ぼくのなかにひそむきみのために
郷太郎追悼文集 1989

 もうひとりのぼく(日本人)がいるといわれて、ぼくはきみのいる安ロスメンをたずねた。1985年9月15日、西スンバ県ワイカブバク、それはぼくがきみとはじめてめぐりあった時間と場所だ。そのときにきみは、のちにきみが短い一生を捧げることになったこの島での最初の予備調査に従事していた。ぼくの前にあらわれたきみの姿は、地下の実験室から今しがた出てきたばかりの科学者のような印象をあたえた。きみが東スンバへ戻るための乗り合いベモを待っていたその短い時間に、ぼくらはスンバ島にかんするお互いの情報を交換しあった。否、正確にいえば、ぼくは情報の受信者であったにすぎない。この地下室の科学者はおどろくべきタフネスぶりを発揮して、すでにスンバ中いたるところを精力的に歩きまわっていたからだ。ほどなく迎えのベモがあらわれ、東スンバでの再会を約し、きみは村人のしたたかさを発揮してこのベモに乗りこんでいった。ぼくの方はといえば、その日に訪問予定の村へむかうベモを首尾よくつかまえてとび乗ったものの、客席がうまり、乗客が戸口にあふれはじめるまでのかれこれ1時間半というもの、町のなかをただ行きつ戻りつするだけのベモの車中で地団駄ふんでいるより仕方なかったのだ。
 9月19日、東スンバ県。ンゴギという南部の村へむかうベモのなかにぼくたちはいた。乾期のまっ最中で車からみえるかぎり緑のない完璧に干あがったあれ野原のなかを道はつづいていた。ベモが急停車するたびに、まきあげた土けむりがいっせいに車の中にも舞いこみ、あたり一面をほこりの層で覆った。乗客たちはみな眉毛や睫毛のうえにまで一様に白い堆積をつくりながら平然と車の揺れに身をまかせていた。外国人であるぼくらだけが、運転席横の特等席をあたえられて、この被害からまぬがれていた。ベモはやがて橋のない川をわたり、この島の特徴である頂の風化したひくい山あいに飲みこまれていった。ぶこつな岩肌のうえに浮動性の土がゆるくかぶさっただけの急峻な斜面は、いきおいをつけなければ登りきることがむつかしかったし、下り坂では反対にブレーキを無効にした。道は何度もはげしい上下を繰りかえし、切りたった断崖にそってはしった。そうした断崖のところどころで、数棟の人家が身を寄せあい、ただ宇宙と山々のあいだで息をひそめているのが遠望できるのだった。地図のうえでは3時間程度の道のりにすぎなかったが、昼前に到着するというぼくたちの目論見はとうに狂っていた。午後にはいってもこの単調な危険と背中あわせの行軍に変化のきざしはみられなかった。ぼくらは顔を見あわせて、出発前に時間と料金を確認してこなかったあやまちを悔いた。われわれの行く手に待ちかまえるのがある種の真理や発見であろうと、あるいは不慮の死であろうと、われわれじしんの意志の力が状況を左右できる瞬間は限られている。調査の体験は、われわれにそうしたたぐいの諦念と覚醒、こういってよければ信仰心をうえつける。意志せざるものの象徴が死であるならば、われわれは死をまなぶのである。ベモが山間を抜け、緑なす平野の村に到着したのは、出発から7時間の後だった。
 この領国は、東スンバでもっとも富裕なラジャによって治められていた。ラジャはぼくらのいた町に定住していたから、ラジャの家では何人かいる妻のひとりがぼくたちをむかえた。きみは用意してきた電子式の体温計とラジャから託された手紙を彼女にわたし、一夜の宿をこうた。きみは自分では吸わないタバコをいつもウェストバッグにいれていた。彼女はそのタバコを要求し、習慣にしたがってぼくたちには檳榔子を勧めた。きみは、きみの帰属する文化の伝統であればきっと拒んだであろうその風習をすでに自分のものにしていた。ぼくにはそのような人類学者のストイシズムが滑稽だった。人類学者はなぜ、われわれの文化で異人であり発言者であろうとするほどに、かれらの文化のなかでも異人であろうとはしないのか。彼女は町から何時間かかったかを訊き、雨期であれば旅程は2、3日におよび、しばしば死者がでるという話をした。ぼくらはラジャがその声望にこたえるために建てたばかりのドルメンと慣習家屋に案内された。日本の放送局が取材に訪れるはずだったというそのドルメンは巨石を曳くかわりにセメントをこね、慣習家屋にはあちこちに釘の頭がとびだしていたが、それでも威容は四囲を圧倒し、臣下の村人のこころをうつに十分だった。すでに日は落ちていた。ぼくらはごくふつうの家屋をみつけだしてお互いの調査をした。夜おそくぼくらはラジャの家に戻り、こうした村の生活で可能な限り豪華な食事のもてなしをうけた。
 結局、わずか数時間の調査のためにぼくたちは往復14時間をバスのなかでともにすごしたことになる。きみはこの島にかんして発表された論文をすでにほとんどすべて読みおえていた。2年以内に、そして今度は本当の調査のためにきみはこの島のどこかで生活する希望を語り、ぼくはぼくじしんの自負を語った。きみはそのときぼくの使っているマラリアの予防薬がある種のマラリアには有効でないことを指摘し、ずっと効果的な新薬の存在を教えてくれた。あれ以来ふたたびきみと会うことはなかった。ぼくの帰国と入れ違いにきみはきみの希望を果たすためにこの島にやってきた。あらゆる事態に万事ぬかりなくそなえていたきみは不帰の人となり、ほとんど無計画で無軌道な調査に終始したぼくはこうしてきみの思い出をつづっている。けれども、ぼくがきみへの約束をまだ果たしてはいないように、ぼくのなかのきみもまた、ただあの地下の実験室に、ほこりばかりが存在を主張する乾期と、泥濘や河川の氾濫が自由をうばいさる雨期の支配するきみだけの実験室に、しばし舞い戻っているにすぎない。ぼくは、きみのなかで永遠に失われたぼくを悲しむほかはない。(1989- 4- 2)

Sumba bibliography by Taro Goh, with a foreword by James J. Fox. Canberra, Dept. of Anthropology, Research School of Pacific Studies, Australian National University, 1991. xi, 96p., 21 cm. Series: Occasional paper of the Department of Anthropology, Research School of Pacific Studies, the Australian National University. ISBN 0731512170.



乾期のまっ最中で車からみえるかぎり緑のない完璧に干あがったあれ野原のなかを道はつづいていた


ぼくらはラジャがその声望にこたえるために建てたばかりのドルメンと慣習家屋に案内され


ぼくらはごくふつうの家屋をみつけだしてお互いの調査をした