空間の危機
嘘を覆いかくすために人は多弁になる?

『月刊言語』 37-7

 人間はコミュニケーションをする動物である。と書くときに、このコミュニケーションとやらには互いに異なるという前提がある。真水と真水をまぜあわせても何もおきない、とか、まったくおなじデータのつまったパソコン同士を繋いでみても意味がない、と誰でも常識的にかんがえる。相手にはない何かをもっていて、それをつたえるからはじめて情報のながれが生じるわけである。もうひとつの前提は、人間のコミュニケーションには、それによってお互いが理解しあうという暗黙の了解、というか期待がこめられている。真水と塩水をまぜたらほんのりしょっぱい塩水ができあがる。と、誰しもそう思うのであって、はじめから水と油をまぜるイメージをそこにあてはめたりはしないだろう。
 こんなことを書くのは、どうやらその見通しはあまいんじゃないか、と感じることが多いからである。コミュニケーションはむしろ互いの違いを増幅させる。人間だから個性を、と書くべきなのだろう。対話をすればするほど、個性のきわだった人間ができあがる。だから、コミュニケーションの妥当な結論は、人と自分はこれだけ違うということを理解しあうとでも言えばよいだろうか。なにをいまさら。
 むかしの日本人は寡黙だったという。戦後すぐにおこなわれた山形県の調査では、ある商店主が一日に話す自立語の数は2891語、時間にして十分たらずであったそうだ(加藤秀俊『暮らしの世相史』中公新書)。そのくらいの会話は、いまなら授業中の学生の私語だけでこえてしまうだろう。おまけに、話し言葉だけではない電子メールというのがこれにくわわる。そのうえ、相手はひとりとはかぎらない。掲示板や、最近はブログなどもあるし、個人のホームページも相変わらずの盛況ぶりだ。人間同士がこれだけのエネルギーを対話に傾け、自分を表現することにかくも熱中する時代はいまだかつてなかったろう。人類が経験したことのない時代をわれわれは生きているのである。

 家の調査をしていてつねづね感じるのは、家財道具の多さとこの会話の量は比例するのではないかということである。数年前にソウルのアパートの所持品を洗いざらい調べたことがある。夫婦と子供ふたり、それにお婆さんの同居する平均的なアパートの空間に1万点以上の物があった。足の踏み場もないくらいに物が散らかっていたということはなくて、いつもきれいに片づいた家だった。日本の家庭の持ち物がこれより少ないことは、実感からいってもおそらくないだろう。単身生活をする大学生のワンルームマンションは、どこも収納できない物が部屋中に散乱していた。ある女子大生の部屋の生活財調査では、ぜんぶで842点の物があった。わずか数年の生活にして、彼らは千点ちかい物をためこんでいる計算である。
 『地球家族』(TOTO出版)という本がある。世界30ヶ国の家をまわり、家財道具一切合切を外に運び出して撮影した本だ。最初のページをかざるのはアフリカの農耕民マリで、11人家族に所持品はあわせても100点にみたない。そして、この本の最後は、わが日本の現代住宅。よくまあこれだけつめこんだというほどの物が玄関からあふれ出し、その山のなかに家族4人の存在は埋もれかかっている。
 人が生きていくために必要な家財道具の数は、狩猟採集民の調査報告やグアム島のジャングルで28年間をすごしたあの横井庄一さんの例をみても、だいたい100点前後であるようだ。そのようにして人類誕生以来、われわれはつい最近までやってきたはずなのである。とすると、この数十年でわれわれが手にしたのこりの9千9百点の物たちはいったい何のためにあるのかという話になる。10分たらずの会話で済んでいたことを、かくも饒舌に語らねばならない事態はどこに起因するのだろう?

 物は自己実現の道具である。人間とは、そうやって幾重にも文化のベールを身にまとい、人間らしい振りをする動物のことである。裸の人間、などはそもそも人間としての定義矛盾にすぎないのだ。だから、現代家庭に物があふれはじめるのは、家族がそのよってたつ基盤に確信がもてなくなるのと軌を一にしているのではないかとおもう。黙ってはいられない。自分はこんな自分ではない。そうした感情がわれわれを物神崇拝にかりたてる。
 帰宅途中の電車でふと周囲をみまわせば、一心不乱に携帯電話にむかう乗客ばかり。家庭や国家の戯画をそこにみるのは私だけだろうか。目的や価値を共有していたはずの共同体は空間をなしくずしにひろがっている。にもかかわらず、われわれは生身の肉体をかかえ、空間的存在として、旧態依然の社会生活を期待されている。ますます肥大化する自意識の正体はこの矛盾にあるのではなかろうか?