解釈に間違いがあってはいけないので原文を掲載しておきます。掲載にあたっては、古文書、漢籍の電子テクスト化に取り組んでいる機関や個人の方々の成果を校閲を含めて最大限活用させていただきました。
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 於是其妻須世理毘賣者。持喪具而。哭來。其父大神者。思已死訖。出立其野。爾持其矢以奉之時。率入家而。喚入八田間大室而。令取其頭之虱。故爾見其頭者。呉公多在。於是其妻。以牟久木實與赤土。授其夫。故咋破其木實。含赤土。唾出者。其大神。以爲咋破呉公。唾出而。於心思愛而寢。
 爾握其大神之髮。其室毎椽結著而。五百引石。取塞其室戸。負其妻須世理毘賣。即取持其大神之生大刀與生弓矢。及其天詔琴而。逃出之時。其天沼琴拂樹而。地動鳴。故。其所寢大神。聞驚而。引仆其室。然解結椽髮之間。遠逃。
 故爾追至黄泉比良坂。遙望。呼。謂大穴牟遲神曰。其汝所持之生大刀。生弓矢以而。汝庶兄弟者。追伏坂之御尾。亦追撥河之瀬而。意禮〈二字以音。〉爲大國主神。亦爲宇都志國玉神而。其我之女須世理毘賣。爲嫡妻而。於宇迦能山〈三字以音。〉之山本。於底津石根。宮柱布刀斯理〈此四字以音。〉於高天原。冰椽多迦斯理〈此四字以音。〉而居。是奴也。
 故持其大刀。弓。追避其八十神之時。毎坂御尾追伏。毎河瀬追撥而。始作國也。
 故其八上比賣者。如先期美刀阿多波志都。〈此七字以音。〉故其八上比賣者。雖率來。畏其嫡妻須世理毘賣而。其所生子者。刺狹木俣而返。故。名其子云木俣神。亦名謂御井神也。
 此八千矛神。將婚高志國之沼河比賣幸行之時。到其沼河比賣之家。歌曰。

夜知富許能。迦微能美許登波。夜斯麻久爾。都麻麻岐迦泥弖。登富登富斯。故志能久邇邇。佐加志賣遠。阿理登岐加志弖。久波志賣遠。阿理登伎許志弖。佐用婆比邇。阿理多多斯。用婆比邇。阿理迦用婆勢。多知賀遠母。伊麻陀登加受弖。淤須比遠母。伊麻陀登加泥婆。遠登賣能。那須夜伊多斗遠。淤曾夫良比。和何多多勢禮婆。比許豆良比。和何多多勢禮婆。阿遠夜麻邇。奴延波那伎奴。佐怒都登理。岐藝斯波登與牟。爾波都登理。迦祁波那久。宇禮多久母。那久那留登理加。許能登理母。宇知夜米許世泥。伊斯多布夜。阿麻波勢豆加比。許登能加多理其登母。許遠婆
(『古事記』上巻)
訓読:ここにそのミメ、スセリビメは、ハブリツモノをもちてナキツツきまし、そのちちのオオカミは、「すでにミウセヌ」とおもおして、そのヌにいでたたせば、すなわちかのヤをもちてたてまつるときに、いえにイテいりて、ヤタマのオオムロによびいれて、そのミかしらのシラミをとらせたまいき。かれそのミかしらをみれば、ムカデおおかり。ここにそのミメ、ムクのキノミとハニとをそのヒコジにさずけたまえば、そのコノミをくいやぶり、ハニをふふみてツバキいだしたまえば、そのオオカミ「ムカデをくいやぶりてツバキいだす」とおもおして、ミこころにハシクおもおしてミねましき。ここにそのオオカミのミかみをとりて、そのムロヤのタリキごとにゆいつけて、イオビキイワをそのムロのトにとりさえて、そのミメ、スセリビメをおいて、そのオオカミのイクダチ・イクユミヤまたそのアメのノリコトをとりもたして、にげいでますときに、そのアメのノリコトきにふれてツチとどろきき。かれそのミねませるオオカミききおどろかして、そのムロヤをひきたおしたまいき。しかれどもタリキにゆえるミかみトカスルあいだに、とおくにげたまいき。かれここにヨモツヒラサカまでおいいでまして、はろばろにミサケてオオナムジのカミをよばいてノリたまわく、「そのイマシがもたるイクダチ・イクユミヤをもて、イマシがアニオトどもをば、サカのミオにおいふせ、カワのセにおいはらいて、おれオオクニヌシのカミとなり、またウツシクニタマのカミとなりて、そのアがむすめスセリビメをムカイメとして、ウカのヤマのヤマモトに、ソコツイワネにミヤバシラふとしり、タカマノハラにヒギたかしりておれコヤツよ」とノリたまいき。かれそのタチ・ユミをもちて、かのヤソガミをおいサクルときに、サカのミオごとにおいふせ、カワのセごとにおいはらいて、クニツクリはじめたまいき。
口語訳:その妻の須世理毘賣は、葬式の道具をそろえ、泣きながら父のもとにやってきた。父の大神は「奴もとうとう死んだか」と思い、その野に出て見ると、大穴牟遅命が現れて、かの矢を奉った。そこで家に連れて帰り、八田間の大室に呼び入れて、頭のシラミを取らせた。大穴牟遅命がその頭を見ると、髪の間にはムカデがたくさんいた。そこで妻は椋の木の実と赤土を夫に与えた。大穴牟遅命がその木の実を食い破り、赤土を口に含んで吐き出すと、大神は彼がムカデを噛んで吐き出していると考え、内心「可愛い奴だ」と思って、うとうとと眠ってしまった。そこでその髪を室のあちこちの垂木ごとに結びつけ、五百人でなければ動かせないほど大きな石で室の戸口を塞ぎ、須世理毘賣を背負い、同時に大神が持っていた生大刀と生弓矢、および天詔琴を奪って逃げた。ところがそのとき天詔琴が木に触れて鳴り、地が轟いた。眠っていた大神は目を覚まして起き上がったところ、結い付けられていた髪で室屋を引き倒した。その髪をほどいている間に、大穴牟遅命は遠くに逃げ去ってしまっていた。須佐之男命は後を追って黄泉比良坂に到り、遙か遠くに見える大穴牟遅命に呼びかけて、「お前の持っている生大刀と生弓矢で、お前の兄弟たちを坂の尾に追い詰め、河の瀬に追い払い、おのれは大国主神となり、また宇都志國玉神となって、そのわが娘、須世理毘賣を正妻として、宇迦能山の山本に宮殿を建て、地の底に届くほどの柱を立て、高天の原に届くほど屋根を高く挙げて住め、この野郎め」とののしった。そこでその大刀と弓で、八十神たちを坂の尾ごとに追い詰め、河の瀬ごとに追い払って、ついに国造りを始めた。 (『古事記傳』10-3)
於是天津日高日子番能邇邇藝能命。於笠紗御前。遇麗美人。爾問誰女。答白之。大山津見神之女。名神阿多都比賣。〈此神名以音。〉亦名謂木花之佐久夜毘賣。〈此五字以音。〉又問有汝之兄弟乎。答白我姉石長比賣在也。爾詔。吾欲目合汝奈何。答白僕不得白。僕父大山津見神將白。故乞遣其父大山津見神之時。大歡喜而。副其姉石長比賣。令持百取机代之物奉出。故爾其姉者。因甚凶醜。見畏而返送。唯留其弟木花之佐久夜毘賣以。一宿爲婚。
爾大山津見神。因返石長比賣而。大恥。白送言。我之女二並立奉由者。使石長比賣者。天神御子之命。雖雨零風吹。恆如石而。常堅不動坐。亦使木花之佐久夜毘賣者。如木花之榮。榮坐宇氣比弖〈自宇下四字以音。〉貢進。此令返石長比賣而。獨留木花之佐久夜毘賣故。天神御子之御壽者。木花之阿摩比能微〈此五字以音。〉坐。故是以至于今。天皇命等之御命不長也。
故後木花之佐久夜毘賣。參出白。妾妊身。今臨産時。是天神之御子。私不可産。故請。爾詔。佐久夜毘賣。一宿哉妊。是非我子。必國神之子。爾答白。吾妊之子。若國神之子者。産不幸。若天神之御子者幸。即作無戸八尋殿。入其殿内。以土塗塞而。方産時。以火著其殿而産也。故其火盛燒時所生之子名火照命。〈此者隼人阿多君之祖。〉次生子名火須勢理命。〈須勢理三字以音。〉次生子御名火遠理命。亦名天津日高日子穂穂手見命。〈三柱〉
(『古事記』上卷)
さて、後に木花之佐久夜毘賣がやって来て、「私は身籠〔みごも〕り、今が産む時となりました。この天神〔あまつかみ〕▲の御子〔みこ〕は、私事〔わたくしごと〕として産むべきではありません。なのでお伝えします」と申し上げた。すると、「佐久夜毘賣〔サクヤビメ〕▲は一夜〔ひとよ〕で身籠〔みごも〕ったのか。これは我が子ではあるまい。きっと國神〔くにつかみ〕▲の子だ」と言った。そこで、「私の身籠〔みごも〕った子が、もし國神〔くにつかみ〕▲の子であれば無事に産まれないでしょう。もし天神〔あまつかみ〕▲の御子〔みこ〕であれば無事でしょう」と答えて、戸のない八尋殿〔やひろどの〕(*45)を作り、その御殿の中に入り、土で塗〔ぬ〕り塞〔ふさ〕いで、産む時になり、火をその御殿につけて産んだ。  そこで、その火が盛んに燃える時に生まれた子の名は火照〔ホデリ〕命▲。  <これは隼人阿多君〔はやひとのあたのきみ〕(*46)の祖である>。  次に生まれた子の名は火須勢理〔ホスセリ〕命▲。  次に生まれた子の御名〔みな〕は火遠理〔ホヲリ〕命▲。またの名は天津日高日子穂穂手見〔アマツヒコヒコホホデミ〕命▲である。<三柱>。


 故神倭伊波禮毘古命。從其地廻幸。到熊野村之時。大熊。髣髴出入即失。爾神倭伊波禮毘古命。〓忽爲遠延。及御軍皆遠延而伏。〈遠延二字以音。〉此時。熊野之高倉下。〈此者人名。〉齎一横刀。到於天神御子之伏地而。獻之時。天神御子即寤起。詔長寢乎。故受取其横刀之時。其熊野山之荒神。自皆爲切仆。爾其惑伏御軍。悉寤起之。
故天神御子。問獲其横刀之所由。高倉下答曰。己夢云。天照大神。高木神。二柱神之命以。召建御雷神而詔。葦原中國者。伊多玖佐夜藝帝阿理那理。〈此十一字以音。〉我之御子等。不平坐良志。〈此二字以音。〉其葦原中國者。專汝所言向之國故。汝建御雷神可降。爾答曰。僕雖不降。專有平其國之横刀。可降是刀。〈此刀名。云佐士布都神。亦名云甕布都神。亦名云布都御魂。此刀者。坐石上神宮也。〉降此刀状者。穿高倉下之倉頂。自其墮入。「故建御雷神教曰。穿汝之倉頂。以此刀堕入。」故阿佐米余玖〈自阿下五字以音。〉汝取持。獻天神御子。故如夢教而。旦見己倉者。信有横刀。故以是横刀而獻耳。
(『古事記』中巻「神武天皇」)
自其地幸行。到忍坂大室之時。生尾土雲〈 訓云具毛。 〉八十建。在其室待伊那流。〈 此三字以音。 〉
 故爾天神御子之命以。饗賜八十建。於是宛八十建。設八十膳夫。毎人佩刀。誨其膳夫等曰。聞歌之者。一時共斬。故明將打其土雲之歌曰。

 意佐加能。意富牟盧夜爾。比登佐波爾。岐伊理袁理。
(おさかの、おおむろやに、ひとさわに、きいりおり、)
 比登佐波爾。伊理袁理登母。美都美都斯。久米能古賀。
(ひとさわに、いりおりとも、みつみつし、くめのこが、)
 久夫都都伊。伊斯都都伊母知。宇知弖斯夜麻牟。美都美都斯。
(くぶつつい、いしつついもち、うちてしやまん。みつみつし、)
 久米能古良賀。久夫都都伊。伊斯都都伊母知。伊麻宇多婆余良斯
(くめのこらが、くぶつつい、いしつついもち、いまうたばよらし。)
(『古事記』中巻「神武天皇」)
於是天皇。惶其御子之。建荒之情而。詔之。「西方有熊曾建二人。是不伏无禮人等。故取其人等。」而遣。當此之時。其御髮結額也。爾小碓命。給其姨倭比賣命之御衣御裳。以小劔納于御懷而幸行。
故到于熊曾建之家見者。於其家邊。軍圍三重。作室以居。於是言動爲御室樂。設備食物。故遊行其傍。待其樂日。爾臨其樂日。如童女之髮。梳垂。其結御髮。服其姨之御衣御裳。既成童女之姿。交立女人之中。入坐其室内。
爾熊曾建兄弟二人。見感其孃子。坐於己中而。盛樂。故臨其酣時。自懷出劔。取熊曾之衣衿。以劔自其胸刺通之時。其弟建。見畏逃出。乃追至其室之椅本。取其背。以劔自尻刺通。
爾其熊曾建白言。莫動其刀。僕有白言。爾暫許押伏。於是白言。汝命者誰。爾詔。吾者坐纒向之日代宮。所知大八嶋國。大帶日子淤斯呂和氣天皇之御子。名倭男具那王者也。意禮熊曾建二人。不伏無禮聞看而。取殺意禮詔而遣。爾其熊曾建白。信然也。於西方。除吾二人。無建強人。然於大倭國。益吾二人而。建男者坐祁理。是以。吾獻御名。自今以後。應稱倭建御子。是事白訖。即如熟〓[艸+瓜]振折而。殺也。故自其時。稱御名謂倭建命。
然而。還上之時。山神河神。及穴戸神。皆言向和而參上。 (『古事記』中巻「景行天皇」)
ここにスメラミコト、そのミコのタケクあらきミココロをかしこみまして、ノリたまわく、「にしのかたにクマソタケルふたりあり。これまつろわずイヤなきヒトどもなり。かれそのヒトどもをとれ」とノリたまいてつかわしき。このときにあたりて、そのミカミ、ミひたいにゆわせり。ここにオウスのミコト、そのミオバ、ヤマトヒメのミコトにミソ・ミモをたまわり、タチをミふところにいれていでましき。かれクマソタケルがイエにいたりてみたまえば、そのイエのほとりにイクサみえにかくみ、ムロをつくりてぞいける。ここにニイムロウタゲせん」といいとよみて、オシモノをまけそなえたりき。かれそのアタリをあるきて、そのウタゲするヒをまちたまいき。ここにそのウタゲのヒになりて、そのゆわせるミかみオトメのかみのごとケズリたれ、そのミオバのミソ・ミモをけして、すでにオトメのすがたになりて、オミナどものなかにマジリたち、そのムロぬちにいりましき。ここにクマソタケルあにおとふたり、そのオトメをミめでて、おのがなかにませて、さかりにウタゲたり。かれそのタゲナワなるにいたりて、ミふところよりタチをいだし、クマソがころものくびをとりて、タチもてそのムネよりさしとおしたまうときに、そのおとタケル、ミかしこみてにげいでき。すなわちそのムロのハシのもとにおいいたりて、そのセをとらえ、タチもてシリよりさしとおしたまいき。ここにそのクマソタケルもうしつらく、「そのミタチをナうごかしたまいソ。われもうすべきことあり」ともうす。かれシマシゆるして、おしふせたまう。ここにもうしつらく、「ナがミコトはたれにますぞ」。「アはマキムクのヒシロのミヤにましまして、オオヤシマクニしろしめす、オオタラシヒコオシロワケのスメラミコトのミコ、ミナはヤマトオグナのミコにます。おれクマソタケルふたり、まつろわずイヤなしときこしめして、おれをとれとノリたまいてつかわせり」とノリたまいき。ここにそのクマソタケル、「まことにシカまさん。にしのかたにアレふたりをおきて、タケクこわきひとなし。しかるにオオヤマトのクニに、アレふたりにましてたけきオはいましけり。ここをもてアレ、ミナをたてまつらん。いまよりのちヤマトタケのミコとたたえもうすべし」ともうしき。このこともうしおえつれば、すなわちホゾチのごとふりさきてコロシたまいき。そのときよりぞミナをたたえてヤマトタケのミコトとはもうしける。しかしてかえりのぼりますときに、やまのカミ・かわのカミまたアナドのカミをみなことむけやわしてマイのぼりましき。
初大后。坐日下之時。自日下之直越道。幸行河内。爾登山上。望國内者。有上堅魚。作舍屋之家。天皇。令問其家云「其上堅魚作舍者。誰家。」答白「志幾之大縣主家。」 爾天皇詔者「奴乎。己家。似天皇之御舍而造。」即遣人。令燒其家之時。其大縣主懼畏。稽首白「奴有者。隨奴不覺而。過作。甚畏。故獻能美之御幣物。」〈能美二字以音。〉布縶白犬。著鈴而。己族名謂腰佩人。令取犬繩以獻上。故令止其著火。
即幸行。其若日下部王之許。賜入其犬。令詔「是物者。今日得道之奇物。故都摩杼比〈此四字以音。〉之物」云而賜入也。
於是若日下部王。令奏天皇。「背日幸行之事。甚恐。故己直參上而仕奉。」
是以。還上坐於宮之時。行立其山之坂上歌曰。

 久佐加辨能。許知能夜麻登。多多美許母。幣具理能夜麻能。許知碁知能。夜麻能賀比爾。多知邪加由流。波毘呂久麻加斯。母登爾波。伊久美陀氣淤斐。須惠幣爾波。多斯美陀氣淤斐。伊久美陀氣。伊久美波泥受。多斯美陀氣。多斯爾波韋泥受。能知母久美泥牟。曾能淤母比豆麻。阿波禮。 (『古事記』下巻「雄略天皇」)
其地有一人。自號事勝國勝長狹。皇孫問曰、國在耶以不。對曰、此焉有國。請任意遊之。故皇孫就而留住。時彼國有美人。名曰鹿葦津姬。亦名神吾田津姬。亦名木花之開耶姬。皇孫問此美人曰、汝誰之女子耶。對曰、妾是天神娶大山祇神、所生兒也。皇孫因而幸之。卽一夜而有娠。皇孫未信之曰、雖復天神、何能一夜之間、令人有娠乎。汝所懷者、必非我子歟。故鹿葦津姬忿恨、乃作無戸室、入居其內、而誓之曰、妾所娠、非天孫之胤、必當𤓪滅。如實天孫之胤、火不能害。卽放火燒室。始起烟末生出之兒、號火闌降命。是隼人等始祖也。火闌降、此云褒能須素里。次避熱而居、生出之兒、號彦火火出見尊。次生出之兒、號火明命。是尾張連等始祖也。凡三子矣。久之天津彦彦火瓊瓊杵尊崩。因葬筑紫日向可愛此云埃。之山陵。
(『日本書紀』巻第二「神代下」第九段)
この後、神吾田鹿葦津姫〔カムアタカシツヒメ〕が皇孫を見て、「私は天孫の子を娠みました。自分だけで生むべきではありません」と言うと、皇孫は、「たとえ天神の子であっても、どうして一夜にして人を娠ませられるのか。もしや我が子ではないのではないか」と言った。木花開耶姫は大いに恥じ恨んで、戸口のない小屋を作り、誓を立てて、「私が娠んだのがもし他の神の子ならば、きっと不幸になるでしょう。本当に天孫の子ならば、きっと無事に生まれるでしょう」と言って、その小屋の中に入り、火をつけて小屋を焼〔や〕いた。  その時、炎が立ち昇りはじめた時に生まれた子を火酢芹〔ホスセリ〕命▲と言う。   次に、火の燃え盛〔さか〕る時に生まれた子を火明〔ホアカリ〕命▲と言う。   次に、生まれた子を彦火火出見〔ヒコホホデミ〕尊▲と言う。または火折〔ホヲリ〕尊▲と言う。
天皇獨與皇子手硏耳命、帥軍而進、至熊野荒坂津。亦名丹敷浦。因誅丹敷戸畔者。時神吐毒氣、人物咸瘁。由是、皇軍不能復振。時彼處有人。號曰熊野高倉下。忽夜夢、天照大神、謂武甕雷神曰、夫葦原中國猶聞喧擾之響焉。聞喧擾之響焉、此云左揶霓利奈離。宜汝更往而征之。武甕雷神對曰、雖予不行、而下予平國之劒、則國將自平矣。天照大神曰、諾。諾、此云宇毎那利。時武甕雷神、登謂高倉下曰、予劒號曰韴靈。韴靈、此云赴屠能瀰哆磨。今當置汝庫裏。宜取而獻之天孫。高倉下曰唯々而寤之。明旦、依夢中教、開庫視之。果有落劒、倒立於庫底板。卽取以進之。于時、天皇適寐。忽然而寤之曰、予何長眠若此乎。尋而中毒士卒、悉復醒起。既而皇師、欲趣中洲。 (『日本書紀』巻第三「神武天皇即位前紀」)
三月辛酉朔丁卯。下令曰。自我東征於茲六年矣。頼以皇天之威。凶徒就戮。雖辺土未清。余妖尚梗。而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都、規大壮。而今運属此屯蒙。民心朴素。巣棲穴住。習俗惟常。夫大人立制。義必随時。苟有利民。何妨聖造。且当披払山林。経営宮室。而恭臨宝位。以鎮元元。上則答乾霊授国之徳。下則弘皇孫養正之心。然後兼六合以開都。掩八紘而為宇、不亦可乎。観夫畝傍山〈 畝傍山。此云宇禰縻夜摩。 〉東南橿原地者。蓋国之墺区乎。可治之。 (『日本書紀』巻第三「神武天皇即位前紀」前六六二年)
八十七年春二月丁亥朔辛卯、五十瓊敷命、謂妹大中姬曰、我老也。不能掌神寶。自今以後、必汝主焉。大中姬命辭曰、吾手弱女人也。何能登天神庫耶。神庫、此云保玖羅。五十瓊敷命曰、神庫雖高、我能爲神庫造梯。豈煩登庫乎。故諺曰、天之神庫隨樹梯之、此其縁也。然遂大中姬命、授物部十千根大連而令治。故物部連等、至于今治石上神寶、是其縁也。昔丹波國桑田村有人。名曰甕襲。則甕襲家有犬。名曰足往。是犬咋山獸名牟士那而殺之。則獸腹有八尺瓊勾玉。因以獻之。是玉今有石上神宮也。 (『日本書紀』巻第六「垂仁天皇」八十七年)
十二月。到於熊襲国。因以伺其消息及地形之嶮易。時熊襲有魁帥者。名取石鹿文。亦曰川上梟帥。悉集親族而欲宴。於是。日本武尊解髪作董女姿。以密伺川上梟帥之宴時。仍佩剣裀裏。入於川上梟帥之宴室。居女人之中。川上梟帥感其童女之容姿。則携手同席。挙坏令飲而戯弄。于時也更深人闌。川上梟帥且被酒。於是。日本武尊抽裀中之剣。刺川上梟帥之胸。未及之死。川上梟帥叩頭曰。且待之。吾有所言。時日本武尊留剣待之。川上梟帥啓之曰。汝尊誰人也。対曰。吾是大足彦天皇之子也。名曰本童男也。川上梟帥亦啓之曰。吾是国中之強力者也。是以当時諸人。不勝我之威力。而無不従者。吾多遇武力矣。未有若皇子者。是以賤賊陋口以奉尊号。若聴乎。曰。聴之。即啓曰。自今以後号皇子。応称日本武皇子。言訖。乃通胸而殺之。故至于今、称曰日本武尊。是其縁也。然後遣弟彦等、悉斬其党類。無余噍。既而従海路還倭。到吉備以渡穴海。其処有悪神。則殺之。亦比至難波。殺柏済之悪神。 (『日本書紀』巻第七「景行天皇」二十七年)
秋七月癸未朔戊戌。天皇詔群卿曰。今東国不安。暴神多起。亦蝦夷悉叛。屡略人民。遣誰人以平其乱。群臣皆不知誰遣也。日本武尊奏言。臣則先労西征。是役必大碓皇子之事矣。時大碓皇子愕然之。逃隠草中。則遣使者召来。爰天皇責曰。汝不欲矣、豈強遣耶。何未対賊。以予懼甚焉。因此遂封美濃。仍如封地。是身毛津君。守君凡二族之始祖也。於是。日本武尊雄誥之曰。熊襲既平。未経幾年。今更東夷叛之。何日逮于大平矣。臣雖労之。頓平其乱。則天皇持斧鉞。以授日本武尊曰。朕聞。其東夷也。識性暴強。凌犯為宗。村之無長。邑之勿首。各貪封堺。並相盗略。亦山有邪神。郊有姦鬼。遮衢塞径。多令苦人。其東夷之中。蝦夷是尤強焉。男女交居。父子無別。冬則宿穴。夏則住樔。衣毛飲血。昆弟相疑。登山如飛禽。行草如走獣。承恩則忘、見怨必報。是以箭蔵頭髻。刀佩衣中。或聚党類。而犯辺界。或伺農桑。以略人民。撃則隠草。追則入山。故往古以来。未染王化。今朕察汝人也。身体長大。容姿端正。力能扛鼎。猛如雷電。所向無前。所攻必勝。即知之。形則我子。実則神人。是寔天愍朕不叡。且国不平。令経綸天業。不絶宗廟乎。亦是天下。則汝天下也。是位則汝位也。願深謀遠慮。探姦伺変。示之以威。懐之以徳。不煩兵甲。自令臣隷。即巧言而調暴神。振武以攘姦鬼。於是。日本武尊乃受斧鉞。以再拝奏之曰。嘗西征之年。頼皇霊之威。堤三尺剣。撃熊襲国。未経浹辰。賊首伏罪。今亦頼神祗之霊。借天皇之威。往臨其境。示以徳教。猶有不服。即挙兵撃。仍重再拝之。天皇則命吉備武彦与大伴武日連。令従日本武尊。亦以七掬脛為膳夫。(『日本書紀』巻第七「景行天皇」四十年)
三十一年秋八月。詔群卿曰。官船名枯野者。伊豆国所貢之船也。是朽之不堪用。然久為官用。功不可忘。何其船名勿絶、而得伝後葉焉。群卿便被詔、以令有司。取其船材、為薪而焼塩。於是得五百籠塩。則施之周賜諸国。因令造船。是以諸国一時貢上五百船。悉集於武庫水門。当是時。新羅調使共宿武庫。爰於新羅停忽失火。即引之及于聚船。而多船見焚。由是責新羅人。新羅王聞之。讋然大驚。乃貢能匠者。是猪名部等之始祖也。(『日本書紀』巻第十「応神天皇」三一年)
是歳。額田大中彦皇子猟于闘鶏。時皇子自山上望之。瞻野中、有物。其形如廬。仍遣使者令視。還来之曰。窟也。因喚闘鶏稲置大山主。問之曰。有其野中者何窟矣。啓之曰。氷室也。皇子曰。其蔵如何。亦奚用焉。曰。掘土丈余。以草蓋其上。敦敷茅・荻。取氷以置其上。既経夏月而不泮。其用之。即当熱月、漬水酒以用也。皇子則将来其氷。献于御所。天皇歓之。自是以後。毎当季冬、必蔵氷。至于春分始散氷也。 (『日本書紀』巻巻十一「仁徳天皇」六二年)
秋九月。木工猪名部真根以石為質、揮斧斲材。終日斲之、不誤傷刃。天皇遊詣其所。而怪問曰、恒不誤中石耶。真根答曰。竟不誤矣。乃喚集采女。使脱衣裙而著犢鼻、露所相撲。於是。真根暫停。仰視而斲。不覚手誤傷刃。天皇因嘖譲曰。何処奴。不畏朕。用不貞心、妄輙答。仍付物部、使刑於野。爰有同伴巧者。歎惜真根、而作歌曰。

婀柁羅斯枳。偉儺謎能陀倶弥。柯該志須弥儺皤。旨我那稽麼。柁例柯柯該武預。婀柁羅須弥儺皤。
(あたらしき ゐなべのたくみ かけしすみなは しがなけば たれかかけむよ あたらすみなは)

天皇聞是歌、反生悔惜。喟然頽歎曰。幾失人哉。乃以赦使、乗於甲斐黒駒。馳、詣刑所。止而赦之。 (『日本書紀』巻第十四「雄略天皇」一三年)
1出雲(いずも)国風土記』 2『常陸(ひたち)国風土記』 3『播磨(はりま)国風土記』 4『肥前国風土記』 5『豊後(ぶんご)国風土記』
古老曰,昔,在国巣,俗語,都知久母。又云,夜都賀波岐。山之佐伯,野之佐伯。普置堀土窟,常居穴。有人来,則入窟而竄之。其人去,更出郊以遊之。狼性梟情,鼠窺掠盗。無被招慰,弥阻風俗也。
此時,大臣族黒坂命,伺候出遊之時,茨蕀施穴内,即縦騎兵,急令遂迫。佐伯等,如常走帰土窟,尽繋茨蕀,衝害疾死散。故取茨蕀,以着県名。所謂茨城郡,今存那珂郡之西。古者,郡家所置,即茨城郡内。風俗諺云,水泳茨城之国。
或曰,山之佐伯,野之佐伯,自為賊長,引率徒衆,横行国中,大為劫殺。時,黒坂命,規滅此賊,以茨造城。所以,地名便謂,茨城焉。 (『常陸國風土記』「茨城郡」)
於是,有国栖,名曰,夜尺斯・夜筑斯二人,自為首帥,堀穴造堡,常所居住。覘伺官軍,伏衛拒抗,建借間命,縦兵駈追,賊尽逋還,閉堡固禁。俄而,建借間命,大起権議,校閲敢死之士,伏隠山阿,造備滅賊之器。厳芳海餝,連舟編筏,飛雲蓋,張虹旌。天之鳥琴,天之鳥笛,隨波逐潮,杵島唱曲,七日七夜,遊楽歌舞。于時,賊黨,聞盛音楽,挙房男女,悉尽出来,傾浜歓咲。
建借間命,令騎士閉堡,自後襲撃,尽囚種属,一時焚滅。
此時,痛殺所言,今謂,伊多久之郷。臨斬所言,今謂,布都奈之村。安殺所言,今謂,安伐之里。吉殺所言,今謂,吉前之邑。


従此以南,芸都里。古,有国栖,名曰,寸津毘古・寸津毘売二人。其寸津毘古,当天皇之幸,違命背化,甚无肅敬。爰抽御剣,登時斬滅。於是,寸津毘売,懼悚心愁,表挙白幡,迎道奉拝。天皇,矜降恩旨,放免其房。更廻乗輿,幸小抜野之頓宮,寸津毘売,引率姉妹,信竭心力,不避風雨,朝夕供奉。天皇,歎其愨懃恵慈。所以,此野謂宇流波斯之小野。 (『常陸國風土記』「行方郡」)
室原泊。所以号,室者,此泊,防風如室。故因為名。 (『播磨国風土記』「揖保郡」)
石井郷,在郡南。昔者,此村有土蜘蛛之堡。不用石,築以土。因斯名袁,無石堡。後人謂,石井郷,誤也。 (『豐後国風土記』「日田郡」)
昔者,纏向日代宮御宇天皇,欲誅球磨贈於,幸於筑紫,従周防国佐婆津,発船而渡,泊於海部郡宮浦。時,於此村有女人,名曰,速津媛,為其処之長。即聞天皇行幸,親自奉迎,奏言。「此山有大磐窟,名曰鼠磐窟。土蜘蛛二人住之。其名曰,青・白。又,於直入郡祢疑野,有土蜘蛛三人,其名曰,打猿・八田・国摩侶。是五人,並為人強暴,衆類亦多在。悉皆謡云『不従皇命』。若強喚者,興兵矩焉。」
於茲,天皇遣兵,遮其要害,悉誅滅。因斯,名曰速津媛国。後人改曰,速見郡。 (『豐後国風土記』「速見郡」)
宇禰備能可志婆良能宮御宇天皇世,偽者,土蛛。此人,恒居穴中。故,賜賤号曰,土蛛。 連等之初祖。(『摂津国風土記』逸文)
(『貞観儀式』)
 八十日日は在れども、今日の生日の足日に、出雲国の国造姓名、恐み恐みも申し賜はく、  挂けまくも畏き明御神と大八嶋国知食す天皇命の手長の大御世と斎ふと〔若し後の斎の時には後の字を加へよ〕して、出雲国の青垣山の内に、下津石根に宮柱太敷き立て、高天原に千木高知り坐す伊射那伎の日真名子、加夫呂伎熊野大神櫛御気野命、国作り坐しし大穴持命、二柱の神を始めて、百八十六社に坐す皇神等を、某甲が弱肩に太襷取挂けて、伊都幣の緒結び、天乃美賀祕冠りて、伊豆の真屋に麁草を伊豆の席と刈り敷きて、伊都閉黒益し、天乃・和に斎みこもりて、志都宮に忌み静め仕へ奉りて、朝日の豊栄登に、伊波比の返事の神賀吉詞、奏し賜はくと奏す。
(『延喜式祝詞』出雲国造神賀詞)
戊午秋九月望,從離宮遷幸山田原之新殿,奉振御舩代御樋代之內,樋代則天之小宮之日座儀也。故謂 - 天御蔭日御蔭と(登)隱坐祝言緣也。船代則謂天材木船屋之靈。故瑞舍名號屋船緣也。天御蔭日,御翳隱坐古語也。以天衣奉餝之,如日小宮儀也。依天照太神御託宣,太神第一攝神多賀宮,伊弉諾尊尊洗右眼,因以生。名號 - 伊吹戶主神。即太神分身坐。故,名曰 - 太神荒魂也。奉傍止由氣宮也。御形,靈鏡坐。在昔天鏡神鑄造三面真經津鏡是也。一面者,天御中主神寶鏡。二面,則伊弉諾尊,伊弉冉尊相受轉持左右掌,日神,月神所化之寶鏡是也。一面,荒祭神御靈坐也。 (『豐受皇太神宮御鎮座本紀』)
かの十五日、、、、家にまかりて、築地の上に千人、屋の上に千人、家の人々いと多かりけるに合はせて、あけるひまもなく守らす。この守る人々も弓矢を帯して、母屋の内には、女どもを番にをりて守らす。女、塗籠の内に、かぐや姫をいだかへてをり。翁、塗籠の戸をさして、戸口にをり。翁のいはく、「かばかり守る所に、天の人にも負けむや」と言ひて、 (『竹取物語』)
年来(としごろ)の御伝り物ども、数知らず塗籠にて焼けぬ(『栄花物語』巻12「玉の村菊」)
鎌田兵衛は、忠宗に向て酒をのみけるが、此よしをきゝてつい立所を、酌取ける男、刀をぬいてとびかゝる。政家と(っ)て引よせ、其かたなをも(っ)て二刀さす所を、うしろより景宗本頸をう(っ)てうちおとす。鎌田も今年卅八、頭殿と同年にてうせにけり。玄光法師は、頭殿うたれ給ひぬときいて、「是は鎌田がわざにてぞ有らむ。先政家をうたん。」とて、長太刀持てはしりまはりけるが、鎌田もはやうたれぬときゝて、「さらば長田めを討ばや。」とて、金王丸と二人、面もふらず切(っ)てまはり、あまたの敵切ふせて、塗籠の口までせめ入けれども、美濃・尾張のならひ、用心きびしき故に、帳台のかまへしたゝかにこしらへたれば、力なく長田父子をば討えずして、馬屋にはしり入て馬引出し、うちのり<、「とゞめむと思はゞとゞめよ。」とよばゝりけれ共、遠矢少々射かけたる計にて、近付者なかりしかば、玄光はわしのすにとゞまり、金王は都へのぼりけり。 (『平治物語』巻之二)
101 信濃国の聖の事
今は昔、信濃国に法師ありけり。さる田舎にて法師になりにければ、まだ受戒もせで、いかで京に上りて、東大寺といふ所にて受戒せんと思ひて、とかくして上りて、受戒してけり。
さてもとの国へ帰らんと思ひけれども、よしなし、さる無仏世界のやうなる所に帰らじ、ここに居なんと思ふ心つきて、東大寺の仏の御前に候ひて、いづくにか行して、のどやかに住みぬべき所あると、万の所を見まはしけるに、未申方に当りて、山かすかに見ゆ。そこに行ひて住まんと思ひて行きて、山の中に、えもいはず行ひて過す程に、すずろに小さやかなる廚子仏を、行ひ出したり。毘沙門にてぞおはしましける。
そこに小さき堂を建てて、据ゑ奉りて、えもいはず行ひて、年月経る程に、この山の麓に、いみじき下種徳人ありけり。そこに聖の鉢は常に飛び行きつつ、物は入れて来けり。大なる校倉のあるをあけて、物取り出す程に、この鉢飛びて、例の物乞ひに来たりけるを、「例の鉢来にたり。ゆゆしくふくつけき鉢よ」とて、取りて、倉の隅に投げ置きて、とみに物も入れざりければ、鉢は待ち居たりける程に、物どもしたため果てて、この鉢を忘れて、物も入れず、取りも出さで、倉の戸をさして、主帰りぬる程に、とばかりありて、この倉すずろにゆさゆさと揺ぐ。「いかにいかに」と見騒ぐ程に、揺ぎ揺ぎて、土より一尺ばかり揺ぎあがる時に、「こはいかなる事ぞ」と、怪しがりて騒ぐ。「まことまこと、ありつる鉢を忘れて取り出でずなりぬる、それがしわざにや」などいふ程に、この鉢、倉より漏り出でて、この鉢に倉乗りて、ただ上りに、空ざまに一二丈ばかり上る。さて飛び行く程に、人々ののしり。あさみ騒ぎ合ひたり。倉の主も、更にすべきやうもなければ、「この倉の行かん所を見ん」とて、尻に立ちて行く。そのわたりの人々もみな走りけり。さて見れば、やうやう飛びて、河内国に、この聖の行ふ山の中に飛び行きて、聖の坊の傍に、どうと落ちぬ。
いとどあさましと思ひて、さりとてあるべきならねば、この倉主、聖のもとに寄りて申すやう、「かかるあさましき事なん候。この鉢の常にまうで来れば、物入れつつ参らするを、今日紛はしく候ひつる程に、倉にうち置きて忘れて、取りも出さで、錠をさして候ひければ、この倉ただ揺ぎに揺ぎて、ここになん飛びてまうで落ちて候。この倉返し給り候はん」と申す時に、「まことに怪しき事なれど、飛びて来にければ、倉はえ返し取らせじ。ここにかやうの物もなきに、おのづから物をも置かんによし。中ならん物は、さながら取れ」とのたまへば、主のいふやう、「いかにしてか、たちまちに運び取り返さん。千石積みて候なり」といへば、「それはいとやすき事なり。たしかに我運びて取らせん」とて、この鉢に一俵を入れて飛すれば、雁などの続きたるやうに、残の俵ども続きたる。群雀などのやうに、飛び続きたるを見るに、いとどあさましく貴ければ、主のいふやう、「暫し、皆な遣はしそ。米二三百石は、とどめて使はせ給へ」といへば、聖、「あるまじき事なり。それここに置きては、何にかはせん」といへば、「さまでも、入るべき事のあらばこそ」とえお、主の家にたしかにみな落ち居にけり。
かやうに貴く行ひて過す程に、その比延喜の御門、重く煩はせ給ひて、さまざまの御祈ども、御修法、御読経など、よろづにせらるれど、更に怠らせ給はず。ある人の申すやう、「河内国信貴と申す所に、この年来行ひて、里へ出づる事もせぬ聖候なり。それこそいみじく貴く験ありて、鉢を飛し、さて居ながら、よろづあり難き事をし候なれ。それを召して、祈らせさせ給はば、怠らせ給ひなんかし」と申せば、「さらば」とて、蔵人を御使にて、召しに遣はす。
行きて見るに、聖のさま殊に貴くめでたし。かうかう宣旨にて召すなり、とくとく参るべき由いへば、聖、「何しに召すぞ」とて、更々動きげもなければ、「かうかう、御悩大事におはします。祈り参らせ候はん」といふ。「さては、もし怠らせおはしましたりとも、いかでか聖の験とは知るべき」といへば、「それが誰が験といふ事、知らせ給はずとも、御心地だに怠らせ給ひなば、よく候ひなん」といへば、蔵人、「さるにても、いかでかあまたの御祈の中にもその験と見えんこそよからめ」といふに、「さらば祈り参らせんに、剣の護法を参らせん。おのづから御夢にも、幻にも御覧ぜば、さたは知らせ給へ。剣を編みつつ、衣に着たる護法なり。我は更に京へはえ出でじ」といへば、勅使帰り参りて、かうかうと申す程に、三日といふ昼つかた、ちとまどろませ給ふともなきに、きらきらとある物の見えければ、いかなる物にかとて御覧ずれば、あの聖のいひけん剣の護法なりと思し召すより、御心地さはさはとなりて、いささか心苦しき御事もなく、例ざまにならせ給ひぬ。人々悦びて、聖を貴がりめであひたり。
御門も限なく貴く思し召して、人を遣はして、「僧正僧都にやなるべき。またもの寺に、庄などや寄すべき」と仰せつかはす。聖承りて、「僧都、僧正更に候まじき事なり。またかかる所に、庄など寄りぬれば、別当なにくれなど出で来て、なかなかむつかしく、罪得がましく候。ただかくて候はん」とてやみにけり。
かかる程に、この聖の姉ぞ一人ありける。この聖受戒せんとて、上りしまま見えぬ。かうまで年比見えぬは、いかになりぬるやらん、おぼつかなきに尋ねて見んとて、上りて、東大寺、山階寺のわたりを、「まうれん小院といふひとやある」と尋ぬれど、「知らず」とのみいひて、知りたるとといふ人なし。尋ね侘びて、いかにせん、これが行末聞きてこそ帰らめと思ひて、その夜東大寺の大仏の御前にて、「このまうれんが在所、教へさせ給へ」と夜一夜申して、うちまどろみたる夢に、この仏仰せらるるやう、「尋ぬる僧の在所は、これより未申の方に山あり。その山に雲たなびきたる所を、行きて尋ねよ」と仰せらるると見て覚めたれば、暁方になりにけり。いつしか、とく夜の明けよかしと思ひて見居たれば、ほのぼのと明方になりぬ。未申の方を見やりければ、山かすかに見ゆるに、紫の雲たなびきたる、嬉しくて、そなたをさして行きたれば、まことに堂などあり。人ありと見ゆる所へ寄りて、「まうれん小院やいまする」といへば、「誰そ」とて出でて見れば、信濃なりし我が姉なり。「こはいかにして尋ねいましたるぞ。思ひかけず」といへば、ありつる有様を語る。「さていかに寒くておはしつらん。これを着せ奉らんとて、持たりつる物なり」とて、引き出でたるを見れば、ふくたいといふ物を、なべてにも似ず、太き糸して、厚々とこまかに強げにしたるを持て来たり。悦びて、取りて着たり。もとは紙絹一重をぞ着たりける。さていと寒かりけるに、これを下に着たりければ、暖かにてよかりけり。さて多くの年比行ひけり。さてこの姉の尼君も、もとの国へ帰らずとまり居て、そこに行ひてぞありける。
さて多くの年比、このふくたいをのみ着て行ひてれば、果てには破れ破れと着なしてありけり。鉢に乗りて来たりし倉を、飛倉とぞいひける。その倉にぞ、ふくたいの破れなどは納めて、まだあんなり。その破れの端を露ばかりなど、おのづから縁にふれて得たる人は、守りにしけり。その倉も朽ち破れて、いまだあんなり。その木の端を露ばかり得たる人は、守りにし、毘沙門を造り奉りて持ちたる人は、必ず徳つかぬはなかりけり。されば聞く人縁を尋ねて、その倉の木の端をば買ひとりける。さて信貴とて、えもいはず験ある所にて、今に人々明暮参る。この毘沙門は、まうれん聖の行ひ出し奉りけるとか。
(『宇治拾遺物語』巻第八・三「信濃国の聖の事」)建保年間(1213-19)?
穴居を製する法、先山に添ふて地を撰み、土を堀こと凡三四尺許、其内に図のごとく柱を立、屋を覆ふに木の皮を以てし、其上に重ぬるに草木の葉枝を以てす。戸口の上に庇を設け、内に入る処は階子をかけ、其側竃を作り、竃中より穴を穿て家外廡下に堀りぬき、炊煙の屋中に鎖すを忌みて、此穴より家外に出し去しむ。
穴中柱の外三方に簾ををしき其上に筵を敷て起臥する処となし家の中央を土間にして蓆筵の類を敷かず是外より来るものケリ(履)を脱せずして此土間に入り柱外の筵に腰を掛て談話するに便にす。 (間宮林蔵 口述/村上貞助 筆録『北夷分界餘話』文化8(1811)年)
倉廩の製ま 居家に同じ 山に行て木を掘り、其根の殊に蔓延し、地上に置て転倒せざる者を撰み、持来て礎となす事図の如し (間宮林蔵 口述/村上貞助 筆録『北夷分界餘話』文化8(1811)年)
笹の葉にて屋根を葺き棟に窓あり。家辺の神霊を祭る処は木に木幣を結い付立植して神に奉る。
厠は東西とも男女別にして、男夷誤て女夷の厠に至る時は贖をとらる。
熊を飼には図の如なる籠に入れて養置ぬ。
(秦檍丸(村上島之丞)『蝦夷島奇観』寛政11(1799)年)
三 トイタの部 下
プヲツタシツカシマの図
是は剪り採りし穂を収め置事をいふなり。 フヲツ夕シツカシマといへるは、フとは 本邦にしては 蔵なとヘいヘる物のことく、すへて物を貯ヘ置ところ をいふ。
 其造れるさまも常の家とは事替りて、  いかにも床を高くなして、住居より引はなれ  たる所に造り置事也。委しくは住居の部に  みえたり。
ヲツ夕は前にいふ如くにの字の意也。シツカシマとは 大事に物を収め置事をいひて、蔵に収め置と いふ事也。其収め置にはサラ二ツプといへる物に 入れて置も有、あるは俵の如くになして入れ 置もある也。
 サラニツフといへるは草にて作れる物也。俵に  するといへるも多くは夷地のキナといへる物を  用ゆる也。二つともに委しくは器財の部にみへたり。
此中来年の種になすへきをよく貯へ置には、 よく熟したる穂をゑらひ、茎をつけて剪り、よく たばねて苞となし、同しく蔵に入れをく也。 是にてまつアユウシアマゝを作り立るの業は 終る也。すヘて是迄の事平易にして、格別に 艱難なるさまもなきよふにみゆれとも、ことに然 るにあらす。夷人の境、よろつの器具とふも心に まかせすして、力を労する事も甚しく、また 山野には昼の間蜉蝣あるは蚊なとの類 多くして、手足をさし療瘡のことくにな りて、其辛苦をきはむる事いふはかりなし。

◎ルシヤシヤツツケの図
ルシヤシヤツゝケと称する事はルシヤとは蘆をあみ て簾の如くなしたる物をいひシヤツゝケとは干す 事をいひて簾にほすといふ事也是は蔵に 入れ置たる穂を食せんとする時に及ひて蔵より とりいてゝ簾にのせ囲炉裏の上に図の如くに 干す事也いかなるゆヘにやいとま有時といヘとも 残らす春てそれを貯ヘ置といふ事はあらす いつれ穂のまゝに蔵に収め置て食するたひ ことに蔵よりとり出し図の如くに干して それより春く事をもなす事なり
(秦檍丸(村上島之丞)『蝦夷生計図説』寛政11(1799)年)
七 チセカルの部
居家経営の総説
几夷人の境には郷里村邑の界といふ事もあらす 然るゆヘに住居をなすところといヘとも人々自己の 地とさたまりたる事なしいつれの地にても 心にまかせて住居をかまヘ又外に転し移る事も 思ひ思ひいつれの地になりとも住居をかふるなり たゝを造るに至ては殊に法ある事多し まつ家を造らんとすれは其処の地の善悪を かんかふるをもて造営の第一とす地の善悪といヘ るも猟業ならひに水草とふのたよりよき地を えらふなといふ事にはあらす其地にて古より人の 変死なとにてもありしかあるは人の屍なと埋し 事にてもなきか其外すヘて凶怪の事とふありて 清浄ならさる事にてもなかりしにやといふ事をよくよく たゝしきはめいよいよ何のさゝはりもなき時は其外は よろつの事不便なる地にてもえらふに及はす 其所を住居つくるへき場所とさためそれより山中 に入りて材木を伐出し次第に造営する事なり  山中に入り材木を伐出す事は山神を祭るより  初め舟の部に委しく見えたり 家を外にかヘ移す事は其家の主人死するかあるは 主人にあらされとも変死する者あるか其外すへて其家の うち又は其家のかたはらにて凶怪の事とふあるときは そのまゝ家を焚焼して外の地の潔きところに移て 住居すまた凶怪の事あるにはあらてたゝ年久しく 住たるゆへ破壊せるに至りても其所にて造りかふると いふ事はあらす多くは外の地に改めたつるなり  但し凶怪の事にあらすして造りかふる時はことにより  其まゝ旧居のあとにたつる事もあり又その破壊し  たる家の古き材木をもとり用ひて  本邦にいはゝ修復なといふ如くなる事もある也  家を焚焼せる事は甚意味のある事にて委し  くは葬送の部にみえたり 居家の製其かたちのかはりたる事東地にしては南方 シリキシナイの辺より極北クナシリ島に至るまての間凡 三種あり其うちすこしつゝは大小広狭のたかいあれとも 先つは右三種のかたちをはなれさる也三種のかたちは後の 居家全備の図に其地形をあはせて委しく録せり  但し居家のかたちは三種の外に出すといヘとも其製作の  始末は所によりて同しからぬ事も有也此書に図したる  ところはシリキシナイの辺よりシラヲイ辺まての製作  の始末なりシラヲイ辺よりクナシリ島に至るまての  製作はまた少しくたかひたるところ有といへとも図に  わかちてあらはすへき程の事にあらさるゆヘ略して録せす たゝ屋を葺にいたりては茅を用るあり草を用るあり あるは竹の葉を用ひあるは木の皮を用るとふのたかひ有て 其製一ならすいつれも後に出せる図を見てしるヘし


◎チセチクニハツカリの図
こゝに図したるところは、家を造るへき地をかんかへ さためたるうヘ、山中に入りて材木を伐り出し、梁柱 とふのものを初め用るところにしたかひて、長短を はかり、きりそろゆるさまなり。チセチクニバツカリと いへるは、チセは家をいひ、チクニは木をいひ、バツカリは 度る事にて、家の木を度るといふ事なり。其度る といヘるも、夷人の境すヘて寸尺の法なけれは、たゝ手と 指とにて長短を度る也。手をもて度るをテムといひ、 中指にてはかるをモウマケといひ、食指にて度るを モウサといふなり。此語の解未いつれも詳ならす。 追てかんかふへし。是はたゝ木をはかる事のみに 限るにあらす、いつれの物にても長短をはかるには 同しく手と指とを用てはかる事なり。

◎卜ンドべレバの図
卜ンドべレバといヘるは、卜ンドは柱をいひ、べレバは 割事をいひて、柱を割といふ事なり。是は伐り 出せし木の長短を度りてより、よくよく切そ ろヘ、細きは其まゝ用ひ、太きは二つに割て柱と なす事也。すへて夷人の境、器具と同しくし て鋸よふの物もなけれは、かゝる事をなすにも図の 如く斧をもて切りわり、その上を削りなをす也。 柱のみならす、板を製するといヘとも又同しく 斧にて切りわる事ゆへ、其困難にして力を 労する事いふはかりなし。

◎シリカタカルの図
前に図したるものみな備りてより家を立る にかゝるなり。先つ初めに屋のくみたてをなす事 図の如し。是をシリカ夕カルと称す。シリは下の事 をいひ、カ夕は方といはんか如し。カルは造る事をいひ て、下の方にて造るといふ事なり。これは夷人の境、 萬の器具そなはらすして、梯とふの製もたゝ独木に 脚渋のところを施したるのみなれは、高きところに 登る事、便ならす。まして 本邦の俗に足代 なといふ物の如きつくるへきよふもあらす。然るゆへ に柱とふさきに立るときは、屋をつくるヘきた よりあしきによりて、先つ地の上にて屋のくみ立を なし、それより柱の上に荷ひあくる事也。これ屋の下の 方にて造れるをもてシリカ夕カルとはいふ也。右屋の くみたて調ひ、荷ひあくる斗りになして置て、其大小 広狭にしたかひて柱を立る事、後の図のことし。

◎卜ンドアシの図
屋のくみたてとゝのひてより、それを地上に置て、 其形の大小広狭にしたかひ柱をならヘ立るなり。 是をトンドアシといふ。トンドは柱をいひ、アシは 立る事をいひて、柱を立るといふ事也。その柱を たつるに、図の如く根のかたを少しく外の方に 斜に出して立る事は、屋を荷ひ上るの時、頭の ところよく桁と合ん事をはかりて也。柱を 立る事終りてより、屋をになひ上る事、後の 図の如し。

◎リキ夕フニの図
リキ夕ブニと称するは、リキ夕は天上といはんか 如し。ブニは持揚る事をいひて、天上に持揚ると いふ事なり。是は前にいふか如く、柱を立ならふる 事終りてより、数十の夷人をやとひあつめて、 くみたてたる屋を柱の上に荷ひあくるさま也。 屋を荷ひあくる事終れは、それより柱の根を はしめ、すへてゆるきうこきとふのなきよふによく よくかたむる事なり。

◎キ夕イマコツプの図
是は家のくみたてとゝのひてより屋をふくさま也。 キ夕イマコツプといヘるは、キ夕イは屋をいひ、マコツプは葺 事をいひて、屋をふくといふ事也。屋をふかんとすれは、芦 簾あるは網の破れ損したるなとを屋をくみたてたる 木の上に敷て、其上に前に録したる葺草の中、いつれ なりともあつくかさねてふく也。こゝに図したるところは 茅を用ひてふくさま也。この芦簾あるは網よふのものを 下に敷事は、くみたてたる木の間より茅のこほれ落るを ふせくため也。家によりては右の物を用ひす、木の上を すくに茅にてふく事もあれとも、多くは右のものを 下に敷事なり
 こゝにいふ芦簾は夷人の製するところのものなり。  網といヘるも同しく夷人の製するところのものにて、  木の皮にてなひたる繩にてつくりたるものなり。
すヘて夷人の境、障壁とふの事なけれは、屋のみにかき らす、家の四方といへとも、同しく其屋をふくところの 茅をもてかこふ事なり。其かこひをなすに二種の ことなるあり。シリキシナイの辺よりビ口ウの辺ま てのかこひは、 本邦の藩籬なとのことくに、 ゆひまはして家の四方を囲ふなり。ビロウの辺より クナシリ嶋まてのかこひは、屋を葺てより其まゝ 家の四方にふきおろして囲ふ也。委しくは後の 全備の図を見てしるへし。其茅をふく次第は家の くみたてとゝのひてより、まつ初に四方の囲ひをなし それより屋をふく事也
 凡屋をふくにつきては、其わさことに多くして、  此図一つにして尽し得へきにあらす。別に器  財の部のうち、葺屋の具をわかちて録し  置り合せ見るへし
右の如く屋を葺事終りて、其家の右の方に 小きさげ屋を作りて、是をチセセムといふ。チセは家 をいひ、セムはさげ屋といふ事なり。
 さげ屋といふは、すヘて 本邦の俗語に  本屋のつゝきに小き家を作り足すことをさげ  屋といふ事なり。
この家の図の右の方に口のあきてあるは、其 チセセムを造るへきために明け置事也。後の全備 の図を見て、その造れるさまをしるへし。是にて まつ居家経営の事は終れり。これより後に 録するところは全備のさまをしるせるなり。


◎卜ンドの図 ニ種
卜ンドは柱の事也図に二種出せる事は上 下の品あるゆへなり上に図したるは岐頭の木に して桁のくゝみに其まゝ岐頭のところを用る也 是をイクシベ卜ンドと称すイクシべは岐頭の木を いひ卜ンドは柱をいひて岐頭の木の柱といふ事也 是を下品の柱とす下に図したるは常の柱にして 桁のくゝみを筈の如くなして用る也是をバ口 ウシ卜ンドと称すバ口は口をいひウシは在るをいひて 口のある柱といふ事なり是を上品の柱とす すへて夷人の境居家の製はその形大小広狭の たかひありて一ならすといへとも柱の製はこの 二種に限る事なり


◎シヨべシニの図
シヨヘシニといふは桁の 事なりこの語の解 いまた詳ならす其造れる さまは 本邦の 茅屋なとに用ゆる桁と たかふ事はあらす


◎さすの図
さすといヘるはもと 本邦の言葉にして 茅葺の屋を造る時図の如く左右より木を合せ たるものをいふ也是を夷人の語にて何といひしにや 尋る事をわすれたる故追て糺尋すヘし 本邦に用るところとは少しくたかひたるゆへに図し たる也此外屋に用る諸木のうち棟木は造れる さま常の柱とたかふ事あらす是を夷語にキ夕イ ヲマ二といふキ夕イは上をいひヲマは入る事をいひニは 木をいひて上に入る木といふ事なり梁は前に図し たる桁と同しさまに造て用ゆ是を夷語に イテメニといふ其義解しかたし追て考ふへし又 本邦の茅屋にながり竹を用る如くにつかふ物をリカ ニといふ是は細き木の技をさりてゆかみくるいとふ有 ところは削りなをして用る也此三種のもの大小のたかひ あるのみにていつれも常の柱とことなる事はなきゆヘ 別に図をあらはすに及はす


◎ハルケの図
ハルケは縄をいふ也此語の解いまた詳ならす追て かんかふヘし凡夷人の縄として用るものも三種有 其一は菅に似たる草をかりてとくと日にほし それを繩になひて用ゆこの草は松前の方言に ヤラメをいふものなり  此草の名夷語にて何といひしにや尋る事をわすれ  たるゆへ追て糺尋すヘし夷人の用る筵よふのものにて  キナと称するものもみな此草を編て作れる也夷地の  うち卑湿なるところに多く生するもの也 二には藤葛を用ゆ三には野葡萄の皮をさきて其儘 用ゆ藤葛を夷語に何といひしにや尋る事をわすれ たるゆへ追て糺尋すへし野葡萄の皮はシ卜カフといへり シ卜は葡萄をいひカフは皮をいふ也此三種のうち草を なひたる縄と藤葛の二つは材木を結ひ合せ屋のくみ たてをなすとふの事に用ひ野葡萄の皮は屋を葺に用 ゆる也まれには前の二種を用て屋を葺事あれとも 腐る事すみやかにして便ならすたゝ野葡萄の皮のみは ことに堅固にして数年をふるといヘとも朽腐する事なき ゆへに多くは是のみを用る也三種のさまのかはりたるは 図を見て知ヘし屋を葺の草すへて五種ありーつには 茅を用ひ二には芦を用ひ三には笹の葉を用ひ四には 木の皮を用ひ五には草を用ゆ此五種のうち多くは草と茅 との二種を用る也五種のもの各同しからさる事は後の 居家全備の図に委しくみえたる故別に図をあらはすに及はす


◎キキ夕イチセの図
◎チセコツの図
此図はシリキシナイの辺よりシラヲイの辺に 至るまての居家全備のさまにして屋は茅を もて葺たる也是をキキ夕イチセと称すキは 茅をいひキ夕イは屋をいひチセは家をいひて茅の 屋の家といふ事なり前にしるせし如く屋をふく にはさまざまのものあれとも此辺の居家は専ら 茅と草との二種にかきりて用るなりチセコツと いヘるは其家をたつる地の形ちをいふ也チセは家を いひコツは物の蹝跡をいふこの図をならヘ録せる事は 総説にもいへる如く居家を製するの形ちはおほ よそ三種にかきれるゆへ其三種のさまの見わけやす からんかためなり後に図したる二種もみな此故と しるヘし


◎シヤリキキ夕イチセの図
此図はシラヲイの辺よりビ口ウの辺にいたる まての居家全備のさまにして屋は芦をもて 葺たるなり是をシヤリキキ夕イチセと称すシヤリ キは芦をいひキ夕イは屋をいひチセは家を いひて芦の屋の家といふ事なり此辺の居家 にては多く屋をふくに芦のみをもちゆ下品 の家にてはまれに茅と草とを用る事もある なり 右二種の製は四方のかこひを藩籬の如くになし たるなり


◎ヤアラキ夕イチセの図
是はヒ口ウの辺より夕ナシリ島にいたるまての 居家全備のさまにして屋は木の皮をもて 葺たるなり是をヤアラキ夕イチセと称すヤア ラは木の皮をいひキ夕イチセは前と同しことにて 木の皮の屋の家といふ事なりたゝしこの木の 皮にてふきたる屋は曰数六七十曰をもふれは 木の皮乾きてうるをひの去るにしたかひ裂け 破るゝ事あり其時はその上に草茅とふをもて 重ね葺事也かくの如くなす時はこの製至て 堅固なりとすしかれとも力を労する事ことに深き ゆヘまつはたゝ草と茅とのみを用ひふく事多し と知へし木の皮の上を草茅とふにてふきたる さまは後の図にみえたり


◎卜ツプラツプキ夕イチセの図
この図もまたビロウの辺よりクナシリ嶋に至る まての居家全備のさまにして屋を竹の葉にて ふきたる也これを卜ツプラツプキ夕イチセと称す 卜ツプは竹をいひラツプは葉をいひキ夕イチセは 前と同し事にて竹の葉の屋の家といふ事也 これ又木の皮と同し事にて葺てより曰かすを ふれは竹の葉みな枯れしほみて雨露を漏すゆへ やかて其上を草と茅にてふく也この製又至て 堅固なりといへとも力を労する事多きにより て造れるものまつはまれなりとしるへし 此図は木の皮にてふきたる屋の上を草と茅 とにてかさね葺たる家のさま也竹の葉にて ふきたる屋の上を草と茅とにてふきたる家も 又たゝ草と茅とはかりにてふきたる家も其形ち 図にあらはしたるところにてはいさゝかかはれる事な きゆヘ此図一を録して右二の図をは略せる也 右に録せる数種の家いつれにても経営の事全く 終りてより移住せんとするにはまつ炉を開きて 火神を祭りまた屋の上にイナヲをたてゝ曰神を 祭りそれより 本邦にいふわたましなとの 如き事を行ふよし也然れともこれらの事いまた詳 ならさる事多きゆヘ子細に録しかたし追て糺尋 の上録すへし  火神日神とふを祭る事は委しくカモイノミ  の部に見えたり


◎プの図
プは夷人の物を入れ置ところにして、 本邦にいはゝ蔵の如きもの也。プといへるは、もと器の 事にもいヘり。たとへは矢を入る筒をアイイヨツプ といふか如し。アイは矢をいひ、イヨツは入るをいひ、プは 器をいひて、矢を入る器といふ事也。又物といふ事にもきこ ゆるにや、アイイヨツプといふを矢を入る物とも解すヘし。然れ とも、物といふ語は別にヘといふ事ある時は、いつれ器と 解するを得たりとす。しかれは、何のプ某のプといふときは 器の事になり、たゝプと斗りいふ時は蔵の事になる也。これは 蔵といへるも、もと物を入れをくところゆヘ、同しく 器の類といふ心にて、かくいふと見ゆるなり。
 プといヘるの解は委しく語解の部にみえたり。 すへて此等の事、夷人の境、言語のかすすくなく して、物をかねていふゆへなり。  言語のかす少くして、言は一つにて物をかねていふ  といヘる事は、アユシアマゝの部に委しくみえたり。
其造れる事は常の居家とことなる事あら す。たゝ図の如く、床をはいかにも高く作る也。 是は、居家山野のわかちなく鼠の多して 物を害するゆヘ、これを防んためにはかくはなす事 なり。鼠をふせくの事はつきに委しく見え たり。


◎ヱリモシヨアルキイタの図
ヱリモシヨアルキイタといふは、ヱリモは鼠を いひ、シヨアルキは来らすといはんか如し。イタは 板の事にて、鼠の来らさる板といふ事なり。 是は前に図したる如く、蔵の床を高くなし て、鼠をふせくといへとも、なを柱をつたひ上らん事を はかりて、床柱の上に図の如くなる板を置、のほる 事のならさるよふになす也。すへて夷人の境、鼠 多して物をそこなふゆへ、さまざまに心を用ひて ふせく事なり。アツクウなといヘる物を製して 鼠を取る事もあり。
 アツクウの図は器財の部にみえたり。
しかれともいまた猫をやしなふ事流布せさる ゆヘ、心を労するのみにして物をそこなはるゝ事 多しと知ヘし。此板を床柱の上に置ところの さまは、前に出せる蔵の図を合せ見てしるへし。
(『蝦夷生計図説』第七「チセカルの部」)
(秦檍丸(村上島之丞)『蝦夷生計図説』寛政11(1799)年)


韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西,有五十四國,其北與樂浪,南與倭接,辰韓在東,十有二國,其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南,亦十有二國,其南亦與倭接。凡七十八國,伯濟是其一國焉。大者萬餘戶,小者數千家,各在山海間,地合方四千餘裏,東西以海為限,皆古之辰國也。馬韓最大,共立其種為辰王,都目支國,盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。
馬韓人知田蠶,作綿布。出大栗如梨。有長尾雞,尾長五尺。邑落雜居,亦無城郭。作土室,形如塚,開戶在上。不知跪拜。無長幼男女之別。不貴金寶錦罽,不知騎乘牛馬,唯重瓔珠,以綴衣為飾,及縣頸垂耳。大率皆魁頭露糸介,布袍草履。其人壯勇,少年有築室作力者,輒以繩貫脊皮,縋以大木,歡呼為健。常以五月田竟祭鬼神,晝夜酒會,群聚歌舞,舞輒數十人相隨,蹋地為節。十月農功畢,亦複如之。諸國邑各以一人主祭天神,號為「天君」。又立蘇塗,建大木以縣鈴鼓,事鬼神。其南界近倭,亦有文身者。
辰韓,耆老自言秦之亡人,避苦役,適韓國,馬韓割東界地與之。其名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴,相呼為徒,有似秦語,故或名之為秦韓。有城柵屋室。諸小別邑,各有渠帥,大者名臣智,次有儉側,次有樊秖,次有殺奚,次有邑借。土地肥美,宜五穀。知蠶桑,作縑布。乘駕牛馬。嫁娶以禮。行者讓路。國出鐵,濊、倭、馬韓並從市之。凡諸貿易,皆以鐵為貨。俗喜歌舞、飲酒、鼓瑟。兒生欲令其頭扁,皆押之以石。
弁辰與辰韓雜居,城郭衣服皆同,語言風俗有異。其人形皆長大,美髮,衣服潔清。而刑法嚴峻。其國近倭,故頗有文身者。
(『後漢書』卷八十五「東夷列伝」)
韓在帶方之南,東西以海為限,南與倭接,方可四千里。有三種,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。辰韓者,古之辰國也。馬韓在西。其民土著,種植,知蠶桑,作綿布。各有長帥,大者自名為臣智,其次為邑借,散在山海間,無城郭。。。
(馬韓)其俗少綱紀,國邑雖有主帥,邑落雜居,不能善相制禦。無跪拜之禮。居處作草屋土室,形如塚,其戶在上,舉家共在中,無長幼男女之別。其葬有槨無棺,不知乘牛馬,牛馬盡於送死。以瓔珠為財寶,或以綴衣為飾,或以縣頸垂耳,不以金銀錦繡為珍。其人性強勇,魁頭露紒,如炅兵,衣布袍,足履革蹻蹋。其國中有所為及官家使築城郭,諸年少勇健者,皆鑿脊皮,以大繩貫之,又以丈許木鍤之,通日嚾呼作力,不以為痛,既以勸作,且以為健。常以五月下種訖,祭鬼神,群聚歌舞,飲酒晝夜無休。其舞,數十人俱起相隨,踏地低昂,手足相應,節奏有似鐸舞。十月農功畢,亦複如之。信鬼神,國邑各立一人主祭天神,名之天君。又諸國各有別邑。名之為蘇塗。立大木,縣鈴鼓,事鬼神。諸亡逃至其中,皆不還之,好作賊。其立蘇塗之義,有似浮屠,而所行善惡有異。其北方近郡諸國差曉禮俗,其遠處直如囚徒奴婢相聚。無他珍寶。禽獸草木略與中國同。出大栗,大如梨。又出細尾雞,其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身。又有州胡在馬韓之西海中大島上,其人差短小,言語不與韓同,皆髡頭如鮮卑,但衣韋,好養牛及豬。其衣有上無下,略如裸勢。乘船往來,巿買韓中。 辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。相呼皆為徒,有似秦人,非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿,謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國,稍分為十二國。
弁辰亦十二國,又有諸小別邑,各有渠帥,大者名臣智,其次有險側,次有樊濊,次有殺奚,次有邑借。有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁樂奴國、軍彌國(弁軍彌國)、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戶路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國(馬延國)、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國。弁、辰韓合二十四國,大國四五千家,小國六七百家,總四五萬戶。其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之,世世相繼。辰王不得自立為王。魏略曰:明其為流移之人,故為馬韓所制。土地肥美,宜種五穀及稻,曉蠶桑,作縑布,乘駕牛馬。嫁娶禮俗,男女有別。以大鳥羽送死,其意欲使死者飛揚。魏略曰:其國作屋,橫累木為之,有似牢獄也。國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。俗喜歌舞飲酒。有瑟,其形似築,彈之亦有音曲。兒生,便以石厭其頭,欲其褊。今辰韓人皆褊頭。男女近倭,亦文身。便步戰,兵仗與馬韓同。其俗,行者相逢,皆住讓路。
弁辰與辰韓雜居,亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似,祠祭鬼神有異,施灶皆在戶西。其瀆盧國與倭接界。十二國亦有王,其人形皆大。衣服絜清,長髮。亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。 (『三国志魏書』巻三〇「東夷伝」韓)
高句麗在遼東之東千里,南與朝鮮、濊貊,東與沃沮,北與夫餘接。都於丸都之下,方可二千里,戶三萬。多大山深谷,無原澤。隨山谷以為居,食澗水。無良田,雖力佃作,不足以實口腹。其俗節食,好治宮室,於所居之左右立大屋,祭鬼神,又祀靈星、社稷。其人性凶急,善寇鈔。其國有王,其官有相加、對盧、沛者、古雛加、主簿、優台丞、使者、皁衣先人,尊卑各有等級。東夷舊語以為夫餘別種,言語諸事,多與夫餘同,其性氣衣服有異。本有五族,有涓奴部、絕奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部。本涓奴部為王,稍微弱,今桂婁部代之。漢時賜鼓吹技人,常從玄菟郡受朝服衣幘,高句麗令主其名籍。後稍驕恣,不復詣郡,於東界築小城,置朝服衣幘其中,歲時來取之,今胡猶名此城為幘溝漊。溝漊者,句麗名城也。其置官,有對盧則不置沛者,有沛者則不置對盧。
王之宗族,其大加皆稱古雛加。涓奴部本國主,今雖不為王,適統大人,得稱古雛加,亦得立宗廟,祠靈星、社稷。絕奴部世與王婚,加古雛之號。諸大加亦自置使者、皁衣先人,名皆達於王,如卿大夫之家臣,會同坐起,不得與王家使者、皁衣先人同列。其國中大家不佃作,坐食者萬餘口,下戶遠擔米糧魚鹽供給之。其民喜歌舞,國中邑落,暮夜男女群聚,相就歌戲。無大倉庫,家家自有小倉,名之為桴京。其人絜清自喜,喜藏釀。跪拜申一腳,與夫餘異,行步皆走。以十月祭天,國中大會,名曰東盟。其公會,衣服皆錦繡金銀以自飾。大加主簿頭著幘,如幘而無餘,其小加著折風,形如弁。其國東有大穴,名隧穴,十月國中大會,迎隧神還于國東上祭之,置木隧於神坐。無牢獄,有罪諸加評議,便殺之,沒入妻子為奴婢。 其俗作婚姻,言語已定,女家作小屋於大屋後,名婿屋,婿暮至女家戶外,自名跪拜,乞得就女宿,如是者再三,女父母乃聽使就小屋中宿,傍頓錢帛,至生子已長大,乃將婦歸家。其俗淫。男女已嫁娶,便稍作送終之衣。厚葬,金銀財幣,盡於送死,積石為封,列種松柏。其馬皆小,便登山。國人有氣力,習戰鬥,沃沮、東濊皆屬焉。又有小水貊。句麗作國,依大水而居,西安平縣北有小水,南流入海,句麗別種依小水作國,因名之為小水貊,出好弓,所謂貊弓是也。
(『三国志魏書』巻三〇「東夷伝」高句麗)
高麗之先,出自夫餘。夫余王嘗得河伯女,因閉於室內,為日光隨而照之,感而遂孕,生一大卵,有一男子破殼而出,名曰硃蒙。夫余之臣以硃蒙非人所生,鹹請殺之,王不聽。及壯,因從獵,所獲居多,又請殺之。其母以告硃蒙,硃蒙棄夫余東南走。遇一大水,深不可越。硃蒙曰:「我是河伯外孫,日之子也。今有難,而追兵且及,如何得渡?」於是魚鱉積而成橋,硃蒙遂渡,追騎不得濟而還。硃蒙建國,自號高句麗,以高為氏。。。
其國東西二千里,南北千餘裏。都於平壤城,亦曰長安城,東西六裏,隨山屈曲,南臨浿水。複有國內城、漢城,並其都會之所,其國中呼為「三京」。與新羅每相侵奪,戰爭不息。官有太大兄,次大兄,次小兄,次對盧,次意侯奢,次烏拙,次太大使者,次大使者,次小使者,次褥奢,次翳屬,次仙人,凡十二等。複有內評、外評、五部褥薩。人皆皮冠,使人加插鳥羽。貴者冠用紫羅,飾以金銀。服大袖衫,大口袴,素皮帶,黃革屨。婦人裙襦加襈。兵器與中國略同。每春秋校獵,王親臨之。人稅布五匹,谷五石。遊人則三年一稅,十人共細布一匹,租戶一石,次七鬥,下五鬥。反逆者縛之於柱,爇而斬之,籍沒其家。盜則償十倍。用刑既峻,罕有犯者。樂有五弦、琴、箏、篳篥、橫吹、簫、鼓之屬,吹蘆以和曲。每年初,聚戲于浿水之上,王乘腰輿,列羽儀以觀之。事畢,王以衣服入水,分左右為二部,以水石相濺擲,喧呼馳逐,再三而止。俗好蹲踞。潔淨自喜,以趨走為敬,拜則曳一腳,立各反拱,行必搖手。性多詭伏。父子同川而浴,共室而寢。婦人淫奔,俗多遊女。有婚嫁者,取男女相悅,然即為之,男家送豬酒而已,無財聘之禮。或有受財者,人共恥之。死者殯于屋內,經三年,擇吉日而葬。居父母及夫之喪,服皆三年,兄弟三月。初終哭泣,葬則鼓舞作樂以送之。埋訖,悉取死者生時服玩車馬置於墓側,會葬者爭取而去。敬鬼神,多淫祠。 (『隋書』卷八十一「列傳」第四十六「東夷」高麗)
高麗者,出自扶餘之別種也。其國都於平壤城,即漢樂浪郡之故地,在京師東五千一百里。。。衣裳服飾,唯王五彩,以白羅為冠,白皮小帶,其冠及帶,咸以金飾。官之貴者,則青羅為冠,次以緋羅,插二鳥羽,及金銀為飾,衫筒袖,褲大口,白韋帶,黃韋履。國人衣褐戴弁,婦人首加巾幗。好圍棋投壺之戲,人能蹴鞠。食用籩豆、簠簋、尊俎、罍洗,頗有箕子之遺風。
其所居必依山谷,皆以茅草葺舍,唯佛寺、神廟及王宮、官府乃用瓦。其俗貧窶者多,冬月皆作長坑,下燃;煴火以取暖。種田養蠶,略同中國。其法:有謀反叛者,則集眾持火炬競燒灼之,燋爛備體,然後斬首,家悉籍沒;守城降敵,臨陣敗北,殺人行劫者,斬;盜物者,十二倍酬贓;殺牛馬者,沒身為奴婢。大體用法嚴峻,少有犯者,乃至路不拾遺。其俗多淫祀,事靈星神、日神、可汗神、箕子神。國城東有大穴,名神隧,皆以十月,王自祭之。 (『旧唐書』卷二百一十一「列傳」第一百四十九「東夷」高麗)
人莫逃陰陽。天地所役使。或令賤且窮。或使富而貴。旣關造物手。無怨亦無喜。此火石所化。此爐鐵所遂。火滅則縮身。火炎身復伸。區區火有無。縮伸不由人。旣莫避天數。甘作天之民。又爲物所制。此身安可珍。水火不焦濡。然後身迺眞。 (李奎報『東国李相国集』卷十一「擁爐有感」) 李奎報『東国李相国集』12世紀
十月初吉。李子自外還。兒子輩鑿土作廬。其形如墳。李子佯愚曰。何故作墳於家。兒子輩曰。此不是墳。乃土室也。曰。奚爲是耶。曰。冬月。宜藏花草瓜蓏。又宜婦女紡績者。雖盛寒之月。溫然若春氣。手不凍裂。是可快也。李子益怒曰。夏熱冬寒。四時之常數也。苟反是則爲怪異。古聖人所制。寒而裘。暑而褐。其備亦足矣。又更營土室。反寒爲燠。是謂逆天令也。人非蛇蟾。冬伏窟穴。不祥莫大焉。紡績自有時。何必於冬歟。又春榮冬悴。草木之常性。苟反是。亦乖物也。養乖物爲不時之翫。是奪天權也。此皆非予之志。汝不速壞。吾笞汝不赦也。兒子等懼亟撤之。以其材備炊薪。然後心方安也。 (李奎報『東国李相国集』卷二十一「壞土室說」)
19世紀 韓致奫『海東繹史』
龍朔初,有儋羅者,其王儒李都羅遣使入朝,國居新羅武州南島上,俗樸陋,衣大豕皮,夏居革屋,冬窟室。地生五穀,耕不知用牛,以鐵齒杷土。初附百濟。麟德中,酋長來朝,從帝至太山。後附新羅。 (『新唐書』卷二百二十「列傳」第一百四十五「東夷」儋羅)
昔者先王.未有宮室.冬則居營窟.夏則居橧巢.未有火化.食草木之實.鳥獸之肉.飲其血.茹其毛.未有麻絲.衣其羽皮. (『礼記』巻九「禮運」)
囷:廩之圜者。从禾在囗中。圜謂之囷,方謂之京。 (『説文解字』巻七) 後漢の許慎(きょしん)の作で和帝のとき(紀元100年/永元12)に成立。
夜毎 明黄人,房的 天窓 門額的 明裏 入着,肚皮 我的 摩着,明 他的 肚皮裏 我的 透 有来。出時 日月的 透入光裏,黄狗般爬着出有来
(毎夜有黄白色人 自天窓門額明家入来 将我肚皮摩挲 他的光明透入肚裏去時節 随日月的光 恰似黄狗般爬出去了)
(『元朝秘史』巻一)
挹婁在夫餘東北千餘里、濱大海、南與北沃沮接、未知其北所極。其土地多山險。其人形似夫餘、言語不與夫餘、句麗同。有五穀、牛、馬、麻布。人多勇力。無大君長、邑落各有大人。處山林之間、常穴居、大家深九梯、以多為好。土氣寒、劇於夫餘。
其俗好養豬、食其肉、衣其皮。冬以豬膏塗身、厚數分、以禦風寒。夏則裸袒、以尺布隱其前後、以蔽形體。其人不絜、作溷在中央、人圍其表居。其弓長四尺、力如弩、矢用楛、長尺八寸、青石為鏃、古之肅慎氏之國也。善射、射人皆入目。矢施毒、人中皆死。出赤玉、好貂、今所謂挹婁貂是也。
自漢已來、臣屬夫餘、夫餘責其租賦重、以黃初中叛之。夫餘數伐之、其人衆雖少、所在山險、鄰國人畏其弓矢、卒不能服也。其國便乘船寇盜、鄰國患之。東夷飲食類皆用俎豆、唯挹婁不、法俗最無綱紀也。 (『三国志魏書』(巻三〇)「東夷伝」)

挹婁は扶余の東北千余里に在り、大海に沿い、南は北沃沮と接し、未だその北の極まる所を知らない。土地には多くの険山がある。姿形は扶余に似ているが、言葉は扶余や高句麗と同じではない。五穀、牛、馬、麻布がある。人の多くは勇猛で力がある。大君長はおらず、各々の部落に大人(部落長)がいる。山林の間に拠点を置き、常に穴居し、大きな家は九本の梯子の深さがあり、梯子の多いことを良とする。気候風土は寒冷で、扶余よりひどい。
その風俗は、上手に豚を飼育し、その肉を食べ、その皮を衣にする。冬は豚の脂肪を全身に塗り、数回に分けて厚くし、寒風から防御する。夏は半裸になり、短い布で前後を隠し、身体を覆う。そこの人々は不潔で、中央に便所を作り、人々がそれを囲んで住んでいる。
その弓の長さ四尺、威力は弩(ど)のごとく、矢には楛(こ=植物名)を用いる。長さは一尺八寸、青石を鏃とする。昔の粛慎氏の国である。射撃が巧みで、だれもが速射できる。矢には毒を施し、人にあてれば皆、死ぬ。赤玉を産出、良質のテンが獲れる。いわゆる挹婁テンとはこれなり。
漢代以来、扶余に臣従していたが、扶余が責めたてる賦課が重いので、黄初年間(220-226年)にはこれに叛いた。扶余はこれを何度も討伐するが、人口は少ないけれど、場所が険しい山中で、隣国の人々もその矢を畏れるほどで、兵(軍事力)では帰服させることができない。その国は船で略奪をするので、隣国はこれを患いとしている。東夷は飲食のときに俎豆(そうず=お膳)を使うが、ただ挹婁だけは用いない。法俗は最も綱紀が無いなり。
挹婁、古肅慎之國也。在夫餘東北千餘里、東濱大海、南與北沃沮接、不知其北所極。土地多山險。人形似夫餘、而言語各異。有五穀、麻布、出赤玉、好貂。無君長、其邑落各有大人。 處於山林之閒、土氣極寒、常為穴居、以深為貴、大家至接九梯。好養豕、食其肉、衣其皮。冬以豕膏塗身、厚數分、以禦風寒。夏則裸袒、以尺布蔽其前後。其人臭穢不絜、作廁於中、圜之而居。
自漢興已後、臣屬夫餘。種衆雖少、而多勇力、處山險、又善射、發能入人目。弓長四尺、力如弩。矢用楛、長一尺八寸、青石為鏃、鏃皆施毒、中人即死。
便乘船、好寇盜、鄰國畏患、而卒不能服。東夷夫餘飲食類(此)皆用俎豆、唯挹婁獨無、法俗最無綱紀者也。 (『後漢書』挹婁伝)
 挹婁、古の粛慎の国なり。扶余の東北に千余里、東は大海(日本海)に沿い、南は北沃沮に接し、その北は極まる所を知らない。土地には多くの険しい山がある。姿形は扶余に似ているが言語はそれぞれに異なる。五穀、麻布があり、赤い玉(ぎょく)を産出、良質のテンが獲れる。君長はおらず、邑落には各々に大人(部落大人)がいる。
 山林の間に拠を置くが、気候風土が極寒なので常に穴居し、穴が深いほど尊ばれ、大きな家は床まで九本の梯子(はしご)をつないでいる。上手に豚を飼育し、その肉を食べ、その皮を衣にする。冬には豚の脂肪を全身に塗り、数回に分けて厚くし、寒風から防御する。夏には半裸になり、その前後を短い布で覆う。そこの人々は臭く、穢(きたな)く、不潔で、便所を中央に作り、それを囲んで暮らしている。
 前漢が建国された以後、扶余に臣従。種族の人口は少ないけれど、勇猛な者が多く、険しい山中に拠を置き、また射撃が巧みで、目に入った瞬間に発射することができる。弓の長さは四尺、威力は弩(いしゆみ)のごとし。矢には楛を用い、長さ一尺八寸、青石を鏃とし、鏃にはどれも毒を施しているので、あてられた者は即死する。
 気の向くままに船に乗り、巧みに強盗を働くので、鄰国は畏れ、患うが、兵をもってしても服させることはできない。東夷の扶余は飲食には皆、俎豆(まないた)を用いるが、ただ挹婁だけは使用しない。法俗は最も綱紀(規律)が無い者(最悪の無法者)たちである。
肅慎氏一名挹婁,在不咸山北,去夫餘可六十日行。東濱大海,西接寇漫汗國,北極弱水。其土界廣袤數千里,居深山窮谷,其路險阻,車馬不通。夏則巣居,冬則穴處。父子世為君長。無文墨,以言語為約。有馬不乘,但以為財産而已。無牛羊,多畜豬,食其肉,衣其皮,績毛以為布。有樹名雒常,若中國有聖帝代立,則其木生皮可衣。
無井灶,作瓦鬲,受四五升以食。坐則箕踞,以足挾肉而啖之,得凍肉,坐其上令暖。土無鹽鐵,燒木作灰,灌取汁而食之。俗皆編髮,以布作襜,徑尺餘,以蔽前後。將嫁娶,男以毛羽插女頭,女和則持歸,然後致禮娉之。婦貞而女淫,貴壯而賤老,死者其日即葬之於野,交木作小槨,殺豬積其上,以為死者之糧。性凶悍,以無憂哀相尚。父母死,男子不哭泣,哭者謂之不壯。相盜竊,無多少皆殺之,故雖野處而不相犯。有石砮,皮骨之甲,檀弓三尺五寸,楛矢長尺有咫。其國東北有山出石,其利入鐵,將取之,必先祈神。
周武王時,獻其楛矢、石砮。逮於周公輔成王,復遣使入賀。爾後千餘年,雖秦漢之盛,莫之致也。及文帝作相,魏景元末,來貢楛矢、石砮、弓甲、貂皮之屬。魏帝詔歸於相府,賜其王傉雞、錦罽、綿帛。至武帝元康初,復來貢獻。元帝中興,又詣江左貢其石砮。至成帝時,通貢於石季龍,四年方達。季龍問之,答曰「毎候牛馬向西南眠者三年矣,是知有大國所在,故來」云。 (『晋書』粛慎伝)
粛慎氏、一名に挹婁という。不咸山(ふかんざん)の北に在り、扶余から六十日の行程。東は大海(日本海)に沿い、西は寇漫汗(こうまんかん)国と接し、北は弱水(アムール河)に極まる。その領域は広大で数千里、深い山の渓谷に居住し、道は険阻で車馬では通れない。夏は樹上で暮らし、冬は穴にこもる。君長は父子の世襲とする。刺青(いれずみ)はない(海洋民族ではない)、言語で約束をする(文字がない)。馬はいるが騎乗はしない。ただ財産とするのみ。牛や羊はおらず多くの豚を畜産し、その肉を食べる。衣服は豚皮、毛(綿)を紡いで布とする。雒常(白樺)という名の樹木があり、もし中国に聖帝が代わって立てば(それを祝すため)、その木の樹皮(繊維状にして)で衣を作る。
井戸も釜戸もなく、甗(蒸し器)を作り、四、五升を蒸して食べる。坐るときは両脚を投げ出して座り、脚に肉を挟んで食べる。冷凍肉はその上に坐って暖める。大地には塩も鉄もなく、木を焼いて灰を作り、その灰汁(あく)を注いでこれを食す(鹿児島県にモチゴメを灰汁に浸して炊いた「灰汁巻き」という古代の保存食がある。それに類したものか?)。
風俗は皆、髪を編み、布で丈の短い上着を作る、径は一尺余り、これで前後を覆う。嫁を娶るときは、男が毛羽を女性の頭に挿し、女性を連れて帰り、その後に婚礼で女性を美しく飾る。妻は貞淑だが女性は淫乱、若さを尊び、老い賤しむ。死者は即日、野に埋葬する。木組みの小さな槨(ひつぎ)を作り、豚を殺し、その上に積み、死者の糧となす。
性は凶悍(かん)、悲哀の表情を顔に出さない。父母が死んでも男子は号泣しない、泣けば勇者ではないと言われる。互いに秘かに盗むが、これを殺すことは一切ない。野に暮らすといえど、互いを侵犯することはない。石砮、皮骨の鎧、檀弓は三尺五寸、楛矢(こし)は長さ一尺有寸。国の東北に鉱山があり、鉄鉱石を採掘し、必ず先に神に祈る。
周の武王の時代、楛矢と石砮を献じる。周公が成王の補佐していた時代に再び遣使が朝賀に来た。その後一千余年、秦漢の隆盛時といえども来貢しなかった。
三国魏の文帝が丞相となるに及び、景元5年(264年)、楛矢、石砮、弓甲、貂皮の類をもって来貢。魏帝は相府で詔をし、帰りには、その王の傉雞に、錦、毛織物、綿織物、絹織物を賜る。
武帝の元康の初年(291年)、再び来貢して献納(『晋書』武帝紀は咸寧五年(279年)12月、粛慎が祝賀に来貢、楛矢や石鏃を献上した」とあり、翌年春、太康に改元されており、本文の元康初は太康初の誤記とされる)。
東晋を建国した元帝の中興(319年)8月、また江東に詣でて石砮を貢献。
成帝の時(326-342)、後趙の石季龍(石虎)に通貢。ちょうど四年目の通貢だった。季龍はこれに問うた、答えて曰く「毎候 牛馬は西南に向かって三年も眠りますが、その牛馬が大国の所在を知っているのです。(四年目に目を覚ました)それ故に来貢しました」云。
勿吉國、在高句麗北、舊肅慎國也。邑落各自有長、不相總一。其人勁悍、於東夷最強。言語獨異。常輕豆莫婁等國、諸國亦患之。去洛五千里。自和龍北二百餘里有善玉山、山北行十三日至祁黎山、又北行七日至如洛瑰水、水廣里餘、又北行十五日至太魯水、又東北行十八日到其國。國有大水、闊三里餘、名速末水。
其地下濕、築城穴居、屋形似塚、開口於上、以梯出入。其國無牛、有車馬、佃則偶耕、車則歩推。有粟麥穄、菜則有葵。水氣鹹凝、鹽生樹上、亦有鹽池。多豬無羊。嚼米醞酒、飲能至醉。婦人則布裙、男子豬犬皮裘。
初婚之夕、男就女家執女乳而罷、便以為定、仍為夫婦。俗以人溺洗手面。頭插虎豹尾。善射獵、弓長三尺、箭長尺二寸、以石為鏃。其父母春夏死、立埋之、家上作屋、不令雨濕;若秋冬、以其屍捕貂、貂食其肉、多得之。常七八月造毒藥傅箭鏃、射禽獸、中者便死、煮藥毒氣亦能殺人。國南有徒太山、魏言「大白」、有虎豹羆狼害人、人不得山上溲汙、行逕山者、皆以物盛。
去延興中、遣使乙力支朝獻。太和初、又貢馬五百匹。乙力支稱:初發其國、乘船泝難河西上、至太●河、沉船於水、南出陸行、渡洛孤水、從契丹西界達和龍。自云其國先破高句麗十落、密共百濟謀從水道并力取高句麗、遣乙力支奉使大國、請其可否。詔敕三國同是藩附、宜共和順、勿相侵擾。乙力支乃還。從其來道、取得本船、汎達其國。九年、復遣使侯尼支朝獻。明年復入貢。
其傍有大莫盧國、覆鍾國、莫多回國、庫婁國、素和國、具弗伏國、匹黎尒國、拔大何國、郁羽陵國、庫伏真國、魯婁國、羽真侯國、前後各遣使朝獻。
太和十二年、勿吉復遣使貢楛矢方物於京師。十七年、又遣使人婆非等五百餘人朝獻。景明四年、復遣使俟力歸等朝貢。自此迄于正光、貢使相尋。爾後、中國紛擾、頗或不至。興和二年六月、遣使石久云等貢方物、至於武定不絶。 (『魏書』勿吉國伝)
 勿吉国、高句麗の北に在り、昔の粛慎国である。邑落には各自に長がおり、相互の統一はされていない。その族人は頑強にして東夷で最強。言語は特異。常に豆莫婁(扶余の後裔)などの国を軽んじ、諸国はこれを患としている。
 洛陽から五千里。和龍の北より二百余里に善玉山あり、山を北行すること十三日で祁黎山に至り、また北行すること七日で如洛瑰水に到る、川幅は一里余の広さ、また北行すること十五日で太魯水に至り、また東北に行くこと十八日でその国に到達する。国に大河あり、川幅は三里余り、名は速末水。
 その地は湿気が多く、城を築き穴居するが、家屋の形態は塚に似て、開口は上部に設け、梯子で出入する。その国に牛はおらず、車と馬はあり、農作業に用い、車は歩いて推す。粟や麦、キビがあり、野菜にはフユアオイがある。水気は辛く、塩が樹上に生じ、また塩池がある。猪が多く羊はいない。米を咀嚼して酒を醸す、飲むと泥酔に到る。婦人は布地の上着と裙(スカート)、男子は豬や犬の皮衣を着る。
 初婚の夜、男は女の実家で女の乳房を手に取り、そして止める、この行為で婚約が成り、夫婦となる。風俗は溺れたように手や顔を洗う。頭に虎豹の尾を挿す。狩猟では上手く矢を射る、弓の長さ三尺、矢柄は長尺二寸、石の鏃を着ける。その父母が春夏に死ねば、これを直ぐに埋葬し、家の上に小屋を作り、雨の湿気に備える。もし秋冬なら、その屍を使って黒テンを捕え、テンが死肉を食べる、多くをこれで得る。常に七、八月に毒薬を造り矢柄や鏃に着け、禽獣を射る。当たれば即死する、薬を煮込めば毒気でも人を殺せる。国の南に徒太山、魏書にいう「大白」があり、虎、豹、羆、狼がおり、人を害するので、人は山上で汗を流すことができない、山の小道を行くときは皆、物を盛に鳴らして歩く。
 去る延興年間(471-476年)、乙力支が遣使を以て朝献。
 太和の初め(477年)、また馬五百匹を貢献した。乙力支が言うには「その国を出発し、船に乗って泝難河を西上、太●河に到り、水中に船を沈め、南に出て陸行、洛孤水を渡り、契丹西界の和龍に達する」。自ら云うには、その国は先に高句麗の十部落を破り、密かに百済とともに水道をたどり、合力して高句麗を取ることを謀り、乙力支は使者を大国に遣わし、その可否を請うた。詔を以て三国は同じ藩附(外臣)であり、宜しく共に親和し、互いに侵略してはならないとの勅旨を受けた。乙力支は帰還。来た道に沿って元の船を引き上げて、その国に漕ぎ帰える。九年、再び遣使を以て侯尼支が朝献。翌年もまた入貢した。
 その傍に、大莫盧国、覆鍾国、莫多回国、庫婁国、素和国、具弗伏国、匹黎尒国、抜大何国、郁羽陵国、庫伏真国、魯婁国、羽真侯国があり前後して各々が遣使を以って朝献。
 太和十二年(488年)、勿吉はまた遣使が京師に方物として楛矢を貢献した。
 十七年(493年)、また、遣使の人婆非ら五百余人が朝献。
 景明四年(503年)、また遣使の俟力歸らが朝貢。これより正光(520年)まで、貢使が互いを訪問した。以後、中国が紛糾し擾乱となり、やや入朝しなくなった。
 興和二年(540年)六月、遣使の石久云らが方物を貢献、武定(543年)に至るまで絶えなかった。
勿吉國在高句麗北、一曰靺鞨。邑落各自有長、不相總一。其人勁悍、於東夷最強、言語獨異。常輕豆莫婁等國、諸國亦患之。去洛陽五千里。自和龍北二百餘里有善玉山、山北行十三日至祁黎山、又北行七日至洛瑰水、水廣里餘、又北行十五日至太岳魯水、又東北行十八日到其國。國有大水、闊三里餘、名速末水。
其部類凡有七種:其一號粟末部、與高麗接、勝兵數千、多驍武、毎寇高麗;其二伯咄部、在粟末北、勝兵七千;其三安車骨部、在伯咄東北;其四拂涅部、在伯咄東;其五號室部、在拂涅東;其六黑水部、在安車骨西北;其七白山部、在粟末東南。勝兵並不過三千、而黑水部尤為勁健。自拂涅以東、矢皆石鏃、即古肅慎氏也。東夷中為強國。
所居多依山水。渠帥曰大莫弗瞞咄。國南有從太山者、華言太皇、俗甚敬畏之、人不得山上溲汗、行經山者、以物盛去。上有熊羆豹狼、皆不害人、人亦不敢殺。地卑濕、築土如堤、鑿穴以居、開口向上、以梯出入。其國無牛、有馬、車則歩推、相與偶耕。土多粟、麥、穄、菜則有葵。水氣鹹、生鹽於木皮之上、亦有鹽池。其畜多豬、無羊。嚼米為酒、飲之亦醉。婚嫁、婦人服布裙、男子衣豬皮裘、頭插武豹尾。俗以溺洗手面、於諸夷最為不潔。
初婚之夕、男就女家、執女乳而罷。妒、其妻外淫、人有告其夫、夫輒殺妻而後悔、必殺告者。由是姦淫事終不發。人皆善射、以射獵為業。角弓長三尺、箭長尺二寸、常以七八月造毒藥、傅矢以射禽獸、中者立死。煮毒藥氣亦能殺人。其父母春夏死、立埋之、家上作屋、令不雨濕;若秋冬死、以其尸捕貂、貂食其肉、多得之。
延興中、遣乙力支朝獻。太和初、又貢馬五百匹。乙力支稱:初發其國、乘船溯難河西上、至太●河、沈船於水。南出陸行、度洛孤水、從契丹西界達和龍。自云其國先破高句麗十落、密共百濟謀、從水道并力取高麗、遣乙力支奉使大國、謀其可否。詔敕:「三國同是藩附、宜共和順、勿相侵擾。」乙力支乃還。從其來道、取得本船、汎達其國。九年、復遣使侯尼支朝。明年、復入貢。其傍有大莫盧國、覆鍾國、莫多回國、庫婁國、素和國、具弗伏國、匹黎尒國、拔大何國、郁羽陵國、庫伏真國、魯婁國、羽真侯國、前後各遣使朝獻。太和十二年、勿吉復遣使貢楛矢、方物於京師。十七年、又遣使人婆非等五百餘人朝貢。景明四年、復遣使侯力歸朝貢。自此迄于正光、貢使相尋。爾後中國紛擾、頗或不至。興和二年六月、遣石文云等貢方物。以至于齊、朝貢不絶。
隋開皇初、相率遣使貢獻。文帝詔其使曰:「朕聞彼土人勇、今來實副朕懷。視爾等如子、爾宜敬朕如父。」對曰:「臣等僻處一方、聞内國有聖人、故來朝拜。既親奉聖顔、願長為奴僕。」其國西北與契丹接、毎相劫掠。後因其使來、文帝誡之、使勿相攻撃。使者謝罪。文帝因厚勞之、令宴飲於前。使者與其徒皆起舞、曲折多戰鬥容。上顧謂侍臣曰:「天地間乃有此物、常作用兵意。」然其國與隋懸隔、唯粟末、白山為近。
煬帝初、與高麗戰、頻敗其衆。渠帥突地稽率其部降、拜右光祿大夫、居之柳城。與邊人來往、悅中國風俗、請被冠帶、帝嘉之、賜以錦綺而褒寵之。及遼東之役、突地稽率其徒以從、毎有戰功、賞賜甚厚。十三年、從幸江都、尋放還柳城。李密遣兵邀之、僅而得免。至高陽、沒於王須拔。未幾、遁歸羅藝。(十三年、從帝幸江都、尋放歸柳城。在塗遇李密之亂、密遣兵邀之、前後十餘戰、僅而得免。至高陽、復沒於王須抜。未幾、遁歸羅藝)。 (『北史』勿吉國伝)
 勿吉国は高句麗の北に在り、一名に靺鞨ともいう。邑落には各自に長がいるが互いの統制はとれていない。その族人は頑強勇猛で東夷では最強。言語は特異。常に豆莫婁などの国を軽んじて諸国はこれを患としている。洛陽から五千里。和龍の北二百余里に善玉山があり、山を北行すること十三日で祁黎山に至り、また北行すること七日で洛瑰水に到る、川幅は一里余の広さ、また北行すること十五日で太魯水に至り、また東北に行くこと十八日でその国に到達する。国に大河あり、川幅は三里余り、名は速末水。
 その部類はおよそ七種。その一は粟末部と号する、高麗に接し、精鋭数千、勇猛な武勇者が多く、いつも高麗を侵略する。その二は伯咄部。粟末部の北に在り、精鋭七千。その三は安車骨部。伯咄部の東北に在る。その四は拂涅部。伯咄部の東に在る。その五は室部。拂涅部の東に在る。その六は黑水部。安車骨の西北に在る。その七は白山部。粟末部の東南に在る。精鋭は三千を超えないが、黑水部で最も剛健である。拂涅部より東は、矢は皆、石製の鏃、すなわち昔の粛慎氏の楛矢なり。東夷中の強国となる。
 住居の多くは山水に拠っている。渠帥は曰く、大莫弗瞞咄。国の南に従太山があり、中華では太皇(太白)と言い、その習俗では、甚だこれを畏れ敬い、人は山上で汗を流すことを得ず、山中を歩く者は物を盛に鳴らして行く。山中には熊、羆、豹、狼がいるが、いずれも人を害さず、人もまた敢えて殺しはしない。
 風土は湿気が多く、築土は堤の如し、穴を掘って住居とし、上部に戸を開け、梯子で出入する。その国には牛はなく、馬がおり、車は歩いて推し、互いに農耕には用いない。土地には粟、麦、穄(きび)が多く、野菜には葵がある。水には塩気があり、樹皮上に塩が生じ、また塩池がある。そこの家畜には豚が多く、羊はいない。米を咀嚼して酒を醸す、これを飲めば泥酔する。婚礼では婦人の服は裙広の布、男子の衣服は豚皮の衣、頭に豹の尾を挿す。その風俗は溺れるように手と顔を洗い、諸々の蛮夷で最も不潔である。
 初婚の夜には、男は女の実家で、女の乳を手にして、それを止める。嫉妬から人妻の浮気を、その夫に告げる人があれば、夫はすぐに妻を殺すが、それを後悔し、密告した者を必ず殺す。それゆえ姦淫事が生じることはない。人々は皆、射撃が達者で、狩猟を生業とする。角弓の長さは三尺、矢柄の長さは一尺二寸、常に七八月に毒薬を製造し、矢に塗りつけ禽獣を撃つ、あたれば即死。煮込んだ毒薬の毒気でも人を殺せる。父母が春夏に死ねば、すぐにこれを埋め、家屋の上に小屋を作り、雨の湿気を防ぎ;もし秋冬に死ねば、その屍を以て黒テンを捕獲する。テンは死肉を食べる、多くをこれで得る。

 隋の開皇初年(581年)、相が遣使を率いて貢献。文帝は詔を以て、その使者に曰く「朕は彼の土地の人々は勇敢だと聞く、今、朕の懐に実物が来たれり。観るに汝らは子の如し、汝は宜しく朕を父の如く崇敬せよ」。応えて曰く「臣らは僻地の一方に居住し、中原内の国に聖人ありと聞き、それ故に来朝し拝謁を賜る。すでに親しく御聖顔を奉じ、願わくは奴僕として長く忠勤を励みたく存じ上げます」。その国の西北は契丹と接し、いつも互いに侵略をしていた。後にそこの使節が来朝、文帝はこれに双方で攻撃してはならぬと訓戒。使者は謝罪した。文帝は厚くこれを慰労し、御前での酒宴を催させた。使者とその従者らは皆、舞い始めた、曲折多く戦闘容。上顧謂侍臣曰:「天地間乃有此物、常作用兵意。」然其國與隋懸隔、唯粟末、白山為近。
 煬帝の初め(604年)、高麗と戦い、その軍勢は幾度も敗戦。渠帥の突地稽がその部(粟末部)を率いて降り、右光祿大夫の官位を授かり、柳城(遼寧省朝陽市)に居住した。辺境の人々が往来し、中国の風俗を悦び、冠を被り、帯を巻くことを請う、皇帝はこれを嘉とし、錦織の着物を賜い、これを褒めて寵した。遼東の役では、突地稽はその一党を従えて、いつも戦功をあげ、甚だ手厚い賞賜を授かる。
 十三年(616年)、帝の江都行幸に従い、柳城への帰路を探す。途上で李密の乱に遭遇、密は兵を派遣してこれを求め、前後十余度戦い、僅かに免れた。高陽に至り、王須抜もまた没した。程なくして羅藝に逃げ帰る。
靺鞨,在高麗之北,邑落倶有酋長,不相總一。凡有七種:其一號粟末部①,與高麗相接,勝兵數千,多驍武,毎寇高麗中。其二曰伯咄部,在粟末之北,勝兵七千。其三曰安車骨部,在伯咄東北。其四曰拂涅部,在伯咄東。其五曰號室部,在拂涅東。其六曰黑水部,在安車骨西北。其七曰白山部,在粟末東南。勝兵並不過三千,而黑水部尤為勁健。自拂涅以東,矢皆石鏃,即古之肅慎氏也。所居多依山水,渠帥曰大莫弗瞞咄,東夷中為強國。有徒太山者,俗甚敬畏,上有熊羆豹狼,皆不害人,人亦不敢殺。地卑濕,築土如堤,鑿穴以居,開口向上,以梯出入。相與偶耕,土多粟麥穄。水氣鹹,生鹽於木皮之上。其畜多豬。嚼米為酒,飲之亦醉。婦人服布,男子衣豬狗皮。俗以溺洗手面,於諸夷最為不潔。其俗淫而妒,其妻外婬,人有告其夫者,夫輒殺妻,殺而後悔,必殺告者,由是姦婬之事終不發揚。人皆射獵為業,角弓長三尺,箭長尺有二寸。常以七八月造毒藥,傅矢以射禽獸,中者立死。
開皇初,相率遣使貢獻。高祖詔其使曰:「朕聞彼土人庶多能勇捷,今來相見,實副朕懷。朕視爾等如子,爾等宜敬朕如父。」對曰:「臣等僻處一方,道路悠遠,聞内國有聖人,故來朝拜。既蒙勞賜,親奉聖顔,下情不勝歡喜,願得長為奴僕也。」其國西北與契丹相接,毎相劫掠。後因其使來,高祖誡之曰:「我憐念契丹與爾無異,宜各守土境,豈不安樂?何為輒相攻撃,甚乖我意!」使者謝罪。高祖因厚勞之,令宴飲於前。使者與其徒皆起舞,其曲折多戰鬥之容。上顧謂侍臣曰:「天地間乃有此物,常作用兵意,何其甚也!」然其國與隋懸隔,唯粟末、白山為近。
煬帝初與高麗戰,頻敗其衆,渠帥度地稽率其部來降。拜為右光祿大夫,居之柳城,與邊人來往。悅中國風俗,請被冠帶,帝嘉之,賜以錦綺而褒寵之。及遼東之役,度地稽率其徒以從,毎有戰功,賞賜優厚。十三年,從帝幸江都,尋放歸柳城。在塗遇李密之亂,密遣兵邀之,前後十餘戰,僅而得免。至高陽,復沒於王須拔。未幾,遁歸羅藝。 (『隋書』靺鞨伝)
靺鞨,蓋肅慎之地,後魏謂之勿吉,在京師東北六千餘里。東至於海,西接突厥,南界高麗,北鄰室韋。其國凡為數十部,各有酋帥,或附於高麗,或臣於突厥。而黑水靺鞨最處北方,尤稱勁健,毎恃其勇,恆為鄰境之患。俗皆編髮,性凶悍,無憂戚,貴壯而賤老。無屋宇,並依山水掘地為穴,架木於上,以土覆之,状如中國之塚墓,相聚而居。夏則出隨水草,冬則入處穴中。父子相承,世為君長。俗無文字。兵器有角弓及楛矢。其畜宜豬,富人至數百口,食其肉而衣其皮。死者穿地埋之,以身襯土,無棺斂之具,殺所乘馬於屍前設祭。
有酋帥突地稽者,隋末率其部千餘家内屬,處之於營州,煬帝授突地稽金紫光祿大夫、遼西太守。武德初,遣間使朝貢,以其部落置燕州,仍以突地稽為總管。劉黑闥之叛也,突地稽率所部赴定州,遣使詣太宗請受節度,以戰功封蓍國公。又徙其部落於幽州之昌平城。會高開道引突厥來攻幽州,突地稽率兵邀撃,大破之。貞觀初,拜右衛將軍,賜姓李氏。尋卒。子謹行,偉貌,武力絶人。麟德中,歴遷營州都督。其部落家僮數千人,以財力雄邊,為夷人所憚。累拜右領軍大將軍,為積石道經略大使。吐蕃論欽陵等率衆十萬人入寇湟中,謹行兵士樵採,素不設備,忽聞賊至,遂建旗伐鼓,開門以待之。吐蕃疑有伏兵,竟不敢進。上元三年,又破吐蕃數萬衆於青海,降璽書勞勉之。累授鎮軍大將軍,行右衛大將軍,封燕國公。永淳元年卒,贈幽州都督,陪葬乾陵。自後或有酋長自來,或遣使來朝貢,毎歳不絶。
其白山部,素附於高麗,因收平壤之後,部衆多入中國。汨咄、安居骨、號室等部,亦因高麗破後奔散微弱,後無聞焉,縱有遺人,並為渤海編戸。唯黑水部全盛,分為十六部,部又以南北為稱。開元十三年,安東都護薛泰請於黑水靺鞨内置黑水軍。續更以最大部落為黑水府,仍以其首領為都督,諸部刺史隸屬焉。中國置長史,就其部落監領之。十六年,其都督賜姓李氏,名獻誠,授雲麾將軍兼黑水經略使,仍以幽州都督為其押使,自此朝貢不絶。 (『旧唐書』靺鞨伝)
注記① 安居骨號室等部「號」字各本原無,據通典卷一八六、寰宇記卷一九五補。
注記② 部又以南北為稱「稱」字各本原作「柵」,據唐會要卷九六、合鈔卷二五九下北狄傳改。
黑水靺鞨居肅慎地,亦曰挹婁,元魏時曰勿吉。直京師東北六千里,東瀕海,西屬突厥,南高麗,北室韋。離為數十部,酋各自治。其著者曰粟末部,居最南,抵太白山,亦曰徒太山,與高麗接,依粟末水以居,水源於山西,北注它漏河;稍東北曰汨咄部;又次曰安居骨部;益東曰拂涅部;居骨之西北曰黑水部;粟末之東曰白山部。部間遠者三四百里,近二百里。 (『新唐書』黑水靺鞨伝)
獠者,蓋南蠻之別種,自漢中達于邛笮川洞之間,所在皆有。種類甚多,散居山谷,略無氏族之別。又無名字,所生男女,唯以長幼次第呼之。其丈夫稱阿优、阿段,婦人阿夷、阿等之類,皆語之次第稱謂也。依樹積木,以居其上,名曰「干蘭」,干蘭大小,隨其家口之數。往往推一長者為王,亦不能遠相統攝。父死則子繼,若中國之貴族也。獠王各有鼓角一雙,使其子弟自吹擊之。好相殺害,多不敢遠行。能臥水底,持刀刺魚。其口嚼食並鼻飲。死者豎棺而埋之。性同禽獸,至於忿怒,父子不相避,惟手有兵刃者先殺之。若殺其父,走避,求得一狗以謝其母,母得狗謝,不復嫌恨。若報怨相攻擊,必殺而食之。平常劫掠,賣取豬狗而已。親戚比鄰,指授相賣,被賣者號哭不服,逃竄避之,乃將買人捕逐,指若亡叛,獲便縛之。但經被縛者,即服為賤隸,不敢稱良矣。亡失兒女,一哭便止,不復追思。惟執盾持矛,不識弓矢。用竹為簧,群聚鼓之,以為音節。能為細布,色至鮮凈。大狗一頭,買一生口。其俗畏鬼神,尤尚淫祀。所殺之人,美鬢髯者必剝其面皮,籠之於竹,及燥,號之曰「鬼」,鼓舞祀之,以求福利。至有賣其昆季妻奴盡者,乃自賣以供祭焉。鑄銅為器,大口寬腹,名曰銅爨,既薄且輕,易於熟食。 (『魏書』巻一〇一「列伝」第八九「氐吐谷渾宕昌高昌鄧至蠻獠」獠)
南平獠者,東與智州、南與渝州、西與南州、北與涪州接。部落四千餘戶。土氣多瘴癘,山有毒草凡沙虱、蝮蛇。人並樓居,登梯而上,號為「干欄」。男子左袵露髮徒跣;婦人橫布兩幅,穿中而貫其首,名為「通裙」。其人美髮,為髻垂於後。以竹筒如筆,長三四寸,斜貫其耳,貴者亦有珠璫。土多女少男,為婚之法,女氏必先貨求男族,貧者無以嫁女,多賣與富人為婢。俗皆婦人執役。其王姓朱氏,號為劍荔王,遣使內附,以其地隸于渝州。 (『舊唐書』巻一九七「列傳」第一四七「南蠻 西南蠻」南平獠)
南平獠,東距智州,南屬渝州,西接南州,北涪州,戶四千餘。多瘴癘。山有毒草、沙虱、蝮虵,人樓居,梯而上,名為干欄。婦人橫布二幅,穿中貫其首,號曰通裙。美髮髻,垂於後。竹筒三寸,斜穿其耳,貴者飾以珠璫。俗女多男少,婦人任役。昏法,女先以貨求男,貧者無以嫁,則賣為婢。男子左衽,露髮,徒跣。其王姓朱氏,號劍荔王。貞觀三年,遣使內款,以其地隸渝州。有飛頭獠者,頭欲飛,周項有痕如縷,妻子共守之,及夜如病,頭忽亡,比旦還。又有烏武獠,地多瘴毒,中者不能飲藥,故自鑿齒。 (『新唐書』巻二二二下「列傳」第一四七「南蠻下」南平獠)
裸形蠻,在尋傳城西三百里為窠穴,謂之為野蠻。閣羅鳳旣定尋傳而令野蠻散居山谷。其蠻不戰自調伏集,戰卽召之。其男女遍滿山野。亦無君長。作擖欄舍屋。多女少男。無農田,無衣服,惟取木皮以蔽形。或五妻十妻共養一丈夫,盡日持弓,不下擖欄。有外來侵暴者則射之。其妻入山林,採拾蟲魚菜螺蜆等歸啖食之。 (『蠻書』卷四「名類」第四「裸形蠻」) (唐)樊綽
獞人五嶺以南皆有之,與猺雜處,風俗略同,而生理一切陋簡。冬編鵝毛雜木葉為衣,搏飯掬水而食,居室茅緝而不涂,衡板為閣,上以棲止,下畜牛羊豬犬謂之麻欄。善為毒矢,射人物中者焦沸若灸,肌骨立盡,雖猺人亦重畏之,不敢忤視。又善為蠱毒,五月五日聚百蠱於一器,令自啖食,存者留之,持以中人,無不死者。又為飛蠱,一曰挑生,一曰金蠶,皆鬼屬而毒人,事之可以驟富,害人者類於飲食,內之令人心腹絞痛,面目青黃,吐水而脈沉,色黑豆脹而皮脫,嚼之不腥,易以白礬,其甘若餳,治之以歸魂散、雄朱。凡在胸鬲則服升麻吐之,在腹則服鬱金下之。聚而成村者為峒,推其酋長曰峒官,峒官之家婚姻以豪汰相高,婿來就親,女家於五里外結草屋與居,謂之入寮。兩家各以鼓樂迎男女至寮,盛兵為備,小有言則兵刃相接,成婚後妻之媵婢迕意,婿即手殺之。自入寮能多殺媵婢則妻黨畏之,否則謂之懦。半年而後歸,夫家人遠出,而歸者止於三十里外,家遣巫提竹籃迓之,脫歸人帖身衣貯之籃,以前導還家,言為行人收魂歸也。親始死被發持瓶,慟哭水濱,擲銅錢紙錢於水,汲歸浴屍謂之買水,否則鄰里以為不孝。 (『炎徼紀聞』卷四「蠻夷」獞人) (明)田汝成
援好騎,善別名馬,於交阯得駱越銅鼓,乃鑄為馬式,還上之。因表曰:『夫行天莫如龍,行地莫如馬。馬者甲兵之本。國之大用。安寧則以別尊卑之序,有變則以濟遠近之難。昔有騏驥,一日千裏,伯樂見之,昭然不惑。近世有西河子輿,亦明相法。子輿傳西河儀長孺,長孺傳茂陵丁君都,君群傳成紀楊子阿,臣援嘗師事子阿,受相馬骨法。考之於行事,輒有驗效。臣愚以為傳聞不如親見,視景不如察形。今欲形之於生馬,則骨法難備具,又不可傳之於後。孝武皇帝時,善相馬者東門京鑄作銅馬法獻之,有詔立馬於魯班門外,則更名魯班門曰金馬門。臣謹依儀氏奇,中帛氏口齒,謝氏唇鬐,丁氏身中,備此數家骨相以為法。』馬高三尺五寸,圍四尺五寸,有詔置於宣德殿下,以為名馬式焉。
(『後漢書』卷二四「馬援」)
自嶺已南二十餘郡,大率土地下濕,皆多瘴厲,人尤夭折。南海、交趾,各一都會也,並所處近海,多犀象玳瑁珠璣,奇異珍瑋,故商賈至者,多取富焉。其人性並輕悍,易興逆節,椎結踑踞,乃其舊風。其俚人則質直尚信,諸蠻則勇敢自立,皆重賄輕死,唯富為雄。巢居崖處,盡力農事。刻木以為符契,言誓則至死不改。父子別業,父貧,乃有質身於子。諸獠皆然。並鑄銅為大鼓,初成,懸於庭中,置酒以招同類。來者有豪富子女,則以金銀為大釵,執以叩鼓,竟乃留遺主人,名為銅鼓釵。俗好相殺,多構仇怨,欲相攻則鳴此鼓,到者如雲。有鼓者號為「都老」,群情推服。本之舊事,尉陀於漢,自稱「蠻夷大酋長、老夫臣」,故俚人猶呼其所尊為「倒老」也。言訛,故又稱「都老」雲。
(『隋書』卷三一 志第二六「地理下」)
後漢書曰。交阯西有噉人國生首子輙解而食謂之宜弟味旨則以遣其君君喜而賞其父取妻羙則讓其兄今烏滸人是也
南州異物志曰。交廣之界,民曰烏滸,烏滸地名,東界在廣州之南交州之北。恒出道間,伺候二州行旅,有單逈軰者,輙出擊之。利得人食之,不貪其財貨也。地有棘竹厚十餘寸破以作弓長四尺餘名狐弩削竹為矢以銅為鏇長八寸以射急疾不凡用也。地有毒藥以傳矢金入則撻皮視未見瘡顧盻之間肌肉便皆壞爛湏臾而死尋問此藥云取䖝諸有毒螫者合着管中曝之既爛因取其汁日煎之如射肉在其內地則裂外則不復裂也。烏滸人便以肉為殽俎,又取其髑髏,破之以飲酒也。其伺候行人小有失軰,出射之。若人無救者,便止以火燔燎食之。若人有伴相救,不容得食,力不能盡相檐去者,便断取手足以去。尤以人手足掌蹠為珎異,以飴長老。出得人歸家,合聚隣里,懸死人中當,四面向坐,擊銅鼓,歌舞飲酒,稍就割食之。奉月方田,尤好出索人,貪得之以祭田神也。
異物志曰。烏滸取翠羽採珠為產又能織班布可以為帷幔族類同姓有為人所殺則居處伺殺主不問是與非遇人便殺以為肉食也裴淵廣州記曰晉興有烏滸人以鼻飲水口中進噉如故
(『太平御覽』卷第七八六「四夷部」七「南蠻」二「烏滸」
黎,海南四郡島上蠻也。島有黎母山,因祥光夜見、旁照四郡,按『晉書』分野屬婺女分,謂黎牛婺女星降現,故名黎婺,音訛為黎母。諸蠻環處,其山峻極,常在霧靄中,黎人自鮮識之。秋朗氣清時,見翠尖浮插半空。。。同姓為婚。省民之負罪者多逋逃歸之。其人推髻跣足,插銀銅錫釵,婦人加銅環,耳墜垂肩,女及筓卽黥頰為細花紋,謂之繡面,女旣黥,集親客相賀慶,惟婢獲則不繡面。女工紡織,得中土綺綵,拆取色絲,加木棉,挑織為單幕。又純織木棉吉貝為布。祭神以牛犬雞彘,多至百牲。無鹽鐵魚蝦,以沉香、縵布、木棉、麻皮等,就省地博易。得錢無所用也。屋宇以竹為棚,下居牧畜,人處其上。男子常帶長靶刀、長弰,刀弓跬步不離。喜讐殺,謂之捉抝。其親為人所殺,後見仇家人及其峒中種類,卽擒取而械之,械用荔枝木,長六尺許,其狀如碓,要牛酒銀缾乃釋,謂之贖命。議婚姻折箭為質,聚會椎皷舞歌。死必殺牛以祭。土産沉水、蓬萊諸香,為香譜第一。漫山悉檳榔、椰子樹,小馬、翠羽、黃蠟之屬。閩商值風飄蕩,貲貨陷投,多人黎地耕種之。 (『諸蕃志』卷下「志物」海南) (宋)趙汝适
凡深黎村,男女眾多, 【 「男女眾多」,原無「男女」二字,據明紀錄彙編本補。】 必伐長木兩頭,搭屋各數間,上覆以草,中剖竹,下橫上直,平鋪如樓板,其下則虛焉,登陟必用梯,其俗呼曰欄房。遇晚,村中幼男女盡驅而上,聽其自相諧偶。若婚姻,仍用講求,不以此也。(『海槎餘録』) (明)顧岕
林邑國者,本漢日南郡象林縣,古越裳之界也。伏波將軍馬援開漢南境,置此縣。其地縱廣可六百里,城去海百二十裏,去日南界四百餘裏,北接九德郡。其南界,水步道二百餘裏,有西國夷亦稱王,馬援植兩銅柱表漢界處也。。。
其國俗:居處為閣,名曰于蘭,門戶皆北向;書樹葉為紙;男女皆以橫幅吉貝繞腰以下,謂之幹漫,亦曰都縵;穿耳貫小鐶;貴者著革屣,賤者跣行。自林邑、扶南以南諸國皆然也。其王著法服,加瓔珞,如佛像之飾。出則乘象,吹螺擊鼓,罩吉貝傘,以吉貝為幡旗。國不設刑法,有罪者使象踏殺之。其大姓號婆羅門。嫁娶必用八月,女先求男,由賤男而貴女也。同姓還相婚姻,使婆羅門引婿見婦,握手相付,咒曰「吉利吉利」,以為成禮。死者焚之中野,謂之火葬。其寡婦孤居,散發至老。國王事尼乾道,鑄金銀人像,大十圍。 (『梁書』巻五四「列伝」第四八「諸夷」林邑)
The Kamtschatka hamlets arc surrounded by an earthen wall, or by pallisades, (as the Russian name ostrog im ports.) and contain two sorts of habitations, one kind, call co balagans, for summer, and another, named yoursts, for winter.
The balagan is constructed, by erecting nine posts in three regular rows, at equal distances from each other, and about thirteen feet in height. About ten feet from the ground, rafters are laid from post to post, and firmly fast ened with strong ropes or thongs; and upon these rafters are laid joists, which being covered with turf, complete the floor of the apartment. Upon this platform, a roof of a conical figure is raised by means of strong poles, fastened to the rafters at one end, and meeting together in a point at the other. The whole is covered with a thatching of coarse grass, except an opening in the centre, to serve the purpose of a chimney. There are two low entrances directly opposite to each other, to which they ascend by means of a ladder or staircase, which is merely a large beam or tree, with rough notches on the upper surface, by way of steps, with one end on the ground, and the other resting on the corner of the door. When they wish to intimate that there is nobody at home, they merely turn the tree, with the steps downwards. In the lower part of the balagan, which is left open, they dry their fish, and other articles, intended for winter stores ; and sometimes employ the upper apartment as a magazine for holding their provisions. Their dogs, also, are frequently tied to the posts below, and find their kennel under the floor of the building.
In forming a yourst, or winter habitation, an oblong square hole is dug in the earth to the depth of six feet, and of such dimensions as the number of families intended to occupy it may require. Strong wooden posts are then fixed in the ground at equal distances, on which are extended the beams for supporting the roof, the rafters of which rest with one end on these beams, and the other on the ground ; and the interstices between them being filled up with wicker nork, a covering of tutf is laid over the whole. The external appearance of these dwellings resembles the roof of an ice-house, or a round squat hillock. A hole in the centre of the roof serves the purpose of chimney, window, and door ; and the inmates pass through it by means of notched trees, as already described. There is another entrance on one side level with the ground, appropriated for the use of the women, and through which none of the men could go out or in without incurring ridicule and disgrace. The inside of this subterraneons abode forms only one apartment, with the fire-place on one side, and the utensils and provisions on the other. Broad platforms of boards are extended along the sides; and, being well covered with mats and skins, serve the put-pose of seats and beds. These houses are generally kept so warm, as to be intolerable to a stranger; and the hotter they are made, the greater honour is supposed to be done to their guests. They reside in these winter recesses from the middle of October to the middle of May.
Instead of these yoursts, isbas have been introduced by the Russians; and the natives have been prohibited, especially in the southern districts, from constructing their accustomed subterranean habitations. The isbas resemble the dwellings of the Russian peasantry, except that they arc seldom so large in Kamtschatka. The walls are formed, by piling long trees (smoothed only with the hatchet) horizontally upon one another, and filling up the interstices with clay or moss. The roof is of a sloping form, like the thatched cottages of Europe, and is coveted with coarse grass, rushes, or sometimes with boards. Each of these log-houses has three apartments, one of which may be considered rather as a kind of entrance, which extends the whole width and height of the house, and serves as a receptacle for die sledges, harness, and other bulky articles. This place communicates with the principal apartment, which occu pies the middle space, and around the sides of which are fixed broad benches, used both as tables and beds. From this there is a door into the kitchen, where a large stone or oven is fixed in the wall, which separates it from the middle apartment, so as to warm both rooms at the same time. In each apartment are two small windows, the panes of which art made of fish skins, or gullets of sea wolves, or the bladders of various animals; but sometimes in more opulent dwellings of plates of talc. Above the kitchen and middle room are lofts or garrets, to which there is access, by a ladder placed in the entrance.
(Edinburgh Encyclopedia)
Voyage to the Pacific Ocean, undertaken by the Command of His Majesty, for making discoveries in the Northern Hemisphere. Performed under the direction of Captains Cook, Clerke and Gore, in His Majesty's ships the Resolution and Discovery , in the years 1776, 1777, 1778, 1779 and 1780. In three volumes. Vol. I. and II. written by Captain James Cook, F.R.S. Vol. III. by Captain James King, LL.D. and F.R.S. ... The second edition. (with Atlas) London: Printed by H. Hughs, For G. Nicol, Bookseller to his Majesty, in the Strand; and T. Cadell, in the Strand. M.DCC.LXXXV. 1785
1778年10月2日~26日 Unalaska
彼らはとてつもなく不潔で汚らしいが、それは彼らの家づくりからある程度避けられないものである。彼らはまず地面に深さ2フィートほどの長方形の穴を掘る。その長さと幅は50フィート×20フィートをこえることはほとんどなく、たいていそれ以下である。この穴の上に流木で屋根をこしらえる。その上から草と最後に土で覆うため、外観はまるで堆肥のようにみえる。屋根の中央には、両端に向かって四角い穴が残してあり、ここから外光が差し込む。一方の穴は採光専用に、もう一方の穴は出入口を兼ねており、梯子や刻みをつけた柱が立てかけてある。下側に別の出入口のある家もあるが、一般ではない。
周囲の壁に沿って各家族が寝所や作業に使う空間が仕切られている。ここはベンチにするかわりに、凹型にトレンチを掘りこんで茣蓙が敷いてあり、十分小綺麗にたもたれている。しかし、その反対に家の中央は、干し草で覆われた家中のゴミの集積場であり、尿溜がある。その悪臭たるや、生の毛皮が絶えずそこに浸けられているせいでいっこうになくならないのである。トレンチの背後や上には衣服や茣蓙や毛皮などの所持品が置かれている。(Captain James Cook on the Third Voyage 1776-80)
島人は、いかやうの所に住居候や、家作とては見へ申さず、尋廻り見候へば、何れも穴居と見へ申候。此浜の近辺に、土窖の有候。造り方の様子を見候所、平地へ深く穴を堀り、蔭室のごとく致し候物なり。穴の上は拾ひ集め置候流れ木共を以て屋根の骨となし、右萱のごとき草を葺きかけて、其上に土を掛置申候。其真中に二尺四五寸四方に口をあけ置候。是屋上の烟窓に似たり。此口則ち出入の所とす。其口下に向ひ升り降り出入の梯やうの物御座候。是は平らめなる木にきりはを付候迄の物に御座候。窖の内は人数の多少により、広狭の有候様に見へ候。此所は樹木総じて生じ申さず。材木に致し候物なく、且風雪も厳敷島ゆへ、ケ様に平地へ深く穴をほり、住居に致候事と被存候。
小便を溜め置き、洗濯水に用ゆ。皮衣の汚れたるを、其溜め小便に二三日浸し置て洗ふ。其皮衣至て清く垢落て奇麗に成也。頭髪をも小便にて洗ふなり。 (大槻玄澤『環海異聞』1805年)