砂上の楼閣をこえて
― あらたなる東南アジア史のために ―

part 1 on the history of Champa

 以下は、東南アジアの木造建築について、その歴史を概観する文章の補注として書きはじめたものである。簡単に片づくと考えていたが予想外に手こずってしまった。理由は、東南アジアの古代史があまりに多くの空想のうえに積みあげられたものだったからである。このまま屋上屋をかさねることは不可能なほどこの空想には誤りが多い。
 古代史は多分にイマジネーションの世界だから、かならずしも誤り自体に問題があるとはいえないが、そのせいで東南アジア史全体に歴史のリアリズムを失わせているのではないかとおもう。ジョルジュ・セデスの『東南アジア文化史』が世に出てからすでに半世紀以上もたち、研究は深化しているはずなのに、東南アジア史はまるで歴史家による戦略ゲームの場と化してしまったようだ。
 「XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXの要衡を陥れる」中部高原からの森林産物の集荷拠点だったカンボジア東部の要衡サンボールを陥れる
とか
 「XXXXXXXXXXXXXX戦況は有利に展開していた」三仏斉の交易独占権に闍婆が挑戦し、戦況は闍婆に有利に展開していた
といった歴史家のリアリズムを私はとても信じる気にならない。
 国同士が覇権をあらそっただの、撃破しただの、われわれの歴史観は大東亜共栄圏からいったいどれだけ隔たってきたのだろう?
 われわれは東南アジア史からいったい何をまなぼうとしているのだろうか?

 本稿の目的と限界についてあらかじめ書いておきたい。
 本稿の執筆者たる私は、「社会は必要悪である」という著名な人類学者の発言(C・レヴィ=ストロース『レヴィ=ストロース講義』)にふかく共鳴するものである。社会の暴走(ますます幼稚化する管理社会!)をおさえるのは歴史家の役目である。そのような一種のイデオロギーに支えられていることが本稿の限界になるかもしれない。

 本稿で手がけたのは、東南アジアの古代史にかんする限られた史料(多くは中国語文献)を読み直すというただそれだけの作業である。しかも、私は中国研究の専門家ではないから、基本的な漢文読解に誤りのある可能性がある。また、最新の考古学的成果を手に出来る立場にもないので、的はずれな議論になっている点があれば、どうかご叱正いただきたい。
 そのような経緯から、東南アジア史に特別な興味をもつ人以外にはとても読むに耐えない内容になっているかともおもう。現状ではこれもご容赦いただきたい。

 本稿は、利用した資料の多くを Wikipedia をはじめとするさまざまなインターネット上の情報に負っている。可能な限り、あえてそうしようとしている。ただし、以下に述べている内容はそれらのどれともちがう。インターネットでの公開を前提に本プロジェクトをすすめているのも、そうした環境に成果を還元したいと考えるからである。歴史、はすでにその本来の意味を変えつつあるのではないかとおもう。権威におもねることをしない多様な知識が歴史にあらたな曲面をひらくことを期待して。

 解釈に間違いがあってはいけないので、漢籍の原文をできるかぎり併載した。事実がどこにあるかは、自らの眼で確認し、自らの頭でかんがえてほしい。本文にマウスをかざすと表示される(Java Script 有効なら)。掲載にあたっては、漢籍の電子テクスト化に取り組んでいる機関や個人の方々の成果を校閲を含めて最大限活用させていただいた。とりわけ、電子テクストを公開されている以下のサイトに多くを負っている。このような努力の積み重ねがなければ、漢籍研究のいわば門外漢による本論のような論考はけっして生まれなかったとおもう。記して感謝もうしあげる。
 間違いを発見された方はどうかご連絡ください。誤った情報は改めていきます。

ジャワの亡霊

古代中国の史書が物語る東南アジア世界はインドシナ半島の一部にかぎられる。ジャワやスマトラははるかに視界の外なのであって、海域世界を縦横に行き来しているかのイメージはもたないほうがよい。扶南や林邑はもちろん、呵羅単、闍婆、婆利、狼牙須、干陀利、三仏斉 (三佛齊)、仏逝 (佛逝)などはみなインドシナ半島の近隣国である。

アンコール朝の礎をつくったジャヤヴァルマン2世 Jayavarman II は、ジャワからカンボジアにもどり 802年にMahendra山の上でジャワから独立する即位の儀式をおこなったとされている(Sdok Kak Thom inscription)。
 9世紀にクメールを統一した王様がジャワ島の宮廷で少年時代をすごしたというお伽噺は東南アジア史をささえるロマンのひとつといえるかもしれない。それが神話の世界に属しているかぎりは。

闍婆洲

 闍婆はかならずしもジャワ島を意味しない。
 「呵羅単国は闍婆洲を治める」(『宋書』呵羅単国)と書かれた呵羅単(訶羅単)国は、元嘉七年(430)以来朝貢を繰り返し、元嘉二十六年(449)には「訶羅單、媻皇(婆皇)、媻達(闍婆婆達)の三国はたびたび海を越え朝貢するにより、遠誠宜しく甄し、除授を並び加うべし」(『宋書』呵羅単国)との詔まで頂戴している。
 上奏文の内容をみても、この時代の朝貢は交易目的というよりも周縁国への牽制や保護を目的とするものだった。同時代の朝貢国は林邑、扶南と干陀利があるだけだから、もとよりジャワ島が中国相手に朝貢などをするはずがない。

 アラブ商人は東南アジア方面の地域をさしてザーバジュ Zabag と呼んでいた。あるいは闍婆洲はその対音と考えておくのがよいかもしれない。ジャワ島以外にも、おそらくモン人の国をさす墮婆やチャム人の占婆など、闍婆にちかい音をとる国はほかにもある。歴史上のどこかでジャワ島やそこに住む人々とつながりがあった可能性を否定しないにしても、ジャワが東南アジアのあちこちに出没するほど古代のネットワークは発達したものでなかった。

典沖

 元嘉二十二年(445)、林邑のたびたびの侵攻に手を焼いて(と中国史料は書く)、交州刺史檀和之はついに林邑を伐つ。
 林邑は朝貢のたびに交州の不満を訴え、交州は交州で林邑攻撃の許可をもとめていた。朝廷は両者をなだめていたが、その間にも小競り合いは続いていた。

 檀和之の大軍が林邑の王都典沖(チャキュー Tra Kieu)の区粟城を包囲すると、林邑王范陽邁は将軍の范毗沙達を救援にさしむけた。檀和之は、軍を二手にわけてこれにあたらせたところが敗退、部下の将軍宗慤のはたらきでかろうじて毗沙達の軍をやぶり、区粟城に入城をはたした。ここにおよんで陽邁は傾国来逆、装甲した象の軍隊を率いて逆襲する。宗慤はあわてず、外国では獅子に百獣が威服するというので、獅子の格好をさせて防御する。それを見た象は驚奔、林邑軍は壊滅、王は遁走したという。檀和之ははかりしれないほどの財宝(黄金数十万斤ともいう)、珍宝を掠奪した(『宋書』宗愨)。


5世紀(南北朝)の朝貢国

 この典沖侵攻に前後して、元嘉年間(424-453)には林邑ばかりか、呵羅単国(訶羅単国)、闍婆婆達国(媻達国、娑達國)、婆皇国(媻皇国)の3国があいついで入貢を繰り返している。
 事件をさかのぼる元嘉十二年(435)には、闍婆婆達国の王、師黎婆達駝阿羅跋摩(『南史』では師黎婆達阿陀羅跋摩)が使節をおくっている(『宋書』媻達国)。
 師黎婆達駝阿羅跋摩はミーソン Myson にはじめての寺院(シヴァ祀堂)を寄進したシュリ・バドラヴァルマン Śri Bhadravarman をさすのではないかとおもう。バドラヴァルマンは、聖地ミーソンのほか中部のフーイェン Phu Yen にも碑文をのこしていることから、ヴィジャヤを支配していたとみられる(No. 2 and 3. Cho Dinh Rock Inscriptions. / No. 4. My-son Stelae Inscription of Bhadravarman. Internet Archiv 以降、刻文の出典は Majumdar による)。類似の刻文がチャキューからも発見されているが、そのうちのひとつはインドネシア語の方言で書かれた最古の刻文であるという(◆根拠は??)。
 闍婆婆達国は略して婆達国、闍婆国ともいい、後代の『宋史』は闍婆伝のなかに婆達国の記事を載せている。実際にジャワと関係があったのかもしれない。
 バドラヴァルマンは林邑王だった范須達(范胡達)と同一視されてきたが、それはむしろ碑文の年代決定の都合といえそうである。
 范須達は区粟城の建設者と考えられている(◆根拠は??)。隆安三年(399)、義熙三年(407)と日南を襲撃して「殺傷甚多、交州遂致虚弱」(『梁書』林邑国)させていた。師黎婆達阿陀羅跋摩の入貢は435年だから、活躍時期としては1~2世代ほど時代がくだる。
 婆達国は典沖攻撃に相前後して3度の朝貢を記録している。事件前の元嘉十二年(435)の朝貢はひたすら恭順の意をしめして保護を訴えるものであり、事件後の元嘉二十六年(449)の朝貢では、新国王の舍利不陵伽跋摩 Śri Prakasavarman ? が婆達国王である旨の詔をわざわざ拝命している。交州の動きを牽制する意図があったことはあきらかだろう。
 いっぽう、范須達の死につづく林邑王の系譜は、范陽邁が登場するまで混乱をきわめている(『梁書』林邑國)。何らかの政治的な事件があったことをうかがわせるものだが、この時期に、政権の移動があったのかもしれない。

 さらに注意をひくのは、典沖の援軍に駆けつけた林邑の将軍、范毗沙達が呵羅単国王の毗沙跋摩 Vijayavarman とよく似た名前をもつことである(『宋書』呵羅単国)。元嘉七年(430)に呵羅単国が朝貢した際には、国が以前のような勢いをなくし、隣国が競って侵略しようとしているから助けてほしいと懇願している。さらに、広州に来た船が無事にもどれるようにしてもらえるなら、毎年朝貢しましょうと訴える(『宋書』訶羅駝国伝。王は堅鎧と名乗っているが、内容から呵羅単国のことだろう)。
 これまで、ヴィジャヤヴァルマン Vijayavarman (◆この名前は碑文にある??)は林邑王を名乗った范天凱の子、弼毳跋摩に比定されてきた。范天凱は天監九年(510)、十年(511)、十三年(514)と朝貢したが俄に病死、子の弼毳跋摩が立ったという。弼毳跋摩は高式勝鎧という名前だったらしく(別人かもしれない)、普通七年(526)、大通元年(527)とつづけて朝貢している。高式勝鎧は訶羅駝国王の堅鎧とも似るが、100年も時代がちがう。
 ともかく、呵羅単国王の毗沙跋摩 Vijayavarman は元嘉七年(430)に朝貢したものの、ほどなくして子供に国を簒奪されてしまう。元嘉十三年(436)にふたたび入貢し、悪子に国と財産をうばわれた泣き言をならべ、武器と馬を買い揃えて国にもどれるよう手配してほしいとたのみこんでいる(『宋書』呵羅単国)。
 簒奪されたのが呵羅単国自身のことなのか、呵羅単国の治めていた闍婆洲をさすのかはわからない。呵羅単国はその後も朝貢しているから、闍婆洲の宗主権を(林邑に?)うばわれたと考えるのが自然だろうか。もっとも、当時の切迫する交州との関係からして、武器を購入するための方便にすぎなかった可能性もある。いずれにせよ、「呵羅單国は闍婆洲を治める」とある闍婆洲はチャンパの地以外には考えられない。

 また、婆皇国は、442年から466年までの25年間に8回の朝貢を記録している。元嘉二十六年(449)には国王の舍利媻羅跋摩(舍利婆羅跋摩)が入貢している(『宋書』媻皇国)。舍利媻羅跋摩はシュリ・バラヴァルマン Śri Bharavarman と読める。
 ここで思い出されるのは、ヴォーカイン Vo Canh 碑文に名前をのこすシュリ・マーラ Śri Mara 王である( No. 1. Vo-Chanh Rock Inscription )。サンスクリットで書かれたこの碑文はインドシナ最古と考えられている。にもかかわらず、発見されたのは林邑の中心から遠く離れたベトナム中南部のニャチャン Nha Trang 近郊の村 Vo Canh だった。そうした事情もあって、そこに記載された王の比定をめぐっては100年以上にわたる論争が展開されてきた。林邑を建国した区連 Kiu Lien であるとも、あるいは、扶南大王を名乗り周辺国に派兵を繰り返した范師蔓 Fan She Man であるとも、歴史家はすくない持ち札を精一杯に活用してきたのである。だから、Śri Mara が Śri Bhara の誤読ではないかを示唆するにとどめておこう。

チャンパ王国

 話が複雑になったから、以降の展開もふくめて、ここで簡単にチャンパ Champa と呼ばれる国の見取り図をしめしておく。

My Son
Amravati: ミーソン My Son 5c-
Banh It
Vijaya: 銀塔 Banh It
Po Nagar
Panduranga-Kauthara:
ポーナガル Po Nagar

 チャンパ王国の領域は、北からミーソン My Son 遺跡のあるアマラヴァティ Amravati (クアンナム Quảng Nam)、ビンディン遺跡群のある中部のヴィジャヤ Vijaya (ビンディン Binh Dinh)、そしてポー・ナガル(ニャチャン Nha Trang)やポー・クロン・ガライ(ファンラン Phan Rang)などのある南部のパンドゥランガ Panduranga の3地域にわけて呼ばれていた。ミーソンとポー・ナガルはチャンパにとって特別の意味をもつ場所だったらしく、刻文の多くはこの両寺域から発見されている。
 これまで登場した国をこの見取り図にあてはめてみよう。

 おそらく呵羅単国はアマラヴァティにあった。聖地のミーソンを有し、もっとも早くひらけていながら、交州との度重なる戦いで、国力を消耗していったのだろう。林邑と呵羅単国がおなじ国だったかどうかはわからないが、ちがう国だとすれば、典沖攻撃時には林邑もここにあった。林邑の王城は Tra Kieu(典沖)にあった。区粟城については酈道元の『水経注』が精緻に描写しているからいずれ稿をあらためて紹介しよう。檀和之に首都を破壊されて以降は、ジャヤ・インドラヴァルマン Indravarman の建設したインドラプラ Indrapura がこの地方の中心になったとされる。
 中部のヴィジャヤ(仏逝)に都城をもっていたのは闍婆とも呼ばれた婆達国だろう。11世紀に大越の攻撃をうけて王城が破壊されるまで、中心は仏誓城にあった。
 パンドゥランガ(奔陀浪)はもともとチャンパの領域ではなかったようだ。環王国時代には王都をファンランのヴィラプラ Virapura に移したと考えられているが、それはこの地域に複数ある王国のひとつだった。宋代に占城の属国として登場する賓童龍国はパンドゥランガの音訳である。そして、婆皇国はパンドゥランガ北部のカウタラ Kauthara (古笪)にあったらしい。
 碑文の帰属はこれで合致する。

林邑

 林邑の建国は、後漢末の初平三年(192)(◆出典?)に功曹の区連(区達ともある)が,象林県の県令を殺して王を自称したことにはじまるとされる(『晋書』林邑国)。じつは、この建国に先立つ永和二年(137)にも、区憐に率いられた数千人が象林県をおそい、城や寺を焼き、長吏を殺す騒乱があった(『後漢書』南蛮)。
 象林県は日南郡の最南端にあたり、中国側からみると、後漢の将軍馬援が銅柱を立てて中国の国境とした場所という認識である。ここであつかう「国」や「歴史」の前提について、あらかじめ心に留めておくべきだろう。

 区連には子がなく外孫(おそらく妻方の孫)の范熊が後をついだ。その後、咸康三年(337)に范逸が死んだときに、お馴染みの王位の簒奪事件があった。
 日南の豪族だった范稚の家の奴で文という者がいた。文は牧牛の仕事をしていたときに、山澗で鱧魚2匹を得、これを鉄と交換して、刀を鋳た。「石に向かい呪いて曰く」、と史書にはある。「もし、この石が切れたら、文はこの国の王になるだろう」と言うや、刀を振り降ろすと、石は藁のように切れてしまった。このときから文は心に期すものがあった。
 范稚は林邑との商売にいつも文を使いにやっていたので、宮室や兵車器械の作り方を教えているうちに范逸の信任を得た。讒言で范逸の子供たちをみな他国へ追いやり、范逸が死ぬと跡継ぎがなかった。文は隣国の王子に毒をもって殺し、みずから国をおこして、周辺国をしたがえていった(『梁書』林邑国)。
 文が漢人とされるのは、伝承にもうかがえる野心家としての側面にもよるだろう。文は范逸の妻妾をことごとく高樓に閉じこめ、従わない者には食事をあたえなかったという。王を殺して身代わりとなり、その後宮を自分のものとすることは、王位を簒奪する者の常套手段でもあった。辺境に無数にいた蛮夷のなかで、林邑が中国にとって特別の国になるのは文の治世である。
 永和三年(347)に、文は4、5万の軍勢をひきいて日南をおそい、太守をはじめ5、6千人を殺して、日南の北に境界をさだめるようにもとめている。その後もたびたび日南に侵攻したが、永和五年(349)に交州、広州の連合軍に破れて文は死亡。その子の仏が後を継いで日南への侵攻を繰り返した。日南は遂に虚弱となり、林邑もまた病弊したとある(『晋書』林邑国)。

 范仏が死んで王位についたのが、仏の孫の范須達(胡達)だった。4世紀末のことで、扶南はこの頃から天竺のバラモンを遣使に派遣している。チャンパの南部地方はすでにヒンドゥー化を受け入れていたのだろう。須達はあいかわらず日南との戦闘にあけくれていたが、その子の敵眞の代には、母と弟が出奔する事件があり、敵眞も国を捨てて天竺におもむいたとされる(『梁書』林邑国)。林邑の地にヒンドゥーの影響がおよんだのはこの時期ではないかと考えられる。5世紀初頭のことである。時を同じくして、呵羅単国の毗沙跋摩や闍婆婆達国の師黎婆達阿陀羅跋摩が中国の史書に登場している。

大乗仏教伝来

 天竺僧の求那跋摩 Gunavarman が闍婆国に大乗仏教をひろめたのもおなじ頃である。求那跋摩(功德鎧)は罽賓国(カシミールとされる)の王族の生まれで、師子国(スリランカとされる)で発心し、のちに闍婆国(ヴィジャヤ?)にわたった。王の母は一道士が飛舶する夢をみたところが、果たせるかなその翌日に求那跋摩があらわれたのでたちまち入信する。その母に諭されて闍婆王の婆多加も帰依した(『高僧伝』)。王と求那跋摩はこんな会話を交わしている。

 その頃、闍婆は隣国からの侵犯に悩まされていた。この敵と戦えば多くの死傷者が出るだろうし、もし戦いを拒んでいれば国が亡くなってしまうだろう。いったいどうすればよいだろうか? 王の問いかけに跋摩は答える。粗暴な攻撃をしかけてくる者に対しては防御せねばなりません。ただし、たえず慈悲の心をもち、危害をくわえることだけを念ずるなかれと(『高僧伝』)。
 信仰をふかめた王は出家を口にする。それを諫めた群臣たちに王は3つの条件を出す。王国のなかでは王と同様に和尚を奉ること、国内ではいっさい殺傷をしないこと、そして、儲財のある者は貧者や病人にほどこすこと、であり、群臣たちはよろこんでこれにしたがったという。そして、跋摩のために王みずから材木をはこんで寺院を建設した(『高僧伝』)。

 この国の仏教伝道の噂を聞きつけた近隣国は使節をおくってくるようになる。やがて、その声望は交州を経由して宋の文帝の耳にもとどくことになり、元嘉元年(424)、交州刺史ほかが跋摩と闍婆王への親書をたずさえて派遣されている。元嘉八年(431)には、建康におもむいて文帝に面会し、祇園寺を敕住されて、「法華経」と「十地経」を講じ(いずれも大乗の経典)、そこで没した。

我見如火毒 心生大厭離 避亂浮于海 闍婆及林邑 業行風所飄 隨緣之宋境 於是諸國中 隨力興佛法 無問所應問 諦實真實觀 今此身滅盡 寂若燈火滅(『高僧伝』巻第三)

闍婆の亡霊

 東南アジア史を紐解くと、あちこちに出没する闍婆の亡霊についてまことしやかに語られている。この話に大きな違和感がないのは、東南アジア史全体がそのようなお伽の世界の上に築かれているからだろうとおもう。そうでないなら、事件は怪談ではなく歴史の必然として語られるべきことだろう。

 767年に安南都護府が崑崙闍婆の軍隊に襲われる事件があった。
 「崑崙闍婆来攻し、城を陥る」と『大越史記全書』は書く。だが、これには続きがある。
 「闍婆は陸は真臘に接し、西は東天竺に近く、北は林邑を夾み、東南は海に界す」とある。闍婆は、交州からみて林邑の南にあり、林邑と真臘のあいだに位置すると書いているのだ。林邑(アマラヴァティ)以南のわれわれがチャンパと呼んでいる地域をさす以外に考えようがない。
 しかも、この事件にはさらに前史がある。
 722年、「駱州南塘の人梅叔鸞は郡縣の暴虐を憤り、兵を挙げ州を陥る。黒帝と称して、林邑真臘の衆と結び勢い猖獗なり」(『大越史記全書』)ということがあった。唐末の足音がしだいに近づいていた。玄宗の宦官だった楊思勗は安南大都護の光楚客とともにこれを討ち、「屍を封じ京観と為して還る」(『新唐書』宦者上)非道を犯して帰ったのだった。

 林邑は林邑で、王の范頭黎(范頭利)が死に、その子の鎮龍(真龍)が王になったものの、貞觀十九年(645)に臣下の摩訶慢多伽獨に殺されて、范の家系は断絶してしまう。そこで、頭黎の姑子で真臘に逃げていた諸葛地(「父得罪、奔真臘」とある)を迎えて王にすえ、頭黎の娘と結婚させた。環王の開祖とされる。そして、至德(756—758)を最後に「遂に環王国と改称す。林邑をもって號と為さず」(『唐會要』林邑国)と宗主国である林邑の終局を宣言したばかりだった。
 崑崙闍婆はいうまでもなく「闍婆洲」とおなじ意味合いである。

環王

 環王時代にはチャンパの中心が南のパンドゥランガに移されていた。おそらく中部のヴィジャヤは闍婆の勢力が強かったのだろう。環王国の王城はヴィラプラ Virapura で、ファンランにあったと考えられている。Virapura は刻文では Rajapura (王の城を意味する)とも書かれるから、これが環王の名前の由来だろう。環王成立の顛末は中国文献と刻文の双方で伝えられている。チャンパとクメールの王権にかかわるなかなか興味ぶかい話である。

Hoa Lai
Panduranga: ホアライ Hoa Lai
環王国時代の遺構といわれる

 事の発端は、大業元年(605)、名将と謳われた随の劉方が林邑討伐に派遣されたことにある。林邑王の梵志(シャンブヴァルマン Śambhuvarman )は巨象の軍隊でこれを迎え撃つ。劉方は落とし穴をたくさん掘って、その上を草で覆い、梵志軍を誘導、象が穴にはまり軍列が乱れたところに弩を射かけて梵志軍を大敗させた。劉方はその後も連戦連勝で兵をすすめ、ついに林邑の王都を陥れると、住民すべてを人質にとり、祖廟にあった歴代王の金の廟主18枚を悉く奪い去り、その事跡を石に刻んで還ったという(『隋書』林邑)。
 この結果、林邑の地には3郡がおかれ、一時は随の統治下にはいる。王城を捨てて海へ逃れた梵志は、王城の復興をあきらめ、残された住民で新都を建設したらしい(『新唐書』環王)。この王城がどこにあったかはわからないが、その子の范頭黎(カンダルパダルマ Kandarpadharma )の居城 Kandarpapura に言及する碑文がフエの近くで発見されている(No. 8. Hue Stelae Inscription.)。もっとも、環王時代の開始以前から王城がパンドゥランガに移されていた可能性もある。范頭黎という王名自体がパンドゥランガに由来するもののようだからである。

 そして范頭黎の子、鎮龍 Prabhasadharma の代に事件はおきた。貞觀十九年(645)、鎮龍は一族もろとも臣下の摩訶慢多伽獨に殺されてしまう。これで范氏の家系は絶え、頭黎の娘婿のバラモンが王位につく。ところが、大臣たちはこれに納得せず、バラモンを廃して、頭黎の娘を王にすえた。しかし、女の王では国が治まらなかったらしく、頭黎の姑の子で真臘にいた諸葛地を王にむかえ、王女を妻として娶らせたという(『新唐書』環王)。諸葛地は環王の開祖である。
 中国の史料では、諸葛地の父親(つまり頭黎の姑)は罪を得て真臘に出奔したとあるだけだが、ミーソンの碑文には異なる情報が語られている。


 Prakāśadharma (諸葛地)の父親の ジャガッダルマ Jagaddharma はカンボジアの Bhavapura (バーヴァヴァルマン Bhavavarman の建てた王城)に行き、そこでバーヴァヴァルマンの兄、イーシャナヴァルマン Iśānavarman (真臘を統一した王)の娘のシャルバニ Śarvvāni と結婚する。この結婚から産まれた子供が Prakāśadharma 、つまり諸葛地である。諸葛地は即位して ヴィクランタヴァルマン Vikrāntavarman を名乗る(No.12. My-son Stelae Inscription )。
 ジャガッダルマの犯した罪がどんなものかはどこにも書かれていないが、想像することはできる。ジャガッダルマは范頭黎の姑である。頭黎の妻がカンボジアで産まれたはずはないから、ジャガッダルマは出奔するまえにチャンパの地で子供をもうけていたことになる。彼は Bhavapura に遠征し、そのまま帰らなかったのである。
 さらに空想をたくましくすると、ジャガッダルマはシュリ・ジャガッダルマと呼ばれており、ことによるとパンドゥランガの王だった可能性もある。王が不在になり、その娘がつぎの王をむかえる例をすでに見たばかりではないか。こうした母系的なシステムは、王の交替(突然の死や出奔)が頻繁におきる時代には有効に機能していたはずである。候補者の中からもっとも優秀な人物を王にできるのだから。ジャガッダルマはパンドゥランガの王位を捨ててカンボジアに行き、そこで現地の王の娘と結婚して Bhavapura の王におさまったのかもしれない。碑文には、有名なシュリ・ジャガッダルマと書かれている。誰もが知る王だったのだろう。
 だから、范鎮龍一族の殺害も、王権をアマラヴァティに戻そうとする親林邑派とパンドゥランガにとどめようとする親真臘派の争いとみることもできる。結局、チャンパの王権はパンドゥランガにのこり、環王を宣言することになった。

カリユガ

 環王国の時代には、またこんな事件もあった。
 発端は、チャンパ南部のカウタラにあるポー・ナガル Po Nagar 寺院で発見されたつぎのような碑文だった。

永く続いたカリユガ(暗黒時代)の罪のため、無数の人食いが他国から船でやってきて神像も神具や荘厳具も奪い去り、寺院は空になった。 (Nos. 29 Po Nagar Stelae Inscription

 また、おなじ碑文はこうも書いている。

他所の町に住む凶暴で無慈悲な肌の黒い人々、その食べ物は食人鬼よりもおぞましく、ヤマ(死神)のように悪辣で獰猛な人々が船でやって来て神のムカリンガを持ち去り、神の社に火を放った。 (No. 22. Po-Nagar Stelae Inscription)
Po Klaung Gerai
ムカリンガ, Po Klaung Gerai

 碑文によれば、それは774年のことだった。カウタラのサティヤヴァルマン Satyavarman 王は精鋭の手勢とともに船で賊を追いかけ、海上で一網打尽にする。しかし、ムカリンガも宝物も賊の船とともに沈んでしまった。そのため、784年に別の寺を建て、盛大な法要をいとなんで、あらたなムカリンガを奉納したという。
 787年には災禍がパンドゥランガにもおよぶ。ファンランの Takoh 村で発見された碑文はジャワの軍勢に寺院が襲われたことを伝えている。

カリユガの罪のふかさのために、船でやってきたジャワの軍勢に寺院は焼かれた。 (No. 23. Yang Tikuh Stelae Inscription

 サティヤヴァルマンの後を継いだ弟のインドラヴァルマン Indravarman は各地に戦争をしかけたらしい。周囲の敵をことごとく破壊したと碑文はつたえる。799年に寺院を再建し、さまざまな宝物や後宮の女たち、男女の奴隷、牛や水牛、田畑などを寄進している。碑文はなにも書かないが、インドラヴァルマンの最期はあまり平安なものではなかったようだ。

 元和四年(809)に安南都護の張舟はつぎのような報告をしている。「驩州、愛州の都督が環王国を破り、三万余人を斬り、王子59人を虜とし、戦象、戦船、鎧を獲ました」(『新唐書』環王)という。張舟は前年に経略判官から都護に昇進したばかりで、さっそく城を改築し、艨艟(軍船)300艘を建造して、毎船戦手25人に棹手が23人ついた艨艟は疾風のように移動したと記されている(『大越史記全書』)。翌年の戦果は、自身の手柄を嬉々として報告したものだろう。国をうごかす力に、今も昔も大きなちがいはないようにみえる。

Po Nagar
↑バーガヴァティ Bhagavati 女神
↓ポー・ナガル Po Nagar 寺院の主神
ヨニにのるバーガヴァティ(ポー・ナガル)
Po Nagar

 驩州、愛州から環王(ファンラン)まで船で出陣することは考えられないから、このときには林邑(アマラヴァティ)を攻めたのだろう。王は林邑を捨てて占城に遁ると『安南通史』(岩村成允 ◆根拠は?)にもある。それにしても王子59人を捕虜にしたというのは尋常でない。林邑にも王都があったということである。刻文のシャカ暦の問題をのちに述べるが、この事跡は797 Śaka 年(875)ジャヤ・インドラヴァルマン Jaya Indravarman によるインドラプラ Indrapura の建設と関係するのかもしれない。この事件でジャヤ・インドラヴァルマンとその一族は殺され、インドラプラは建設をまっとうすることなく放棄されたようにもみえるからである。

 話をもどそう。インドラヴァルマンの後を継いだのは、妹の夫のハリヴァルマン Harivarman で、彼はチャンパプラの王の中の王の称号をあたえられた人物だった。ハリヴァルマンの将軍のひとりであるセナパティ・パル Senapati Pamr は真臘まで遠征し、817年には、長いこと御神体を奪われたままになっていたポー・ナガル寺院(刻文には、世界に知られた Bhagavati の寺とある)にリンガを奉納している。

獅子が密林で象を襲うごとく、象のかわりに人間で満ちたカンボジアの町を彼は攻略した。月の光のように白く輝く彼の名声は、蓮の花のような偽りない人民の心に光をあたえた。彼はマハーデーヴァの足である黄金の蓮のあいだでたのしむ白鳥そのものだった。そして、無敵の強さをほこる彼の手によって、カンボジアの中心にまでもたらされたのである。 (No. 26. Po-Nagar Temple Inscription

 刻文のなかで、セナパティ・パルは、真臘の町を攻略し、真実の光をカンボジアの中心にまでもたらしたとされている。

 闍婆の王様に首を切られてしまうクメール王の物語をアラブの商人が伝えるのは(851年)その頃のことだ。
 ある若いクメールの王がザーバジュのマハラジャの首を盆に載せて見てみたいといった。その噂を聞きおよんだザーバジュの王は、領内を遊覧すると称して千艘の船を準備してクメールを急襲する。領国にはいっさい手をつけずに、若い王を捕らえ、彼が言った通りのことを彼自身にしてみせたという(Mas'udi "Meadows of Gold and Mines of Gems.", 947 wikipedia)。

 セナパティ・パルの事跡がこの物語の原型であるかどうかはわからない。ポー・ナガル寺院を襲ったのも闍婆か、真臘か、あるいはもっと南の国だったかもしれない。いずれにせよ、占城や真臘とひとくくりにされていても、そのなかでは城市(国)ごとの争いがあった。

 中国の史書が「国」と書くとき、それは中国側の期待に反して、境界で区切られた領土をもつ国ではなかった。インド文化の受容を契機として生まれた(といってよいとおもう)この地域の国は、中心となる都城プラとそれに付随するいくつかの衛星都市のネットワークで構成されている。その中心に位置するのが王であり、王権の象徴でもあるリンガや王城なのであった。この点は、内陸型の農村国家であろうと、交易に依存する海洋国家であろうと変わらない。だからふたつの異なる国の都城がおなじ土地に踵を接してあるということもおこりうる。
 この王権構造は入れ籠になっているためにマンダラといわれたりするが、村や家の統合のされかた自体が本来もっていた性格なのだろう。現在でも東南アジアの農村に行けば、似たような構造を目にすることができる。
 東南アジアの国が象徴的中心のまわりにあつまる星雲状の国家=共同体であったのに対して、中国の国造りはあらかじめ境界をさだめていた。これまた四合院などの中国的な住宅や都城と考え方は共通している。だから境界の内部で想像の共同体を指向した。
 「歴史」はそのための仕掛けと考えるとわかりやすい。本来自己同一性でむすばれてはいないものを「歴史」によって統合しようとしたのである。だから、前者はあつまる人に価値をおくだろうし、後者は土地に価値をおく傾向があるだろう。ベトナムで起きたことは、前者の価値が後者によって塗り替えられてゆく過程である。しかし、古代に頻繁におきた戦いはけっして領土的野心に由来するものではなかった。

 王の中心性は王城よりもまず身なりや玉座(牀)によって表現される。中国の史書はこの地域の玉座の壮麗さについて執拗に繰り返している。強力な中心性をもたなければ、マンダラ的な国を維持することは不可能だった。周縁にむかうほどこの求心力はうすれ、周縁世界はより強い求心力にひかれるものだからである。
 ところが、肝心の王の象徴性なるものは並びたつ王との競争によってしか強化できないのである。その結果、きわめて儀礼的な意味で、戦争は繰り返される必要があった。あらたな王が即位すると、王としての名誉と威信のために、まず戦いに勝利することがもとめられていたわけである。農村社会でひろくおこなわれていた首狩りの慣行をそこに重ね合わせてみることができるかもしれない。
 こうした戦争にともなって、富、つまり人や財産は、敗者から勝者のもとにながれる。その富を再分配することで王の威信はさらに高められたにちがいない。碑文が記すのは、王の威信と寺院への寄進や奉納についてである。そして、どんなに活躍していても、非業の死を遂げた王の碑文はのこされることがなかった。

 チャンパやクメールを襲った軍勢の目的が、都市の掠奪や市民の殺戮ではなく、宗教施設の破壊とリンガの強奪に向けられていたことに注意しよう。敵を殺してその屍で記念碑を建てるのとはずいぶん勝手がちがう。敵の玉(王)を狙うのは、この土地のきわめて正統的な戦いの姿なのだ。またそれだからこそ、死の如く恐ろしい事件として碑文に記されるのである。

宋代の闍婆

 現実の闍婆国は宋代にもまだチャンパの地に存在していた。『宋史』闍婆伝の記事はジャワ島と錯綜しているが、一部はあきらかに闍婆婆達国の内容をひいている。記事は以下のようにつづける。

先是、宋元嘉十二年(435)に遣使朝貢、以降絶える。淳化三年十二月(992)、その王穆羅茶は、陀湛を遣使に、副使に蒲亜里、判官に李陁那假澄等を朝貢させた。陶湛(陀湛か?)云く「中国は真の主であり、本国は朝貢の礼を修めたい」と。国王は象牙、真珠、綉花の銷金(印金)と綉絲の絞、雜色絲の絞、木綿織の雜色絞布、檀香、鼈甲の檳榔盤、犀角装の剣、金銀裝の剣、藤織の花簟(むしろ)、白鸚鵡、七宝で飾った檀香の亭子を貢じ、その使は別に玳瑁、龍腦、丁香、藤織の花簟を貢じた。 (『宋史』卷四百八十九「外国五」闍婆

 いっぽう、おなじ時期に朝貢にのぞんだ占城国はといえば、

淳化元年(990)、楊陀排は新王を自称し仏逝国に新座した。楊陀排は李臻を遣使に、馴らした犀を貢じて表訴させた。「交州の攻めるところとなり、国中の人民は財宝を皆略奪されました。黎桓に詔を賜り、各々の境を守るように命じてください」と。三年(992)、遣使の李良莆は方物を貢じ、白馬二、兵器等を賜った。 (『宋史』卷四百八十九「外国五」占城
Bayon
バイヨンのレリーフ, Angkor Thom 13c

 闍婆国の繊細な調度品の数々に比して占城の窮状ぶりは、これがおなじ土地にある2国とは信じられないほどである。朝貢の見返りに中国のすぐれた武具や馬を手に入れるのは、いわば林邑や占城の朝貢の定番だった。
 バイヨン(アンコール・トム)のレリーフに描かれるクメール軍とチャンパ軍の戦闘場面を思い出してほしい。チャンパの兵士だけが防具で身をかためている。チャンパの豊かさを、ではなくて、そのおかれた境遇の過酷さを物語るものだろう。

インドラプラ

 楊陀排が仏逝国に新座する以前の王都はクァンナムのインドラプラ Indrapura だった。この都城を建設した王はジャヤ・インドラヴァルマン Jaya Indravarman である。9世紀末とされており、その後、環王国は占城の名で呼ばれるようになる。

 碑文によれば、ジャヤ・インドラヴァルマン王は、ラクシュミンドラ・ロケシュヴァラ Laksmindra Lokeśvara (観音菩薩。ラクシュミ+インドラは王自身と妃のことか?)を祀るために、797 Śaka(875)年、都城のなかにドンジュオン Dong Duong を建設した( No 31. Dong; Duong Stelae Inscription )。ドンジュオンは大乗仏教寺院といわれるが、この時代の大乗仏教はリンガの奉納をともなっているから、ヒンドゥー的な要素を多分にもつものだったのだろう。インドラプラは蓮の花の咲き乱れる楽園のような都であったらしく、古えにブリグ仙(女神ラクシュミの父親)がつくりあげたそのままの華麗さをほこっていたと表現されている。

Chien Dang
チェンダン Chien Dang

 おなじ碑文には、王の系譜も書かれている。それによれば、同時代の環王とは異なる王朝であったことがわかる。それはいったいどんな王朝だったのだろう?

 楊陀排が即位した仏逝国は中部のヴィジャヤ Vijaya のことである。『大越史記』はヴィジャヤの都城に仏誓城の字をあてている。もうおわかりとおもうが、「室利仏逝、また尸利仏誓ともいう」(『新唐書』室利仏逝)とあるシュリ・ヴィジャヤのことである。唐代に天竺までわたった義浄が渡航前後の7年間あまりをすごした場所だ(これについては「シュリヴィジャヤの真相」で詳述する)。
 義浄は仏逝滞在中に陸路で跋南(扶南のこと)も訪問しているようだが、そこも悪王が仏教をほろぼし、外道が雑居しているだけだったという(『南海寄歸内法傳』卷第一)。いっぽう仏逝はといえば、僧衆が千人あまりも学問にはげみ、修行の内容はインドと変わるところがないと義浄は記している。仏逝ではバラモンにかぎらず信者はみなおなじ儀規にしたがっていたともいう。(「根本說一切有部百一羯磨」)。

Dong Duong
Amravati: ドンジュオン Dong Duong
ジャヤ・インドラヴァルマンのひらいた王城インドラプラの中心寺院。797 Śaka(875)年に大乗仏教の寺院として建設された。第二次大戦後の抗仏戦争で破壊されるまで遺構は残存していた。

 インドラプラに大乗仏教の寺院が忽然と出現する理由は、ヴィジャヤ(闍婆)の王都として建設されたからではなかろうか。シャカ歴の解釈にあやまりがないとすれば、唐末の混乱がそのような状況をもたらしたのである。
 ドンジュオンの建設はジャヤ・インドラヴァルマンとされるが、それにしては、彼自身の銘のはいった刻文は少ない(No 31. Dong; Duong Stelae Inscription、No. 33. Phu Thuan Stelae Inscriptionの2点)。ジャヤ・インドラヴァルマンは建設をまっとうすることなく世を去ってしまったようだ。そのかわりに、後をついだ甥のジャヤ・シンハヴァルマン Jaya Simhavarman は多くの寄進をおこなって刻文を残している。
 ジャヤ・インドラヴァルマンはパラマ・ブッダローカ Parama Buddhaloka の諡号をもち、ドンジュオンに残された碑文には、妃のハラデヴィ Haradevi (ジャヤ・シンハヴァルマン王はハラデヴィの姉の子)が亡き王を偲んで熱心に寄進を繰り返す様子がしるされている(No 36. Dong Duong Stelae Inscription )。

黄巣の乱

 唐末の100年間ほど、中国側の朝貢記録に占城(環王)王の名前がない空白時代をむかえる。世にいう黄巣の乱は、乾符六年(879)に広州を攻撃し、居留地にいた外国人商人の多くが殺された。

 ザーバジュのマハラジャの逸話をいくつも後世に伝えてくれているアラブ作家のアブ・ザイード・ハッサン Abu Zaid Hassan は、黄巣の乱についてもアラブ商人たちの情報を紹介している。
 それによると、ハーンフー(広東)に住んでいたイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒、ゾロアスター教徒の商人で虐殺された者の数は、中国人を除いて12万人に達したという。そして、殺された信者数が正確なのは、この町が人頭税を課していたからだとも付け加えている。また黄巣は桑の木をはじめとする樹木をいっさい伐ってしまったので、アラブの絹がなくなる原因になったことも指摘している(Ferrand, Gabriel, "Voyage du marchand arabe Sulaymân en Inde et en Chine, rédigé en 851, suivi de remarques par Abû Zayd Hasan (vers 916)", 1922) Canadian Libraries 藤本勝次訳注『シナ・インド物語』(関西大学東西学術研究所訳注シリーズ) 関西大学出版・広報部, 125P, 1976)

 殺された外国人の数にも驚かされるが、たとえその数字が誇張だとしても、その程度の外国人居留地がふつうにおこなわれていたのである。この乱がきっかけとなって、アラブ方面から中国へ向かう船はなくなってしまった。それは寄港地としても潤っていたはずのベトナム海岸都市に影響をあたえたことだろう。三仏斉の活動が知られるようになる時期とかさなる。東西交易を担う海洋国家が生まれる時期としてはちょうどよい環境にあった。

大越

 この動乱の時代に、交州の地に起った丁朝の将軍の立場から丁王朝を簒奪したのが黎桓だった。前黎朝(のちの大越国)をひらき、即位の翌(大越)天福二年(982)には朝貢をもとめる使節を占城に派遣している。

My Son

ミーソン My Son

 当時の占城王は『大越史記全書』によれば篦眉税、『宋史』は波美税陽布印茶(波美税)としているが(『宋史』占城)、パラメシュヴァラヴァルマン Parameśvaravarman と読むのだろう。この王の刻文はない(シャカ歴の解釈に誤りがなければ)。篦眉税は黎桓の要求をのまずに使節一行を捕らえる。
 黎桓はこの報に接して激怒、みずから占城に軍をすすめ、王の篦眉税を陣中で殺してしまう。捕らえた俘虜は数知れず、宮中から女官百人と神器をうばい去り、手にした金銀宝貨は数万、城池を破壊し、宗廟を毀して還る(『大越史記全書』)という惨劇があったのである。
 黎桓は占城の俘虜93人をその年のうちに朝廷に献上している。宋朝は処置にこまったのか、俘虜たちを広州にとどめ、衣服をあたえて占城に帰したとある(『續資治通鑑長編』太平興国七年。『宋史』は太平興国六年(981)と記載しているがありえない)。

 ところで、占城王波美税の名は開宝五年(972)の朝貢からみえる(『宋史』占城)。ところが、同時期にもうひとりの占城王が朝貢に顔をみせている。
 開宝六年(973)、占城王の悉利陀盤印茶が遣使方物(『宋史』太祖)、また、雍熙二年(985)には、施利陀盤呉日歓がバラモンを遣わして交州の侵略を訴え、隣国同士睦まじくするよう詔してほしいと願い出ている(『宋史』占城)。どちらもおなじシュリ・インドラヴァルマン Śri Indravarman であるらしいが、後者の名前、呉日歓は唐末の混乱期に十二使君のひとりだった呉日慶と関係するのかもしれない。

 丁朝を建国した丁部領は呉日慶を破るとその母を妻とし、娘を呉日慶に嫁がせていた。日慶は心愉しまず、妻をのこして占城に出奔、(大越)太平十年(979)丁部領死去の報に、占城王の軍船千余艘をともなって首都の華閭城にせまったのである。ところが台風にあい船はみな転覆、呉日慶ほか多くの兵が溺死、占城王の船のみ助かって戻ったとある(『大越史記全書』)。
 交州による侵略を訴えるのは黎桓の事件だけが原因ではなかった。波美税が殺されると、チャンパ北部では劉継宗なるベトナム人が王位についた。『大越史記全書』によると、劉継宗はもともと管甲だったが、チャンパの地に逃れたのだという。黎桓は983年初頭に劉継宗鎮圧の軍隊を派遣し、継宗はこの鎮圧で捕まり殺されたことになっている。黎桓の部下はそう報告したのだろう。実際には、雍熙三年(986)に占城王を称して朝貢にのぞんだ。この頃から占城を脱出するチャム人が後をたたなかった。儋州や広州に100人単位の難民があったことが報じられている(『宋史』占城)。
 インドラプラのある北部地域は、呉日慶や呉日歓、劉継宗の登場する以前からすでにベトナム人の割合が多くなっていたのではないかとおもう。もはやそこは大越諸王朝の政争の舞台と化していたのである。

 インドラヴァルマン(悉利陀盤印茶や施利陀盤呉日歓)はアマラヴァティを支配していたのだろう。黎桓に殺されたパラメシュヴァラヴァルマン(波美税)はヴィジャヤの王だったことになる。この時期には朝貢が毎年のように繰り返されているから、占城王の正当性をめぐる争いがあったとも考えられる。開寶六年(973)には、4月に悉利陀盤印茶が、6月には波美税が相次いで遣使をおくっている。

遷都

 こうした状況のなかで、淳化元年(990)、楊陀排(ハリヴァルマン Harivarman )は仏逝国において新王であることを自称したのである。三仏斉の使節が帰国の途次占城に立ち寄り、三仏斉が闍婆に占領されたままなのを知って広州に舞い戻ったのもちょうどこの頃である(『宋史』三仏斉)。
 ハリヴァルマンはミーソンの寺院を修復した記録がのこるものの(No. 51. Myson Stone Inscription )、朝貢のたびに武器や馬をねだるありさまだった。後ろ盾でもあった唐がなくなり、交州に大越国が成立すると、遂にインドラプラから南の仏遊へ遷都を余儀なくされる。仏遊が仏逝(ヴィジャヤ Vijaya )の誤りでなければ、それは仏誓城以外の都城(Śri Vinaya ?)をさすのだろう。

景德四年(1007)、王の楊普俱毗茶逸施離は、布祿爹地加を遣して奉表來朝し、表函するに文錦を藉く。。。布祿爹地加が言うには、本国はもと交州に隸い、その後、仏遊へ奔き、旧所より北へ七百里のところにあります、と。使が還るに、甚だ手厚く物を賜った。(『宋史』卷四百八十九「占城」
Chien Dang
Quảng Nam: チェンダン Chien Dang
11-12c とされているが、11c以降ということは時代的にありえないだろう

 占城王の楊普俱毗茶逸施離 Yan Pu Ku Vijaya Śri (Yan Pu Ku Śri Jaya Indravarman ?)もまた、そのわずか3年前に朝貢して、「詔して良馬、介冑、戎器等をこれに賜う」ということがあったばかりだったのである。そのときには戦闘準備を続けており、まだ遷都の話はなかった。南に遷都したのに史書はなぜ「北へ去る」と書くのかも気になるところだが、チャンパの方位観については稿をあらためて述べよう(「赤土国はどこか?」)。

 この遷都が都城全体の移転を意味するものなのか、それとも王族が移動しただけなのか、あるいは相主権を移すことなのかはわからない。これは王権の意味を考えるうえでとても興味深いテーマのはずである。
 インドラプラの中心寺院だったドンジュオンは20世紀にはいるまで残されていた。聖地ミーソンへの寄進はその後も続けられていたし、宗教施設としての命脈はまだ保たれていた。都城に人がいるなら、それなりの中心は生まれていただろう。

仏誓城炎上

 東南アジアでもっとも由緒ある都城のひとつが灰燼に帰す瞬間に立ち会わねばならない。

 (大越)神武元年(1069)二月、李朝の李日尊(聖宗)は占城に親征した。前年にも占城は大越に朝貢使を送っていたから、この攻撃はかなり一方的なものだ。そもそも李朝のヴィジャヤ(仏逝)攻撃はこれが最初ではなかった。
 李朝建国の祖、李公蘊(太祖)の跡をついだ李仏瑪(太宗)は(大越)明道三年(1044)、ヴィジャヤの仏誓城に攻撃をしかけ、後宮の妻妾を掠っていったことがあった。この戦いで王の乍斗(『大越史略』は仁斗)の首を取り、兵士3万人を殺し、5千人を捕虜にしたという(『大越史記全書』)。



 捕虜たちをあつめた村を新設しているくらいだから、この人数は戦記物にありがちな誇張とばかりはいえないだろう。後宮からさらわれた女官のなかには、西天曲の調べを歌舞する者たちもいて、日本にもつたえられた林邑舞楽の伝統がまだ息づいていたのではないかと想像する。乍斗の妃の媚醯は、このとき太宗の御船に侍るようにいわれて、川に身を投げて死んでしまった。その貞節を太宗は褒め称えたとある(『大越史記全書』)。『大越史記全書』では、その後に論功行賞についての記述が長々とつづいている。

 このようなことがあったばかりだったので、占城王の楊卜尸利律陀般摩提婆は攻撃の前年、熙寧元年(1068)にも朝貢して、駅馬を乞い、白馬一頭を賜ったうえ、さらに広州で馬を買う許可までもらっていた(『宋史』占城)。これにはまた前史があり、嘉祐七年(1062)のこと、広西安撫経略司が言うには、「占城、真臘はもともと兵を習わなかったのに、交阯と隣り合っているために、常に侵攻に苦しみ、また占城は近々武備を整えて交阯に対抗しようとしている」として、遣使の求めに応じて白馬一頭を賜っていたのである(『宋史』占城)。

 しかし、李日尊の攻撃を防ぐことはできなかった。仏逝は軍事力よりもその精神性の高さによって畏怖されてきたのだろう。未熟な社会にはそれが通じなかった。
 三月に須毛江岸まで達した日尊の大軍は、そこで仏逝の守備軍と対戦する。この戦いは勝負にならず、大将の布皮陀囉は斬られ、死者は数知れず。王の第矩(『大越史記全書』では制炬)は、自軍敗北の報に、妻子をつれて夜のあいだに仏誓城を抜け出す。仏誓は抵抗することもなく開城した。

Champa

 第矩一行は追っ手をのがれて真臘に向かおうとしたらしい。五月に追っ手の元帥、阮常傑は真臘との境界ちかくで第矩を捕獲する。その報に日尊は仏誓城内の王殿に群臣をあつめて宴を催し、王殿の階で舞盾、擊毬をして愉しんだという。さらに仏誓城の内外にある民家を数えさせ、およそ2560余りあった屋敷地をすべて焼くように命じた(『大越史略』。『大越史記全書』は領土割譲を書きながら、当時の倫理観の反映なのか、この記事を載せない)。
 7世紀に義浄が滞在した仏教の聖地、室利仏逝はこうして姿を消してしまった。『大越史記全書』によると、制炬をはじめ5万人が捕虜となり、地哩、麻令、布政の3州(北部のクアンビン、クアンチにあたる)を大越に割譲する条件で制炬は放免された(『大越史記全書』)。戦争はすでに儀礼的、互酬的な性格をうしなっていた。

 感情をおさえるためにもうすこし続けよう。
 ミーソン祀堂の柱にあるチャム語の刻文によると、このとき李日尊に破壊されたのは王都や宗教施設ばかりではなかった。これまでの王家が築き上げたすべての財産をうばわれ、さらに被害は農村の家畜や作物にまでおよんでいた(No. 61.Myson Pillar Inscription この刻文には年代の記載がない。あるいは、No. 62. Myson Stelae Inscription)。
 捕虜となった制炬(第矩)は、前年に中国に使節を派遣した楊卜尸利律陀般摩提婆(シュリ・ルドラヴァルマデヴァ Śri Rudravarmadeva )のことらしいが、『大越史記全書』ではその年のうちに大越を放免されたことになっている。しかし、その後の刻文はこの王の存在についてかたらない。わずかに、ポー・ナガル寺院の刻文がこの王のことをさすのかもしれない。ルドラヴァルマン Rudravarman 王が捕虜となり、王のいない暗黒の時代が16年も続いたため、パラマボディサットヴァ Paramabodhisattva がファンランの王となってチャンパを再統一したと刻文はいう(No. 64. Po-Nagar Temple Inscription of Paramabodhisatva, dated 1006 Śaka.)。それにしても、王の不在や暗黒時代というにはおよそ不似合いな歴史(刻文)がしばらくつづくのだが。

Canh Tien
Vijaya: 銅塔 Canh Tien, Cha Bal
チャバン(闍槃)城は1471年まで占城の中心だった

 いっぽう、仏誓城がなくなってからのヴィジャヤでは、 Gramapura-Vijaya、Tumprauk-Vijaya、Turai-Vijaya、Sakan-Vijaya など、いくつもの都城の名前が刻文に顔をだすようになる。あるいは、中心となる王城がないときのあたりまえの姿がそこにあるのかもしれない。その後のヴィジャヤは、真臘による占領や元寇を乗り越えながらも、1471年まで占城の中心でありつづけた。ヴィジャヤ最期の時代をささえた王城の名前はチャバン Cha Bal 、ベトナム史料では闍槃城(!)と書く。

 (大越)洪德元年(1470)11月16日、黎思誠(黎朝の聖宗)は水軍十萬を先行させ、みずから十五萬の水軍を率いて京師(ハノイ)を発った。12月18日水軍占城着。翌二年2月7日、七十余萬にふくれあがった軍勢は新厭、旧坐の二港を出て闍槃城へ向かう。途中、占城王茶全の弟尸耐の軍勢を破って、三百余人を斬首、六十余人を擒える。弟が敗走した報に、茶全は降伏の親書を送るが、その返事も届かぬ2月27日には尸耐城を破り、百余人を斬首。2月28日に闍槃城を包囲。3月1日、闍槃城陥つ。三萬余人を俘虜、四萬余人を斬首、王の茶全を生け擒る。(『大越史記全書』 撰者の呉士連はこの書を聖宗に献じている。そのつもりで)
 茶全は護送中に病を得て死亡したとされる。以降、チャンパ歴代の王がヴィジャヤを王都とすることはなかった。*01

ナリケラとクラムカ

 敵に蹂躙された国土を復興にみちびいた王の名はハリヴァルマン Harivarman という(No. 62. Myson Stelae Inscription dated 1003 Śaka.)。淳化元年(990)に同名の楊陁排 Harivarman が仏逝国で即位したのは80年前(Śaka暦の差にあたる)のことだった。碑文ではナリケラとクラムカのふたつの家系をむすびつけたチャンパ統一のシンボルとして語られている。

 椰子の実を意味するナリケラ nārikela と檳榔子(檳榔の実)を意味するクラムカ kramuka はチャンパの建国神話にも登場する王家の名前である。伝承によると、椰子の実(もう一方は檳榔子)のなかから男の子が誕生し、王は自分の娘と王国をこの子にあたえたという([Majumdar 1927: 226])。日本でよく知られた桃太郎説話のヴァリエーションといってよい。
 現地の王女と外来王(バラモン)が結婚することで、各地にヒンドゥー的な世界観にもとづく社会単位が生まれていたのだろう。この話の原型にはそうした史実が見え隠れしている。扶南国の女王柳葉にまつわる建国神話(『南斉書』扶南国)などもこうした話の原型といえるし、南宋時代の『扶南記』(佚書)が紹介する頓遜国もそんな国のひとつだった。

頓遜国は扶南に属し、国主の名は崑崙。国には天竺胡が五百家、両仏塔に天竺婆羅門が千餘人いる。頓遜はその教義を敬い、バラモンに娘を嫁がせる。それゆえ多くの者は去らずに、ただ天神経を読み、香花で身を浄め、昼夜を問わずに精進している。(『太平御覽』頓遜国

 こうしてみると、系譜が母系的になってゆくのは自然の成り行きかもしれない。チャンパの説話も背景には似たような事情があったのだろう。おもしろいことに、チャム語で椰子をリウー、檳榔をプヌンと呼ぶことから、それぞれ林邑(リウー)、扶南(プナン)にむすびつくのではないかという指摘まである( wikipedia 記事削除?)。扶南も林邑も、ともに初期の王朝名は范といい、ともにオーストロネシア系の民族であったと考えられる。パンドゥランガは系譜的にも扶南にちかかったのではないかとおもう。

Champa

 ハリヴァルマン王はクラムカ(檳榔子)の王子として生まれ、ナリケラ(椰子の実)のダルマラジャ Dharmaraja 王が遺産をあたえたとされる(No. 62.Myson Stelae Inscription)。クラムカはパンドゥランガ地方の氏族と考えられているから、パンドゥランガで生まれ、ヴィジャヤの王女と結婚して占城王を宣言したのだろう。これまでにもあったチャンパの王位継承の流儀にもかなっている。
 ハリヴァルマンはさっそくシュリ・シャーナ・バドレシュヴァラ Śri Śānabhadreśvara (ミーソン)を復興し、各地の寺院の再建にとりかかったらしい。その間にも、12回におよぶ戦争に勝ち、カンボジアの王子を捕らえ、チャンパの国に昔日の輝きを取り戻した王として刻文では語られている(No. 62.Myson Stelae Inscription)。
 熙寧九年(1076)にお喋りな使節を中国に派遣したのはハリヴァルマンだろう。王の年は36歳で、105の聚落を治めていると話しているので(『宋史』占城)、1069年にハリヴァルマンが即位したときの年齢は29歳、32歳で王子をもうけ、1081年に41歳で亡くなった計算になる。

 ハリヴァルマンの長男ヤン・プ・ク・ジャヤ・インドラヴァルマン Yan Po Ku Śri Jaya Indravarmadeva が後を継いだときに、彼はまだ9歳の少年だった。そのため叔父(ハリヴァルマンの弟)のパラマボディサットヴァ Paramabodhisattva が後見役にたった。ルドラヴァルマン王が捕虜となり、暗黒の時代が16年も続いたと書き残した王である。この王の治世からしばらくの間、大越には毎年朝貢をかかさなかった。パラマボディサットヴァは後代の王からその美徳をたたえられる王でもあるが、この王の話はまた後で振り返ることにしよう。
 ジャヤ・インドラヴァルマンは1010 Śaka(1088)年に即位した。父方、母方の双方が輝かしい家系であると刻文に書かれているのは、クラムカとナリケラを結びつけたハリヴァルマンの素性からも容易に理解できる(No 65. Myson stone slab inscription )。彼の治世中にチャンパプラが壊滅する事件があったらしい。大越にはあいかわらず毎年朝貢をつづけていた。台風や地震の記録もあるから、かならずしも戦闘が原因とはいえない。

Champa

 ためしに系図を描いてみるとわかるが、王の系譜は母系的に継承されている。後宮がその生命装置になっていたのだろう。だから王都の侵略や王位の簒奪ではかならず後宮の女性たちがねらわれる。
 そして、この王権の維持には妻方の男性成員が重要な役割を果たしていた。刻文のなかには、よく妻の兄弟を都城の王に任命する場面が出てくる。彼らは副王や将軍となって地方の支配におもむき、そこで地元の王女と結婚して都城の主におさまるわけである。
 中国側の史料にてらすと、王はたいていその兄を副王としたり、弟を次王に指名していたとある。そして東西南北それぞれに2名ずつの高官をおいて地方を統治させていた(『宋史』占城伝)。妻方の兄弟とは書いていないが、そうした発想はそもそも中国側になかったのだろう。ほかに経理等を担当する文官が50名ほど、帑廩を司る者(金庫番?)が12名、将校200余名、万余の兵隊がいて、それぞれの給与も定められていた。もっとも、これは宋代の話だから中国の制度を取り入れて整備した面もあるだろうが。

 副王、次王とあるのは Devaraja と Yuvaraja を読み替えたらしい。1065 Śaka (1143 ?)年にポーナガル寺院にリンガを奉納したジャヤ・インドラヴァルマン Jaya Indravarman (1044年に仏誓城で殺された Jaya Simhavarman 刑卜施離値星霞弗=仁斗の王子であるらしいが、Śaka歴とすると年代があわない)は自身の履歴書を刻文にしたためている(No. 71. Po-Nagar Temple Inscription of Jaya Indravarman III, dated 1065 Ś.)。以下の年数はいずれもŚaka暦のまま。

 1021年生まれ。
 1051年 Devaraja となる。
 1055年 Yuvaraja となる。
 1061年 王になる。

 これからすると副王、次王に年齢による区別があるわけではないらしい。王の在位期間が短かったこととも関係するかもしれないが、王の嫡子の立場は微妙である。もっとも正統な王の継承者のようでもあり、慣習的には他所で結婚することをもとめられている。親殺しによる王位の簒奪がよくおこったのもそんなところに原因があるのではなかろうか。都城の新設もその解決策のひとつだったにちがいない。

 ジャヤ・インドラヴァルマンが1103年(Śaka暦とされるがそのまま読む)に死んだときには、妃をはじめ14人の女官が殉死したという(No. 62.Myson Stelae Inscription dated 1003 Ś.)。寡婦が殉死する風習は三仏斉(『諸蕃志』三仏斉)や瓜哇(『瀛涯勝覧』瓜哇:情報の出所は闍婆の誤りかもしれない)にあったことが知られている。

 ジャヤ・インドラヴァルマンの死後の様子をしるすミーソンの碑文(No. 62)は、その記述の後に、1104年(これもŚaka暦とされるがそのまま読む)にカンボジアへ向かった一王子の事跡を載せている。ジャヤ・インドラヴァルマンの継承者ということだろうか。刻文の完成はこの王子の手になるものなのだろう。それはミーソンの寺院の柱に別の刻文を残した王とおなじ記事内容である(No. 84. Myson Pillar Inscription dated 1125 Ś.)。ここではそれらふたつの記事をシャカ歴でないとみなして話をすすめることにする。

戦いの世紀

 王子の名前は Tumprauk - Vijaya のヴィドゥヤナンダナ Śri Vidyanandana といった。以下、刻文の記述をしばらく追おう。
 大乗仏教に帰依していた王子は1104年にカンボジアにわたり、そこで成長する。王子が33の吉兆をすべてそなえていることを見抜いたカンボジアの王は、文武両道にわたり望みうるかぎりの教育を王子にほどこしたという。王として必要な資質をすべてそなえていた王子はやがてカンボジアの副王になる。
 1112年、Vatuv のジャヤ・インドラヴァルマン Java Indravarman 王とのあいだに戦争がおきると、王子はカンボジア兵を率いてヴィジャヤをおそい、ジャヤ・インドラヴァルマン王を捕虜にしてカンボジアに送還する。そして、カンボジア王の妃の弟だったスールヤ・ジャヤヴァルマン Surya Jayavarman 王をヴィジャヤの王に据え、自身はファンランの Rajapura を居城にパンドゥランガの平定をすすめた。
 そのとき、ヴィジャヤにラスパティ Rasupati という名の王子があらわれる。ラスパティは、スールヤ・ジャヤヴァルマン王をカンボジアに追いかえし、自らヴィジャヤのジャヤ・インドラヴァルマン Jaya Indravarman 王として即位した。

Duonglong
Vijaya: 象牙塔(ユンロン) Duonglong

 1114年に、カンボジアの王は Vatuv のジャヤ・インドラヴァルマン王に軍勢をあたえ、ヴィドゥヤナンダナ王子とともにヴィジャヤのジャヤ・インドラヴァルマン(ラスパティ)王を攻撃する。この戦いでジャヤ・インドラヴァルマン(ラスパティ)は死に、ヴィドゥヤナンダナ王子はふたたびヴィジャヤを支配下におさめる。
 その間に、Vatuv のジャヤ・インドラヴァルマン王はアマラヴァティに逃げ、そこで兵士をあつめて挙兵する。しかし、ヴィドゥヤナンダナ王子はこの軍勢も打ち負かし、Vatuv のジャヤ・インドラヴァルマン王はこの戦いで戦死する。
 翌1115年、王子は戦いの矛先をカンボジアにむける。1116年にカンボジアの王は大軍をヴィジャヤに派遣し、両軍は戦闘を繰り広げることになる。ヴィドゥヤナンダナ王子はこの戦いにも勝利して、アマラヴァティに凱旋し、スールヤヴァルマン Suryavarman 王として即位する。(No. 84. Myson Pillar Inscription dated 1125 S.)

 刻文は、王が戦争などで栄誉をあげ、寺院に寄進した際に記されるもので、王としての正統性を表明する場でもある。ヴィドゥヤナンダナ王子が本当にヴィジャヤの出身だったかどうかはわからないが、当時はそのようなことが起きてもおかしくない環境だったのだろう。
 とにもかくにも、ヴィドゥヤナンダナは、チャンパの王スールヤヴァルマンとして即位するにあたって、自身の出自をヴィジャヤに求めたのである。

Angkor Wat
アンコール・ワット Angkor Wat
Suryavarman II の創建

 チャンパ王スールヤヴァルマン(ヴィドゥヤナンダナ)は、チャンパの地を統一してカンボジアにまでもその支配権をおよぼしたと刻文はいうのだが、いっぽう、後に王位につくチャンパの王たちは、この事件をカンボジアによるチャンパ支配の幕開けととらえていた。アンコールワットを建設することになるカンボジアのスールヤヴァルマン2世 Suryavarman II の時代とかさなる。
 ヴィドゥヤナンダナは大乗仏教に帰依していたといい、ヴィシュヌ信仰といわれるスールヤヴァルマン2世とはことなっている。Śaka暦の問題ものこるが、ほかにスールヤヴァルマン2世のチャンパ支配をしめす碑文はないようである。以上の年代設定にあやまりがあるなら、ヴィドゥヤナンダナのエピソードは、カンボジアのジャヤヴァルマン7世が1190年にチャンパを征服した事跡を先導する事件になる。チャンパの支配下にあった国土を復興にみちびく王の物語にはみえないが。

 いずれにせよ、これまでの話にはわれわれの知る3つの国と、そのなかで協調、敵対する複数の王(国)が登場している。
 Tumprauk - Vijayaのヴィドゥヤナンダナ王子、すなわちスールヤヴァルマン王はヴィジャヤ(闍婆?)の出身で占城と真臘を統一した。真臘王の妃の弟にあたるスールヤ・ジャヤヴァルマン王もおそらく闍婆の出身だった。真臘の王は妃を闍婆から迎えていたのだろう。Vatuv のジャヤ・インドラヴァルマン王ともうひとりのジャヤ・インドラヴァルマン王、つまりヴィジャヤのラスパティ王子はともにヴィジャヤ(占城)の出身だったようだ。そして、物語の背後にはカンボジア(真臘)の王がいた。

 かくて、1112年にヴィドゥヤナンダナ王子(スールヤヴァルマン)がヴィジャヤを征服した時をもって、チャンパの地は真臘の支配下にはいる。真臘によるこのときのチャンパ支配は1150年までつづいたことがわかっている。この間、政和六年(1116)を皮切りに、真臘は中国に3度も使節を派遣している。外港を手にした真臘にとっては、これまでにない国際関係を処理せねばならなくなったにちがいない。大越に対しても、1118年以来、真臘と占城が一緒に使節を派遣しているし、同時に、真臘、占城の合同軍が再三にわたり大越を攻撃している(『大越史記全書』 チャンパ史年表)。双方の被害はともに甚大だったようだ。

冊封

 チャンパが真臘の支配下にあった建炎三年(1129)、闍婆国王の悉里地茶蘭固野は懐遠軍(安徽)節度使、検校司空を任じられ、食邑二千四百戸、実封一千戸、さらに検校司分の加増を拝領している(『宋史』闍婆)。
 同時に官位をうけたのは、懐徳軍(寧夏)節度使、検校太保になった占城国王楊卜麻疊と、大同軍(山西)節度使、検校司空の真臘国王金裒賓深である(『続資治通鑑』建炎三年)。

 闍婆国王の悉里地茶蘭固野はスールヤ・ジャヤヴァルマン Surya Jayavarman と読むのだろう。チャンパの王朝史のなかで同名の王はひとりしかいない。チャンパ南部が真臘の支配下にはいったとき、ヴィジャヤの傀儡王として送り込まれた王である。カンボジアの王妃の弟だった。しかし、スールヤ・ジャヤヴァルマンのヴィジャヤ支配は短命で、ヴィジャヤのラスパティ Rasupati 王子の活躍で王がカンボジアに送りかえされてしまう経緯はすでに書いた。この冊封がおこなわれたときにはふたたびヴィジャヤに舞い戻っていたか、あるいはカンボジア領内にも闍婆の王城があったということではないかとおもう。
 真臘国王の金裒賓深に該当するのはスールヤヴァルマン2世 Suryavarman II 以外にいない。これに先立つ元祐七年(1092)に、北宋の哲宗は交阯(すでに大越国になっている)を討つための援軍を占城,、真臘に依頼していたから、これはその見返りといえる。

 占城王の楊卜麻疊はパラマ・ブラマロカ Parama Brahmaloka のことで、紹興二十五年(1155)には、その子の鄒時闌巴嗣(ジャヤ・ハリヴァルマン Jaya Harivarman )が朝貢して、父親の封爵をもとめている(『宋史』占城)。ヴィジャヤが真臘の支配下にあったこの時期には、占城王の居城はパンドゥランガの Rajapura (環王城)にあった。

占城壊滅

 1069 Śaka(1147)年に Rajapura でジャヤ・ハリヴァルマン Jaya Harivarman が即位する。ミーソンの碑文では、ジャヤ・ハリヴァルマンはパラマ・ブラマロカ Parama-Brahmaloka 王の子供で、偉大なパラマ・ボディサットヴァ Paramabodhisatva の子孫、仏逝国の始祖のひとり Uroja の生まれ変わりとされている。長いこと祖国をはなれていたという(No. 72. & No. 74. Myson Stelae Inscription )。外交手腕にたけた政治家としてのジャヤ・ハリヴァルマンの能力はこうした経験がつちかったのかもしれない。以下、碑文の語る戦闘記録をしばらく追う。

Chien Dang
チェンダン Chien Dang

 即位を宣言するや、すぐにカンボジアとヴィジャヤ(おそらく闍婆)の連合軍がやってきて Chaklyan で戦う。
 翌1070 Śaka(1148)年にはカンボジアからさらに大軍がおしよせ、Virapura 平原で戦闘をくりひろげる。
 1071 Śaka(1149)年にヴィジャヤに戻ったハリヴァルマンは、カンボジア王がヴィジャヤの王に据えていたハリデヴァ Harideva 王子(カンボジア王の最初の妃の弟)を Mahisa 平原の戦闘で破る。王子とその配下にいたすべてのチャム人、カンボジア人の指揮官、兵士を殺戮したという。
 ハリヴァルマンはヴィジャヤの地でチャンパプラの王のなかの王を宣言し、同時に安南が送りこんできた軍隊をも破る(No. 75. Batau Tablah Inscription of Jaya Harivarman I, dated 1082 Ś.)。

 これについて大越史はおもしろい話をつたえている。
 (大越)大定十一年(1150 『大越史記全書』では大定十三年とあるが誤りだろう)、占城国の雍明些疊が訪れ、自分を王にするように命じてくれと大越王に依頼している。
 英宗(李天祚)は李蒙に兵5千をひきいて占城まで行かせるが、占城王の制皮囉筆はこの要求をこばみ、雍明些疊も李蒙も殺されてしまう(『大越史記全書』 『大越史略』)。
 その後、制皮囉筆はみずから大越をおとずれて王の女を献じたという(『大越史記全書』)。
 制皮囉筆はハリヴァルマン、雍明些疊はハリデヴァなのであろう。この戦いをもってチャンパは真臘支配を脱したと考えられている。

 もっとも、ハリヴァルマンの戦いはまだまだつづく。
 Kirata (チャム以外の山岳民族をさすらしいが根拠は不明)の蜂起を鎮圧する。
 Kirata の王は妻の兄弟のヴァンシャラジャ Vanśaraja を Madhyamagrama の王に任命するが、ハリヴァルマンはこの軍隊も捕獲してしまう。
 カンボジア王の企てがことごとく失敗したのをみて、闍婆王はチャンパ人であるヴァンシャラジャを占城王として宣言し、10万の軍勢をさしむける。ハリヴァルマンはこの軍勢を相手にヴィジャヤの総力をあげて戦う。Dalvah平原やXXX平原で恐ろしい戦闘を繰り広げた結果、闍婆軍兵士の無数の死骸が平原にころがったという。
 1077 Śaka(1155)年にパンドゥランガ、1082 Śaka(1160)年にアマラヴァティを平定して、チャンパの地の再統一をなしとげた(No. 72. & No. 74. Myson Stelae Inscription )。

 しかし、ハリヴァルマンによるチャンパの統一も長くは続かなかった。
 ハリヴァルマン(鄒時闌巴嗣)の後を継いだ鄒亞娜嗣の時代にも真臘との小競り合いはつづいていたようだ。
 乾道七年(1171)には漂着した閩人(福建人)から馬を利用した戦法を教えられ、従来の象同士の戦いに革新をもたらしたらしい。大量の馬を入手しようと瓊州(海南島)まで出向くが失敗、淳熙二年(1175)には占城に馬を売らないよう禁令まで出されている。その2年後、今度は船を利用して真臘の都を急襲する(『宋史』占城)。
 刻文によれば、この王は Gramapura-Vijaya のジャヤ・インドラヴァルマン Jaya Indravarman というらしい。カンボジア遠征の戦利品らしきさまざまな器物をミーソンやポー・ナガルに寄進している(No. 80. Po-Nagar Temple inscription of Jaya Indravarman IV, dated 1089 Ś./No. 81. Myson Stelae Inscription of Jaya Indravarman IV, dated 1092 Ś.)。

 その結果、歴史の因果はふたたび繰り返されることになった。『宋史』はつぎのように占城伝を閉じている。

慶元(1195-1200)以来、真臘大挙して占城を伐ち復讐す。殺戮の限りを尽くし、その主を俘にして帰る。国遂に亡び、その地は悉く真臘に帰す。 (『宋史』卷四百八十九「占城」
Bayon
バイヨン Bayon, Angkor Thom
Jayavarman VII の都城の中心寺院

 この戦いを指揮した真臘の王はジャヤヴァルマン7世 Jayavarman VII という。都城アンコール・トム Angkor Thom (中心寺院バイヨン Bayon )の建設者として知られる。

 いっぽう、後に王位につくチャンパの王たちはこの時代を32年戦争と表現している。1148年に、はれて占城王として即位した Turai - Vijaya のジャヤ・パラメシュヴァラヴァルマン Jaya Parameśvaravarman は、即位後、全国の寺院にリンガを再奉納し、寄進をおこなっている。
 パラメシュヴァラヴァルマンの名を記す多数の刻文がのこされているが、いずれも1190年からはじまるカンボジアとの32年戦争に言及している。
 カンボジア王のシュリ・ジャヤヴァルマデヴァ Śri Jayavarmadeva が世界を征服し、チャンパの都城からすべてのリンガを持ち去ったと刻文は書いている(No 85. Po-Nagar Temple inscription of Jaya Paramesvaravarman II, dated 1148 Ś.)。

闍婆と爪哇

 闍婆がジャワ島の意味でないことは元代には明確に意識されていた。
 『元史』は外国伝をほとんど載せないが、出兵をおこなったジャワ島や占城については(どちらも失敗した)詳細な記録をのこしている。ジャワ島についてはじめて爪哇の字をつかい、インドシナ半島の闍婆とはっきり区別している。
 占城軍との攻防戦では、「国主は鴉候山にたてこもり手勢は約2万、交趾、眞臘、闍婆等に援軍(借兵)をもとめる使者を派遣し、賓多龍(パンドゥランガ)、舊州(アマラバティ)の軍はまだ到着していない」(『元史』占城)といった間者の報告まで載せている。

 ところが、ジャワ島に出兵した元代の知見は明代には受け継がれなかったらしい。爪哇がジャワ島の意味でつかわれるのは鄭和の航海以降である。そして、チャンパをめぐる情勢すらも、『明史』を編纂した清代になるとすっかり過去のものになっていたようだ。

闍婆はむかし闍婆達といわれていた。宋元嘉(424-453)にはじめて中国に朝貢した。唐代には訶陵といい、また社婆ともいう。その王の居城が闍婆城で、宋代にはこれを闍婆といい、みな入貢した。洪武十一年(1378)、その王の摩那駝喃が遣使奉表し、方物を貢いだが、その後は二度となかった。あるいは爪哇は闍婆のことともいう。しかし、『元史爪哇伝』は何も語らず、かつ「その風俗、物産は考慮するところなし。」と書く。太祖の時に、両国は同時に入貢し、その王の名は同じでなかった。あるいはもともと二国であり、その後爪哇は滅んだとしか考えようがない。(『明史』闍婆

干陀利国

 林邑、占城や扶南、真臘の王の名前につけられるバルマン(跋摩)は、ヒンドゥー化の証拠と考えられている。ところが、唐代以前で「跋摩」名をもつ朝貢国には、林邑と扶南、それにすでにとりあげた闍婆諸国のほかには干陀利と婆利しかない(婆利については稿をあらためて)。
 ヒンドゥー化をしめす考古学的な証拠はひろい範囲であきらかになっているから、これは当時の中国の影響圏、つまりは武力のおよぶ範囲がいかに限られたものだったかをしめしている。

 干陀利国の最初の入貢は、檀和之の典沖侵攻の10年後で、孝建二年(455)に王の釋婆羅那鄰陁が竺留陁を遣わしている。
 蘇摩黎国、斤陁利(干陀利)国、婆黎(婆利)国の諸国はみな仏道をおこなう(『宋書』天竺迦毗黎国)とあり、早くから仏教を中心に国造りをしたようだ。
 天監元年(502)には、王の瞿曇脩跋陁羅が朝貢し、王が見たという夢の話を記録にのこしている(『梁書』干陁利国)。

 夢に一僧があらわれ言うには、「中国はいま聖主がたち、10年後には仏法が大いに興るだろう。もしいま朝貢の礼をとれば、国土は繁栄するであろう。嘘だとおもうなら自分で行って見てきなさい」と。そこで夢のなかで天子を拝観したという。王は絵心があったので、夢に見た天子の姿をあわてて描く。朝貢には遣使のほかに画工が同行し、帝の姿を描き写して国に戻ったところ、王の描いた絵と寸分たがわぬものだったので、その絵を献上におよんだというのである。

 天監十七年(518)には、王の瞿曇脩跋陁羅が死に、その子の毗邪跋摩(毗針邪跋摩) Vijayavarman が毗員跋摩を遣使にたてている(『梁書』干陁利国)。その後、天嘉四年(563)まで朝貢国に名前をとどめていた。

 干陀利国はマレー半島やスマトラ島に比定されているが、そんな遠くからわざわざお追従を言うために朝貢するわけがない。干陀利国は「檳榔が特に精好で諸国の極み」(『南史』干陁利国)とある。

 ここまでお読みいただいたかたにはもはや説明無用とおもうが、干陀利はチャンパの南に位置したパンドゥランガ Panduranga (宋史で賓陀羅、明史で賓童龍とある土地)の対音である。檳榔が特産と書かれるのもクラムカ kramuka (檳榔子)の王家の由来だからであろう。
 唐代の環王国は「西距真臘霧溫山,南抵奔浪陀州」(『新唐書』環王)とされており、この土地は奔陀浪州(奔浪陀は誤り)と呼ばれていた。その位置はファンラン Phan Rang で、扶南やのちの真臘とは踵を接していた。

 ここまでチャンパ史の読み替えにお付き合いいただいたなら、もうすこし先までこの冒険を続けてみよう。


10世紀の情勢

三仏斉

 三仏斉、古名は干陀利。『明史』三仏斉伝の冒頭はそうはじまっている。
 三仏斉といえば、海上帝国シュリヴィジャヤがその代名詞になり、広大な版図をもって東南アジアの海上交易を支配したと考えられてきた。したがって、その中心はマラッカ海峡のどこか、パレンバン、ジャンビ、クダーなどにあてられるのが常だった。
 しかし、『宋史』三仏斉伝をみても、「三仏斉国は南蛮の別種、占城と隣接し、真臘と闍婆の間にある」とされている。闍婆の亡霊さえなければ、ベトナム南部に比定するのが自然にみえる。もちろん、三仏斉と仏逝(シュリヴィジャヤ)/闍婆はことなる国である。
 『宋史』にしたがって10世紀頃のこの地域の情勢を確認しておこう。独自の情報源にもとづく的確な地理認識だとおもう。

占城国は中国の西南にあって、東は海、西は雲南、南は真臘、北は驩州(安南)境界に至る。海路で南に五日ほどで三仏斉に至る。陸路で賓陀羅国までは一月程かかり、その国は占城に属している。東に去れば二日程で麻逸国、蒲端国は七日程。北は風がよければ半月ほどで広州に至る。東北は一月程で両浙(浙江)に至る。西北に二日ほどで交州に至り、陸路なら半月ほどかかる。 (『宋史』占城国

 三仏斉についてはいくつかのエピソードが知られている。
 淳化三年(992)のこと、遣使の蒲押陀黎は前年に三仏斉に戻る予定であったが、聞けば本国が闍婆に侵略されたという。それで、およそ1年間広州にとどまり、今春船で占城まで行ったところ、風のたよりに状況がおもわしくなく、ふたたび広州に舞い戻った。本国を諭すよう詔を降してほしいと広州から伝えてきたというのである(『宋史』三仏斉)。
 広州でさえ得られなかった本国の情報が占城まで着いたところでわかったというのもおかしな話だった。

 またこんなこともあった。
 咸平六年(1003)に三仏斉王の思離咮囉無尼佛麻調華は、李加排を遣使に、副使に無陁、李南悲 を遣わして言うには、「仏寺を建設したので、その聖寿に寺名と鐘を賜りたい」と。そこで「承天萬寿」の寺額と鐘を賜り、さらに李加排には帰徳将軍、無陁、李南悲には懐化将軍の職をさずけたという(『宋史』三仏斉)。
 三仏斉はふるくから華人が多く住み、漢字ももちいられていたというから(『諸蕃志』三仏斉国)、漢字の寺額にも意味はあったろう。

パラマボディサットヴァ王

 王の名前、思離咮囉無尼佛麻調華はシュリ・パラマボディサットヴァ Śri Paramabodhisattva と読むのだろう。以下は、闍婆をジャワ島と考えるよりも現実味のある空想である。

 類似の王名は見ないから、この王は1003 Śaka(1081)年にミーソンの寺院の柱に刻文をしるし、1006 Śaka(1084)年にはカウタラのポー・ナガル寺院への寄進を刻文にのこした王と同一人物かもしれない。シャカ歴でなければという前提がつくが。
 じつはこのふたつの刻文の内容はおなじ王のものとはおもえないくらいにことなっている。

 ミーソンの刻文は、兄であるハリヴァルマン Harivarman 王をたたえ、ユヴァラジャ・マハーセナパティであった自分について述べたもので、1081年とされる当時の状況にかなっている。ところが、ポー・ナガル寺院の刻文の内容は、ルドラヴァルマン Rudravarman 王が捕虜となり、暗黒の時代が16年も続いたため、パラマ・ボディサットヴァがファンランの王となってチャンパを再統一したという内容である。仏誓城がおそわれ、王のルドラヴァルマンが連れ去られたのは1069年だから、まさにぴったりの記事にもみえる。しかし、クラムカ(檳榔子)とナリケラ(椰子の実)を結びつけたハリヴァルマンがすでに統一した世の中をさらに統一するとはどういうことだろう? しかも、その治世の16年間を暗黒時代といい、刻文には傀儡王とその一族をとらえて財産を没収したと書かれている(パラマボディサットヴァは命をとったとはけっして書かない)。そのためにパラマボディサットヴァは王位の簒奪者と疑われてきた。

 考えられる可能性は、ここにはふたりのパラマボディサットヴァ Paramabodhisattva がいるのではないかということである。いっぽうはシャカ歴の差78年分だけふるい時代を生きていた。
 ひとりは、即位する前の名前を Pulyan Yuvaraja Mahāsenāpati といい、Pan 皇子と呼ばれていた。ハリヴァルマン Harivarman 王の弟にあたる。1081年にハリヴァルマンが死んだとき、その子のジャヤ・インドラヴァルマン Jaya Indravarman がまだ9歳だったため、後見役に指名されて王位についた(No. 63. Myson fragmentary Pillar Inscription of Paramabodhisatva dated 1003 Śaka.)。1088年に王位についたジャヤ・インドラヴァルマンは刻文のなかで、叔父の治世はダルマの実践であったとその人徳をたたえている(No 65. Myson stone slab inscription of Jaya Indravarman II dated 1010 Śaka.)。簒奪者とは考えられない。

 さて、もうひとりのパラマボディサットヴァは、パラメシュヴァラヴァルマン Parameśvaravarman 王の甥で、デヴァラジャ・マハーセナパティ Devarāja Mahāsenāpati としてパンドゥランガを平定した。パラメシュヴァラヴァルマン王の名前で、王にかわって彼がのこした刻文は多くある。1006年には、妻(姉?)のガルバ・ラクシュミ Garbha Laksmi、末子のプリャン・シュリ・ユヴァラジャ Pulyan Śri Yuvaraja とともに、占城王として自身の名でポー・ナガル寺院に寄進をおこなっている(No. 64. Po-Nagar Temple Inscription of Paramabodhisatva, dated 1006 Śaka.)。
 『宋史』占城伝の開宝四年(971)の記事はこの王となにか関係するのかもしれない。この年、占城王の悉利多盤、副国王の李耨、王妻の郭氏 Laksmi、子の蒲路鷄波羅 Pulyan Śri Yuvaraja 等が朝貢におとずれている(『宋史』占城)。

 叔父のパラメシュヴァラヴァルマン王は黎桓に殺された波美税とかさなる。彼の刻文はつぎのようなことを書いている。
 いつも悪意にみちてチャンパの王に反抗するパンドゥランガの人民を平定するために甥のデヴァラジャ・マハーセナパティを派遣した。それは972 Śaka年のことで、洞窟や森や山に逃げ込んだ人々を一網打尽に捕え、2度と反抗しない記憶として、彼らの手でその場に戦勝の石碑を建てさせたという( No. 54. Po Klaung Gerai rock inscription )。
 実際にそうした銘文のある石のひとつがニャチャンのちかくの洞窟でみつかっている(No. 56. Lai-Cham Inscription )。また、ポー・ナガル寺院には、土地にくわえて、チャム人、クメール人、中国人、タイ人などの奴隷55人を寄進している。マハーセナパティはさらにカンボジアのサムブプーラ Sambhupura まで遠征し、クメールの聖域を悉く破壊したうえで、多くの寺院に寄進し、リンガを奉納したという。刻文には、デヴァラジャ・マハーセナパティも敬虔な仏教徒であることが語られている。
 もしŚaka暦にしたがうと、仏逝が大越の攻撃にさらされて仏誓城があぶないかもしれないというときに、王は南部地方の平定を命じていたことになってしまう。

 パラメシュヴァラヴァルマンは、南部の平定が一段落すると、北部の平定に乗り出したのだろう。ところが、982年に志半ばで黎桓のために殺されてしまった。その後の混乱で、王子のルドラヴァルマンがどうなったかはわからない。『大越史略』によると、(大越)天福九年(989)に、管甲の楊進禄が驩州と愛州をもって占城王についてしまったので、親征してこれを擒え、二州を取りもどしたという。占城王についてはなにも書いていない。楊陀排(ハリヴァルマン)が仏逝国において新王であることを自称したのはその翌年である。パラマボディサットヴァが即位するのは1006年で、彼のいう16年間の暗黒時代は楊陀排をさすのかもしれない。

 三仏斉の使節が占城まで達して引き返したのは淳化三年(992)のことだった。三仏斉が闍婆に占領されたという訴えと、マハーセナパティのパンドゥランガ平定とは関係がありそうだ。ポー・ナガルに寄進された奴隷がそのさいの戦利品と考えるなら、国際色ゆたかな理由も納得がいく。
 パラマボディサットヴァはパンドゥランガ(と三仏斉)の王からチャンパを再統一した、と碑文は書くが、それは武力によるものではなかったような気がする。
 咸平六年(1003)に、パラマボディサットヴァは三仏斉王として朝貢にのぞみ、寺院の完成を報告している。朝貢と史書は書くが、これは勧進である。副使の無陁は僧侶だろう。度重なる戦禍で国土はあれていた。インドラプラにあった大乗仏教寺院ドンジュオン Dong Duong も黎桓の攻撃で破壊されていた。政治的にも不安定な三仏斉の地に大乗仏教の寺院を建てることで、彼は国土の統一をはかろうとしたのではないだろうか。

三仏斉滅亡

 明代にはいると、胡惟庸の乱にかかわって三仏斉の名前が顔を出す。
 胡惟庸は、日本や他の諸国と通じ、朝貢と称して海外から兵を集め、国の転覆を企てたとされる。洪武十三年(1380)に謀反は発覚し、膨大な数の関係者が処刑された。
 このとき、三仏斉は胡惟庸に同調して遣使を派遣するように願い出たという。三仏斉がスマトラにあったとしたら、中国まで挙兵に出かけると考えること自体にリアリズムがなくなる。現代でさえそのはずである。
 この事件について、明の皇帝朱元璋はこんな感想をもらしている。

 「洪武(1368-1399)の初めは、諸蕃から朝貢の絶えることがなかった。先ごろ、安南、占城、眞臘、暹羅、瓜哇、大琉球、三仏斉、浡泥、彭亨、百花、蘇門答剌、西洋等の三十国をそそのかして、胡惟庸が乱をおこした際、三仏斉は間諜して、使臣をよこすように願い出た。瓜哇王はそれを聞きつけて、人をやってこれを戒め、使臣を朝廷に送り返した。これより商旅は途絶し、諸国の意は通じなくなってしまった。およそ諸国の使臣が来れば、みなこれを歓待するのに、いまは諸国の心がどうなのかわからなくなっている。ついては、瓜哇に使いを送りたいが、三仏斉が途中でこれを阻む恐れがある。聞けば三仏斉はもと瓜哇の属国であるから、朕の意を述べてもよいだろうが、暹羅に諮り、瓜哇に伝達させよう。」(『明史』三仏斉)。

 ジャワ島への使いをスマトラ島の三仏斉が阻むことなどありえないとして、暹羅(タイのアユタヤ朝)に伝達させるとはどういう地理をしているのだろう? たしかに暹羅はマレー半島やマラッカにも勢力をはる大国に成長していたが、ジャワ島とは遠く離れている。考えられることは、暹羅と三仏斉のあいだにもうひとつの闍婆(『明史』の瓜哇)があったのではないかということである。これについては項をあらためて考えることにしよう(「赤土国はどこか?」にて)。
 三仏斉のほうは、帝の意向をジャワに伝えるまでもなく、再度闍婆の攻撃をうけて滅んでしまった。

爪哇はすでに三仏斉を破って、その国に拠り、三仏斉はその名を旧港と改めたので、三仏斉は遂に滅んだ。国中おおいに乱れ、瓜哇もまたその地にあってままならず、華人の流寓者がしばしばここに拠って起った。(『明史』卷三百二十四「外国」三仏斉

 三仏斉の旧領国に拠った華人の流寓者のなかには、洪武年間(1368-1398)に広東から逃れてきた陳祖義のような者もいて、徒党を組んで海賊行為をはたらいていた。陳祖義は鄭和の航海中に生け捕りにされ、中国に送還のうえ処罰されるという顛末があった(『瀛涯勝覽』旧港国)。
 旧港はスマトラ島のパレンバンとされ、この記事はパレンバンのことだと考えられている。鄭和は第一回の航海で、たしかにジャワやスマトラも訪問しているようだが、だからといって陳祖義がスマトラにいたことにはならない。

 三仏斉は滅亡当時三つの国にわかれていた(『明史』三仏斉)。本国のほかに、三仏斉詹卑国と三仏斉注輦国が朝貢国に顔をみせているが、これらはあくまで属国あつかいだったようだ。崇寧五年(1106)に蒲甘国(パガン)が朝貢にのぞんだ際に、蒲甘国はもはや大国なのに注輦のような属国とおなじ扱いなのはおかしいと文句をつけている(『宋史』蒲甘)。
 明代には、ジャワ島の杜板 tuban に広東や福建の人間が流れて住み着いていたというし、その東の新村 gresik は中国人のつくった町だったという。いずれも千戸ほどの家があったらしいから(『瀛涯勝覧』瓜哇)、どこに華人街があってもおかしくない時代になっていた。けれども、三仏斉滅亡後の混乱を語るなら、それはまず本国ベトナムの話でなければならない。

 三仏斉本国がほろび、実権は旧港に移されたが、それも長くはもたなかった。パレンバンを抜け出したパラメスワラがマラッカ王国を建国する経緯は、ポルトガル人のジョアン・デ バロスやトメ・ピレスも紹介している(『アジア史』『東方諸国記』)。パレンバンがジャワの攻撃で滅んだときに、そこにいたのは多くの中国人ではなく、多くのジャワ人だった。

 長くなりすぎたので、海洋国家としての三仏斉については項をあらためて。9世紀にアラブの商人が伝えたという話を最後にふりかえって本稿を閉じる。マラッカ海峡をさすと考えられてきた記事である。
 荒涼とした大地のつづく現在のベトナム中南部から往時の面影をしのぶことはできない。闍婆の亡霊? いや、闍槃の呪いを。

ザーバジュ

ザーバジュ Zabag の町は中国への入口にあたる。双方の距離は海路でひと月ほど、風向きがよければもっと早い。この町の王はサンスクリット語のマハラジャ(偉大な王)の名で知られる。この町を首都とする国の広さは900パラサン(※訳注:1 parasangは約3.5マイルとされる)平方ある。同時に王は1000パラサン以上も離れた範囲にある無数の島の君主でもある。それらの島々のなかで彼が治めるのは、400パラサン平方の広さのスリブザ Sribuza という島と、800パラサン平方のラーミー Râmî という島である。その島には蘇木や樟脳などの木が植林されている。また、マハラジャの所領には海洋国のカラー Kalah (マレー半島東岸のクラ Kra )があり、中国とアラビアをむすぶ経路の中間に位置している。カラー国の広さは80パラサン平方ある。カラーの町は交易品の市場であり、蘆薈、樟脳、白檀、象牙、錫、黒檀、蘇木をはじめ、あらゆる種類の香料やスパイスなど、書き尽くせないほどたくさんの産物があつまっている。オマーンの船が向かい、そしてオマーンへ向かう船が出る港はここである。
 マハラジャの権威はこれらの島々におよんでいる。マハラジャの住む島は豊かであり、人の密集が途切れることなく続いている。信頼できる人の話では、この国の鶏がアラビアでするように夜明けのときをつくると、つぎつぎと呼応して、国のはじまで100パラサン以上もそれが続く。その理由は、荒れ地も廃墟もなく、村が連なっているためである。この国を旅しようとするなら、徒歩でも馬でも気の向くままに進めばよい。歩くことに厭きたり、馬が疲れたなら、好きなところで泊まることができる。 (Ferrand, Gabriel, "Voyage du marchand arabe Sulaymân en Inde et en Chine, rédigé en 851, suivi de remarques par Abû Zayd Hasan (vers 916)", 1922) Canadian Libraries

(2008.05.03)  


(* 1)  マラッカ王国の歴史書『スジャラ・ムラユ(マレー年代記)』(16世紀初頭の作品を17世紀にはいって編纂)によると、茶全の王子のうち、Indera Berma Syahはマラッカに、Syah Palembangはアチェにのがれたという。 http://www.mataharibooks.com/sejarahmelayu/chapter-14-1/

チャンパ史年表
王朝史を追うことは本意ではないが、これをやらねば先にすすめないようである。ご容赦ねがいたい。刻文の年度が朱書されているものはŚaka暦のまま記している。これが誤りと考えるなら、78年を足せばよい。

以上、刻文の出典はすべて電子化されている R. C. Majumdar "Ancient Indian Colonies in the Far East.", 1927 によった。 Internet Archiv




赤土国はどこか?

 赤土国の名前はその土地が赤色であることに由来する。扶南や真臘に匹敵する大国でありながら、この国の位置比定はいまだにとんでもない藪の中、その結果いかんでは東南アジア古代史の枠組が変わりかねない。といっても、空想の余地はあまりないはずなのだが。

赤土国
常駿の行程

 大業三年(607)、煬帝の命で赤土国へ向かった屯田主事常駿らの一行は、十月に南海郡(広州)を発ち、順風にのって20日で林邑の沖合を通過、さらに南下を続けて、師子石に達する。ここより島嶼は連接し、2、3日で狼牙須国の山を西に望む。ここに於いて、南は鶏龍島まで達し、赤土の境界に至る。其の王は30艘の船をもってバラモン鳩摩羅 Kumāra を遣し、笙を吹き、鼓を打ち、楽をもって随の使節を迎えたという。赤土の都まではひと月あまりで達している(『隋書』赤土)。帰りには浮海十余日で林邑の東南に至るとあるから、広州まで1ヶ月強の行程ということだろう。
 なお、『資治通鑑』では大業四年三月に出発、十月に赤土国の王子那邪迦を従えてもどるとある(『資治通鑑』煬皇帝)。常駿は赤土国訪問に全体で200日以上かけている計算だ。ついでにちかくの丹丹国や婆利国、羅剎国などもめぐっていたのだろう。水行百餘日で赤土の都に達すると『隋書』の冒頭にあるのは、おそらく役人の職務報告の都合。それほど遠い国ではない。
 ちなみに、常駿一行を出むかえた鳩摩羅は漢代に仏典翻訳をおこなったことで有名な鳩摩羅什となにか関係するのかもしれない。

 赤土国は扶南の別種で、住居や器物は真臘と頗る類似するともいう。しかし、真臘の建物はつねに東面して建てられるのに対して、赤土国の王宮はみな北戸で、北面して座すのである。いや、オーストロネシア語族の通例にしたがい、ここは海に正面を向けてと書くべきだろうか。
 その国の東は波羅剌国、西は婆羅娑国、南は訶羅旦国、北は大海がはばみ、地方は数千里におよぶという。訶羅旦国の北にあるとしたら、それでは交州とかさなってしまうのではないだろうか??しかも、さらにその北が大海とは??

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シュリヴィジャヤの真相

 シュリヴィジャヤ Śri Vijaya という国名は東南アジア史のなかで一種独特のひびきをもって受け止められている。古代の東南アジアにインドや中国を股にかけて活躍した大海洋帝国があった!これはなんとロマンにみちた空想だろう!!

 実際のところ、シュリヴィジャヤの名があちこちの史料に顔をみせるわけではない。スマトラ島パレンバン周辺で発見されたいくつかの碑文(なかでもクドゥカン・ブキト Kedukan Bukit で発見された605 Śaka(683)年の銘のある碑文 Wikipedia )とマレー半島のリゴール Ligor 碑文( )、それにタミールナドゥのタンジョール Tanjur 碑文( Tanjavur temple inscriptions on the walls of the central shrine No.20 On the south Wall, first and second tiers What is India.com )にシュリ・ヴィジャヤという名があったといわれているだけのことである。
 タンジョール碑文は、チョーラ朝のラジェンドラ・チョーラ1世 Rajendra Chola I が遠征した東南アジアの国々を列挙したにすぎないし( Vijayam とあるだけ)、リゴール碑文は775年に寺院を寄進したシャイレンドラ朝の王の名( Śri Vijayendrarāja )として載せている。冷静に考えれば、おなじ王名があったからといって、おなじ「帝国」をしめすことにはならない。ましてや、ヴィジャヤ王というありふれた王名である。

 シュリヴィジャヤにかんする妄想がふくれあがったのは、フランスの歴史学者セデスが義浄の訪れた室利仏逝をシュリヴィジャヤに比定したことにはじまる。もっとも、ベトナム史のなかでは室利仏逝はシュリ・ヴィジャヤ以外の何者でもないのであって、セデスの主張はわざわざ話をややこしくしているだけのことだ。
 チャンパの都ヴィジャヤはベトナム史料では仏逝と書かれる。シュリは尊称にすぎないから、あってもなくても変わらない。中国史料はシュリに無節操なくらいてきとうな漢字をあてる。室利、舍利、釋利、悉利、施利、屍利、思離、施離、悉里、失里、昔里、師黎、、、といった案配で、義浄も自身の滞在地を室利仏逝(尸利仏逝、室利仏誓)と呼んだり、仏逝と呼んだりしている。

 咸亨2年(671年)11月、義浄は遂に番禺(広州)をあとにする。山にも似たる濤は海に横たわり、雲の如き浪は天にも滔るといった航海ではあったが、船出から20日にして仏逝に到着した(『大唐西域求法高僧伝』巻下)。義浄はここで半年間を天竺渡航の準備についやしている。よほど居心地のよい場所だったのだろう。10年あまりをインドですごした帰国の途次、義浄はふたたび仏逝に立ち寄り、今度は7年もの長きにわたって滞在する。「根本説一切有部」などの仏典の翻訳や著作をこなしたのは仏逝である。
 義浄の滞在した室利仏逝がヴィジャヤの仏誓城であることは議論の余地がないとして、問題は、天竺までの経路で立ち寄った末羅瑜や羯荼などの国々にあるだろうか。

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