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国立民族学博物館(以下みんぱく)で、特別展『きのうよりワクワクしてきた。ブリコラージュ・アート・ナウ 日常の冒険者たち』(以下ブリコラ)が開かれた。世界各地さまざまな民族の道具や楽器に交じって、空き缶の家や美術作品、リサイクルセンターでもらった物が展示される。雑然としたエネルギーがあふれ、見なれたはずの物までが、何だかイキイキして見えてくる、不思議な空間だ。企画は、同館助教授の建築人類学者、佐藤浩司。「みんぱくの収蔵品を、ある民族や文化を表象するという目的からズラし、物そのものの価値を示したかった」と話す。
ありあわせの素材を使って用をなすブリコラージュの考え方にならい、ふだんの生活を対象にする作家や作品を取り上げた。制作や作品のスタイルも、生活のスタイルも違う。いまも、打ち合わせ、整備、ワークショップなどひっきりなしに人が出入りし、展示も少しずつ変化している。作る人も見る人も、自分なりの楽しみを見つけられる。
これは、佐藤が建築から生活財におよぶ人と住まいの研究の中で見出した“異なる人生観や価値観を持った人々の空間共同体としての社会”のイメージだ。
情報や通信のメディアが格段に進歩し、個人が精神的に親密につながる共同体はもはや空間に限定されなくなった現代。その一方で、私たちは空間を共有する共同体の中でも関係を築いていかなければならない。問題は、「空間に限定された社会(=国家や家族)にどういう人間関係をもとめるか」だ、と佐藤は考える。「空間を共有しながら、ルーズな人間関係を築けないか」。それに対する一つの回答でもある。
このイメージは、2002年のみんぱく特別展『2002年ソウルスタイル―李さん一家の素顔の暮らし』(以下ソウルスタイル)にも見られる。この展覧会では、それまでの、まず前提として「社会」などの概念があり、それを展示品が表象する、という博物館の展示方法をひっくり返した。つまり、「韓国」ではなく、たまたま出会ったソウルに住む李さん一家、それも祖母、父、母、息子、娘、5人それぞれの生活に焦点を当て、それを展示で再現したのだ。その結果、日本と同じような、世代間の差や個人の世界観の違いが浮き彫りになった。その世代や個人による差異に、「韓国と日本という国の違いを前提にする考えを解消しようとする目論見があった」と佐藤は話す。「そして、その背後に韓国が表現できていればいいな、と」。それは、大成功だった。
なかでも出色は、佐藤の徹底した生活財調査の中から生まれた、一家の全家財道具3200点の展示だった。佐藤は、すべての物一つひとつについて、李さんから入手経緯や使い方を聞いた。「ガラクタみたいな物にも家族にとっての歴史が刻まれていたりするので、それを汲み上げるように調査をしていったんです」。
それは佐藤の、物を消費して捨ててしまう暮らしへのアンチテーゼともいえる。「消耗品でも、使えば僕らの人生が加わっていく。(物を捨てることで)捨ててしまっているのは、実は物ではなく、僕らが残した痕跡や歴史です。そういう痕跡とか歴史は、個人にとっては意味があっても第三者にとっては意味がないから物の価値が下がっていくのですが、それを素直に認めてしまえば僕らの人生も認めていないってことになると思った」。
図録でもこだわったことがある。「韓国人」という言葉が一切使われていないのだ。それが大変な作業だっただけに、佐藤は実感を込めて「何気なく使っている言葉のなかに、僕らは否応なく政治的な意図や強烈なイデオロギーをこめてしまっている」と言う。しかし、そういった「使うたびに一種の集団を作り上げるような言葉」を取り外していくことは、「かなり地道な繰り返しでしかないけれど、意識的に取り組んでいくしかない」。
そして、佐藤は“韓国”という集団的な理解ではなく、「“李さん”という個人が分かればいいんじゃない」と言った。それは、そうやって個人や物に注目することで、さまざまな境界を「なし崩し」にすることができると考えているからだ。
そうはいっても、“現実に”境界は存在するのではないか。そう尋ねると、佐藤は、『ソウルスタイル』で頑なな伝統主義者のお父さんがはいていたパンツがキングコングだったように、リアルなものを見ればそんなに違いはない、という。「現実に僕らは国を越えて人生をおくっているわけだから、その現実に注目してゆけば当然突破できるものだと思っています。イデオロギーや抽象的な空想じゃなくて、いかに現実、リアルなものに目を向けていくかということだけだと思う」。
あくまでも、「なし崩し」であって、否定したり乗り越えようとしているのではない。佐藤は『ブリコラ』に参加している、知的障害や視覚障害を持つ人についてふれて言った。「(障害が)その人にとって大きな属性のひとつであるということは、否定しようがないし、する必要がない。でもそういうことを前提に物事を見ていくんじゃなくて、まず人間として捉えた上で、その人の属性のある部分が視覚障害である、という設定を作っていけば、解決できる問題だと思う」。
佐藤の緻密な調査と研究には、人の歴史が刻まれた物への深い愛着が感じられる。それはとりもなおさず、その持ち主たちへのまなざしでもある。 |
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