するのは鼠返しばかりではない。マラプにたいしておこなわれる年に二回の儀礼は農耕のサイクルに沿った農作業の開始と終了をつげるものである。とくに収穫後におこなわれる儀礼は「甕に中身を詰める」とよばれる。これは、収穫した種籾をつぎの季節にそなえて甕にいれ、それを屋根裏にしまうことを意味している。じっさい、屋根裏にマラプの神器のほかに種籾を保管する地方もあり、屋根裏が米の収納につかわれていた名残りをとどめている。
乾期がはげしく降水量のとぼしい島の東部では水稲耕作がおこなわれず、米への依存度はひくい。そのために穀倉(米倉)を建設する理由はあまりなかったのであろう。島の東部で鼠返しを欠くのも、マラプの家を穀倉としてではなく、すでに一定の様式をもった住居としてうけいれたことをうかがわせる。
こうして、マラプの家の原型が高床の穀倉にあるということになれば、ふたたびここで東南アジア島嶼部の建築様式に通底する住居のなかの穀倉のモチーフと出あうことになる。
穀倉の下に住まうスンバ島西部の家屋は、スンバワ島のドンゴ族やアロール島、フィリピン・ルソン島のイフガオ族など、穀倉が住まいそのものである高床住居に直接つらなるものである。いっぽうスンバ島東部では穀倉建築は姿を消し、屋内に神聖な屋根裏をもつふつうの高床住居に変貌をとげている。ロンボク島やキサール島、フィリピン・ルソン島のボントック族など、地床住居であっても屋内に神聖な高床空間をもつ住まいは、スンバ島東部の家屋形式と非常にちかい関係にあることがわかるし、スンバ島と同様のとんがり屋根ジョグロをもつジャワ島やマドゥラ島の家屋にも視野はひろがってゆく。
高床住居と地床住居という東南アジア島嶼部にみられる相反した建築様式をむすびつけることを可能にする「失われた環」 - ここでとりあげたマラプの家こそ、おなじスンバ島のなかの様式差に解消することで、この環を完結させることのできる特異な建築なのである。