高床をとおしてみた東南アジアの民家

日本の美術 NO.288 「民家と町並 近畿」 pp.85-96 (1990)

 東南アジアにはいったいどのくらいの数の民家形式が存在するだろう?

 ある民族学の概説書は東南アジア全体で約三〇〇の民族名をあげている(じっさいには東南アジアで話されている言語の種類は一〇〇〇ちかくにも達するのではないかとみられる)。ある人間集団が一定の民族意識を共有するためには、言語ばかりではなく、住まいの形式をはじめとするさまざまな物質的表象もまた重要な役割を演じてきた。それゆえ、同一民族内における建築形式の差異や生態的な条件のちがいによる変異を考慮すれば、東南アジアにはそれ以上の種類の民家形式が存在しているとかんがえられるであろう。交通の便の悪い山岳地帯や海洋にへだてられた小島に少数民族の多くが散在することも、比較的近年まで地域固有の民家形式の発展をうながす要因をなしていた。しかし、このような文化的な多様性の一方で、現実に東南アジア全体に共通の彩りをあたえる基層文化の存在も無視することはできない。民家におけるこうした共通項のうちで最大のものは高床の居住様式にある。巨視的にみれば東南アジア(このなかには中国南部やインド北東部、オセアニアの一部をふくむことにしよう)は世界的に高床住居の中心地のひとつとされる。日本の民家や神社の建築構造が東南アジアの高床住居となんらかの因果関係をもつとみなされてきたゆえんである。

 高床住居とはいうまでもなく、地面から一定の高さに床をもちあげて、そのうえで居住をいとなむ建築=生活様式のことであるが、なかにはこうした定義のあてはまらない例もある。フィリピン・ルソン島のボントック族は伝統的に地床(土間)居住をおこなう東南アジアのなかでも数少ない例外的民族にかぞえられる。ところが、ボントック族の住居は内部に四本柱に支えられた高床の建築構造をもち、建築様式のうえからはやはり高床住居の範疇にふくむことができる。また、インドネシアのロティ島では伝統的な居住様式は高床であるにもかかわらず、現在はその床下にベッドや椅子をならべ日常生活を一般には土間でおくる。ロティ島の例はオランダの入植以降、オランダ=ジャワ化された生活様式がインドネシア全土に普及してゆく過程でおこった比較的近年の事件である。

 住まいの形式が民族意識の形成に一役買っていると先述したが、このような事例は、住居の建築構造がたんに生活様式の直截な反映であるばかりでなく、民族間や世代間のイデオロギーに左右されることを雄弁に物語っている。土間で生活するボントック族にとって住居の内部に一見無用の高床空間を有することはいかなる意味をもつのであろうか。東南アジアの高床住居の特色と歴史を素描するにはこうした目に見えない事象にたいする理解が不可欠とされる。ここでは高床の意味と機能に注目しながら高床住居の系譜についてみてゆくことにしたい。




Bontoc
建設中のボントック族の住居 farey(finarey):内部に四本柱の支持する高床構造がみえる
Roti
ロティ島では高床住居であるにもかかわらず、その床下にベッドや椅子をならべ日常生活を土間でおくる

Bontoc
ボントック族の住居外観:家屋を意味する fale, bale などの言葉がオーストロネシア(マレー・ポリネシア)語族のあいだでひろくもちいられている。ボントック族のもとでは住居一般を afong とよび、高床をもつ形式だけにこの fale 系の名称がある


高床住居と穀倉

 ボントック族の住居を外からみると、矩形の平面に寄棟屋根をのせ、これといった特徴のない地床住居にみえるだろう。四隅に鼠返しを冠した掘立柱をたてて軒桁をささえ、地上から横板をならべて外周壁としているために、内部の構造はまったく隠されてしまっている。しかし、ひくい軒先をくぐると、住居の中心にさらに四本の掘立柱にささえられ、板壁をもつ高床空間を発見することになる。高床には炉の設備まである。それなのに、なぜかボントック族はその高床住居の下で日常生活をおくり、けっして高床のうえに住もうとはしないのである。

 ボントック族の住居に隠された高床の意味をあきらかにするには、ボントック族に接して居住地をもつイフガオ族の住居についてはじめに検討せねばならない。なぜなら、イフガオ族こそ本来の高床居住をおこなう民族であり、かれらはボントック族が周壁の内部におおい隠してしまった高床建築そのものを住居に利用しているからである。

 イフガオ族には住居とおなじ構造をした建物に穀倉がある。住居の主柱にもとりつけられた円盤型の鼠返しをみると、むしろ住居は穀倉からの転用なのではないかと想像されるが、じっさいイフガオ族では住居よりも穀倉の方にいっそう重要性があるようだ。穀倉には穀霊をかたどったブロルとよばれる木彫がおかれていて、米の収穫が終了すると村中のブロルは一ヶ所にあつめられ、酒をそそぎ、米でつくった菓子を顔に塗りつけて、豚や鶏が供犠される。穀倉は富裕なものだけしか所有していなかったので、穀倉のない場合にかぎりブロルは住居におかれた。イフガオ族のような水稲耕作民にとって、穀霊のやどる穀倉が高い象徴性を獲得するのは自然の成り行きでもあろう。しばしば遺体の埋葬も穀倉をかりておこなわれることがあった。穀倉内に一定期間のあいだ遺骸を安置しておくことはやはり死者の富や威信の表明手段となる。穀倉をあけて遺骨を正式に埋葬するさいには盛大な祭宴をもよおさねばならず、埋葬場としての穀倉の利用は、この祭宴にあたいするものだけに許された特権であった。(*1)

 さて、問題のボントック族のもとでも住居内の高床の使われる機会が毎年一回だけあった。やはり米の収穫後、各家では高床上にしつらえられた炉に火をおこして供犠のためのニワトリを調理する。各家でとりおこなわれるこの儀式の終了後、はじめて村をあげた収穫祝いの石合戦がはじまる。(*2) 収穫した米は村の一画にあつめられた穀倉群か、あるいは住居の一階におかれた米倉に保管される。したがって、この高床空間に米が貯蔵されることはほとんどないのであるが、農耕儀礼の執行をとおして、住居内の高床はボントック族においても穀倉とのアナロジーを反映している。

 高床の穀倉、つまり高倉そのものは日本でも南西諸島や八丈島に同様の建築構造をみることができるし、インドネシアのバリ島、ロンボック島のような地床居住のおこなわれる地域でも米倉として普遍的に使用されている。問題になるのは、イフガオ族でみたように、高床の穀倉が住居よりもはるかに高い社会的機能をにない、またその所有者に高い社会的地位を約束するような場合である。

 イフガオ族のもとでは、人の住まう住居は、米の収蔵庫である穀倉のもつ象徴的な意味を不完全なかたちで複写するそのレプリカにすぎないであろう。ボントック族のもとでも高床空間を内部にもつ住居形式は、高床をもたない一般の地床住居よりもずっとフォーマルな格式の高い建物とみなされている。

 あるいは古代の日本の例をここで想起してもよいかもしれない。登呂や山木の遺跡から発掘された板校倉式の高倉の建築細部は、同時期の竪穴住居とくらべてはるかに複雑で精度の高い加工をうけていた。また、銅鐸や土器片にのこされている建築画もほとんどは高倉を描いたものであり、穀倉が技術的な完成度の点でも、また社会的な機能のうえでも、社会集団の中心的な施設であったことがわかる。




Ifugao
イフガオ族の住居 bale :穀倉 alang と同一形式をした穀倉型住居の典型
Ifugao
bulol
Bali
バリ島の穀倉 jineng
Sasak
ロンボック島ササック族の穀倉 alang

Amami
奄美大島の群倉
Toro
登呂遺跡


穀倉型住居の特長

 ボントック族やイフガオ族の住居に代表される建築構造と象徴性をそなえた(高床)住居の形式を穀倉型住居とよぶことにする。東南アジアの島嶼部に分布する高床住居をしらべてゆくと、その多くに穀倉型住居との共通項があきらかとなる。ということは、この地域の高床住居は穀倉に起源をもつのであろうか。こうした推定を裏づける興味ぶかい事例が、インドネシアのレンバタ島にかんする民族誌のなかには報告されている。(*3)

 レンバタ島のケダン族はボントック族とおなじように地床住居で生活する民族である。しかし、ここにはかつて人々の住まいが高床の穀倉にあったという伝承がつたえられている。四本柱や六本柱でささえられた穀倉の下にさらに床を追加し、そのまわりを壁でかこんで住居にしていた。首狩りのおこなわれていた時代に、高床の穀倉に住まうことは敵の攻撃から身をまもる絶好の手段だったというのである。現在ある穀倉には住居であったことをしめす痕跡はなにも残されていないが、一般住居の建築構造にはやはり穀倉の構造が反映されている。住居には外壁があるので外観はことなるものの、住居の軸組である四本柱は、穀倉の高床を支持する構造の借用にすぎない。

 また、ケダン語で穀倉をさすウェタッ・リアンは「大きな家屋」の意味で、穀倉は一般住居よりも上位にランクされているようだ。穀倉のなかには儀礼のための道具類や出産後の臍の緒、穀霊を象徴するトーモロコシの初穂などの重要な品々を保管せねばならないので、御先祖様は穀倉のなくなることを欲しないのだ、と人々は信じている。一方、住居がそうした強制力を発揮することはないらしい。だから、ケダン族のもとでは穀倉だけが一般住居にはないさまざまな規制の対象となり、建築儀礼や民間信仰とむすびついているわけである。たとえば、あたらしい穀倉が完成すると、反時計回りに建物のまわりをまわりながら端部の木をけずりとり、その木屑を木の葉にくるんで海に流したり、あるいは、病気のさいにこうしてあつめられた木屑を水にまぜて飲んだりするという。

 ケダン族のように穀倉とはべつに地床式の穀倉型住居を建てている例はティモール島でも観察できる。

 ティモール島のアトニ族では、本来の穀倉は支配階級のものだけが所有する特殊な施設だった。このクラスの穀倉だと石積みの基壇に建ち、四本の主柱は長大な吊鐘型の屋根をささえているのが普通である。そうして軸組の柱梁や鼠返し、高床の裏側には、住居にはないヘビやトカゲなどの図像がところせましと描かれる。建設は支配下のものたちの共同作業によっておこなわれ、穀倉の床下は集会場としても利用された。公的な性格の穀倉にたいして、住居は核家族のための私的な空間であり、装飾もなく、ずっと簡素で規模も小さいのである。住居はもともと、中心の一本柱によって蜂窩状の屋根をささえていたらしいが、現在のアトニ族にある一般住居は、穀倉とまったく同様の四本柱構造を利用した形式に完全におきかわっている。その結果、住居のなかで四本柱がささえるのは高床ではなく、収穫したトーモロコシや米を貯蔵するための屋根裏である。この屋根裏には供犠のための聖石がおかれ、儀礼の執行を司る特別な人間だけがのぼる資格を有していた。(*4)

 住居の構造が穀倉の模倣であるように、屋根裏を神聖視する観念もたぶん穀倉に由来するものだろう。スンバ島には屋根裏が聖域と化してしまった典型的な住居形式が存在している。

 スンバ島の住居は、屋根の中央部が突出した独特の形態で知られる。氏族の中心家屋では、このとびだした屋根のなかに、マラプとよばれる父系祖先のための祭壇がもうけられ、各氏族を象徴する祖先伝来の家宝が安置されている。マラプはいわばスンバ人の精神世界の中心的存在で、たいていの儀礼や供犠はマラプにたいしてなされるのである。そのためにスンバ島では屋根裏は住居のなかでもっとも神聖な空間とみなされ、女や子供にはきびしい禁忌の対象となっている。(*5)

 この屋根裏もまた穀物の貯蔵には使用されない。それでも、スンバ島西部地方では中央の屋根をささえる四本柱の柱頭にはかならず鼠返しがはめられていて、屋根裏部分がじつは穀倉建築の変異形にほかならないことをしめしている。ケダン族にむかしあった住居は穀倉の下に居住のための高床を追加していたというが、スンバ島の住居はまさにその格好の見本になっている。また、別のいい方をすると、スンバ島の住居はちょうどボントック族の住居の規模を大きくしながら、土間の居住空間を全面的に高床化したものにちかい。じっさいに居住部の高床構造をささえる床束は、主柱や側柱といった屋根(穀倉)構造とは独立してきずかれ、建築構造上も居住部分があとからの追加であることを物語っている。

 高床穀倉の下に一時的な休息のための高床テラスをつけくわえた例は島嶼部の各地で広範囲にみられるが、スンバ島の住居形式はこうした高床テラスからの発展をしめすものとして興味ぶかい。スマトラ島のトバ・バタック族のような巨大な船型屋根をつくりあげた民族の住居も穀倉下のテラスに起源をもとめられるからである。

©minpaku digital archives
TOBA BATAK GRANARY "Sopo"
©minpaku digital archives
TOBA BATAK HOUSE "Ruma"

 アロール島でも、住居は鼠返しのある四本柱にのった穀倉型であり、穀倉部の下には高床のテラスがもうけられている。男たちは日常生活をもっぱら穀倉下のこのテラスですごすために、テラスには男専用の炉が据えられている。吹き放ちの仮設的なテラスから、壁に囲われた常設の床構造へと変化する過渡的な形態がここで再現されているのである。穀倉内で起居するのは女と子供にかぎられていて、かれらの居住空間の上にはやはり神聖な屋根裏がつくられている。アロール島でモコとよばれる銅鼓などの聖なる器物類がこの屋根裏に保管されるのである。(*6)




Timor
アトニ族の穀倉 lopo と住居 ume:高床、地床と外観はことなるものの建築構造的には共通する
Timor
アトニ族の住居内部
Timor
アトニ族の穀倉
Timor
穀倉をささえる主柱と鼠返し:アトニ族では穀倉だけがこうした装飾の対象となる
Sumba
スンバ島の住居 uma:突出した屋根の内部には氏族を象徴する種々の聖具がおかれている
Sumba
スンバ島住居の内部:神聖な屋根裏をささえる四本の柱
Flores
フローレス島リオ族の住居 sa'o:インドネシアには巨大に発展をとげた住居形式が多くみられるが、リオ族の場合も基本的な構造は穀倉型住居である
Sumatra
トバ・バタック族の住居 ruma:住居の居住空間は穀倉 sopo の床下にもうけられたテラスから発展した
Sumatra
アロール島では高床下のテラスに男専用の炉が据えられている


穀倉型住居の諸形式

 これまでの事例をもとにして床レベルのちがいから穀倉型住居をつぎの三形式に分類することができる。

Ⅰ 主柱の上の穀倉部分に居住空間がある形式
Ⅱ 主柱の中間(穀倉部分の下)に居住用の高床を追加した形式
Ⅲ 地上に土間の居住空間をもつ形式

 たとえば、イフガオ族はⅠ、スンバ島の住居やケダン族のむかしの住居形式はⅡ、ボントック族の住居やケダン族の現在の住居形式はⅢという具合である。

 ところで、イフガオ族のように穀倉そのものを住まいとする民族にドンゴ族がいる。ドンゴ族はスンバワ島の山地民で、かれらのもとにはレンゲとジョンパという二種類の穀倉型住居が併存している。レンゲというのは、高床組のうえに直接屋根構造がのった形式であり、それにたいして、ジョンパには屋根の下にヤシの葉や板を利用した壁がもうけられている。壁のあるジョンパは、壁のないレンゲより建築技術的にすすんだ構造で、スンバワ島には比較的あたらしくつたえられた形式であるらしい。住居内には「内部の空間」という名の小空間があって、穂刈りされた稲はこのなかに積みあげられている。つまり、この部分がドンゴ族の住居のルーツというわけだ。スンバワ島でも低地に住むビマ族のあいだでは、レンゲやジョンパといえば純然たる穀倉をさすときの言葉で、穀倉住まいはとっくに放棄されている。

 穀倉型住居の三形式に、ここで穀倉部分の壁の有無におうじて二類型をくわえよう。

a=壁をもたないもの(レンゲ型)
b=壁をもつもの(ジョンパ型)

のふたつである。(図1)

図1 穀倉型住居の形式:各事例をみると、Ⅰ→Ⅱ→Ⅲ、a→bという全体のながれが推定できる

 八世紀の建設といわれる中部ジャワのチャンディ・ボロブドゥールには壁面レリーフのなかに穀倉を描いたものがある。この穀倉は四本柱のうえに切妻屋根の穀倉本体をのせていて、柱の柱頭には鼠返しがはめられ、穀倉の壁面は外転びをしめしている。穀倉型住居の分類にしたがうなら(住居ではないだろうが)、イフガオ族とならんでⅠ-bにふくまれる。

 ボロブドゥールの例はすでに穀倉建築の完成された姿をつたえている。インドネシアにはトバ・バタック族やサダン・トラジャ族をはじめとする巨大に発達をとげた屋根をもつ住居建築がみられるが、これらはいずれも穀倉型住居の歴史のなかでは比較的あたらしい現象ではないかとかんがえられる。

 ボロブドゥールの穀倉とおなじ切妻屋根をのせたⅠ-bタイプの穀倉型住居がスラウェシ島のサダン・トラジャ族に継承されている。サダン・トラジャ族では住居と穀倉は同一形態の建物であり、葬式の際には死者の遺骸は住居から穀倉の床下の高床テラスにうつされて、死者の魂が穀霊に近づいてゆくことを暗示する。(*7)

 ヒンドゥー文化の中心であったジャワ島では穀倉建築が住居に利用されることはなかったのだろうか。ジャワ人のおもいえがく理想的住居には、もっとも手前にプンドポとよばれる接客用のホールがもうけられている。プンドポは家長が男の来客をむかえる空間であり、儀式の際にはさまざまな催しがこの場でおこなわれる。あつまった氏族のものたちはここでかれらの神々しい祖先の霊とふれる光栄に浴するのである。(*8)

 プンドポは中央でソコ・グルという名の神聖な四本柱によってささえられている。こうしたプンドポの性格はこれまでみてきた穀倉下の公的、男性的空間を想起させる。プンドポはⅢ-aタイプの穀倉型住居に非常にちかい形式をもつが、ここにはもはや神聖な高床も屋根裏も存在しない。農耕や豊穣にかかわる儀礼は、住居のもっとも奥にあるもうひとつの神聖な儀礼空間、コボンガン(クロボンガン)でおこなわれるからである。コボンガンはプンドポの男性的空間にたいして米の女神であるデウィ・スリ(ヴィシュヌ神の妻シュリーに由来する)の領域であり、ジャワの住居においては祖霊(男)と穀霊(女)の二元的な対立が物理的な建築構造をとおしても強調されてしまう。




Bali
バリ島トゥガナン村の共同穀倉 Bale Jineng :トゥガナン村はヒンドゥー・ジャワ化される以前のバリ文化をのこすといわれる。バリ島一般の穀倉とはことなり壁がない
Bali
穀倉下の高床テラスで儀礼用の食事の支度をする バリ島
Sumbawa
スンバワ島ドンゴ族の住居:壁のない Lengge と壁のある Jompa
Sumbawa
Lengge 床下の見上げ
Sumbawa
ビマ族の群倉: スンバワ島の平野部に住むビマ族のもとでは、jompa も lengge も穀倉につかわれる
Jawa
ボロブドゥールの浮彫りにえがかれた穀倉:第1回廊主壁第86面「ヒル大臣の船出と布施」(部分)。八世紀末~九世紀
Sulawesi
スラウェシ島サダン・トラジャ族の家屋 Tongkonan と穀倉 Alang
Jawa
ジャワ家屋正面のプンドポ:中央部の突出した屋根形をジョグロとよび、貴族の地位と威信の象徴であった
Jawa
ソコ・グル(四本の主柱)はプンドポの聖性に焦点をあたえる。ソコ・グルはかならず彫刻で飾られ、家屋建設に先だってソコ・グルの立柱式がおこなわれる(ススフナン宮殿、スラカルタ)


穀倉型住居の範囲

 穀倉型の高床建築は水稲耕作の技術複合として東南アジアの島嶼域から日本におよぶひろい地域につたえられたと想像されるが、根茎栽培に依存するオセアニアの一部にもその影響の痕跡をみとめることができる。

 オセアニアは一般に地床住居の分布地帯であり、棟持柱や真束を利用して屋根の棟木を支持する構造の建物が広範囲にみられる。しかし、ポリネシアのラカハンガ島に残るふるい形式の住居では、こうした構造によらずに、四本柱の軸組にのる合掌材によって棟木をささえている。合掌のかたちづくる屋根裏空間は寝室やココヤシの実などの倉庫につかわれるほか、氏族の神をまつる家ではここに首長の遺骸がならべられていた。(*9)

 穀倉型住居の特徴でもあるこうした高床(屋根裏)部分の象徴性をしめす例はニュージーランドのマオリ族にもある。

 マオリ族には一本柱や四本柱(規模によってはそれ以上の)にのった大小さまざまな規模の高倉がある。ポリネシアでは食物や家財道具を収納するために、住居とならんで倉庫を建てることがあるが、それらの倉庫はたいてい住居とおなじ構造をした、ずっと粗末な地床の建物であることが多い。だが、パタカとよばれるマオリ族の高倉は、村でもっとも大きく立派な建物であり、首長の権威をしめすために建物外壁はしばしば住居にはない過剰な彫刻でうめつくされていた。しかも、パタカの用途はたんなる物品の収納にとどまらない。とくに選ばれた村の子弟はその特殊な価値をそこなわないように、結婚までのあいだパタカに隔離して育てられたという。かりに結婚前の娘がパタカで生活すれば、それは処女性のあかしとなったのである。(*10)

 東南アジア大陸部の高床住居の形式にかんして述べる余裕がないが、穀倉をとおしてはじめて高床建築を受容したとおもわれる島嶼部とくらべると、高床の構造や機能にはかなりの相違がみられるようだ。オセアニアの住居形式が棟持柱や真束を屋根の支持にもちいると述べた。東南アジアの大陸部や、島嶼部の一部にみられる高床住居は、建築構造上このオセアニア型の地床住居にむしろちかいというのが筆者のかんがえである。その説明には、穀倉型住居とはことなる系統を用意せねばならない。





ラカハンガ島の住居 whare 断面 [BUCK 1932]

マオリ族の高倉 pataka [BEST 1916]


[参考文献]